広がる先住民の闘いと深まる先住権思想②
  連邦制形成にイロクォイ憲法貢献
                       堀込 純一


 (3)先住民への迫害とアメリカ独立革命

 「フレンチ・アンド・インディアン戦争」(七年戦争)で、イギリス側が勝利すると、北米ではイギリスの領土が拡大し、同国に対抗する国が事実上いなくなり、イギリス帝国のアメリカ植民地とネイティブアメリカン総体への支配が強まった。アメリカ植民地からの利益を吸い上げる政策は、経済的軍事的に新たに強化されたのである。
 このような状況下で、イギリス軍司令官ジェフリー・アマーストは、傲慢にも慣例となっていた先住民への「贈り物」(両者の友好関係を示す象徴)を中止した。競争相手のフランスがいなくなったので、「贈り物」は無駄だと考えたのである。先住民はこの侮辱に憤慨し、イギリスの先住民支配がより強まる事を実感した。
 1763年5月、先住民の大規模な反乱―「ポンティアックの反乱」が勃発した。諸部族(ネイションズ)は、イギリス側交易者・兵士・入植者に対する不満を共有して、あらたな団結感をもって戦った。「多方面の先住民諸集団が五大湖周辺とオハイオ川流域のイギリス側の砦を奇襲して、ほとんどを攻め落とした。……同盟したインディアンは五大湖周辺の小さな砦を多数うばったが、デトロイト、ナイアガラ、ピット砦という、イギリス側のもっとも強力な三大駐屯地の攻略には失敗した。」(『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史』P.160~161)といわれる。
 これに対して、イギリス側は、1763年10月7日、国王宣言をもって応えた。この詔書では、「(1)イギリス政府の許可なくして入植者や商人が「インディアンの生活領域(テリトリー)」(アパラチア山脈以西)に立ち入ることを禁止したこと、(2)すでにインディアン領域に居住している入植者は退去すること、(3)インディアン生活領域の売買や譲渡はイギリス政府のみの権利であること、(4)インディアンの権限(aboriginal title *原生的な法的根拠)は存在することを認める、などの内容が盛り込められた」(『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院 1997年 P.113)のである。
 この宣言によると、「インディアンの諸民族は主権のある自律のネーションとして認められたうえ、土地に対する権原……も安堵された。ここでいうネーションとは主権のある民族のことで、当時のヨーロッパで一般的に認識されていた『民族国家(ネーション・ステート)』のネーションに対応する概念である。つまり、インディアンの民族(ネーション)は国家(ネーション)と対等であり、国家のもつ主権や諸権原がそのままインディアンの民族にもある」(『ブリタニカ国際大百科事典』第1巻 P.383)と、解釈されるのである。
 しかし、国王宣言にもかかわらず、イギリス政府は、「何ダースものずるがしこい土地投機人たち(ジョージ・ワシントンもベンジャミン・フランクリンも含まれる)と、何千もの意志の固い入植者を自制させられようもなく、彼らは群れをなして西に向かい、オハイオ川流域になだれこみ続けた。」(『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史』P.162)のであった。入植者たちの膨張主義は、先住民たちの生活については、全くお構いなしであり、法律無視も甚だしかった。
 イギリス政府は他方、アメリカ植民地支配の費用の一部を現地に次々と課すようになる。1764年4月には、「アメリカ歳入法」(砂糖法)を、翌年3月には、軍隊宿営法と印紙法を制定した。これらに対して、植民地各地で「代表なくして課税なし」と主張して、強い反対運動が広がった。
 だが、本国政府はアメリカ現地の反対運動を考慮することなく、さらに課税を強化する。1767年6月に、タウンゼンド諸法が制定される。これはガラス・ペンキ・紙・茶などを対象にした植民地関税である。タウンゼンド諸法に対しても、主要な貿易都市でイギリス商品不輸入運動が展開された。タウンゼンド諸法は、1770年4月、茶税以外はほとんど撤廃された(茶税は最も大きい税収をもたらした)。
 その後暫くは、大方平穏だったが、1773年12月、東インド会社の船を襲撃し、積み荷(茶)を海中に投げ込む、いわゆる「ボストン茶会事件」が勃発する。これに対して、イギリス本国は厳しい「強圧諸法」を可決し、強い制裁措置を取るようになる。
 両者の対立は非和解的となり、1775年4月、イギリス軍と植民地民兵との間でレキシントンの戦いが勃発し、以降、アメリカ独立戦争が展開される。紙面の関係で戦争経過については割愛するが、1776年7月4日、北米大陸東部にあった13のイギリス植民地は、トマス・ジェファーソン(後の第三代米大統領)らが起草した「アメリカ独立宣言」を高らかに発表する。
 戦争は植民地側が劣勢になる時期もあったが、1778年にフランスが、1779年にスペインが、1780年にオランダが、それぞれ植民地側に立って参戦する。そして、翌1781年10月、ヨークタウンの戦いで植民地側が勝利し、独立戦争はこれをもって実質的には終了した。1783年9月には、パリ平和条約が締結され、アメリカの独立は国際的にも承認された。

 (4)アメリカ合州国憲法とイロクォイ連邦

 1787年9月に「アメリカ合州国連邦憲法」が採択され、翌1788年6月から実際に施行された。しかし、独立宣言以来、この間じつに12年間の歳月が費やされている。独立戦争が実質的に終了してからでも約7年間が経過している。現アメリカ憲法が生み出されるのは、容易なことではなかったのである。
 このアメリカ憲法の誕生に多大な貢献をなしたのは、ヨーロッパの近代自然法思想や社会契約説もさることながら、連邦制形成については、ネイティブ・アメリカン(いわゆる「アメリカ・インディアン」)の「イロクォイ連邦の憲法」が大きな貢献をなした。イロクォイ同盟が築かれたのは、紀元1000年から1450年の間であり、イロクォイ人が「カイアネレコウ」(平和の大法律)と呼んだ憲法のもとに結成されたといわれる。君主も存在せず、各部族の主権を維持しながら連邦制度をもって五部族(後に六部族に増)の同盟を維持したイロクォイ憲法は、すでに存在し機能していたのである。(なお、《補論 イロクォイ連邦の政治機構》を参照)
 ジャック・?・ウェザーフォード著『アメリカ先住民の貢献』(株式会社パピルス 1996年)によると、「十八世紀のヨーロッパではやった民主主義についての美辞麗句にもかかわらず、当時のヨーロッパにそのような制度は存在しなかった。英国の君主制と貴族制は、結局は議会の優位(と十九世紀の改革までは極めて制限された参政権)をもたらすことになる長期の闘争に忙殺されていた。フランスはまだ、参加民主主義の実験を始めていなかった。米国の憲法制定者(ファウンデイング・ファーザーズ)は、多種多様な制度の残りかすを寄せ集めて、賢明にも全く新しい制度を考え出した。その新しい制度を作るにあたって、彼らはアメリカ大陸の先住民から独特の要素をいくつか借用さえした。」(同著 P.177)といわれる。
 1744年7月、ペンシルヴァニアでランカスター条約(「ジョージ王戦争」での対フランス協定)が結ばれた際、白人がささいなことで口論を始め、植民地側(ペンシルヴァニア・ヴァージニア・メリーランドの弁務官)の意見がなかなかまとまらないのを見て、イロクォイ同盟を代表するオノンダガ族首長のカナサテゴは、次のように述べている。「我々は連邦を、そしてあなた方[イギリス人]同胞との良き協定を、心から推奨するものである。……/我々の賢明な祖先は連合を設立し、五国の間に友好関係を築いた。これが我々を偉大にした。近隣諸国との間で、我々が大きな力と権威を持っているのは、このためである。/我々は強力な連合を結成している。我々の祖先が採った方法を参考にすれば、あなた方は新たな力と勢力を手にすることができるであろう。」(ロナルド・ライト著『奪われた大陸』NTT出版 1993年 P.151)と。
 また、アメリカ連邦憲法の施行200年を迎えた1988年10月21日、米連邦議会の上院下院は合同決議として、「イロクォイ連邦とインディアン国家―合州国への貢献を認める」と題する感謝決議を採択していることでも明らかである。その感謝決議は、以下の点を明確にしている。すなわち、
 (1)「連邦議会」は、連邦憲法の200周年にあたり、「イロクォイ連邦」および他の「インディアン諸国家(Indian Nations)」によって、「合州国」の形成および発展に果たされた貢献の事実を認め、感謝をささげる。
 (2)「連邦議会」は、この結果として、本国家の公式なインディアン政策の基礎である、「インディアン部族(Indian toribes)」との憲法上認められた政府対政府関係(government to government relationship)を再確認する。
 (3)「連邦議会」は、アラスカ先住民を含む「インディアン部族」に対する以下のような「連邦政府」の信託上の責任と義務のはっきりとした存在を認め、再確認する。それは、必要とされる保健、教育、社会的・経済的援助の提供、さらに、部族がその政府の責任の遂行上その構成員に社会的・経済的福利を提供し、部族の維持、保護および強化を目的としている。
 (4)「連邦議会」は、また、締結した諸部族が有効であると理解する条約を支持する点で最大の誠実さをもって臨む必要、および、市民とその子孫が「合州国憲法」に明記された権利を末永く享受し続けることができるようにすべての市民の利益のためにその法的かつ道徳的義務を支持する偉大な国家の義務の存在を確認する。(上村英明著『新・先住民族の「近代史」』法律文化社 2015年 P.46)
 合州国政府の感謝決議は、歴史的総括が本格的になされていないこと、「政府と政府の関係」と言っても先住民独自の州ですら一つも形成されていないこと(更には、先住民が独立国家を形成することは端から否定されている)など、問題点は数多く未だ残されてはいる。それでも、ともかくも合州国連邦の形成に先住民の貢献があったことは認めたのである。
 
 (5)独立後の版図拡大と強制移住される先住民

 アメリカ独立戦争後も白人入植者の人口は増加した。それとともに、アメリカの版図も拡大した。1783年のパリ平和条約では、アメリカ合州国の領土はミシシッピ川の東側までとされた。だが、この当時、どこまで行けばミシシッピ川になるのかさえ分かっていなかったようである。
 1803年には、ミシシッピ川とミズーリ川の流水域全域がナポレオン1世(在位1804~14年)のフランスから1500万ドルで購入された。この面積は、現在のヨーロッパ全体の広さに匹敵するものである。そして、この購入でアメリカの面積は、従来の約2倍となった。
 アメリカのジェファソン政権(在位1801~1809年)・マディソン政権(1809~17年)は、ともに先住民をミシシッピ川以西に移住させる方針を明確にしている。アメリカの白人による西部地域への侵略は、止むことはなかったのである。そもそも白人と先住民との間では、前提として、土地に対する見方が大きく異なっている。「インディアンにとって、西部地域は文字通り『偉大な精霊』が創造した『母なる大地』であり、そこに住むすべての動植物にはしかるべき恵みをうける権利がある。したがって、白人と同じような意味での所有権の観念はなく、いずれのインディアン、あるいはいずれの部族にも土地を売買する権利があるとは考えてはいなかった。/インディアンが条約で白人に土地を割譲したとはいっても、それは土地の所有権を譲り渡したのではなく、その土地をともに使用することを自発的に認めたというのにすぎなかった。それを白人の側では、所有権の移転とみなしていた点で大きな違いがあった。」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.247)のである。まさに白人たちの考えは、先住民の生活や自然観などは全く考慮しない、侵略主義者の自分勝手な考え方にすぎない。
 1812年6月、第二の独立戦争ともいわれる米英戦争が始まる。ナポレオン戦中(1796~1815年)、アメリカは中立の立場をとって切り抜けようとしていた。しかし、マディソン政権の時期、アメリカの世論は次第に反英感情を強める。開戦となり、アメリカ軍はカナダ(イギリスの植民地)へ侵攻するが、これは成功しなかった。逆に、1814年8月には、首都ワシントンが攻略され、連邦議会や大統領官邸が焼き打ちにあう。結局、同年12月、両国はベルギーのガンで講和条約を締結し、戦争は終結した。
 アンドルー・ジャクソンは、初めての西部出身の大統領(在位1829~37年)である。そして、彼は軍人時代の1814年3月に南西部でクリーク族に勝利し、8月の講和条約で2300万エーカーの領土を割譲させ、先住民をミシシッピ川以西に追いやっている。その彼は1829年の第一次年次教書で、ジョージア州とアラバマ州の先住民をミシシッピ川以西に移住させる意向を表明した。議会はこれをうけ、1830年5月、「先住民強制移住法を制定し、以後、南部のいわゆる開化五部族(チェロキー、クリーク、チョクトー、チカソー、セミノール)に代表される先住民諸部族は、ミシシッピ川以西の土地(現在のオクラホマ)へと駆り立てられる」(『アメリカ史』㊤ P.144)ことになった。
 ほとんどの諸部族は、お決まりの脅迫と賄賂工作で移住を強いられた。「強制移住法の最初の犠牲者となったのはチョクトー族であった。三〇年九月のダンシング・ラビット条約でチョクトー族はアラバマ州とミシシッピ州にもつ八〇〇万エーカーの土地を手放すことにやむなく同意し、翌三一年末、西方への移住を開始した。三六年にはクリーク族が、翌三七年にはチカソー族がこれにつづいて西方移住を余儀なくされた。」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.314)のであった。
 だが、なかにはこの強制移住策に屈服しなかった部族もいた。1832年、北西部イリノイ、ウィスコンシン地方では、サック族とフォックス族の連合軍が米英戦争(1812~14年)でイギリス側についたブラック・ホークを指導者にして、以前譲渡したミシシッピ川東岸の土地の奪回を目指して武装蜂起した(ブラック・ホーク戦争)。フロリダではセミノール族がオセオーラを指導者にして、フロリダの沼沢地で長期にわたって粘り強いゲリラ戦を展開し抵抗した(第二次セミノール戦争。1832~42年)。しかし、いずれも最後には鎮圧されてしまう。
 チェロキー族は、独自の立場をとっていた。「……指導層に混血インディアンがいたチェロキーは驚くほどの進歩を遂げていた。チェロキーの国には製粉場、学校、耕作の行きとどいた畑がいたる所にあった。一八二〇年代の終わり頃までにはチェロキーのアルファベットで印刷された新聞が現れた。」(『アメリカ・インディアン史』 P.99)といわれる。彼らはまだ部族内の少数派ではあったが、確かに一つの方向性を示していたようである。
 そのチェロキーでさえ、正当にも移住に異議を申し立てている。「すでに一八一七年、チェロキーは大統領が自分たちを混乱に陥れていると述べている。それまで、大統領は鍬と鋤を与えて狩猟生活を捨てるように促しつづけていた。しかるに今度はアーカンソー川流域における狩猟を推奨するようになり、移住を望むインディアンにはライフル銃を提供しはじめたのである。その後、チェロキーの族長たちは、強制移住の立法化を検討していたある上院議員に抗議し、その結果、彼らの希望は『平和裡に』入れられ、インディアンたちは『彼らの正当に相続した土地で、文明とキリスト教の恩沢を享受する』ことになった。」(同前 P.99~100)ようである。
 しかし、ジョージア州は、反動的であり抑圧的であった。「『他のいかなる州の権限も排除して、自らの領土に関する全面的な司法権を有する』政府を樹立せんとしたチェロキー憲法に対抗して、ジョージア州議会は行動を起こした。一八二八年から三一年にかけて、同議会はチェロキーは州法の支配下におかれるものとした。土地割譲を目的とする場合を除いてチェロキー国民政府の権限は否定された。また、白人の関わる訴訟ではいかなる場合にもインディアンには証人としての資格は与えらないと宣し、強制移住計画を妨害する者は何びとであれ罰せられると規定した。」(同前 P.100~101)のである。
 ジョン・ロスを指導者とするチェロキー族は、ジョージア州との間で、「チェロキー国家対ジョージア州事件」(1831年)、「ウスター対ジョージア州事件」(1832年)を起こして、法廷闘争を展開する。この二つの事件を巡って、連邦裁判所のジョン・マーシャルは、チェロキーの主張する土地所有権を認め、ジョージア州法はチェロキー国家内におよばないとする判決を下した。しかし、ジョージア州もジャクソン大統領もともにこの判決を頭から無視してかかった。」(世界歴史大系『アメリカ史』1 P.315)のである。法の支配は、公然と否定されたのである。
 これらにさらに輪をかけたのが、金鉱探しの山師たちである。彼らは、一般のフロンティア人たちよりもはるかに先住民を差別し、先住民の諸権利を無視したのである(なお、ゴールドラッシュは1848年にカリフォルニアで金鉱が発見され最盛となる。49年には全アメリカ・ヨーロッパから移住者が殺到し、その数は1849年だけで8万に達したといわれる)。侵入者から先住民を守るために連邦政府は軍隊を送った。しかし、州知事は連邦軍の駐屯は州の主権を侵害するものだとジャクソン大統領に抗議したので、軍は引き揚げてしまった。
 連邦政府も頼りにならず、州政府は端(はな)から敵対的な中で、チェロキーはついに移住に追いやられる。チェロキーは1838年に至って、やむなくミシシッピ川以西のオクラホマに旅立つ。1万5000人のチェロキーは、病気と飢えと寒さにさいなまれながら、「涙の踏み分け道」という苦難の行程を歩み、4000人もの死者を出すのであった。(藤永茂著『アメリカ・インディアン悲史』朝日新聞社 1972年 を参照) (つづく)

 《補論 イロクォイ連邦の政治機構》
 上村英明氏によると、「イロクォイ連邦」の政治機構の特徴は、次の点にある(前掲書の第3章)。第一は、「ネ・ガイアネシャゴワ=偉大な平和の法(Great Law of Peace)」という「連邦憲法」が存在し、そこには「連邦」の3つの基本原則が明記されている。すなわち、①「高潔、公正」(すべての集団・個人が平等である)、②「健康で、心、身体、霊の健全さが強い個人を作るとともに、平和の源泉となる」、③「力」であり、「力」は連邦のすべての構成員の平和と福祉を維持する。
 第二は、連邦議会が設置され、各民族から代表(各民族評議会を構成するセイチェムが兼任)によって構成された。各民族は、共通して母系社会を形成していた。セイチェムの選出や意思統一は、民族内部の各氏族によって行なわれた。各氏族の意思決定は氏族会議で行なわれるが、この会議には、女性・男性、老人・子どもの誰でも参加でき、「氏族の母」(年長の女性)が議長である。彼女は氏族会議の決定をセイチェムに伝え、セイチェムはこの決定をもって民族評議会に臨み、全会一致をもって民族の意思を決定した。
 第三は、連邦議会は、見かけ上、一院制であるが、内実は「二院制」である。イロクォイの6つの民族は、オノンダガ、モホーク、セネカが「年長の兄弟」と呼ばれ、オネイダ、カユガ、タスカローラが「年少の兄弟」と呼ばれた。この二つのグループそれぞれの決定が一致すると、それは連邦の正式決定となった。一致しない場合は、次の会議まで棚上げにされた。
 第四は、ヨーロッパでは稀な「解職請求(recall)」、「弾劾(impeachment)」の制度をもっていたことである。これは女性の権利である。イロクォイ連邦では、連邦議会の代議員や氏族長など政治の担当者はすべて男性である(基本的には世襲制)が、しかしその任免権は「氏族の母」を中心とした女性にあった。
 第五は、新たな民族の新規加盟を認めており、しかも、新たな民族の加盟は、対等の権利をもった加盟である。この点は、ヨーロッパとはとりわけ異なったものである。