明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊻
  私的所有制確立途上の諸矛盾
                    堀込 純一


   Ⅴ 列強に対峙するための近代化

  (4)近代的な私的所有制への転換

(ⅲ)壬申地券交付による諸矛盾の露呈

 壬申地券の交付から地租改正事業の完了までの間には大きくいって、3つの画期がある。それは、(1)壬申地券交付期(明治5年7月~)、(2)地租改正期の前半(明治6年7月~)―在地事情に委ねた時期、(3)地租改正期後半(明治8年5月~明治14年)―中央政府の主導する時期である。ただし、(2)のうちの1874(明治7)年3月が、壬申交付事業が中止になり、地租改正事業へ本格化する分岐点となることを留意する必要がある。(渡辺隆喜著「地租改正の進行と農民の動向」―郷土史研究講座6『明治前期郷土史研究法』朝倉書店 1970年 による。)
 1871(明治4)年9月、大蔵卿大久保利通・大蔵大輔井上馨の連名の「地所売買放禁分一収税法施設の儀正院伺」(『明治前期財政経済史料集成』〈以下、『史料集成』と略〉第7巻 P.307~308)は、新法(壬申地券に発展する)について、「先ツ以テ地所永代売買ヲ許シ、各(おのおの)所持地ノ沽券ヲ改メ、全国地代金ノ惣額ヲ點?(点検)シ、而後(じご *今から後)更ニ簡易ノ収税法ヲ設ケ、……」とその目的を明示している。
 しかし、壬申地券の発行・交付は、当面、まず何より落地・隠田のないように注意して全国の民地を点検すること、次にその土地所有者を確定することを目標にせざるを得なかった。何故なら旧幕時代の年貢は、一応検地に基づくとはいえ、政治的に決められた高に依っており、また隠田など未登録の田畑も全国各地には存在していたからである。そして、新政府は、壬申地券の発行にあたって、新たな原理によって、近代的な所有制に改編することを目指した。
 その原理とは、「第一に、一地一主の原則である。一地一主とは、各筆の土地にはそれぞれ単一の所有者が確定されることをいう。この単一とは、記名共有や村持(むらもち)もふくまれ、広義ではあるけれども、要するに原則として個人所有の確立を要求するものである。つまり、納税名義の個人主義的確定を目的とする。……次に、それでは複数の権利者のうち誰を唯一の所有者として選択するか。この問題に対して新政権のとった根本態度は、おおむね上級所有権者に地券を附与することである。すなわち現実に土地を占有利用している直接的生産者ではなく、その上から支配し、それから得分(*収益)を徴収する者である。ただ版籍奉還の問題があるから、封建的な土地領有者は除外される。」(福島正夫著『地租改正』吉川弘文館 1968年 P.103~104)のであった。
 
    〈土地の所有権者は誰か〉

 ところで、壬申地券は既述のように、土地売買の有無にかかわらず一般に全国で交付されるとした(明治5年7月)が、同時に、同年10月までに地券発行を完了するように、各地方に通達した。しかし、これは現場を知らない官僚の発想であり、翌年7月末に至っても、地券附与は全国の半ばにも達していないのが現実であった。
 その理由は、実にさまざまであったが、その主なものを列挙すると、以下の通りである。
 
 〔「分割所有地」の場合〕
 三潴県(みつまけん *旧柳川藩。現・福岡県の筑後川地方)の有明海沿岸では、領主―地頭―鍬先主―野主―直接耕作人(小作人)という重層的な所有構造をもってきた。地頭は藩に対する開拓許可出願者であり、鍬先主は開拓資金の金主あるいは開拓の労力支出者であり、野主は干拓地での葭(よし)の栽植者である。この構造は中間収奪者が三段階も存在し、小作人も含め「一地四称」と呼ばれた。総面積は1669町歩にのぼった。
 三潴県は地券交付について困り果て、1874(明治7)年6月、「地券中地価記載の個所に内訳をつけ地頭・鍬先・野主に分記し、地券の持主名義は地頭とするようにしたいと提案したが、政府はこれを拒否し、単に地頭の名義で地券を発行するよう指示した」(福島正夫著『地租改正』P.233~234)のであった。
 これには権利を失った鍬先人の不満が爆発し、「鍬先騒動」が勃発した。鍬先人たちは法廷に訴え、あるいは数年に渡って地頭への余米を納めずに抵抗した。これに対し、地頭側は土地の引揚げ、耕作の実力阻止で対抗した。1876(明治9)年5月、三潴・山門両郡の鍬先人975名は連署して、県庁に嘆願書を提出した。
 当時たまたま同県へ出張に来ていた地租改正事務局の中野武営が仲裁にあたり、“鍬先人にも権利を認めて一方が土地を買い取るか、あるいは現地を分割するか、それとも旧慣を維持するか”の三案を提示した。しかし、問題は容易に解決しないで、大方の解決には明治30年頃まで時間を費やしたといわれる。
 このほか二重所有権は、その面積は少ないとはいえ、広く全国各地に存在したと言われる。たとえば、土佐藩では長曾我部の遺臣懐柔策として特殊な土地制度を設け、同一の土地に対して、郷士には底土(そこつち)の権利(上級所有権)を、百姓には上土(うわつち)権(下級所有権)を与えた。上土は底土に対して二倍の代価であったといわれる。
 このような二重所有権問題に対しては、政府の方針は「第一に、土地の開墾名義人を持主とし、これのみを地券に記載する。ただしもしそれが領主(大名あるいは知行取家臣)であれば、封土奉還のゆえに持主とはせず、耕作者を持主とする。/第二に、もし百姓が地底銭を出し、または力役をしていて、単に名義人とするに対して不服あるときは、土地分割等協議で方法を講じさせる。」(福島正夫著「地券の発行と地租改正」―北島正元編『土地制度史』Ⅱ山川出版社 1975年 P.234)というものである。
 
 〔永小作地の場合〕
 永小作は、新田開発での二重所有権のケースだけでなく、普通の小作でも20年以上継続した場合には認められてきた。つまり、永年にわたって同一人物が同じ土地を耕作してきたため、その土地につぎこんだ労力があまりにも蓄積し、簡単には貸主が借主を変更できない関係に立ち至っているのである。
 明治7(1874)年9月、愛知県から、「管内小作人ノ内ニハ郷風ニテ鍬先徳分ト唱え、従前地所預リ候以来地味ヲ直シ或(あるい)ハ連々切添(きりそえ *自分の所持地の地続きや周辺の土地を開拓すること)等致シ」て収穫が増加しても小作料は引き上げず、小作権の売買ができるものがあり、なるべく土地を分割させたいが、協議不調のものは、地主・小作人双方所有として地券は地主に渡したい―との伺いがあった。
 これに対し、大蔵省租税寮は、「地主・小作人所有の権利判然致さざる分ハその原由(げんゆう)并(ならびに)慣習トモ詳細に取調べ、内務省へ伺い出て、共有・私有の別判然と相立ち候上なお伺い出るべき事」と指令している。(『明治初年地租改正基礎資料』〈以下、『基礎資料』と略〉【七三一】を参照)
 
〔割地制の場合〕
 割地制度とは、諸藩の領有制下の村内の土地を一村で共同管理し、一定の公平な基準で分割し、その用益権を百姓に一定の期間ごとに分配し、或いは災害によって不平等が生じた時、保有地を(持分地)を割り替える制度である(個人の持高は定まっているが持地は固定されていない)。ただし、生産物は諸個人の私有である。割地制度は、近世の加賀・能登・越中・越後・尾張・美濃・常陸・岩代・肥前・豊後・沖縄などにみられた。
 1872(明治5)年8月29日、石川県伺は、当県では旧来から割地制度をとっていると述べ、地券渡方の規則通りには施行しがたいので評議を遂げた結果、「従来(じゅうらい)下タ方(しもタかた)ニ於て取扱い居り候万歩帳と唱へ田地割替の節(せつ)銘々鬮(くじ)当りの地所ならびに歩数を記載致し候簿冊これ有り、……大体実地の詳細ヲ得ルモノト存じ候ニ付き、券状相渡し候節ハ今日まで持ち来り候(そうろう)地所を以て永代の持地と定メ、且(かつ)歩数ハ村々〔に〕於テ取極め候分と雖もこれを證拠(証拠)と致し、……若し万歩帳の割合等不都合(ふつごう)の向きこれ有り候節ハ地所検査の上(うえ)相改め申したき旨」(『基礎資料』【一一】)と上申した。これに対し、大蔵省租税寮改正局は、「書面申し立ての通り相心得(あいこころう)べき事」と了承した。
 しかし、新潟県では現実に、「纔(わずか)壹反歩の地ニても四十五十或(あるい)ハ百二百ニも引分れ所々ニ散在致し殊(こと)ニ年限を定め割替も致し候儀ニて、右を悉(ことごと)く図面ニ記し候節ハ百石貮百石の小村ニても数万の番号ニ相成り候……」(『基礎資料』【一二三】)という状況なので、とても規定通りの地券交付はできないと申し出る。
 そして新潟県では具体策として、「……尤も壹人別持地その実地ハ所々ニ散在致し居り候得共(そうらへども)帳記ニてハ一筆宛てニ相成り居り、実地と帳記合計ニてハ〔*一人別の合計所持反別では〕聊かも相違これ無き……」ようにして、「……追て割替の節ハ地券書替(かきかえ)」することにしたいと伺が出される。これに対し、租税寮改正局は、あくまでも「割地の儀ハ今後廃止の積り相心得べし」と、県の伺を拒否した。
 割地制度の廃止状況は資料不足でよく分からないが、新潟に残された資料によると、飛びぬけて多い大字数177をもっていた西蒲原郡は地券交付時の明治8~9年に145の大字(おおあざ)で廃止された(81・9%)。古志郡103の大字は同様に地券交付時に30の大字で廃止された(29・1%)。しかし、割地制度は簡単には一掃しえなかった。地券交付前と1928(昭和3)年とを比較すると、西蒲原郡177→17、古志郡103→10、三島郡66→13、中・西頸城郡49→0という状況である。(丹羽邦男著『形成期の明治地主制』塙書房 P.214)
 
〔質地の場合〕
 質地については、地券は質入主の名義で附与されるべきか、それとも質取主名義であるべきか―が問題となった。江戸時代は田畑永代売買が禁止されており、流地の形式により売買となった事例も多かったから全国的に紛争が生じた。しかも、地方によっては中世以来の本銭返し(本物返し)のように、期限無くいつでも代金を返済しだいで土地を取り戻せる慣習も残り、きわめて複雑な事情が存在した。
 丹羽邦男氏によると、司法省は、1873(明治6)年1月16日、磐前(いわさき)県伺に対する次のような指令を掲げ、この方針を全国的に適用することを明らかにした。それは、①質地証文中に、年季明(ねんきあけ)に請け戻さないときは流地(*質流れ)にすると書かれている場合は、年季明より二ヶ月の内(うち)に訴え出れば、「請戻サスヘシ」、②流地文言(もんごん)が無い場合は、年季明より十ヶ年の内(うち)に訴え出れば「請戻サスヘシ」、③年季に限(かぎり)が無く金子(きんす)有合(ありあわせ)次第請け戻す旨の証文の場合は、質入より十ヶ年迄を限りとし、十ヶ年以上の質地は期限に至って訴え出ても「流地タルヘシ」―というものである。(同著『形成期の明治地主制』P.177)。
 これには大蔵省も同調している。この方針は当面のものであるとみられるが、旧幕府領にみられた質地慣行に関する法制に基づいたものである。しかし、全国にはこれとは異なる質地慣行が数多く存在していた。だが、旧幕臣の多くが下級官吏として出仕していた新政府は、旧幕府以外の旧藩に存在した質地慣行を無視したのである。
 さらに1873(明治6)年1月17日、大蔵省の主導の下で、「地所質入書入規則」が制定公布された。同省は、フランス民法を参考にしつつ、この原案をすでに明治5年9月には完成している。
 江戸時代、質入(しちいれ)は、動産・不動産を問わず担保物を金主(債権者)に引渡すことで成立した。その形態は種々あるが、中には中世以来の「金子有り次第」の返済で請戻しできる無期限のものも地域によっては存在した。
 これに対し、書入(かきいれ)は、担保物を引渡さず単に証文にその物を書入れるだけで借金が成立した。名主の加印も必要なく、借主(債務者)が債務を弁済しない場合、普通の借金以上に公権力から特別の保護はなされなかった。
 だが、旧幕時代は、田畑永代売買が禁止された下での質入であり、1742(寛保2)年の「公事方御定書」では①年季明10年を過ぎた質地は流地、②年紀期限が無く、金子有合(あわせ)次第請戻すべき証文がある場合でも、質入年より10年過ぎると流地となった(結果として、売買と同様になる)。このように旧幕時代の質入は、土地金融と土地売買が未分化であった。
 この点、新政府では1872(明治5)年2月に、田畑永代売買禁止が解禁となった。このため、「地所質入書入規則」の質入・書入は、旧幕時代とさほど変化がないように見えるが、地所売買が許可されたので、実際は新たな質入は、純然たる貸借に変わって、近代的金融形態に変化したのである。なお、新たな質入では、地券が借主(地主)から金主に渡され、代わりに地主は預り証をとることとなった(書入の場合は地券を渡す必要はない)。土地を金主に渡すか否かは相対で決める。質入期間は、3年を限るとされた。また、質入・書入の証文は、町村戸長の奧書・証印が必要である。
 そして、同規則は、六か月後の7月31日までに、質入書入契約を同規則通りのものに更改するように強制している(同規則第一四条)。すなわち、旧時代までの「本銭返し」(「本物返し」)のような「金子有り次第の請戻し」が無期限に肯定されることは禁止されたのである。また、「この法律(*質入書入規則)以後次第に書入が増大し、とくに国立銀行など銀行業の発展とともに金融上この公証による抵当制度が活用されたことは、金融市場もみのがせない重要な事柄である。」(福島正夫著「明治土地制度の法的形成」―『土地制度史』Ⅱ P.266)と言われる。
 「地所質入書入規則」の公布にともない、維新政府は質地に関するとりあえずの対処方針を変更する。すなわち、1873(明治6)年2月14日、土地永代売買解禁布告(明治5年2月15日)以後に締結された質地契約から生じた訴訟は、「糴売(せりうり)ノ手続ヲ以テ済方(すませかた)」を申し付け、それ「以前取引ノ質地ニテ年季明(ねんきあけ)受戻さざる時ハ従前ノ通(とおり)流地タルヘキ事」(太政官布告五一号)が布告された。

〔村持地・庄屋役地の場合〕
 旧幕期には、林野・田畑・宅地・溜池・墓地・郷蔵などに村持地が至る所に存在したといわれる。たとえば田畑・宅地では、欠け落ちや家系死滅の際に新たな後継者を見出すことができないと、村持地とした。そして、村が納税などに責任をもった(村請制のため)。
 一地一主の原則からすると、村持地は矛盾する。そこで、払下げを前提として公有地券を発行した。その場合、地券の名請(所有権の名義)は、①「一村総持」「一村共有」などの表現で、村持の意味を示した、②村内の権利を持つイエの戸主全員の連名共有を示した、③代表者の個人名義で示した、④連名共有の場合、個々の権利者の相続の際に手間がかかるという理由で共有を暗示する架空の名義で示した―などである。だが、とりわけ③の個人名義の場合では、その個人が勝手に土地を処分して、紛争になったケースもある。
 旧幕期においては、庄屋・名主に対しその職務に応じて、給田がなされた。これは多くの地方で見られた。1872(明治5)年4月、江戸時代の庄屋(名主)・年寄などが廃止され、旧来の郡村と関係なく行政区画を作り、大区に戸長、小区に副戸長などが設置された。そして同年7月、全国一般に地券交付に際して、各地で紛争が生じた。
 その論争点は、庄屋役地が元庄屋の私有地か、それとも村民の共有地か―である。大審院の判決では、地方官の処分によるべしとするものや、行政官は干与すべきでなく司法官の職権にあるとするものなど、結果はまちまちであった。
 
〔入会林野の場合〕
 かつての封建領主は、「一枝を切る者は首を斬るべし」の言葉に代表されるように、山林を厳格に管理した。ところが新政府はこの政策とは正反対で、一挙に封建的制限を撤廃し、壬申地券の発行によって自由な民営に移そうと考えて、果敢な払下げ方針を採った。すなわち、大蔵省は、1871(明治4)8月、「荒蕪地不毛払下規則」を布達し、入札制により不毛地を払下げることにした。ついで地券発行となり、翌年6月15日、大蔵省は「官林無制限払下げ」を布達した。しかし、これには一部の投機家のみが飛びつき、諸街道の並木の多くが濫伐され、水源林の保存も危うくなった。
 そこで大蔵省は、地券渡方規則の改正を明治5年10月30日に達し、村持の山林郊原でその地価が定め難き土地は、券状に字(あざ)反別(たんべつ)のみを記し、旧来からの貢額を記シし、「何村公有地ト記シその村方ヘ相渡し置くべき」(第三十四条)とした。両村以上数村入合(いりあい)の山野はその村々を組合として第三十四条と同様の仕方を以て「何村何村ノ公有地ト認メ券状渡し置くべし」(第三十五条)とした。ここでいう公有地とは、純然たる官有でもなく、そうかと言って完全な私有地でもなく、いずれ解消されるべき過渡的な地種とされた。
 だが、一部の例外1)はあるが、明治6年7月の地租改正法の発布以降、政府はこれまでとは正反対の政策方向をとる。1873(明治6)年7月20日の布告によって、前記2つの払下法の実施を停止させた。明治6年9月の達では、全国官林(*幕藩有林は一律に官林とされ、地券発行から除外されていた)の調査を明示、旧時代と同様に峻厳な取締りがなされるようになった。
 そして、1974(明治7)年11月7日の地所名称区別改正布告で公有地の廃止とし、また同日、官民区分の太政官達が発せられる。後者の目的は、言うまでも無く、「……不明確な権利関係の林野をできるだけ多く官地に編入しようとしたことである。かくて村民の抵抗は必然的に生じ、その結果、官民有区分は、その全過程において、権力対農民の対抗がきびしく、後年にまでその影響を及ぼした」(福島正夫著『地租改正』P.210)と言われる。
 地租改正事業の結果、「旧山林・原野の面積は六五万五六三三町歩であったのが、新面積は七六三万三六一四町となり、約十一倍強に増大した……。地租の方は、旧貢租の一六万一六四七円に比べて、新地租は七四万一七三一円に伸び、百分の三の租率によると五倍弱の増徴となった。なお、官有林の比率は、明治十三年度は全国林野総面積の三一%を占めた。その後、明治二十三年度の地押調査終了時点において、全国林野総面積の五三%を占めるに至った。」(『富山県史』通史編Ⅴ近代上 P.146)のである。農民の激しい抵抗闘争を押さえての、収奪によるものであった。(つづく)

注1)明治6年12月27日に、太政官布告「産業資本のため官林荒蕪地払下規則」が発布され、還禄士族に対して官林等が官禄公債によりしかも低下で払下げられた。だが結局、1875(明治8)年6月に至り、ようやく払下げ方針は廃止された。