明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊼

 本省むき出しに官の押し付け
  
       Ⅴ 列強に対峙するための近代化

  
(4)地租改正の本格化
  
(ⅰ)地価算定方式の転換はじまる

 壬申地券の交付において、重要かつ困難な点は、「一地一主」の原則の下で所有権者を確定することと、もう一つの大きな問題点は、地価の確定に関することである。
 始めの市街地の地券の段階では、問題は生じなかった。何故ならば、そこでは江戸時代から土地売買は許されており、明治4年12月27日の太政官布告(東京府下への地券発行)により、売買取引の都度(つど)地券を発行し、その際の代価を地券に記載すればよかったからである。だが、明治5年7月の規則改正により、全国一般化になる(農耕地などへの拡大)と、今まで一度も売買されたことのない土地に対しても地券を発行しなければならなくなる。この場合、各持ち主が自己の見解で地価を書き提出する自己申告主義であった。そこには、当然市場価格(もちろん地方によっては未だそれさえも無い場合も存在した)と乖離した地価を書き出すこともしばしば見られた。
 土地売買が稀な地域(全くない土地も含め)の売買価格をいかにして決定するか―これは大いに問題となり、1872(明治5)年7月4日の大蔵省達(第八三号)は、「……尤もその代価ノ儀ハ田畑ノ位(くらい)付けニ拘ラス方今適当ノ代価を申し出させ地券面へ書載致すべく候」(毛塚五郎編『近代所有権』P.55)とした。だが、今度は「方今適当ノ代価」とは何か、その決定方法はどうすればよいか―などの伺(うかがい)が多くの府県から殺到する。
 明治5年8月17日、群馬県の伺に対する大蔵省租税寮(租税頭・陸奥宗睦)の指令(回答)は、「……先ツ公租の甘苦ニ拘らず方今売買の上適当の代価ヲ記載致すべし、尤も総てその土地より一ケ年生スル利益の全額を代金ニ積立て年何朱の利分ニ当り候歟(か)を点検しその地真価を取極め沽券法ニ引き直す方法は追て相達すべく候條照準処置致すべき事」(『基礎資料』【一】)とした。
 回答は、税法改正の具体的手続きについては、将来のことと内示するのみであった。

(ⅱ)地租改正法の成立

 地租制度は、廃藩置県(明治4年7月)後も基本的には旧慣を維持しており、政府が各地の状況に応じて部分的に手直しを進めるが、各地の農民の減租要求に押されて地租額は急激に減少し始めた。各地からは地方官の租法改革要求が政府へ殺到した。こうした事態に対処するため、大蔵省は、明治6(1873)年1月31日付けの達で、地方官会同の開催を通達した。
 しかし、地方官会議の内実は、きわめて複雑なものであった。家禄が完全に無くなっていない段階で、しかも壬申地券も中途半端で、私的所有者が定まらない事案も少なくなく、沽券法案の非現実性(とくに市場経済の未発達な地域)などの諸矛盾に新政府は逢着していた。それだけでなく、秩禄整理で後退を迫られた井上馨らは、その巻き返しのためにも大蔵省の権限を大幅に拡大強化し、大蔵省の下に全国の税法を主掌する体制(府県を廃止し、大蔵省の出張所に変える構想など)の構築を画策した。
 しかし、地方官会同が開催中の「四月二三日に至り、『今日大輔不参ニ付き前嶋密議長代理』という事態が突然生れ、以後殆ど議事ははかどらず、休会同様の姿となっている。ところが五月一〇日にいたって神田孝平議長となり再び開かれるが、議長は……完全に井上(馨)・陸奥(宗睦)の企図を否定し、井上議長下の地方官会議の審議結果をも一切破算としている。」(丹羽邦男著「明治維新と地租改正」―古島敏雄編『日本地主制史研究』岩波書店 1958年 P.287~288)のである。井上らの大蔵省専制の策動は粉砕された。しかし、その後の10日、12日のスピード審議で、地租改正法案は一気に可決された。
 地租改正法は、①「上諭」、②太政官布告第二七二号、③「地租改正条例」、④「地租改正施行規則」、⑤「地方官心得書」(『史料集成』第七巻 P.327~335)から成っている―といわれる。
 ②は、地租改正の目的として、租税の「寛苛軽重」を是正し、税法を「公平画一」にすることがうたわれた。
 ②は、地券の調査が済み次第、地価を決定し、その100分の3(3%)を地租として徴収すると定めた。また従来、官庁や郡村の入費(地方行政費)など、土地に賦課したものについても、地租の3分の1以内を限度と定めた。
 ③は、地租改正は拙速とせず、必ずしも府県単位ではなく郡区でも作業が終わったところから実施するとした。そして、作柄による増減税は行わないこと、物品税(茶・タバコ・材木など)の歳入が200万円を超えれば、地租を地価の1%へ漸次引き下げてゆくこと、改租が終了するまでは従来の税法を据え置くことなどを定めた。
 ④⑤では、地価の決定に至る作業手順などが規定された。とりわけ⑤では、「今調査ノ方法ヲ分ツテ二節ト定ム。第一ハ人民ヨリ差出(さしだ)セル書上ニ就キその当否ヲ検(ただ)シ、第二ハ実地ニ臨ミ人民言フ所ノ実否ヲ検スルニアリ。」(第四章)とする。あくまでも、上からの押し付けでなく、人民の自己申告を配慮するという体裁をとる。
 
(ⅲ)地価査定額の二つの検査例

 官側が地価を承認する際に準拠とすべき査定額の検査例は二つある。そのうちの第一則(自作地の場合)では、収穫米の額から算定する。そのために、田1反での収穫米を1石6斗とし、1石を代金3円として、田1反の収穫米の代金を4円80銭とした。この4円80銭のうちの72銭(全収穫額の15%)を種籾(たねもみ)肥料代として差し引く。その残金4円8銭から地租1円22銭4厘と村入費40銭8厘を合わせた計1円63銭2厘(同34%)を差し引くと、その残金は2円44銭8厘となる。これが自作地地主の取分(同51%)となる。これを地価が生み出した利子(利益)と見なす。そして、仮に市場利子率を6%と見なして資本還元方式で算定すると地価になる1)。その地価額は40円80銭である。この地価額の100分の3(3%)、すなわち1円22銭4厘が地租となる。
 これに対して、第二則(小作地の場合)では、収穫米の68%に当たる小作米料の額から算定する。第一則では、収穫米の代金総額から算定したが、ここでは、小作料(収穫額全体の68%)、すなわち地租・地方費+地主取分の合計から算定している。つまり、地主取分1円63銭2厘と地租・地方費1円63銭2厘の合計が3円26銭4厘となり、これに基づいて算定し、地価は40円80銭とする。但し、この場合の利子率は4%と見なされている。それは、第一則でも第二則でも地価額を同一にさせるためであり、そのため、利子率で調整しているのである。
 だが、第一則でも第二則でも、地租・地方費は全収穫額の34%(1円63銭2厘)となっており、地租・地方費の確保が大前提となっている。高い地価を創出し、旧貢租水準を維持しようとする思惑は、1873(明治6)年12月、大蔵省が起草した「地券税額ヲ原価百文ノ三ニ定ムルコトヲ論定ス」(『史料集成』第七巻 P.337)でも明らかである。
 そして、その論定の別紙「新旧税額比較概計」では、全国3300万石を400万町歩と見込み、このうち貢米1200万石(反米3斗で計算)を1石当り3円として、その代金は3600万円となる。これは、三公七民での計算である(七民は計8400万円)。これら公民の米額を合わせると1億2000万円であり、これが収穫米の全代金となる。ここから、種肥料代15%(1800万円)と地租・地方費の計4080万円(34%)を引くと残金は6120万円となる。これが民の収入とされる。この6120万円に対し、利子率を6%と見なし、計算すると地価は10億2000万円となる。この100分の3は、3060万円となり、これが地券税額である。
 この計算によると、結局、新税額は旧高地で540万円減少するが、「隠田切添ノ類旧反別二割増加ノ見込」によって、差引72万円の増加になると計算している。

(ⅳ)曲折を経て第二則の全面否定

 地価算定の方針は、地租改正事業の実施過程で曲折し変化した。
 暉峻衆三著「地租改正における地価算定をめぐる問題」(宇野弘蔵編『地租改正の研究』下 東大出版会 1958年)によると、「(地租)改正条例発布当時においては算定されるべき地価(*法定地価を意味する)は土地の真価を表示し、売買地価に一致すべきものと考えられていた。」(P.106)ようである。
 そして、「地方官心得」の第十三章は、「自作ノ地ヲ検スルハ第一則ヲ以テシ、小作ノ地ハ第二則ヲ以てテス。之ヲ正例ト定ム。……」(『史料集成』第七巻 P.329)としている。検査例は、自作地は第一則を、小作地は第二則を基本とした。
 さらに、次の第十四章では「小作米ハ地主ト小作人ト相競(あいせ)ルノ間ヨリ出ルモノナレハ、収穫ノ多寡ヲ推知スヘキ確證ニシテ、人民互ニ欺隠スル能(あた)ハサル者タルヲ以テ第二則ヲ適実ノ者トス。故ニ自作地ノ分ハ合計上ニ於テ小作地反別(たんべつ)ノ比例ヲ以テ自作地小作米ノ仮標ヲ設ケ、第二則ニ依リ調査シその当否ヲ見ルノ参考ニ供スヘシ。」(同前)としている。
 ここでは、第二則に対し、大きな信頼を評している。というのは、小作米が地主と小作人の対等なセリでその値段が決められているかのように見なしているからである。だが、当時の市場経済の発展度は極めてバラツキがあり、一部を除き、未だ市場経済は未成熟であった。
 そこで、第二則の検査例を適用した場合に問題が勃発する。第一に、土地の売買、貸借関係があまり発展していない地域では、この方式は効力がないということである。適切な地価を生みだす売買関係がそもそも成立していないからである。第二は、第二則の利子率4%とは小作料(=地租・地方費+地主取分)が収穫の68%を前提としているが、慣行小作料が68%以下の劣等な土地では、第一則によって算定された地価よりも低下せざるを得ない。すると、政府の歳入が旧幕時代よりも減少せざるを得ない。
 さらにより根本的なことは、慣行小作料を生みだした旧幕時代の経済構造は、幕藩権力の政治的規制の下での地主・小作関係であり、土地の貸借や売買関係(流地による)であり、そこでの地価は多分に政治的要素(年貢などの収奪)に左右されていることである。したがって、慣行小作料を基礎とする第二則方式によって地価を算定しようとする政府の狙いには、根本的な問題が内在しているのである。
 現実に実施過程においても、これらの矛盾は露呈する。たとえば、明治7年2月25日の豊岡県伺に対する指令(回答)において、租税寮改正局は「米額一村総計ヲ以て収穫小作米トノ歩合(*割合)ヲ算シ相当ノ小作米ト見据え候節ハ自作地モ隣地小作米の仮標ヲ以テ検査ノ準拠トシ若し小作米不当ナル時ハ渾テ自作の例ヲ以て検査候……」(『基礎資料』【七一二】とした。検査例の適用基準が、小作米の「相当」あるいは「不当」と、極めてアイマイであった。
 それが、明治7年5月31日の小倉県伺に対する指針では、「一村総計上の小作米収穫の三分の二以上〔*小作料が収穫量の三分の二以上〕ニ当り候ハハ小作米を適実見据え第二例ニ照準検査致シ候儀ハ苦しからず候得共三分の二以下ニ当り候ハハ総テ第一例ヲ以て検査致シ候儀ト相心得べき事」(同前 【七二四】)とした。適用基準を三分の二と明確にし、第二則適用に一定の制限をもうけたのである。
 それがさらに、明治7年12月24日に至って、租税寮改正局は新川県伺に対して、「現在自作小作の体裁ニ寄り算出の地価(ちか)差違(さしちがい)ヲ生シ候見込みの分ハ地主小作人の取引上確答ヲ得ざるモノニこれ有るべく候ニ付き総テ収穫ニ寄り地価算出致すべし……」(同前 【七五一】)と指令する。「総テ収穫ニ寄リ地価算出」ということは、第一則を適用することであり、これはまさに、第二則方式の全面的否定に外ならない。
 しかし、第一則の適用といっても、その第一則自身も大きな問題を抱えている。であるが故に、農産物価格、収穫量など第一則を構成する諸要素の変遷が以下のように展開される。(繰り返しになるが、地価〔資本〕×利子率=利子〔利益〕であり、農産物価格や収穫量は〔利益〕確定にかかわる重要な要素である。)
 【種子・肥料代】これは地租改正条例発布時から、15%で一貫している。問題は、たとえ種子・肥料代が生産手段の部分を代表していたとしても、自家労賃部分は欠落していることである。
 【利子率】地価・地租を算定するに当って、利子率は重要な要素であり、かつ調整弁として大きな役割を果たす。検査例の第一則では6%、第二則では4%で算定したが、「地方官心得」の第十九章では、「土地ヲ売買スルヤ各人ノ好悪ニ因リその利分低昻(*低い高い)アリト雖トモ、その差等ノ如キハ概略三分ヨリ六分マテヲ以テ普通トス。故ニ今(いま)地価ヲ検スルノ際(さい)自作地ハ七分利、小作地ハ五分利ヲ以テその極度トスヘシ。」(P.329~330)と定めた。いくら調整弁としても、極端な差等は全国的見地からみて混乱の本と懸念したのか、その「極度」を設定した。
 実際、全国各地からは、税の増徴を手加減する希望が出たのであるが、地価額の低下をおそれる改租当局はこれを強硬に拒否している。そして、利子率は「全国平均では、田で六分一毛、畑は六分三厘となった。」(福島正夫著『地租改正』P.179)といわれる。政府中央の峻厳な態度で、検査例とあまり変わらない程度に利子率は治めたようである。だが、その反面は農民へのしわ寄せがもたらされたのである。
 【農産物価格】1873(明治6)年7月28日の地租改正条例発布時の「地方官心得書」の第二〇章で、「米価ハ従来その地ニテ用ヒ来レル各所ノ相場ヲ推問シ、申し立てノ米価ト照合シその当否ヲ検スヘシ。」(『史料集成』第七巻 P.330)とした。これが1874(明治7)年3月7日の租税寮決議で変更され、「米価ハ管内各所の相場取調着手ノ節ヨリ前十ケ月ヲ平均検査例ニ相用候儀……」(『基礎資料』【七一三】)とした。
 さらに、1874(明治7)年6月10日の大蔵省達で、「既往五ケ年ノ貢納石代相場ノ平均ヲ以テ時価ヲ検査スルヲ允当(いんとう *理に適う)トス。」(『史料集成』第七巻 P.340)とした。それが同年9月5日で、大蔵省租税寮改正局別報第二号達で、「本年五十三号公布(五ケ年間地価据置ノ件)ノ旨アルニ由リ改租地価ノ検査ニ用ユル米価モ亦(また)改租着手以前五ケ年間上中下米平均価格ヲ用ヒ」るべきとした(同前 P.272)。さらに1875(明治8)年3月19日、大蔵省乙第三十六号達は、「改租ニ用ユル米価ハ渾テ〔すべて〕(明治)三年ヨリ七年迄ヲ限リこの五年間ノ平均相場ヲ用ユヘシ。」(同前 P.273)とした。目まぐるしい程の変遷である。
 【収穫量】収穫をどのように捉えるかについて、「地方官心得書」では全く明確な基準がなかった。1874(明治7)年9月、租税寮別報第三号達が出され、ここで初めて一定の基準が示された。それによると、「一 田畑ノ植物二作三作スルモノアレトモ改租ニ用ユル所ノモノハ本毛一作ノ収穫ヲ精確ニ提査シ以テ準拠トスヘシ。……」(同前 P.269~270)とした。しかし、1875(明治8)年5月、「本局別報第一号達」は、「向(さ)キニ別報第三号達ノ旨アレトモ元来二作三作スル地ハその地味上等ニ居リ、若シ之ニ一作ノミヲ植レハ多量ノ獲物(えもの)アルヘキハ必然ナルヲ以テ善(よ)ク之ニ注意シその地味相当ノ獲量ヲ調査スヘシ」(同前 P.270)と改められた。地味が上等なので「精確ニ提査」する必要もないというのである。あるべき収穫量は一層観念化された。
 はじめ一村内で土地の等級が編成されると、必然的に全地域にわたって平均化・公平化をはかる勢いとなる。それはやがて村等、区等、郡等、国等にまで発展せざるを得なくなる。そして明治8年7月8日、「出張官員心得書」に規定される地位等級の体系が生み出されてくる。それによると、「地租改正条例細目」の第四章「耕地収穫検査ノ事」の第一条は、「収穫ヲ検査スルハ先ツ一国一郡ノ旧法公民引分(ひきわけ)ノ歩合ヲ概測シ平均一反歩ノ収穫ヲ算出シ、猶(なお)篤(とく)ト実際ニ渉(わた)リ小作米ノ多寡ヲ探偵シ検見坪刈籾等彼是(かれこれ)ノ平準ヲ参酌シ一区一郡上ヨリ全管一反歩ノ平均収穫ヲ予算シ調査ノ目的ト為スヘキコト」(毛塚編『近代所有権』 P.85)とした(「全管」とは改租単位をいう。ふつうは県である。)。
 ここに現れた考え方は、「中央において全国各府県の収穫・地価を概定し割当て、府県では村および村内各地の等位を決定し、これにより収穫・地価を村ごとに計画どおり定めるという方法である。」(北島正元編『土地制度史』Ⅱの第十章「地券の発行と地租改正」〔福島正夫執筆〕P.241)のである。
 1875(明治8)年7月頃からは、明確に地租改正の実施方針は転換し、官の上からの地価算定を各県に押し付けるようになる。
 
(ⅴ)上から押し付ける改正事業へ転換

 「地租改正条例」の公布後、ほぼ1年半を経た1874(明治7)年12月、租税頭・松方正義は「地租ヲ改正スル原由ヲ太政官ニ稟明(りんめい *明らかにするよう申し上げること)ス」(『史料集成』第七巻 P.342~346)を上申するが、その中に別紙「地租改正増減表」が添付されている。その表によると、旧税合計が3735万5703円に対して、新税合計は3351万7462円と見込まれ、差引の383万8341円減収と予想されている。これにカットされる額外の旧収入206万5000円を加算すると、通計590万3341円(旧税の15・8%)の減と見立てている。
 この頃から大蔵省租税寮は、地方の個別事情に配慮した地租改正が困難となり、明治7年末には、第2則の適用を全面的に否定するようになる。官の危機感は大幅に募り、反人民的な本性がむき出しとなる。
 1875(明治8)年3月24日の太政官達で、地租改正事務局が設置される。事務局はこれまで地租改正事業にかかわっていた大蔵省と内務省の関係者によって担われたが、内務卿・大久保利通を総裁に、大蔵卿・大隈重信を御用掛に任じた。事務局は省に準じ、地租改正事業に関する一切の権限を行使するものであった。事務局は、強力な陣容を整えて、改正事業を上から農民に押し付けるにふさわしいものとなった。(つづく)

注1)「利子生み資本の運動が確立している下においては、定期的、継続的に入ってくるあらゆる所得は、……利子を生む資本の果実とみなされて、その背後に利子を生む資本の存在が想定されることになる。このような資本を擬制資本とよぶ。その大きさは当該の所得を市場利子率で除することによってえられるが、この算出操作を資本還元または資本化」(『経済学辞典』岩波書店 P.691)といわれる。代表的な擬制資本は、公社債価格、株式価格、土地価格などである。