広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想③
  版図拡大から奴隷制可否で内戦
                  

堀込 純一


  (6)西漸運動はついに太平洋岸に到達

 1830年に、不当にも強制移住法が成立し、32年に、陸軍省内のインディアン部がインディアン総務局に改組され、34年には、先住民諸部族との交易と交渉を規制し、辺境に平穏を維持するための法律も成立した。これらにより、少なくとも、「……合衆国のミシシッピー川以西で、『ミズーリおよびルイジアナ州、あるいはアーカンソー准州に含まれない』すべての部分はインディアンの住むところとなるはずであった。いかなる白人も、許可なくしてインディアンの土地で交易を行なうことは許されず、またいかなる白人もインディアンの土地への移住を許されないことになった。合衆国軍隊は、この法の規定を侵害したことがわかれば、いかなる白人をも逮捕するはずであった。」(ディー・ブラウン著『わが魂を聖地に埋めよ』上巻 草思社 1972年 P.14)のである。
 しかし、これは幻想であった。金銀を求める山師、牧場経営をめざす者、乾燥地に農業経営をめざす者らが、つぐつぎとミシシッピ川以西に侵入したからである。
 1840年代は、アメリカにとって、ルイジアナ購入(1803年4月)に次ぐ第二の領土膨張時代である。膨張の矛先はまず南西方面のメキシコ領テキサスに向けられた。メキシコは1821年にスペインから独立し1)、北方領土の開拓を推し進めるために、入植者に広大な土地を与える移住奨励策を行なった。「独立直後のテキサス地方は住民がわずかな上に、財政も破綻した惨憺たる状態で、人と財源を必要としていた。このような人手不足に悩むテキサスの状況を踏まえて、〔メキシコ〕新政府はまず1821年、帯同する奴隷を解放するという条件で外国人(その大半は米国人であった)の入植を認める植民法を公布し、1823年には奴隷売買の禁止、奴隷の子供を14歳で解放すること、カトリック教徒であることという条件をつけた植民法を公布した。」(山崎眞次著『メキシコ 民族の誇りと闘い』新評論 2004年 P.128)のである。
 これらの政策は、アメリカ人入植者をテキサスに殺到させた。この予想外の動きにメキシコ政府は恐れをなし、「三〇年四月になってメキシコ議会は移住禁止法を制定してアメリカ人の締出し策へと転じたが、その効果は薄く、三五年には三万五〇〇〇人へとふくれあがった……」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.352)といわれる。
 
 〈入植攻勢から併合へ〉
 いまやテキサスの住民はメキシコ人よりもはるかに入植者の方が多くなった。それは、プロテスタントのアングロサクソン系がほとんどで、しかも奴隷制を禁止するというメキシコ政府の方針を全く無視したものであった。
 多数となったテキサスの「アメリカ人はテキサスの州としての認可と自治を要望するにいたった。」(同前 P.352)のである。そこには、次のような経緯があった。すなわち、「……〔メキシコ〕共和国政府が公布した1824年の新しい行政区画令によって、テキサスは西にあるコアウイラ州に組み入れられ、行政・司法の中心はコアウイラの州都サルティーリョに移された。中央政府の決定によってテキサスがコアウイラに従属させられたことにたいして、米国人を中心とするテキサス人の不満は高まった。このときからテキサス人はコアウイラから分離して、独立した州を形成しようと強く望むようになった。」(『メキシコ 民族の誇りと闘い』P.129)のであった。
 1830年、テキサスのサン・フェリペの政治集会で、テキサスのコアウイラからの分離が可決され、1833年、テキサスは政府の実施する自由主義的改革により、独立した州に昇格する。しかし、アメリカ人らの入植者たちは奴隷制禁止の法律を無視し、無軌道な土地開発を止めず、また、商人たちも密貿易に血道をあげた。このため、メキシコの官憲との争いが絶えず、両者間の緊張は高まるばかりであった。
1835年7月、ついに独立主義者らによる反乱が起こり、同年11月、州内のコロンビアで開かれた政治集会で、中央集権主義をかかげるメキシコ政府との決別が宣言される。そして、翌1836年2月、テキサスの正副大統領が選出され、テキサスは独立を宣言した。
 メキシコ大統領サンタ・アナは、さっそく政府軍6000を率いて反乱鎮圧に赴く。同年3月、アラモの砦に立てこもる187人のテキサス人がメキシコ軍によって全滅させられるが、4月には、サンハシサント川の戦いでサム・ヒューストンが率いるテキサス軍が大勝する。捕虜となったサンタ・アナは、テキサスの独立を承認するベラスコ条約を結ばざるを得なかった。1836年10月には、テキサス共和国が発足し(1845年まで維持された)、アメリカはこれを翌年3月には承認している。
 他方、西部方面では、ロッキー山脈のかなたのオレゴンとメキシコ領カリフォルニアへ膨張の眼が向けられていた。1845年頃には、コロンビア川の南に広がるウィラメット川の流域には、約5000人のアメリカ人が住みつくようになった。オレゴンはメキシコ領カリフォルニアとロシア領アラスカの間の北緯42度から54度40分にかけての地域であり、1818年以来、英米の共同領有地となっていた。オレゴンにどのような形で国境線を引くかという問題は、英米両国の長年の懸案事項であった。アメリカ側は自然の良港をかかえるヴュージェット湾を得て、そこに海軍基地と中国貿易の拠点を作ろうと、ジョン・Q・アダムズ大統領(在位1825~29年)の頃から北緯49度線を主張した。
 これに対して、イギリス側はコロンビア川の線を獲得したいと対立していた。この中でアメリカ側の主張は次第に過大になり、1843年には北緯54度40分までのオレゴン全域にまで膨張した。そして、ついには「54度40分か戦争か」と膨張主義者は叫ぶようになり、好戦主義が広がり出した。
 アメリカ人が太平洋岸に注目するもう一つの土地は、オレゴンの南側に広がるメキシコ領カリフォルニアである。ここは以前から靴とローソクの原材料となる牛革・牛脂が生産されていた。1843には、サクラメントに砦が築かれた。
 1844年、アメリカ大統領選が行なわれ、ダークホースの民主党候補ポークが当選した(在位1845~49年)。ポークはまさに膨張主義者であり、これを受けて連邦議会は、1845年3月、テキサス併合について、正規の手続き(上院の三分の二以上の承認)ではなく、上下両院の共同決議(単純多数決)で承認してしまった。そして、同年12月、テキサスは正式にアメリカ合州国の一つの州として、併合された。1846年6月15日には、オレゴン条約が締結され、今のワシントン州とオレゴン州がイギリスから割譲された。
 
 〈メキシコの過半を奪取〉
 ところで、1846年4月、メキシコ国境でアメリカ軍とメキシコ軍が交戦し、米墨戦争(アメリカ・メキシコ戦争)が勃発する。アメリカ合州国は、メキシコからニューメキシコやカリフォルニアを買収しようと交渉するが、これは失敗する。そこで、“メキシコ軍がテキサスに侵入した”と言って、武力による略奪を謀った。
 米軍は、同年7月からカリフォルニア、リオグランデ川、メキシコ湾の三方向から侵攻し、ロサンゼルス、モントレー、アルタ・カリフォルニアを占拠し、11月にはタンピコを占拠する。1847年3月には、ベラクルス港を陥落させ、8月にはメキシコ盆地に侵入し、9月には、メキシコシティを占領する。
 1848年2月、アメリカとメキシコとの間で講和(グァダルーベ・イダルゴ条約)が成立する。「メキシコはこの条約によってリオグランデ川以北をテキサス(合衆国)領として認め、あらたにカリフォルニアとニューメキシコを合衆国に譲渡することに合意した。この新領土の代価として合衆国は一五〇〇万ドルを支払い、メキシコ政府が合衆国市民に負う三二五万ドルの未払い債務を肩代わりすることを約した。」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.358~359)のであった。
 これらの結果、アメリカは今のコロラド州・アリゾナ州・カリフォルニア州などを獲得することとなった。メキシコは、これにより総面積二四〇万平方キロメートルを失い、それはメキシコ領土の半分以上に相当した。
 アメリカの版図は大幅に拡大し、ついに太平洋岸を占め、太平洋への進出が本格した。1867年にはさらにアメリカは、アラスカをロシアから買い取る。この時点で、アメリカの版図は、ほぼ今日の規模に至っているのであった(ハワイは1898年に併合)。1898年には米西戦争によって、アメリカはフィリピンを領有する。

  (7)白熱化する奴隷制問題と南北戦争

 アメリカ合州国は、1840年代についに大西洋岸から太平洋岸へと版図を拡大し、広大な大陸国家となった。英仏などからの土地購入や対メキシコ戦争による土地獲得などは、南部や西部の農業者の欲望を満たすだけでなく、アジアへの進出をもくろむ北部商工業者の野望をみたすものでもあった。

〈奴隷制めぐる大論争〉
 しかし、1840年代の領土膨張は、新たに手に入れた土地への奴隷制導入を認めるか否かの大論争をも生じさせた。この論争では、大別して、三つの傾向があった。第一は、「自由な土地」を理念として、自由な白人労働者のための土地を確保するためには、奴隷制の西方への拡大を阻止すべきだとした。この見解を最初に表明したのは、ペンシルヴェニア州選出の民主党下院議員のデイヴィッド・ウィルモットであり、彼は1846年8月に「メキシコからの割譲地は自由な土地として維持されるべきで、奴隷制の導入は一切禁止されるべき」とするウイルモット条項を連邦下院で提議した。
 これに真っ向から対立したのが、南部の利益を代弁したジョン・C・カルフーン(反連邦主義で地方分権を強調するリパブリカン党)であり、かれは1847年2月に、「新しく獲得した領土は諸州の財産であるから、奴隷主は自分の奴隷をつれて自由にそこに移住する権利がある」とする決議案を連邦上院に提出した。
 これらとは異なり、いわば第三の立場とも言えるものが、1848年の大統領選挙で民主党の候補者となったルイス・キャスが唱えた「住民主権」の考え方である。この考えは、「新しい領土における奴隷制の採否は、連邦議会が決めるべきことではなく、現地住民の決定に委ねるべき」としたものである。
 この論争は、連邦議会の南北議員のバランス問題に直結した。これより以前の1819年2月、ミズーリへの奴隷制導入を認めるか否かの論争が議会で浮上する。旧ルイジアナ全域で、奴隷制をどのように扱うか―これに関する南北間の協定線が解決していなかったのである。
 1819年2月、ミズーリ準州の州昇格法案が連邦下院に提出された際、ニューヨーク選出のタルマッジ議員が、“ミズーリへの奴隷の導入は今後禁止されるべきであり、またミズーリの州昇格後に生まれた奴隷の子供は二十五歳で解放されるべきである”とする修正案を提出した。だが、この問題は、南北間の政治的バランスにも深く関係していた。当時、連邦下院は南北の人口差を反映して、下院議員は北部の数的優位は確立していた(北部議員105人、南部議員81人)。しかし、各州均一に2人の議員を送り込むことになっている連邦上院では、自由州・奴隷州ともに11州で同数であった。したがって、ミズーリが自由州になるか、それとも奴隷州になるかは、議会政治において大問題であったのである。
 この問題は、同年12月、北部のメインがマサチューセッツ州から分離独立し、自由州として連邦に加入したいとの表明で妥協の糸口となった。そして、1820年3月、「……結局メインは自由州、ミズーリは奴隷州としてそれぞれ連邦に加入し、旧ルイジアナ地域のうちミズーリの南境を画する北緯三十六度三十分以北の地域では、今後ミズーリを例外として奴隷制は認めないとするミズーリ協定が成立する」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.298)ことになった。
 しかし、この問題は1840年代の先の論争を通じて、新たな展開となる。1850年3月、カリフォニアが奴隷制を禁じる州憲法をもって、州昇格を連邦議会に申請したからである。この問題は、ミネソタとオレゴンの自由州としての連邦加盟の申請も近い将来に予想されており、1820年の妥協(ミズーリ協定)によって維持されてきた自由州と奴隷州のバランスが崩壊する危険性に直面するようになる。とりわけ、南部の危機感は大いに高まったのである。激しい論争が展開されたが、結局、今回も次のような妥協が成立した。
 「(1)カリフォルニアは自由州として連邦加盟を認める。/(2)ニューメキシコとユタは奴隷制の是非にかんしてはなんの条件もつけず準州を組織することを認める。奴隷制の是非は将来準州が州昇格にあたってみずから決定することにまかせる。/(3)テキサスの州境拡大の要求は認めない。しかしテキサスがメキシコからの独立運動などでつくった負債一〇〇〇万ドルは連邦政府が肩がわりする。/(4)コロンビア特別区での奴隷取引は禁じられる。しかしその地域での奴隷制そのものは保障される。/(5)より厳しい逃亡奴隷法を制定する。」と。(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.374)
 ここでは、先述の「住民主権」論を利用するかたちで、妥協が成立した。しかし、国家・社会の根本問題である奴隷制問題を、政治テクニックでいつまでもあいまいなままにしておくには限界があった。それは、1854年のカンザス・ネブラスカ法の成立ですぐさま露呈した。
 1853年、スティーヴン・A・ダグラスは、北緯36度30分の北に位置するルイジアナ購入地の大部分をその中に含むネブラスカ準州創設案を、連邦議会に提案する。
 この法案の背景には、次のようなものがある。1840年代の末から50年代は、鉄道建設のブームに沸いた時期であり、1852年までには東海岸からミシシッピ川までの幹線が完成しつつあった。そして、次はロッキー山脈を越えて太平洋岸のカリフォルニアに至る、大陸横断鉄道の建設が課題となった2)。このために、連邦政府の鉄道建設への援助が必要であり、また大陸横断鉄道のルートをめぐる南部(ニューオーリンズをターミナルにしてニューメキシコを経由する南部ルート)との競争に打ち勝つためにも、ミシシッピ川の西に広がる広大なルイジアナ購入地に準州を組織して移住を促進しなければならなかったのである。とりわけ、この問題に熱心であるダグラスは、シカゴをターミナルとする大陸横断鉄道を建設し、シカゴを中心とする北西部の経済発展の推進者となって、イリノイを中心とする中西部での政治基盤を強化し、さらにこれをテコに大統領の座も狙っていたのである。
 しかし、この法案は、次第に連邦政治の支配基盤を失いつつあった南部議員の猛烈な反対にあった。これに対し、ダグラスは大統領選での当選を勝ち取るには南部議員の支持が不可欠と判断して、大幅な妥協に踏み切る。「五四年の冬に再提案された法案(カンザス・ネブラスカ法案)は、アイオアの西の地域をネブラスカ、ミズーリの西をカンザスという二つの準州に組織し、そこでの奴隷制の是非は住民の決定にゆだねていた(人民主権もしくは居住者主権。*先述の「住民主権」のこと)。これはだれの目にもダグラスと南部議員が、ネブラスカを自由州に、カンザスを奴隷州にという取引をしたものとして映った。しかも、最終的には、人民主権という間接的な表現に満足しない南部議員の圧力に負けて、二〇年のミズーリの妥協の原則、三十六度三十分以北への奴隷制拡大禁止の合意を明確に否定する条項を法案のなかに挿入した。」(同前 P.378)のであった。

〈南北対立は決定的局面へ〉
 法案は南部議員の全面協力で成立した。だが、北部の社会に衝撃となり、北部の反対世論は大きく高まるようになる。しかも、1820年代以来の政治地図は大きく塗りかえられ、ホイッグ党は完全に消滅し、新しい奴隷反対の党である共和党が誕生する。だが、共和党は北部のみに基盤を持つ地域政党であり、民主党もまた党内は南北に分裂していた。政治的混乱が進行する中で、どの党も全国を統合する力を持ち得なかった。
 1856年の大統領選挙は、民主党候補が勝利し、反奴隷制、反民主党の連合勢力である共和党はゆるやかな政治連合でしかなかったが、それでも対立候補を立て、次への足掛かりを獲得する。そして、1860年の大統領選で、共和党はエイブラハム・リンカーンを第16代の大統領に当選させる。リンカーンを大統領選の共和党候補に押し上げたのは、1858年、イリノイ州選挙で北部民主党の大物候補・ダグラスとの7回にわたる論戦であった。この時のリンカーンの主張を見ると、リンカーンの奴隷制に対する態度がよくわかる。リンカーンの態度は、「白人と黒人の社会的、政治的平等などはありえない。そして既存の奴隷州の奴隷制には干渉するつもりはまったくない。しかし、奴隷制問題はたんに北部と南部のあいだの政治問題にとどまらず、善と悪をめぐる道徳の問題でもあることを忘れてはならないと。自由社会の最大の美点は、たとえ最初は最下層の労働からはじめても、その勤勉と努力によって社会の階段を登っていく道が開かれていることである。」(同前 P.392)というものである。リンカーンの態度は、当時の北部の人々の矛盾した感情が反映されたものであった。
 リンカーンの当選を知るや、1860年12月20日、サウスカロライナの州議会は州民大会を開催し、連邦からの離脱を満場一致で決議した。これに続いて、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスも連邦離脱に踏み切ってゆく。人口・資源・工業力などの圧倒的な差をもって、北部優位の状況の下で、南北戦争は1861年4月から65年4月の4年間に渡って展開された。当初の予想よりもはるかに長期の内戦となった。
 戦後の南部再建には、①南部諸州の連邦復帰、②350万の解放黒人の扱い、③南部経済の復興などがあるが、当面は①②がポイントとなる。共和党内部では、南部諸州の復帰については、意見の相違が明白であったが、リンカーンは出来るだけ寛大な条件で速やかに南部を復帰させる穏健派であった。リンカーンが1865年4月、観劇中に暗殺され、後任にはアンドルー・ジョンソン(民主党北部派の政治家)が就いた。彼もまたリンカーンの再建案を踏襲した。「一八六五年五月、彼が布告によって示した再建政策とは、まず連邦に忠誠を誓い、奴隷解放を受け入れる条件に、南部の白人に恩赦ないし特赦(奴隷を除くすべての財産の回復を含む)を与えることを第一とした。南部連合の大物指導者や、二万ドル以上の課税対象となる財産の所有者も大統領特赦を申請できた。そのうえで、奴隷制の廃止、分離の取消し、南部連合の負債の破棄をうたった州憲法を制定することを条件に、州政府の組織化と連邦復帰を許すというものであった。黒人の選挙権はおろか、政治勢力としての黒人の扱いについては一切ふれられていなかった。つまり、彼は白人だけの手による南部再建を構想した」(紀平英作編『アメリカ史』㊤ P.216)のであった。(つづく)
 
注1)1812年3月、スペインは最初の自由主義憲法を公布し立憲君主制となった(しかし、カトリックが国教とされ、信教の自由は否認されている)。1821年8月、スペインはコルドバ条約を締結し、メキシコの独立を承認した。翌年2月、メキシコには制憲議会が設置され、イトゥルビッデをメキシコ皇帝に選任した。しかし、この帝政は皇帝の旧友が反乱し、共和国を宣言したために、わずか8カ月しかもたなかった。メキシコは1821~50年の間に、50回も政府が交代する不安定な国であった。
2)大陸横断鉄道の建設のために、中国人労働者が大量に採用された。だが、建設のメドがつく頃から、白人労働者による中国人排斥運動が強くなる。