広がる先住民族の闘いと深まる先住権思想①

 疫病・征服・植民で先住民衰退

                          堀込 純一

 歴史を軽視する者は、先住民を物語などで想起するだけであって、侵略者による迫害と衰滅化をただ既成事実として承認するだけである。だが、世界では第二次世界大戦後、とくに1960年代頃から、歴史の片隅に追いやられたとみられた先住民の根源的な闘いと先住権思想の普及が広まり出し、先住民の復権が各地で噴出している。以下は、そのいくつかの紹介と、発展する先住権思想の確認である。

   Ⅰ アメリカ先住民の衰滅化と1960年代からの復権運動

 コロンブス(1451~1506年)、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469頃~1524年)、マゼラン(1480頃~1521年)らにより、ヨーロッパから南北アメリカ、アジアなどへの航路が切り開かれ、スペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどの植民地主義・膨張主義が進展する。いわゆる「大航海時代」である。キリスト教徒が自らの植民地主義を正当化する論拠は、教皇のお墨付き、「発見優先の原則」、先占の法理などとして発展する。1)
 1521年、中米のアステカ王国はコルテス(1485~1547年)によって滅ぼされ、1533年、南米のインカ帝国はピサロ(1470頃~1541)によって滅ぼされる。同じ16世紀には、中米のマヤ文明も滅亡させられている。その主な原因は、ヨーロッパから持ち込まれた疫病と征服者(コンキスタドール)の侵略である。
 スペイン人たちは、先住民を武力で制圧し、領土を拡大し、金銀を略奪し、インディオのキリスト教化を図った。コンキスタドールたちは1500年から1650年までの間に、メキシコやペルーから金181トンと銀1万6000トンを略奪し、スペイン本国へ輸出した(アラン・テイラー著『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史』ミネルヴァ書房 2020年 P.37)。このために、先住民インディオは、鉱山などで奴隷として酷使された。
 
  (1)北アメリカの植民地時代

(ⅰ)ヌエバ・エスパーニャ
 スペイン人はさらに富を求めて、1539年、2つのコンキスタドール遠征隊を北米にも送り出した。1隊は、キューバからエルナンド・デ・ソトが率いて、フロリダからミシシッピー川下流方面に進んだ。もう1隊は、メキシコからフランシスコ・バスケス・デ・コロナ―ドが率いて、アメリカ南西部へ入って縦断し、グレート・プレーンズ(大平原)へ進軍した。
 ソトは、ミシシッピ諸族の集落を破壊し、抵抗者を殺傷し、作物や女性を略奪した。しかし、目当ての金銀は探し出すことが出来なかった。コロナ―ドは、メキシコから北進し、リオグランデ川流域の北部に生活するプエブロ族の地に到達した。しかし、ここでも金銀は無かった。両隊はともにメキシコへ撤退した。
 スペイン人は1560年代、フロリダを植民地化し、16世紀末には、ニュー・メキシコ(サンタフェを中心)、アリゾナ地方に入植した。しかし、スペイン人の入植者は少なくニュー・メキシコでは17世紀には1000人を超えることが無く、伝染病などで激減したプエブロ諸族(1598年の6万人から1680年には1・7万人に減少)よりもはるかに少なかった。
 1660年代と1670年代は旱魃が長く続き、プエブロ族は飢餓に直面した。しかし、スペインは従来通りの量のトウモロコシと毛布を取り立てた。プエブロ族はついに1680年8月に蜂起し、植民者1000人の2割を殺害し、総督と植民者をサンタフェから撃退させた。しかし、反乱の勝利後、ふたたびプエブロどうしの確執が再燃し、さらに交易の断絶によりアパッチ族の攻撃をもたらした。こうして、新総督のもとで植民地はスペイン帝国に再度編入された。
 
(ⅱ)ヌーヴェル・フランス
 フランス人は、主に交易のために大陸に渡ってきた。フランスは当時の大国スペインの圧力を避けるため、北アメリカの北方地方に植民地を作った。フランスは、最も戦略的な港と河峡を支配する砦として、1608年、ケベックを設立した。ケベックは、セントローレンス湾と内陸部の五大湖を結ぶセントローレンス川の途中、川幅が狭くなる所にある。
 確かにこの北方地域は貴金属を産出せず、冬も長く寒い土地であるが、代わりに魚がふんだんにあり、毛皮を産み出す哺乳動物(ビーバー、ラッコ、オオヤマネコなど)が豊富に存在していた。毛皮は金銀と同様に貴重な品物で、遠いヨーロッパとの交易に十分に値する産品であった。
 フランス人の交易者たちは、ケベック周辺のモンタニェ族、アルゴンキン族をはじめとし、さらに五大湖地帯のイロクォイ語系のヒューロン族までも交易に巻き込んだ。ヒューロン族は、北東部ではもっとも集住していた部族で、トウモロコシ、カボチャ、豆類などの農耕が盛んであった。ヒューロン族は交易が盛んになると、余剰の食料を北方の先住民と取引して毛皮を入手し、その毛皮をフランス人商人と交易するようになった。そして、「北方の毛皮交易を支配するための同盟をまとめ上げることによって、モンタニュ、アルゴキン、ヒューロンは、ホデノショニ五部族(ファイヴ・ネイシュオンズ。「イロクォイ」としても知られる)を排除した。」(『先住民vs.帝国 興亡のアメリカ史.』P.52)のである。今日のニューヨーク州上半分(ハドソン川より西、オンタリオ湖の南、エリー湖の東)に住むこれら五部族とは東から順に、モホーク、オナイダ、オノンダガ、カユガ、セネカである。
 1609年6月、ケベックを建設したサミュエル・ド・シャンプランと9人の兵士は、同盟相手の先住民戦士団に加わり、シャンプレーン湖に面したホデノショニ(イロクォイ族)の野営地を攻撃している。この戦いでの敗北を契機に、ホデノショニの戦士は伝統的な戦闘方法を放棄し、火器を使ったゲリラ的攻撃に転換した。ホデノショニは1640年までに敵よりも優位に立ち、ヒューロン族などを攻撃した。しかし、上流地帯の先住民たちは、フランス人から武器を手に入れ、1680年代、1690年代になると、ホデノショニに反撃し勝利している。
 
(ⅲ)イギリス領アメリカ植民地
 イギリス人はポルトガル人・スペイン人・オランダ人・フランス人、スウェーデン人などよりも後発ながら、17世紀はじめ頃から、北米で植民地を建設しはじめる。
 イギリス人は、スペイン人やフランス人とは異なり、主に家族単位で入植してきた。彼らは、領主が農地を羊の放牧場にするための第一次囲い込み運動(エンクロージャー・ムーブメント)により、土地を追い払われ、職を求めてロンドンなどの都市に逃げ込んだ。しかし、中には思うように職をえられず大陸に渡る家族も大量に存在した。
 カリブ海の諸島では、1612年にバーミューダ島にタバコ栽培を主とする植民地が作られた。1624年には、西インド諸島にやはりタバコ栽培に植民地が作られた。黒人奴隷制の始まりである。
 イギリスは、北米大陸の大西洋岸にはそれよりも早くから植民地を建設している。後にイギリス本国から独立する植民地13州を北から南へ3つに区分すると、「ニューイングランド」(マサチューセッツ・ロードアイランド・コネティカット・ニューハンプシャー)、「中部大西洋岸」(ニューヨーク・ニュージャージー・ペンシルヴェニア・デラウェア)、「南部」(ヴァージニア・メリーランド・ノースカロライナ・サウスカロライナ・ジョージア)となる。
 「南部」では、1607年5月、「ヴァージニア会社」が前年に、国王ジェームス一世から下付された特許状をえたことにより、ヴァージニアのジェームズタウンに北アメリカ最初の植民地を建設した。ヴァージニア植民地は、アメリカ南部を代表する植民地であり、かつ永続的に存続した最初の植民地である。しかし、当初は104人いた植民者が半年余りでその半数が飢餓と疫病に倒れ、経営は思わしくなく辛うじて事業が継続された程度であった。この窮境を救いヴァージニア植民地の基礎をすえたのが、ジョン・ロルフによるタバコの品種改良と、会社内の指導者エドウィン・サンズによる土地制度などの改革であった。
 『世界歴史大系 アメリカ史』1(山川出版社)によると、サンズらの改革の第一は、「土地の共同経営を廃止し、ヘッドライト(人頭権)制による土地の私有を認めた。以前からの住民(*植民者のこと)中、自由民(株主の権利を有するもの)2)には一〇〇エーカー(*1エーカー=約40アール)の土地が与えられたが、あらたに自分の費用で移住するものには、ひとりにつき五〇エーカーの土地を所有する権利をあたえた。さらに、奉公人を連れてくるものには、奉公人ひとりにつき五〇エーカーがあたえられた。ヘッドライト制によって、資金のあるものは、奉公人の数に応じて、ひろい土地を獲得した。会社は付与した土地から少額ではあるが、免疫地代(*中世ヨーロッパでは領主に対する賦役に代わるものとして納められたがアメリカでは土地所有一般に課せられた)の利益をえることができた。」(同著 P.21)のである。
 改革の第二は、植民地人に本国同様の自由を与えることである。住民代表による会議を召集し、彼らが意見を表明する機会が与えられた。「一六一九年、諸改革の一環として召集された北アメリカ最初の代議制議会は、王領植民地になった(*ヴァージニア植民地は1624年に王領となった)後も、勅任総督=行政部とその補佐機関である参事会に対し、立法部として存続し、イギリスの普通法による法の支配の原則は維持された。」(世界各国史8 清水博編『アメリカ史』山川出版社 1969年 P.29)と言われる。
 改革の第三は、経済発展のために入植者を大勢送り込んで、タバコ以外の生産も発展させる構想である。しかし、これは失敗した。入植者は栽培が容易で利益があがるタバコ栽培に集中したからである。
 「ニューイングランド」のマサチューセッツ植民地は、厳密に言うと、マサチューセッツ湾植民地とプリマス植民地からなる(1691年に後者は前者に併合される)。
 プリマス植民地は、1620年に北米大陸に新天地を求めたピューリタンの一団によって築かれた。彼らは共同出資会社の方式をとって植民会社を設立し、メイフラワー号で到来した。「彼らが到着したのは11月なかばで当初苦難を経験したが、その後は先住民(*ワムパノアグ族)の援助を受け、あらたな移住者も到来し、ささやかながら安定した共同体が形成されていった。」(紀平英作編『アメリカ史』㊤ P.41)といわれる。
 マサチューセッツ湾植民地は、1629年、チャールズ一世の特許状がマサチューセッツ植民会社に下付され、1630年3月に同社によって送られた約1000人の手で設立された。同社は、利益一点張りでなく、「ニューイングランド」にふさわしい教会と社会の創出を目指した。植民者はその後の10年間で約2万人に達した。この植民地では、「共同出資会社の株主会にあたる『総会議』(ゼネラル・コート)が現地において開かれることになり、これはのちに植民地全体の立法機関としての機能をはたすことになった。」(同前 P.41)のであった。
 プリマスへ移住したピューリタンはイギリス国教会からの分離を宗教改革の必然的帰結とみなしていたが、マサチューセッツ湾へ移住した者たちは、国教会にとどまりその改革をめざした。
 「ニューイングランド」では、宗教上政治上の異見に対し、極めて不寛容でいくつものタウンが分裂した。しかし、全体的には白人移住者が次々と増え、開拓地は拡大した。1637年7月、「ピークウォット族は、コネティカット渓谷へ進出しようとする移住者たちに、あえて抵抗する道を選んだ。そのために、ある夜、白人の小部隊はピークウォットの根拠地を包囲し、村落を焼き払った。この攻撃によって五〇〇人以上のインディアンが虐殺されたり、焼き殺されたが、攻撃部隊はわずかに二人の損失しか出さなかった。」(W・T・へーガン著『アメリカ・インディアン史』第3版 北大図書刊行会 第1版は1983年 
 P.17)といわれる。先住民(アメリカ・インディアン)の生存者は主に女性や子どもだが、西インド諸島へ奴隷として売りとばされた。
 「中部大西洋岸」では、後にニューヨーク植民地となる地方に最初に移住したのはオランダ人であった。ここには引き続きフィンランド人、ドイツ人、スウェーデン人など多様な人種・民族が到来した。しかし、第二次英蘭戦争(1664~67年)でイギリスがニューアムステルダムを占領し、特許によって国王チャールズ二世の弟ヨーク公に旧オランダ領が付与され、以後、ニューネーデルランドはニューヨークと名を変えた。
 ペンシルヴェニアは、内陸部に農業を発展させ北米植民地の要石となった。クェーカー教徒のペンはペンシルヴェニアを宗教的自由の「神聖な実験」の場とみなし、クェーカー教徒のみならずすべての人に良心の自由を保障したので、敬虔派のアーミッシュ(ドイツ系)や長老派のスコットランド系アイルランド人なども到来した。
 ペンはまた、先住民との関係も武力でなく交渉で友好を図ったとされる。しかし、実際はさまざまなトラブルが生じ、その構想は理想とはかけ離れていったようである。「クェーカー派の平和主義にもとづくインディアン対策は、征服による土地の奪取が一般であった当時にあって、きわめて独自のものであった。ペンは交渉によるインディアンの土地の購入政策によって、長い間彼らとの紛争を未然に防ぎ平和を保つことができた。しかし、その方法は無知なインディアンにつけこんだきわめて巧妙なもので、決して博愛主義にもとづくものではなかった。」(清水博編『アメリカ史』山川出版社 1969年 の第1章〔富田虎男氏執筆〕P.41~42)と評価されている。ペンの植民地滞在は、わずか4年間でしかなかった。
 
  (2)植民地とその本国との間、白人と先住民との間の矛盾

 北米大陸のイギリス植民地の統治形態は、王領植民地、領主植民地、自治植民地に分類される。もちろん時代により、同一植民地が性格を変えることもあった。しかし、いずれの統治形態であっても、イギリス領北アメリカの植民地は最終的には国王に属するものであることには変わりはない。
 北アメリカのイギリス領植民地は次々とつづく入植を背景に、経済的に発展する。南部では、タバコ・米・砂糖・藍の生産が飛躍的に増大した。他方、ニューイングランドおよび中部大西洋岸の地域では農業・漁業が盛んになり、その産物は輸出された。
 だが、植民地は当然のこととして本国の発展に寄与すべきものと考えられた。その一つとして、本国からさまざまな政策的な規制がなされた。
 17~18世紀は、イギリスに限らずヨーロッパ大国は、重商主義の時代と言われた。重商主義の特徴は、端的に言って、貿易黒字を国力の指標とみなし、貿易を国家の管理下に置いた。そのもとで、イギリスは植民地に対してさまざまな経済規制の政策をとったが、その一部を掲げると、1696年の羊毛品法(植民地産の羊毛およびその加工品の輸出入禁止)、1720年の泡沫法(イギリス議会の許可なしで操業されている植民地諸企業を違法とした)、1750年の鉄法(植民地での溶鉱炉などの建設禁止)、1751年の通貨法(植民地による銀行の設立を禁止)などである。しかし、これらの規制は必ずしも厳格には実施されなかったようである。
 植民地に対する本国の規制・課役には、もう一つ重要なものとして、本国と他国の戦争に植民地も動員されたいわゆる「植民地戦争」がある。イギリス人とフランス人は、1689~1763年の間に、以下のようにヨーロッパのみならず、植民地でも戦った。(植民地での戦いは、しばしばヨーロッパでの戦争とは違った名前で知られた)
 一度目は、ファルツ継承戦争(1688~97年)で、これは行き詰まりとなって終わった。北米ではウィリアム王戦争(1689~97年)と呼ばれた。
 二度目は、スペイン継承戦争(1702~13年)で、北米では「アン女王戦争」(1702~13年)と呼ばれた。ルイ十四世のフランスにイギリス、オランダその他が戦い、1713年のユトレヒト条約により、イギリスのニューファンドランドとハドソン湾地域などの領有が承認され、フランスからアカディア(ノヴァスコシア)が移譲された。
 三度目は、オーストリア継承戦争(1740~48)年である。その前年に、「ジェンキンズの耳の戦争」(1739~42年)という名の戦争が勃発する(スペイン当局に逮捕されたイギリス人船長ジェンキンズが耳を切り落とされたという報道にイギリス世論が憤激して戦争となった)。フロリダの一部とみなしていた地域に、イギリスがジョージア植民地を建設して、スペインは脅威を感じていたのである。
 ヨーロッパでの戦争においてフランスとスペインが提携すると、1744年に北アメリカで英仏間の戦争=「ジョージ王戦争」(1744~48年)が始まる。この戦争で植民地もイギリス本国から協力を求められ部隊を派遣する。しかし、スペイン植民地に対する作戦は失敗に終わり、イギリス植民地軍には多くの犠牲者が出た。他方、フランスとの戦いではニューイングランドの植民地はイギリス海軍の支援をえて、アカディアの北方に位置するケイプブレトン島のフランス軍基地ルイブール攻略に成功する。これらの戦争は1748年のアーヘンの和約で終わった。領土の変更はなく、ルイブールはフランスに返還された。これに対して、ニューイングランドの植民者たちは失望したといわれる。
 四度目は、1756年にヨーロッパで「七年戦争」(~1763年。イギリスの支援を受けたプロイセンがオーストリア・フランス・ロシアと戦う)が起こり、英仏両軍は北アメリカも含め世界各地で戦うこととなる。北アメリカでは、英仏両軍にそれぞれ先住民の諸部族が連合し戦った。当初、フランス軍が有利であったが、事実上の首相となったウィリアム・ピットは2万の正規軍を派遣し海軍の援護を受けながら、植民地軍とともにフランス植民地を攻撃させた。1758年にルイブールを占領し、翌59年には、ケベックを占領し、1760年にはカナダの最後の拠点モンレアル(モントリオール)のフランス軍を降伏させた。1763年2月にパリ条約が締結され講和が成立した。「講和交渉ではイギリスはカナダの獲得を主張し、ニューファンドランド周辺やセントローレンス湾の漁業からフランスを締め出そうとした。フランスは若干の漁業権を保持する代わりに、ミシシッピ川以東のルイジアナを放棄した。フランスは同盟国スペインがフロリダをイギリスに譲る代償として、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに譲ったので、北アメリカ大陸における領土をすべてうしなった。この戦争の講和により、イギリスは北はハドソン湾地域から南はフロリダまで、北アメリカ大陸の東半分を領土にした」(同前 P.102。下線は筆者による。以下同じ)のである。この戦争は植民地では、「フレンチ・アンド・インディアン戦争」(1755~63年)と呼ばれた。 (つづく)

注1)詳しくは拙稿「先占の法理は、植民地主義・膨張主義正当化のためのもの」(理論誌『プロレタリア』11号〔2012年12月〕に所収)を参照。
 2)植民地経営のための資金調達法として、イギリスでは「共同出資会社」(ジョイント・ストック・カンパニー)が発達した。これは、「特定の事業を独占的に遂行する目的で国王の特許状を獲得し事業に賛同する出資者をつのるもので、利益が生じたとき出資者に配分される」(紀平英作編『アメリカ史』㊤ 山川出版社 2019年 P.36)ものであった。これにより、大規模な資金調達が可能となり、国家への依存でなく、民間による植民地経営の道が開かれた。