明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊽

  三戸に一戸が参加の「伊勢暴動」
                     堀込 純一


   (6)激烈な地租改正反対一揆

 地租改正については、壬申地券交付の段階から難渋をきわめ各地で軋轢が生じた。階級的見地からも、「地租改正が始まったころは、政府による土地買上げ、均分の実施などのうわさが飛びかい、これに『高持』・地主・豪農たちが脅威を感じていた……。しかし、壬申地券の発行や改正事業が本格的に進むにつれて、土地収公のうわさは消え、それとともにかつては不安やおそれを感じていた者で、いまでは政府の行なう地租改正を歓迎する者もでてきた」(松田之利著「維新変革における民衆」―講座『日本歴史』7近代1 東大出版会 1985年 P.116~117)ようである。
 だが、1875(明治8)年ごろから中央政府の態度が農民に押し付ける強行方針に転換すると、対立は一挙に頂点に達した。
 
(ⅰ)真壁郡・那珂郡の一揆

 1871(明治4)年の廃藩置県で、今日の茨城県域には18県が設置されたが、同年11月、旧18県は茨城・新治(にいはり)・印旛三県に統廃合された。茨城県(県庁は水戸)は常陸、新治県(同く土浦)は常陸・下総の一部、印旛県(同じく佐倉)は下総を県域とした。その後、明治6年には、印旛県は千葉県に統合される。さらに明治8年5月には、新治県が廃止され、茨城・千葉両県に分割された。県堺は、利根川が境界線となった。
 旧茨城県・新治県でも、例にもれず壬申地券の交付は難渋した。しかし、中央政府が1873(明治6)年7月に地租改正条例を発布すると、茨城県もこの方針に沿った方向に転換する。すなわち、明治7年5月17日に地券調査を中止して実地現反別の調査のみを行うよう通達され、6月13日に「地租改正ニ付き地価取調心得(こころえ)」が布達された。ここでは、一筆ごとに間数を量る方法が定められ、また地価からの算出法について慣行小作料により決定すべきことが定められている。
 さらに、「明治八年(*1875年)にはもう一つ重要な布達がみられる。この年の県布達第一〇五号別冊『地租改正人民心得書』がそれで、耕地の等級づけを行うことと、地価決定に際してはさきの検査例第二則ではなく種籾代、肥料代を控除する自作地を基準とした検査例第一則を適用するように指示して」(『茨城県史』近現編  P.34)いる。
 だが、官の上からの決定に対して、農民たちの間には大きな不満が広がった。というのは、明治8年の米価を基準に納税額を算出し、その六割を1876(明治9)年12月に納入せよ―との県の布達が9月になされたからである。だが、この頃の米価は、大暴騰から急落へと大きく変動している。「茨城県の平均米価でみると、〔明治〕八年は一石につき五・一五円であったのが、九年には三・二三円弱と四割近い下落を示している。九年度の仮納地租は、当年相場に比較して著しく高い前年度米価による貨幣換算が求められ、農民の負担が相当に過重となった。騒擾は、この問題を契機に発生した。」(『茨城県の歴史』山川出版社 1997年 P.279)のである。
 1876(明治9)年11月27日、小貝川東岸の吉間村(旧・明野町―現・筑西市)の三所神社に、近辺の村々から農民たちが貢租について歎願しようと集まり、その数は1000人ほどに膨れ上がった。農民たちは茂田村(現・下館市)の副戸長宅に押し寄せて貢租問題の解決を迫った。だが、下妻支庁長が到着する前に、28日夕方、農民たちは警官隊によって解散させられていた。
 だが、12月1日には、飯塚村・塙世村(ともに、旧・真壁町―現・桜川市)で、「牛子騒動」が勃発する。25カ村の農民約500人は、田村(現・桜川市)の牛子神社に結集し、次の6カ条の歎願を決定した。すなわち、①田方貢納ハ正米(*現物米)ヲ以テ上納スルニ非(あらざ)レバ、時ノ相場ヲ以テ上納スベシ ②畑方ノ地租ハ旧租ニ致シタシ ③学校賦課金ヲ廃シ、官費ニ換ヒ ④地検ノ入費(*改正事業実施の費用)ハ悉皆(しっかい)官費致シタシ ⑤民費(*村経費)ハ廃止シ道路ハ村費普請ニシ ⑥諸雑税ヲ減ジ、人民休戚(きゅうせき *喜びと悲しみ)ヲ得セシメタシ(『茨城の歴史』県西編 茨城新聞社 1993年 P.37)である。ここでは、地租改正問題だけでなく、政府の推し進めていた他の政策への批判も含まれていた。
 牛子神社の集会には、近くの村からほとんどの農民が参加した。だが、戸長、副戸長らの急報で巡査3名がやって来て、集会の解散を迫った。農民たちは始め黙って聞いていたが、巡査たちが威圧的に解散させようと農民たちの中にまで分け入った時、5~6人が巡査に殴りかかり、神社は騒乱状態となった。
 この事態を見て、権令・中山信安は鎮圧のために宇都宮鎮台に出兵を要請するとともに、12月2日旧笠間藩士族・下館藩士族の約100人を雇い、農民たちを鎮圧した。同月6日からは一揆指導者などの逮捕が始まり、この一揆で逮捕された者は、27カ村・165人に上った。
 真壁郡一揆が鎮静して間もなく、今度は那珂(なか)郡で、地租延納などを求めて農民が決起する。12月6日、上小瀬(かみおせ)・小舟両村(ともに旧・那珂郡緒川〔おがわ〕村―現・常陸大宮市)の農民が、愛宕山の鎮守社に集会し、他村とともに延納願をだすことを決定した。翌7日には、先の両村に加えて那珂郡の村々(現・常陸大宮市)の農民およそ八〇〇人が小祝村に集合した。しかし、警官たちによって解散させられた。
 だが、翌8日、上小瀬村で農民たちは、嘆願書の作成にとりかかった。そこへ小祝村集会参加者は逮捕されるとの噂が広まる。農民たちが不安に駆られるのは、当然のことである。その折、警官2人がやって来て、説諭に及ぶ。おびえていた農民たちは、威圧的な警官たちの態度にたまりかね、ついに反撃に出る。警官は逃げ去り小舟村扱所近くの家に身を潜めたが、農民たちに見つけ出され殺害される。
 そして、農民たちは近隣の村々に檄を飛ばし、一揆への参加を呼びかけた。これに応じて数百人の集団となった農民たちは12月9日朝、水戸への歎願に向かった。10日には、一行は茨城郡石塚村(現・東茨城郡城里町)に到着するが、ここで茨城郡野口村(現・常陸大宮市)や赤沢村(現・城里町)の農民約300人と合流し、一揆勢は2000人ほどに膨れ上がった。
 しかし、この一揆勢を警官と県が雇った士族隊300人が急襲する。不意をつかれた農民たちは狼狽し、多数の負傷者をだして敗走する。だが、指導者たちは、阿波山村(現・城里町)に農民300人ほどを再結集させ、再起を図った。
 これに対して、中山権令は密かに重罪人6人を釈放して一揆勢内に送り込み、一揆指導者を殺害させた。これに依り、一揆勢は完全に崩壊した。翌14日早朝、警官隊は一揆参加者の一斉逮捕に乗り出す。処罰者は33カ村1098名で、内訳は死刑3名、懲役24名、罰金1064名である。他にこの闘いでの犠牲者は7名である。ただ、中山権令は、囚人を使った暗殺も一因となって、後日、罷免された。
 
   (ⅱ)「伊勢暴動」から東海一揆へ波及

 1871(明治4)年7月の廃藩置県では、三重県域は、旧藩とほぼ同数の11県であったが、同年11月には県北部の6県が安濃津(あのつ)県に、県南部の5県が度会(わたらい)県に統合された。安濃津県は明治5年3月に三重県となり、度会県と旧三重県は1876(明治9)年に統合し、三重県となった。
 「旧三重県で地租改正作業が本格化したのは(明治)八年二月からであった。……旧三重県の改租作業は進んだが、十一月の収穫高決定は調査した収穫高などを基礎にしたのではなく、県が決めた予定収穫高を各村に割りふったので、『押しつけ反米(たんまい)』とよばれ、県下で反発をよびおこすことになった。翌九年二月には、各大区の目的利子率を押しつけ、各小区・町村の利子率を割りふらせた。」(『三重県の歴史』山川出版社 2000年 P.262)のであった。
 「押しつけ反米」に対しては、員弁(いなべ)郡全郡をはじめとして広範な反対があった。その理由の最大なものの一つは、岐阜県との「差等大ナル」があって、同県と同レベルにして欲しいという要求があった。だが、官側は指導者の犯罪をでっち上げ、強圧的に9割以上の村々が承諾させられた。しかし、それでも桑名郡55カ村(輪中村など)、朝明(あさけ)郡4カ村、河曲(かわわ)郡1カ村は頑強に抵抗し、改租事業を完了させなかった。
 他方、旧度会県では1874(明治7)年1月以来、改租作業は三度手直しが加えられ大幅に遅れた。
 そのうえ、1876(明治9)年の8~9月、県の南部は大雨におそわれ、特に飯野郡の櫛田川が決壊し、その流域では洪水被害で凶作となった。そのため、この時の米価はひどく安値となり、納税額は30~40%も増税となるほどであった。苦境に直面した飯野郡などの農民たちを始めとして、飯野郡以外でも戸長などを代表に立てて、地租米納や地方税軽減の請願が広がった。飯野郡の魚見・保津(ほうづ)・新開・久保・松名瀬(まつなせ)の五ケ村(現・松阪市)は、11月14日、当年の相場か、正米による上納を嘆願した。ところが、第八区(松阪市)の区長・桑原常蔵は、この歎願を県庁へ取り次ぎしなかった。
 三重県庁は、12月8日、管内の不満が高まる中で、地租の一部米納を認めることを示した。だが、この方針は農民たちに正しく伝達されなかったようである。税の取り立てが始まり、豊原村(現・松阪市)の区扱所で戸長例会が続く12月18日午後、「桑原区長への圧力を加えるために保津村組頭西出房吉、魚見村惣代中川庄次郎等が組織した第八区諸村民が早馬瀬(はやまぜ)川原へ屯集」(『三重県史』通史編近現Ⅰ P.46)した。早馬瀬村は櫛田川右岸にあり、対岸には豊原村・櫛田村がある。
 農民たちは、午後5時ごろ、区長の命を受けた魚見村戸長・中川九左衛門の説得でいったん帰村の様子を見せるが、深夜3時頃になると早馬瀬川原に再屯集する。これに対し、区長、戸長らが説諭を加え、12月19日、第八区42カ村連名の嘆願書(『松阪市史』第14巻 P.148)を県庁に上達することを約束して、農民たちを鎮静化させた。農民たちの「歎願の大意」に見られる要求は、「一 地租改正村位(そんい)二等下げ/一 石代の儀は取消し上納の義(ぎ)該年の平均ヲ以て上納仕り候か、或いは正米納か/一 諸県税廃止/一 学校教員の給料官費の事」(「伊勢暴動明治九年顛末記」―『現代日本記録全集』3 筑摩書房 1970年 P.317)である。
 しかし、早馬瀬川原には櫛田川西岸の村々からもぞくぞくと集り、屯集勢は膨れ上がり、警官隊との小競り合いとなる。そして、一揆勢は松阪を目指し、第九区垣鼻村(かいばなむら *現・松阪市)地内の荒木野(海会寺〔かいえじ〕野 *松阪南西方)方面に移動する。さらに飯高郡の村民も加わり、荒木野に集まった一揆勢は数千人規模に達した。「同日(*19日)午後から屯集勢の一部は一志(いつし)郡へ向けて北上を始め、津の県庁へ向かったが、多くの屯集勢は松阪へ進み、町内の打毀(うちこわ)しが始まった。十九日夜十二時頃、松阪では魚町の第九区扱所が打ち毀され、続いて本町の三井銀行(*納税窓口であった)や魚町の三井則右衛門宅への放火が行われた。二十日の払暁にかけて本町・魚町・中町の町家が次々に類焼し、九〇戸余の居宅が焼亡被害を受けた。」(『三重県史』通史編近現Ⅰ P.47)といわれる。
 南勢地域では一揆未発となった所が各地にあるが、宇治・山田(現・伊勢市)では特異な経過で一揆となった。12月20日、宇治町内の戸長は一揆発生の報に接し、町民を動員して宮川川原へ出張させ、対岸からの一揆勢の進入を防ごうとした。しかし、対岸からの来襲がないまま宇治・山田町内の住民の間にしだいに反抗の機運が高まる。宮川渡賃小屋が放火される事態になって、戸長は町民に帰町を命じるが、町民は佐八・円座村(ともに現・伊勢市)など宮川東岸上流の村々や長屋村など東岸下流の諸村の農民とともに山田町内へ繰り込み、21日午前1時頃から焼き打ちを始めた。三重県山田支庁と山田区裁判所、岡本町の師範学校・病院・三井銀行支店、八日市場の農社などが放火され、多くの類焼が発生した。
 その後、一揆勢は帰村したが、21日夜、伊勢神宮警衛のために派遣された士族隊により、一揆状況は鎮静化させられた。
 荒木野に屯集した一揆勢の中から津の県庁を目指して北上する先遣隊の動員により、一志郡内の村々は各所に屯集した。その内の一部を除いて、大部分の農民は久居町(ひさいまち *旧・久居市―現・津市)へ向った。だが、津県庁への攻撃が失敗したこと(後述)を知って、ほとんどが19日中に帰村した。だが、翌20日、一志郡内の諸村は再び久居町へ進む。しかし、農民たちは久居町八幡社や嬉野(うれしの *権現野ともいう。現・松阪市)に集められ、区長らの説諭により鎮静化させられる。
 しかし、翌21日になっても上納米の当年相場、改租費用の官費支給などを要求し、農民たちは再々度権現野(久居南方)へ屯集し、その数は二万人に及んだ。鎮撫のために官員がやってきて一揆勢ともみあい、ついに鎮撫官員が発砲し、6人の死者を含めて多くの負傷者が続出し、屯集勢は散り散りになって帰村した。
 一志郡農民の一部は、19日午後、伊賀に入り、「二〇日午前六時頃簗瀬(やなせ *名張市)の大区扱所・巡査屯所を打ち毀し、学校・小区扱所に放火した。一揆勢はそこから北上し、午後一時頃に古山(伊賀市)の巡査屯所・第二小区扱所などに放火し、上野町に迫ったが、下ノ庄村(*現・松阪市)の大内川辺で上野士族の鎮部隊に撃退された。」(同前 P.51)のであった。
 他方、一志郡内の農民は次々と津に向けて北上し、津の岩田口で旧久居・津藩士の鎮撫士族隊と対峙し、ついに19日午後8時ごろに衝突となる。これで小森村(現・津市)の農民2人の死者を含む数人の死傷者を出して退散した。津県庁攻撃は、失敗したのであった。
 県庁攻撃の失敗の後も一揆の一部は活動を続け、19日午後、一隊は奄芸(あんげ)郡林村(旧・芸濃町―現・津市)の学校を破壊し、鈴鹿郡関(現・亀山市)へ進み、他の一隊は再度南下して、午後10時ころから安濃郡大塚村の巡査分屯所、同郡北神山(きたこやま)村の小区扱所などを破壊した。20日午前10時ごろには東観音寺村内の八幡山を拠点にして、近在の村々に動員をかけ、20日夕方には安部村巡査分屯所、草生村副戸長宅などを破壊した。しかし、午後9時頃には連部(つらべ)村内で鎮部隊と衝突し退散した。〔以上の村々は旧・安濃町―現・津市〕
 20日から21日にかけて、闘いの中心は北勢となった。「一身田(いっしんでん *現・津市)・神戸(かんべ *現・鈴鹿市)の参宮街道沿い、関・亀山の東海道沿い、海岸の白子(しろこ *現・鈴鹿市)、さらに四日市にも入り、焼打ちが続けられた。」(『三重県の歴史』山川出版社 1974年 P.220)のであった。この頃から、一揆勢の活動は一段と激烈となった。それは、南勢の一揆とは比較にならない程の激しさであった。
 「四日市では、最初に電信局、続いて扱所が放火され、午前十時頃には一万人に膨れ上がった一揆勢により三重県四日市支庁、南町郵便会所が放火された。この一揆勢がさらに桑名方面に向かったあと、入れ替わりに入ってきた一揆勢により高砂町の県官太田信義の借宅が放火された。人家の密集する高砂町への放火は無差別的なもので、瞬く間に全町を焼き尽くし、遊郭・町家など五八軒が焼失した。一揆勢はさらに築港所・海運会社にも放火したため住民との間で衝突が発生した。翌二十一日にも菰野(こもの)方面から再発した一揆勢が坂部・野田村(*現・四日市市)を通って末永村(*同前)まで進んだが、同日午前七時に富田(*現・木曾岬町)に上陸した名古屋鎮台兵二〇〇人が、四日市の自警団とともに野田村でこの一揆勢を攻撃して散乱させた。」(『三重県史』通史編近現Ⅰ P.52~53)といわれる。
 四日市を焼き打ちした後、一揆勢はさらに東海道を北上し、午前10時ころに大矢知村(現・四日市市)へ殺到し、放火した。ここで一揆勢は囚人50名ほどを随行するように強要し、20日午後6時ごろに桑名へ入った。「桑名では既に午後三時頃から先行の一揆勢による毀焼(きしょう)が始まっていた。本町の小区扱所、南魚町の巡査屯所、船場町の権衡売捌所(*秤・桝などの製造・販売所)、京町の病院が次々と毀焼された。」(同前 P.53)のであった。
 20日午後から21日にかけて、各所から集まった一揆勢は員弁(いなべ)郡内の扱所・屯所・区戸長宅ばかりでなく、各町村の副戸長・用掛(ようかかり)まで徹底して放火攻撃をおこなった。この内の一隊は、さらに岐阜県内へ進むことを決定し、21日午前7時には袖井村(現・桑名市)を経て、岐阜県石津郡境村(現・海津市)へ進んだ。
 三重県から岐阜県内へ進入した一揆勢は、愛知県海西郡前ケ須新田(現・弥富市)へ上陸し(21日午前6時頃)、その後、打ちこわししながら北上して津島に進みさらに東進した所で、名古屋鎮台兵の攻撃を受けて散乱した。だがそれでも一部は、同夜、岐阜県へ向った。
 岐阜県へ進んだ主力は、石津県境村に進入した七〇〇人ほどの一団であった。この一揆勢は戸長・副戸長の居宅を目標にして各村に進入し、諸帳簿の徹底的破壊と村方からの人足動員を行い、抵抗する戸長・副戸長の居宅は直ちに放火した。一揆勢は石津郡太田(*旧・南濃町―現・海津市)で二手に分かれ、一隊は揖斐川を東に渡り、現・海津市を経て安八郡へ入ったが、21日午前四時、土倉村(*旧・平田町―現・海津市)で巡査隊の攻撃を受けて散乱した。石津郡太田から揖斐川西岸を北上した一隊も、22日早朝までに、現・海津市や現・養老郡養老町などで巡査隊や村民の自警団に撃破されて散乱した。
 「伊勢暴動」の参加者のうち、約12万人余が裁判所に送られたが、処罰を受けた者は5万773人で、うち絞首刑1名、終身刑3名(以上、四日市の大矢口懲役場から解放されて一揆に参加した者)、10~5年自由刑45名、3~1年自由刑32名、100~150回の杖罪562名、笞50以上で贖金徴収の者2170名、呵責(叱りおくこと)46692名、無罪放免205名であった。「この年の志摩・紀伊を除く三重県の総戸数は一三万余りであるから、全戸数の三八・七%から一揆参加者が出たことになる。」(『百姓一揆事典』民衆社 P.571)のである。いかに大事件であったかがよく分かる。
 「伊勢暴動」から東海大一揆に発展した闘いは、その規模と激しさから見て、一揆史上最大のものの一つと言える。一揆の主体は、中下層の農民と農業兼業の職人である。初期の南勢などの「歎願」闘争から北伊勢に進出した一揆が官の全面否定を明らかにし、今や闘いは対県令から対地租改正事務局に発展した。この過程で、区長・戸長をになう豪農など改良主義的な中間派は、その階級的性格を露呈し、ついには多くの農民の利害に敵対し、政府の圧政に加担するのが明白となる。茨城の一揆、「伊勢暴動」―東海大一揆は、最後の士族反乱と言われる西南戦争の直前に勃発したもので、地租改正事務局総裁の大久保利通は、1877(明治10)年1月4日、農民一揆と士族反乱の結合を怖れて、3%の地租を2・5%に減額せざるを得なくなった。
 地租改正反対一揆は、政府を打倒し将来社会を展望する綱領を未だ持ち得ぬ段階の闘争ではあるが、江戸期からのお上への歎願闘争の限界を自覚したものとなった。そして、信州の下伊那や越前七郡の闘いなどに見られる地租改正反対闘争は、次の自由民権運動につながるような運動となった。(つづく)