明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊺

 幕藩領有制の解体から近代私有制へ
                           堀込 純一


         Ⅴ 列強に対峙するための近代化

    (3)藩債・藩札処分の引受けと秩禄処分

 近代的な中央集権国家と私的所有制の構築にとって、その主眼点は①幕藩領主制の解体と、②土地改革にあった。

 (ⅰ)過渡期の諸藩統制と藩債の処分

 1869(明治2)年1月20日、薩長土肥の4藩主が版籍奉還を上奏し、同年6月17日、朝廷はこれを許可し、諸藩主を各藩知事に任命する(知藩事〔=旧藩主〕は非世襲の職務)。過渡期としての府藩県三治体制の確立である。そして、公卿諸侯を華族と称した。同年4月27日、維新政府は府藩県に5年間の租税平均額および諸経費の上申を命ずる。
 明治2年9月10日、維新政府は藩政改革を布告し、藩制の画一化を図る。同年12月2日には、禄制を定め、藩士の俸禄(*給与)を削減する。そして、士族および卒の称を定める。
 1870(明治3)年2月22日には、維新政府は府藩県に外債起債の禁止を布達し、諸藩の財政枠組みを規制し、同年9月10日には、ついに諸藩に対し藩制改革を指令する(「藩制」布達)。
 藩制改革の主な条項は、藩の役職の統一と財政規制などである。前者では、諸藩を大(石高15万石以上)、中(5万石以上)、小(5万石未満)の三つに区分し、藩庁には知事の下に、大参事(2人以内)・権大参事(便宜による)・少参事(5人以内)・権少参事(便宜による)を置いて、藩の政務をとらせ、大小の属(ぞく)、史生(しせい)を事務官とした。
 後者では、①石高の1割を知事家禄とし、残り9割のうちの1割を海陸軍資金とする。その半分は海軍資として政府に上納し、残り半分は藩の陸軍資とする。そして、残った部分で藩の政務諸費、士族・卒の禄にあてる。②藩士族の禄の増減は、中央政府の許可を受ける。③藩債の償却は、藩の政務費からのみでなく、知事家禄、士・卒禄からも一定率を充てるべし。④藩札の引き替え計画をたてるべし―とした。
 1871(明治4)年7月14日、廃藩置県の詔書が発せられるが、この時、「御沙汰書」も発せられ、諸藩発行の藩札の回収消却を新政府がすべて引き受けることとした。また、同年12月19日には、藩債も新政府が引き受ける方針を示している。(丹羽邦男著『明治維新の土地変革』御茶の水書房 1962年 P.161)
 また、各藩の負債の調査報告も命じられた。同年10月には、旧藩の負債償還のメドが立つ府県では、各自で償還して差し支えないとしたが、同年12月には、これを停止して中央政府が統一的に処分すると布告した。
 1872(明治5)年2月、政府は藩債の処分法の大綱をたてた。「それによると、幕府が諸藩に貸与した……〔ものは〕、一切棄捐(きえん *すっぱりとすてること)することとし、静岡、斗南、仙台をはじめ維新で一度廃藩となり後に復活したもの及び維新後に藩屏に列せられた諸藩は立藩以降の藩債のみを公債に認めることとした。さらに仝(同)年三月には藩債調査後の処分法を定めて、天保一四年(*1843年)以前の『古借』は悉皆(しっかい)棄捐し、弘化元年(*1844年)より慶応三年(*1867年)までの『中借』は無利息五〇ケ年賦、明治元年(*1868年)以降の『新借』は二五ケ年賦、三年据置年四朱の利息とした。……」(関順也著『明治維新と地租改正』ミネルヴァ書房 1967年 P.107)のである。
 だが、各府県からの調査の報告では、藩債の実態は極めて複雑で全部の調査完了を待っていられないので、まず東京府から藩債処分を実行することとし、前述の処分法を明治6年3月、太政官布告八二号として公布した。
 結局、「維新政府は、旧藩支配権を引継ぐにあたって、藩債七八〇〇万円、藩札四七〇〇万円~九千数百万円、計一億二五〇〇~一億七千万円の旧藩負債のうち、引継いだのは、新旧公債二四〇〇万円と藩札交換高二三〇〇万円、外債三六〇万円、計五一〇〇万円、新旧公債を時価換算すれば三五〇〇万円となり、二八~二〇%を引継いだにすぎない。一方、旧幕藩から引継いだ資産は、準備金、残金九〇〇万円、賦課過料上納金四〇〇万円、各種財産払下(はらいさげ)代金六〇〇万円、計一九〇〇万円、ほかに鉱山・造船所・工場・造幣寮などの現物資産があり、こうした点からみれば、維新政府は旧体制を妥協的に解消したために、重い負担を負ったとはいえず、むしろ無償解体に近いのである。」(中村哲著「領主制の解体と土地改革」―『講座日本歴史』7 近代1 東大出版会 1985年 P.145)といわれる。

 (ⅱ)政府内の対立・妥協を経て終に家禄処分

 維新政府は財政の窮迫に追われ、旧体制の遺物ともいえる家禄の整理に力をいれた。「……幕末の家禄総計一三〇〇万石が(明治)二年には九〇〇万石に削減され、四年七月廃藩置県当時の取調高では届出元高六六九万石を四九二万石とし、金銀支給高も大幅に削除している(「秩禄処分録」一覧表―『明治前期財政経済史料集成』〔*以下、『史料集成』と略〕第八巻)。かくて、廃藩置県当時の家禄取調高は幕末に比較すれば五分の二以下に減少したことになるが、そのうちには禄制改革(*新政府は明治2年の版籍奉還直後に改革を布達している)による削減の外に幕府及び廃滅諸藩の家禄切捨や帰農商者の奉還禄等も含まれている。」(関順也著『明治維新と地租改正』P.118)といわれる。その後維新政府は、明治4年の廃藩置県から明治9(1876)年8月の秩禄処分までの間にも、数度にわたり家禄を削減している。
 1872(明治5)年2月、岩倉使節団が条約改正交渉のために欧米に派遣された間の留守政府において、大蔵大輔・井上馨らによる家禄減却計画が廟議で内定をみた。これは外債3000万両を募集し、これをもって華族・士族・卒の家禄を処分するというものである。維新政府は、明治2年の版籍奉還の際に、華族・士族・卒に、江戸時代の俸禄に代えて家禄(世襲性の禄米)を与えた。また、戊辰戦争などの軍功や王政復古の勲功に対して、その論功行賞として賞典禄を与え、現米を支給した(高一石に付き実米二斗五升)。この両者は、廃藩置県以後も継続して支給されたが、その規模は財政支出の約三分の一に達し、政府にとって大きな負担となっていた。
 しかし、井上案は岩倉使節団や国内の保守派(旧領主らの地主化を図る)などの反対に直面する。これにより、井上―大蔵省ラインは孤立し、井上は譲歩・後退するが、結局明治5年5月7日、井上は辞職に追い込まれる。
 1873(明治6)年1月10日、政府は徴兵令を布告する。同年7月28日には、地租改正条例を布告する(後述)。徴兵制の施行は、士族の常職を解くことを意味し、地租改正の実施とともに領主・武士階級の土地領有制を廃止させた。このことは、財政を圧迫する禄制を存続させる論拠をなくし、大蔵省内部などでは家禄廃止論が高まった。
 すでに政府は、明治4年12月、官職者以外の華士族が自由に農工商の職業につくことを許可している。明治6年には、士族在籍のままに農工商につく措置がとられ、希望者には就産資金の下付や、農牧業のための官有田畑・荒蕪地・山林を地価の半額で払下げている。しかし、その多くが失敗している。
 政府部内で再び禄制整理が進捗するのは、征韓派が下野した1か月後の1873(明治6)年11月からである。同月26日から正院で秩禄処分についての討議がなされ、大隈提案の家禄税創設、家禄奉還制度のうち前者が可決され、12月12日には後者も決定された。
 これらは、政情不安定のために暫定案であったが、その内容は以下のものであった。「(1)家禄・賞典禄……一〇〇石未満の者を対象に、家禄奉還制度をつくり、希望者に対し産業資金として永世禄は六年分、終身禄は四年分を公布する(*明治7年11月には、100石以上にも拡大される)、(2)陸軍費にあてる名目で家禄に累進税を課し(最高三五%から最低〇・二%まで)、全体で家禄支給額を約一割減らす」(中村哲著「領主制の解体と土地改革」 P.146~147)、というものである。
 木戸孝允は家禄税制に反対し、岩倉具視は逡巡するが、西郷隆盛・板垣退助らの征韓派が去った政府内では秩禄処分の傾向が増大し、もはやこれを押しとどめることはできなかった。
 家禄奉還制については、生活に困窮する士族の出願者が続出し、用意した資金では賄いきれず、1875(明治8)年7月14日、この制度は中止される。また、政府は同年9月、家禄・賞典禄を定額金給に切換えた(これを金禄という)。
 1876(明治9)年8月5日、政府はついに金禄公債証書発行条例を公布し、華士族への家禄支給を全廃した(これを一般に秩禄処分という)。すなわち、布告は「家禄賞典禄ノ儀永世一代或ハ年限等ヲ以テ給与これ有り候処(そうろうところ)、その制限ヲ改メ、来明治十年ヨリ別紙条例(*全7カ条)ノ通(とおり)公債証書ヲ以テ一時ニ下賜候条、この旨(むね)布告候事」(『史料集成』第八巻 P.405~407)とした。
 (別紙)によると、永世禄の者は、金禄元高(賞典禄がある者は家禄に合計する)千円以上は11級に分けて元高の5カ年分~7年6カ月分に相当する額の五分利(1年あたり。以下同じ)公債証書を、同じく百円以上は13級に分けて元高の7年9カ月分~11カ年に相当する額の六分公債証書を、同じく百円未満は6級に分けて11年6カ月~14カ年に相当額の七分利公債証書を支給することとした。終身禄の者は、永世禄の半額とし、年限禄の者は、禄の長短によって6級に分けてそれぞれ永世禄の十分の一・五~十分の四を支給することとした(第一條)。
 そして、「この公債証書ノ元金ハ五箇年間これヲ据置キ、六箇年目ヨリ大蔵省ノ都合ニ因リ毎年抽箋(ちゅうせん)ノ方法ヲ以テ之(これ)ヲ消却シ、都合三十箇年間ニ悉皆(しっかい)之ヲ消却すへし。」(第六條)とした。
 この(別紙)によると、一見して上薄下厚かのように見えるが、五分利付き公債の受給者はほぼ旧大名・家老および公卿層であり、その数519名は全体の0・2%であるにもかかわらず、受給額は総額の18%に上り、一人当たり平均6万円以上になっている。これに対し、六分利付き公債の中級武士でさえ、平均額は1628円であり、受給者全体の83・7%を占める下級武士(七分付き公債)に至っては一人当たりわずか415円にすぎなかった。下級武士の場合、年利子平均額は29円5銭であり、日割りにして約8銭である。明治10年の男子の最低日賃銀(東京)が22銭であったから、その約三分の一であった。大多数の旧武士の没落は、必至であった。

     (4)近代的な私的所有制への転換

 列強に対峙するための新たな中央集権国家の構築にとって、新たな租税制度の創出が急がれた。
 封建的貢租制度を基本的に変えようという論議は、江戸期の終末時まで、いずれの方面からも提起されていなかったようである。版籍奉還前の明治2(1869)年5月頃、朝廷の公議機関である公議所で議論が始められた。
 そこではさまざまな主張が出されたが、桜井藩(今日の千葉県に属す)議員・近藤門造の「禁止田地売買の議」は、きわめて復古的なものであった。しかし、「他の案は大なり小なり現状に対する改革案であった。多くは、従来地租をまぬがれていた町地(まちじ)にも課税し、農民の負担と町人のそれとバランスをとるようにしたいと主張した。」(北島正元編『土地制度史Ⅱ』〔山川出版社 1975年〕の第二編近・現代〔福島正夫著〕 P.217)といわれる。
 そのなかで破格の意見を提出したのが、神田孝平(美濃国出身)である。神田はペリー来航を機に蘭学を学び、幕府の蕃書調所の教授を務め、維新後は新政府に出仕した人物である。彼は明治2年4月、制度寮准撰修(今の法制局参事官)に勤めていた時、公議所に「税法改革の議」を提出して、「旧来ノ税法ヲ廃シ田地売買ヲ許シその沽券(こけん *売渡し証文)値段ニ準シテ租税ヲ収メシメテハ如何(いかん)」とした。
 そして、翌明治3(1870)年7月には、「税法改革の議」をさらに詳しく述べた「田租改革建議」を集議院に提出している。その要点は、①田ごとに役所の公印ある沽券を作成し、それに所有者の申請にもとづく価格を記載する。②沽券の所持によって、土地所有の証(あかし)とする。③納税は、この沽券地価に対して一定率の税金を府県の官庁に対し、各所有者から納入する―である。
 神田孝平の建議の特徴は、第一に、新たな租税制度の確立によって、「扨亦(さてまた)政府蔵入ノ高(たか)年々同一ナル故ニ、今年ヨリ来年再来年等ノ経済ヲ予計スルコトヲ得ヘシ、是(これ)最モ治国ノ要務ナラン。」(『史料集成』第七巻 P.302)と、財政の安定性がなり、「経済ヲ予計」することが出来るということにある。第二に、未だ初歩的ではあるが、地価と土地売買(市場経済)との関係の上に租税制度の確立を図ったことである。これは、「……此(この)法ヲ行ヘハ地価過高ナルハ次第ニ降リ、過低ナルハ次第ニ昂(あが)リ、民産次第ニ平均ヲ得ヘシ。如何(いかん)トナレハ民情税ノ軽キヲ欲セサルハナシ。然レトモ税ヲ減スレハ地価モ亦(また)随テ減ス。田価減スレハ買フヘシト云者(いうもの)アルトキ売ラサルヲ得ス、売ルコトヲ欲セサレハ地価ヲ増ササルヲ得ス、田価増セハ税モ亦(また)随テ増スナリ。故ニ税ヒトリ随意ニ減スルコトヲ得ス、地価ヒトリ随意ニ増スコトヲ得ス、その間ニ自然ト中正ノ法定マリテ以テ平均ニ至ルナリ。……」(同前 P.303)で明らかである。
 神田の建議内容は、維新政府の地租改正に大きな影響を与えたと言われる。

 (ⅰ)市街地券の発行・沽券税法の実施

 明治3(1870)年9月20日、「全国ノ地租ヲ均定スヘキコトヲ太政官ヘ稟議(りんぎ *特に会議を開くことなく関係者の検討を経て承認・決定すること)セントスル民部省ノ商議(*評議)ニ対する大蔵省ノ回答」(『史料集成』第七巻 P.304)によると、政府機関は次のような態度をとっている。すなわち、民部省は「方今大政維新シ封建ヲ廃シテ郡縣ニ復シ、弊ヲ洗ヒ害ヲ除キ大ニ天下更始(こうし *古いものを改め新しく始めること)スルノ日に会ス。凡ソ全国の土地禁城ト官道ヲ除クノ外ハ一般ニ地租ヲ賦課シ、尺寸モ無租ノ土地有ラシム可カラス。……」と、新方針を提起する。これに対し、大蔵省も「その議論確当ニシテ我省固(もと)ヨリ異見有ル無シ。」と賛同する。
 明治4(1871)年5月晦日の「全国ノ租税賦課法ヲ釐正(りせい)セントスル民部省ノ稟議並ニ太政官ノ垂問ニ対スル大蔵省ノ答申」(『史料集成』第七巻 P.305~307)では、課税における四民の平等・公正をうたっている。
 明治4年7月、廃藩置県の公布前後から大蔵省を中心に、中央集権的国家に応じた租税改革が本格化する。
 明治4年9月、大蔵卿・大久保利通と大蔵大輔・井上馨は連名で、「地所売買放禁・収税法分一施設の儀」(『史料集成』第七巻 P.307~308)を正院に提出する。それは、大蔵省で「古来の沿革、当今の形成、内外の例規等」について研究・検討した結果、旧幕藩時代における租税制度を廃棄して、(イ)一般に地所の売買を許し、(ロ)地代金分一の収税法1)を設けることが良策であるとした。
 ここで言う「“地代金分一ノ収税法”とは、地価に応じて賦税する地租の新法を意味する。この伺(うかがい)のなかで、『断然従前ノ方法ヲ廃棄』するといい、ただ分一収税法は改革の良法だが『新法ハ速成ヲ戒ム』るにより、『先ツ以テ地所永代売買ヲ許シ、各所持地ノ沽券ヲ改メ、全国地代金ノ惣額ヲ点検シ、而して後(のち)更ニ簡易ノ収税法ヲ設ケ』ると述べて、地券発行の意を暗示している。そして、地所永代売買の許可、全国総地価の算定が、新地租法の前提であることが明らかにされた」(北島正元編『土地制度史Ⅱ』―第二編 近・現代〔福島正夫執筆〕 山川出版社 1975年 P.220)というのである。1)
 つづいて、大久保・井上は、同年10月7日、地券発行の準備段階として、すでに旧幕時代に沽券が行われていた三府下(江戸・大坂・京都)において、地券を発行する案を上申する。それによると、「三府下においては『地子免除』ということで収税がないので農村の租税との間では不公平をみる。よって、一般の法を制定するまでは、まずもって東京府下において地券を発行して地租を納め、政府の費用に充てる。そうして、二都・開港場にもこれを実施する」(北条浩著『地券制度と地租改正』御茶の水書房 1997年 P.38)というのである。
 これに応じて、太政官は翌8日、「旧来ノ由緒ヲ以テ郷土百姓町人共ノ内(うち)屋敷地山林等地子(じし)免除ノ分(ぶん)一切廃止(はいし)自今相当ノ地税上納申し付け反別その外(ほか)精細ニ取調べ且(かつ)収穫ノ模様等(とう)篤(とく)ト検査ノ上(うえ)大蔵省へ伺い出るべき事……」を布告する。
 そして、太政官は明治4(1871)年12月27日、「東京府下従来武家地町地ノ称これ有り候処(ところ)自今相廃シ一般地券発行地租上納仰せ付けられ候条この旨(むね)相心得べき事」を布告し、東京府管内において、①従来あった武家地と町地の区別を廃止し、②それらの地所すべてに地券を発行し、③地租を上納せよ」と達したのである。地租は、当初、券面金額の100分の2であったが、後には100分の1に引き下げられた。
 
 (ⅱ)土地永代売買の解禁と郡村地券の発行

 明治5(1872)年2月15日付けの太政官布告は、地所一般の永代売買を解禁し、その所持に対する身分規制も解除された。つまり、土地所有について「四民同一」とし、土地売買は、当事者間の合意によるもので、同族・同村の人の先買権も認めず、当事者間で勝手になされることが確認された。このことは、土地が流通し担保化される上での法的な基礎条件をつくり出し、画期的な性格をもつものであった。
 また、同月、土地の売買ごとに地券を公布するとした。しかし、明治5年7月、土地売買の有無にかかわりなく、一般に地券を公布するとした。これにより、同年7月4日付けの大蔵省達で、「地券渡方規則」が改正され、すべての地所に地券を一斉交付することとなった。地券交付は、一般私有地へ拡大されたのである。これは、この年の干支にちなんで壬申地券と称された。壬申地券の中でも最も主要な地券は、言うまでもなく郡村地券である。
 また、貢租についても、明治5年8月12日付けの太政官布告で、①田の貢租は、それまで正納(米納)が原則でであったが、出願があれば金納(石代納)を許可する、②畑の貢租は、すでに前年5月8日付けの太政官布告で全面的に石代納化していたが、金融事情が悪く畑作物の換金が難しい場合は、出願があれば、米納を条件に許可するとした。これらは、田畑貢租の全面的な金納化を企図し、例外として米納として現物納を認める―というものである。
 地券とは、いうなれば土地所有詔書である。壬申地券は、土地所有権=納税義務を表示するものであり、それには土地の所有者・所在・地目・反別・石高・代価が記載された。壬申地券は、地租改正の進行に応じて新しい地券(改正地券)となり、そこには土地の所有者・所在・地目・反別・地価・地租が記載された。そして、新しい地券は、壬申地券と同様に土地所有権=納税義務を表示するものであり、所有権の移転ごとに地券の書換えが行なうべきとされた。(1879年2月からは、書換えの代わりに裏書方式が採用された)2)
 地券の意義について、この頃、「当局者」が起草したと推定される「地券ヲ発スルノ益」と題する文書がある。そこには5つの益が述べられているが、その第一に、「人民所有ノ権利ヲ固定シ以テ紛争ヲ防ク」ことをあげている。すなわち、「……今(いま)人アリ、一タヒ(一度)券状ヲ受ケ其(その)地ヲ所持セルノ確證ヲ得ルトキハ、仮令(たとえ)政府ニ於テ其地必用(必要)ノコトアルモ一般公利ノ為(ため)ニスルニ非(あら)サル外ハ強(しい)テ之(これ)ヲ買揚(かいあ)クル能(あた)ハス。況(ま)シテ他ヨリ防障ヲ為(な)ス能ハサルハ勿論(もちろん)ナリ。而(しこう)シテ其持主ニ於テハ之ヲ自由スルノ権利アレハ、人ニ貸シ與(与)フルトモ又(また)ハ売却スルトモ或ハ質入抵当トシテ金銭ヲ借ルトモ聊(いささ)カ妨(さまた)ケアルコトナシ。……」(P.318)と、人民の権利を強調している。  (つづく)

注1)ただ、「分一ノ収税法」といっても、旧貢租を払い下げて私有財産化し、旧領主階級の地主への転化を意図した反動的なものもあったようである。大蔵省内部の一部でも、支持者が存在した。
 2)その後、1889(明治22)3月、地券制度は廃止され、土地台帳制度へ変更された。