広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想⑤

 アメリカ先住民最後の軍事的抵抗
                           堀込 純一


    (9)先住民との条約締結を廃止

 地域としての「西部」は、時代とともに変わった。独立当時は、未だ行政区画もないアパラチア山脈からミシシッピ川までを「西部」といった。その後、ミシシッピ川以西がアメリカ領となり、開拓が進むと「西部」もまた西に移動し、ミシシッピ川以西を「西部」と呼んだ。今日では、西経約104度の線より西にある11州を西部といっている。このうちワシントン、オレゴン、カリフォニアの3州は太平洋岸にあるが、残りはすべて内陸部である。すなわち、モンタナ、アイダホ、ワイオミング、ネヴァダ、ユタ、コロラド、アリゾナ、ニューメキシコの8州である。
 その西部で最大の人口を擁するカリフォルニアも、メキシコ領の一部が併合された頃には、未だ入植者人口は1万5000人程度であった。それが、1848年、シェラ・ネバダ山脈(カリフォニア州東部にある山脈)で金鉱が見つかり、ゴールド・ラッシュが始まると年間10万人を超える人々が集まった。ゴールド・ラッシュは、西部各地で金・銀・銅などの鉱脈が発見されるたびに起こり、1870年代まで続いた。
 ところで、合州国政府は1849年に、インディアン事務局を陸軍省から内務省に移管して以来、先住民各部族との協定を通じて、彼らの隔離政策を推進してきた。だが、「一八六七年に民間人をまじえたインディアン平和員会が設置されると、『平和政策』の名のもとに保留地政策が正式に推進されることになった。すなわち、『アメリカ大砂漠』をインディアン諸部族の『単一の大保留地域』とする従前の政策を修正し、部族ごとにより狭い土地に囲い込む『小保留地』政策が定着した」(世界歴史大系『アメリカ史』2 P.10)のであった。だが、白人の土地取得の欲望は果てしなく、その保留地さえも侵奪してゆくのであった。
 先の平和委員会は、1867年に平原地方を視察し、報告書を提出する。「それではフェタマン(*フェッターマン)の虐殺事件(*1866年12月。前号参照)の責任の大半は白人にあるとされていた。この結果、最終的にはボーズマン街道は放棄されたが、これはインディアンたちが、進攻してくるくる白人たちに後退を余儀なくさせた稀有な例であった。」(W・T・へーガン著『アメリカ・インディアン史』 P.146)といわれる。
 平和委員会の報告書が勧告したのは、それ以外に、保留地と個人の私有財産に関する一般的な政策が含まれていたが、注目すべきは先住民との交渉結果としての条約締結を廃止すべきとの提言もあった。
 アメリカ合州国は、イギリスから独立してからも、先住民(「アメリカインディアン」)部族との土地の割譲、移住、交易、さらには軍事同盟などを目的とした条約の締結という方法を用いることを踏襲した。その条約締結は371にのぼったが、しかし、ほとんどの場合、平等・対等の者同士の公平なものではなかった。
 そして、連邦議会は1871年に制定した「インディアン歳出予算法」によって、「以後、合衆国領土内のすべてのインディアンの国家もしくは部族は、合衆国が条約によって交渉し得る独立の国家もしくは部族または権力とは認められない」(『アメリカ先住民を知るための62章』明石書店 2016年 P.15)と宣言した。条約締結の方法はなくなったのである。ただし、同法は、「本法のいかなる規定も、これまでにインディアンの国家もしくは部族との間に締結され、批准された条約によって課された義務を無効とし、または減ずるものと解釈されてはならない」と定めている。(同前 P.17)
 
 (ⅰ)激しく戦ったモドック戦争

 平和委員会が1867年に創設されて以後、大平原のバッファローが絶滅するまでの間、先住民に対する合州国政府の侵略攻勢は一世代にわたってつづいた。まさに最終戦争であり、先住民の最後の軍事的反撃であった。
 カリフォルニアでは、1860年代はじめの入植者による自然破壊により、生活が維持できなくなったショショーニ族が、1862年にバノック族やパイユート族と同盟し、白人を攻撃する戦いに決起する。1866~68年には、北パイユート族が戦に決起し、「スネーク戦争」が展開される。
 ロッキー山脈の西側での最終局面である1870年代の戦いでは、ユーティ族、モドック族、ネズパース族などが武力抵抗を展開した。これら3部族が戦いに決起したのは、「インディアン担当官」が、熱心に先住民を農耕に従事させ、彼らを「文明化」させようと無理強いしたからである。ユーティ族は蜂起の後、一人も絞首刑にならなかったが、彼らのすべての所有地は取り上げられてしまった。
 カリフォニア北部とオレゴン南西部に住んでいたモドック族は、1864年に和平条約に調印し、従来から宿敵とされたクラマス族と同じ特別保留地に生活させられた。だが、保留地ではクラマス族とのトラブルが生じ、また、政府の食糧・衣類などの支給は遅滞した。絶望にさいなまれ、ゴーストダンス信仰1)が盛んとなると、モドック族の族長キントプッシュ(英語名キャップテン・ジャック)は、保留地での暮らしを拒否して、モドックの全員300人程とともに自然の中の生活に戻っていった。その避難所は、トゥーラ湖南のごつごつした溶岩地帯(ラヴァ・ベッド)である。まさに天然の要塞であった。
 1872年11月28日、ジェームズ・ジャクソン少佐が率いる一個中隊は、モドック族のいるロスト・リヴァーの野営地に詰め寄り、“クラマス保留地に連れ戻せ”という大統領命令を伝えた。キャップテン・ジャックらは、その命令に従うようなふりをしたが、いざ、武装解除の段階になると最後には抵抗し、銃撃戦となる。その後、モドック族は全員がラヴァ・ベッドへ避難した。
 1873年1月13日、オレゴンとカリフォルニアの義勇軍を補強した正規軍225名が、モドック族を降伏させるために、キャップテン・ジャックの山塞と向き合う屋根に沿って陣を布いた。
 これを見て、モドック族は対応策を出すための会議を開いた。白人移住者を殺害したことのあるフッカー・ジムとその仲間は、如何なる形にせよ降伏することに反対した。キャップテン・ジャックははじめ降伏する気持ちに傾いていたが、反対者の気持ちに同情し、会議の動向に自らの進退をゆだねた。会議は、51人の戦士の内、37人が戦いを主張し、交戦となった。
 何回かの戦闘の後、討伐軍の司令官は、連邦政府に増派を要請するとともに、モドックとの平和交渉の工作を始めた。その頃、フッカー・ジムとその仲間は、こっそりと、ラヴァ・ベッド周辺の軍を指揮するキャンビー将軍の本営を尋ね、降伏の意志を示した。キャプテン・ジャックらは、結局、救済しようとした仲間の裏切りによって敗北したのであった。
 裁判は、1873年7月にクラマス砦で行なわれ、キャプテン・ジャックら4人の指導者が絞首刑となった。処刑は10月3日に行なわれたが、遺体はその次の夜に何者かによって密かに発掘され持ち去られた。防腐保存された遺体は、カーニヴァルの見世物として東部の幾つかの町に展示された。
 ユーティ族やモドック族とは対照的であったのが、ネズパース族であった。彼らは、もともとアイダホからワシントン州南東部、オレゴンの北東部にいたる地域に住んでいた部族で、もっぱら狩猟採集で生活していた。
 ネズパース戦争(1877年)は、ジョゼフ族長のもとで、北部大平原や山岳地帯で展開された。ジョゼフ族長は、キリスト教徒の父親(条約を利用した白人の詐欺行為を何度か経験し、これに怒り新約聖書を破り裂いた)の後を継いだ保守派の長であった。ジョゼフは、もとより争いを欲しなかった。しかし、「それでも戦闘的な彼の部下の一部の者が早まって闘いを惹き起こすと、彼は優勢な敵兵をものともせずに一〇〇〇マイル(*1マイル=約1・6キロ)に及ぶ退却を演じながら見事な戦闘を展開した。彼を打ち破った者たちさえ彼の統率力を賞賛する」(同前 P.154)のであった。だが、ベアー・ボウ山(現・モンタナ州)の最終決戦で降伏を余儀なくされた(10月5日)。
 
 (ⅱ)バッファローの絶滅と先住民の生活破壊

 バッファロー(アメリカ野牛)は、大平原の先住民にとっては、生活に不可欠なものであった。バッファローの肉は食料とされ、乾燥肉して携帯食料にも加工された。その毛皮は、衣服やティピー(毛皮製の円錐形の大型テント)の材料になった。残った骨は、道具類の材料に使われた。そして、フンは煮炊きのための燃料になった。バッファローは、先住民にとっては捨てるところもない、非常に重宝な獲物であった。これに対して、白人は、「ただ皮をとるため(*コートの材料として)、あるいは余興のための狩猟が大半を占めた。事実、ほとんどの鉄道会社は、列車が平原を通過する際に、客室からバッファローを撃つことを許可していた。」(『アメリカ先住民 戦いの歴史』原書房 2010年 P.124)のである。
 先住民も生活のために、バッファローを捕獲した。だが、白人の場合は、上記の目的で虐殺したもので、残された肉などは放置され、腐臭を放つだけであった。実際、「一八七二年から一八七四年にかけて殺された三七〇万頭の野牛のうち、インディアンが殺したのはわずか十五万頭(*4・1%)にすぎなかった。」(『わが魂を聖地に埋めよ』下巻 P.55)のである。
 バッファローが乱獲されるのを見て、テキサス人のある団体がシェリダン将軍に、白人の殺戮をやめさせるよう訴えたのに対して、将軍は、「野牛が絶滅するまで、彼らに殺させ、皮をはがさせ、売らせれば良いのだ。それが、長つづきする平和をもたらし、文明を前進させる唯一の道だからだ」(同前 P.55)と答えた。つまり、バッファローを絶滅させて、先住民が否応なく農耕生活に従事し、「文明化」することにより、白人との平和な共存生活なるものに追い込むことにあったのである。
 1874年6月27日、コマンチ、カイオワ、アラパホ、シャイアンの連合軍が、白人のバッファロー・ハンターの無差別虐殺を阻止するために、彼らが居住するアドビウォールズ(テキサス北部)を攻撃した。しかし、この戦闘は先住民側の敗北であった。ハンター側は、高性能の武器で狙撃の精度がはるかに上回っており、先住民側の方が死傷者が多かったのである。
 アドビウォールズの襲撃への報復として、合州国政府は大平原南部のインディアン諸部族に対する大規模な掃討作戦を開始する。いわゆるレッドリヴァー戦争(1874~75年)である。1年ほどに渡る戦争でインディアン諸部族は粉砕されて、生き残りをかけて小さなグループがいくつか延命しただけである。

 (ⅲ)ブラック・ヒルズをめぐる戦い

 グレートプレーンズ(大平原)の北部では、鉱山開発とそれに関連する移住者の増大に対処するための道路建設によって、スー族の猟場が狭められ、さらに破壊され、第一次スー戦争(1865~67年)が起こる。だが、「一八六八年に、グレート・ファザー(*アメリカ合州国大統領のこと)はこの丘(*ブラック・ヒルズのこと)を無価値だと考え、条約によってそこを永遠にインディアンに与えた。」(『わが魂を聖地に埋めよ』下巻 P.68)のであった。
 だがしかし、その4年後には、白人の鉱山師たちは条約を侵犯し、黄色の金属を求めて、先住民の土地を漁りはじめたのである。1875年には、ブラック・ヒルズ(現・モンタナ州南部)の保留地までもが金鉱探しの白人たちに侵犯されるようになる。クルック将軍は、ブラック・ヒルズを偵察して、1000人を超える鉱山師が集まっているのを見て、法律違反だと警告したが、彼らを強制的に退去させることはしなかった。
 スー族の指導者は、このことでワシントンに抗議した。すると、大統領は「スー・インディアンとブラック・ヒルズの譲渡を交渉する」委員会を、現地に派遣した。交渉は1875年9月20日に始まった。委員たちは、先住民たちが丘を売らないことをすぐに理解した。そこで鉱物資源についての権利をめぐって交渉することにした。
 だが、スー族の族長たちは、自分たちの最後の猟場を明け渡すことは不当とし、部族会議でこの問題を論ずることさえなかった。この頃、すでにスー族の指導者は年老いたレッド・クラウドからクレージー・ホースやシッティング・ブルに移っていた。二人とその仲間たちは、保留地に住むことなく、自活していた。
 1875年12月3日、「インディアン総務局長、エドワード・P・スミスは、スー族とシャイアンの管理官に次のように通告した。保留地の外にいるすべてのインディアンは、一八七六年一月三十一日までにそれぞれの管理所に出頭し、登録を受けるべし。それに従わぬ場合は、『軍隊が派遣され、強制措置がとられるであろう』と。」(同前 P.77)いうのである。まさに第二次スー戦争(1875~76年)を招く最後通牒である。だが、これは逆効果であった。レッド・クラウド管理所にいたシャイアン族とスー族は、3月の半ば頃脱出し、リトル・パウダー川がパウダー川に流れこんでいる地点の近くに野営していた、管理所に所属しない先住民に合流してしまったのである。
 その野営地をクルック将軍の討伐隊の先遣隊(レイノルズ大佐が率いる)が、3月17日払暁に、不意に襲った。しかし、これは先住民の抗戦で失敗した。6月17日にも戦闘があったが、クレージー・ホースは部下とともに縦横に戦い、クルック将軍の部隊に決定的勝利を収めた。「ローズバッドの戦い」である。
 政府軍は、スー族と北シャイアン族の連合軍を罠にかけて挟み撃ちするために、討伐軍を3縦隊に組織した。そのうちの一つがアルフレッド・H・テリー将軍の指揮する925人程度の部隊で、その部隊長をしていたのが、ジョージ・A・カスターである。
 1876年6月25日、カスター将軍の率いる264名の部隊は、リトル・ビッグホーン川(現・モンタナ州南部)のほとりで宿営中のスー族・シャイアン族の大軍(クレージー・ホースとシッテング・ブルが率いていた)に遭遇する。カスターらはこれを過小評価し攻撃したが、逆に包囲され、翌26日部隊は全滅した。これが、世にいう「リトル・ビッグホーン川の戦い」である。
 カスター将軍の部隊が全滅したことは、東部の白人社会を怒りで沸騰させた。彼らは、西部の先住民すべてを罰するべきだと主張した。「八月十五日、大会議(*連邦議会のこと)は、インディアンにパウダー・リヴァー地方とブラック・ヒルズに関するすべての権利の放棄を求める新しい法律をつくった。彼らはその法律をつくるにあたって、一八六八年の条約をまったく顧慮せず、インディアンは合衆国を相手に戦争をはじめて、条約を破ったのだと主張した。」(同前 P.91)のであった。
 グラント大統領は、9月に新しい委員会を派遣し、先住民から新たな法律への署名を確保しようとした。会議では、先住民は積りに積もった怒りを吐いたが、委員たちは、署名しなければ即座に食糧の支給を打ち切り、軍隊がすべての銃と馬を取り上げ、南方のインディアン・テリトリーに移住させると強硬な態度を押し通した。先住民の指導者たちは、部族の安全と延命を図るために、泣く泣く署名をせざるを得なかった。「レッド・クラウドとその副酋長たちがまず署名し、スポッテド・テイルと彼の部下がそれにならった。それがすむと、委員は……各管理所を歴訪し、他のスー族に署名を強要した。こうしてパハ・サバ(*ブラック・ヒルズのこと)は、そこの精霊や神秘、壮大な松の林、数十億ドルの金を埋蔵した峠道もろとも、インディアンの手を離れて合衆国の領土の一部になった」(同前 P.93)のである。
 合州国の軍隊は、先住民への復讐の機会を求めては、ブラック・ヒルズの北や西に出動し、見つけしだい先住民を殺戮した。今や先住民と白人の共存を不可能とみる先住民も出始める。シッティング・ブルは、ついに部族の者らと1877年の春にカナダへ逃避する。(ただし、彼は1881年に合衆国へ戻り逮捕され、83年まで監禁された。そして1890年に、ゴースト・ダンスの際に、警官に殺される。)
 最後まで戦ったクレージー・ホースは、1877年の春、マイルズ軍と激戦の末、2000人の部下とともに降伏した。同年9月に、戦争扇動のかどで逮捕の際、敵の兵士に銃剣で刺殺される。保留地のスー族は、1877年の秋にミズーリ川のほとりの新しい保留地に移るために、不毛の地を目指したが、その途中で、隊列を離れてカナダへ逃れる、いくつかのバンドもいた。
 
 (ⅳ)ジェロニモなどアパッチ族の最後の抵抗

 アパッチは同系統の言葉を話す部族の総称である。その主要な部族には、西アパッチ、ナヴァホ、チリカファ、ヒカリヤ、カイオワ、リパン、メスカレロなどがいる。アパッチ地は、メキシコとの国境地帯で生活しており、アメリカ人とメキシコ人との戦いを繰り広げていた。ミンブレノ族の戦闘族長(諸部族では多くが戦闘のための族長と日常一般のための族長は別であり、分担されていた)マンガス・コロラドスとチリカファ族の族長コーチースは同盟を結び、武力抗争を1861年から86年までつづけた。世にいう「アパッチ戦争」である。
 1874年にコーチースが亡くなると、その長男・タダが族長を引き継いだ。だが、チリカファ族全体の信頼を勝ち取ることが出来なかった。1876年5月3日、アパッチ峠のチリカファ保留地はアリゾナの東部のサン・カルロスに移動することを命令された。そこはチリカファ保留地とははるかに規則づくめで不自由な所であった。だが、タダらは移動に協力的であった。しかし、実際、移動の段になると、サン・カルロスに向かったのはチリカファ族の約半分だけであり、残りの多くは国境を越えてメキシコ領に逃亡してしまった。その指導者の中には、若い時からコーチースに従って戦ってきたゴヤスレイ(英語名ジェロニモ)もいた。
 ジェロニモらアパッチ族が保留地から逃亡したのは、保留地での「文明化」を目指した生活が不自由であるだけでなく、政府の支給品が遅配や減額となり、日常生活が困難を極めたからである(保留地では政府の役人がしばしば先住民への支給品を横領した)。ジェロニモたちは、国境をまたいでアメリカ領やメキシコ領で入植者を襲い、牛や馬などを捕獲し、生活の糧とした。
 ジェロニモらは、少なくとも数回は捕えられ、保留地と逃亡地の生活を繰り返した。1883年5月、ジェロニモたちは、ジョージ・クルップ将軍が指揮する討伐隊に全員が降伏した。この折は、ジェロニモらは保留地で農業に精を出し、アリゾナやニューメキシコでは、一年以上戦闘行為がなかった。しかし、保留地と軍駐屯地以外では、クルックに対し、先住民に寛大すぎると非難が広がった。ジェロニモに対しても誹謗中傷が投げつけられ、“自警団をつくって、ジェロニモを逮捕して吊るしてしまえ!”と、白人社会に呼びかけられた。ジェロニモたちは、保留地から脱出せざるを得なかった。ジェロニモたちは1886年夏降伏し、先住民の軍事的抵抗はこれが最後となった。1909年、ジェロニモは戦争捕虜の身分のまま、生涯を終えた。(つづく)

注1)現・ネヴァダ州に住んでいたバイユート族のウォポカが、日食の折りに夢をみた。それは、“世の中一切がいったん滅んだ後、いままで死んでいた仲間が蘇り、青草を食べるバイソン(野牛)があふれる世の中になる”というものである。そして、この宗教(幽霊踊り教と称せられた)は、他のインディアンと仲良くし、体をいつも清潔にし、アルコールと白人は避けなければならないというのが掟であった。政府軍に追い詰められた先住民にとって、絶望の中で祈り・瞑想し、踊りながら陶酔することにより、未来の理想世界を招来させるとしたのである。