明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊹
 
近世一揆の行詰まり示す部落襲撃
                     堀込 純一


    Ⅴ 列強に対峙するための近代化

  (2)新政反対一揆と被差別部落の襲撃

 上杉聰著『部落を襲った一揆』(解放出版社 2011年)によると、明治初年の部落解放反対騒擾は21件挙げられ、熊本県阿蘇郡の一件(明治10年2~3月)を除き、20件は明治4(1871)年10月から明治6年8月に集中している。地域としては、現在の府県名でいうと、香川県1件、愛媛県2件、高知県4件、京都府1件、兵庫県1件、岡山県4件、広島県4件、福岡県1件、大分県1件、宮崎県1件である。平民の内部では被差別部落民に対し、「人外」の人、「社外」の社会とする差別意識が色濃くあり、彼らが料理屋・風呂屋・髪結所などへ出入りするなどの日常的付き合いさえも拒んでいたのである。
 
(ⅰ)部落解放反対の播但一揆
 現・兵庫県の南西部には、生野から姫路に流れ瀬戸内海に入る市川があるが、その「市川流域には、部落(*被差別部落のこと)の人口がきわめて多い。/下流に高木部落があり、皮革ナメシ業の西日本の中心地として、江戸時代から活発な経済活動を繰り広げてきた。その影響あってか農業基盤も比較的厚い。皮革業で得た利益で耕地を購入したものであった。広い兵庫県内でも、一部落あたりの戸数は、市街地を除けば最も多い地域だった……。」(『部落を襲った一揆』P.141)といわれる。
 市川流域の被差別部落は、戸数が多く、経済力もあった。彼らは、賤民廃止令の公布を機会に平民と同等に扱われるべきと、行動に表わした。
 しかし、神東郡・神西郡のうちの市川上流の村々20数カ村は、1871(明治4)年9月17日に賤民廃止令が届いた間もなく21日に会合をもち、廃止令撤回の嘆願書を姫路県に提出した。だが、県側はこれを認めず、25日には嘆願書を返却してきた。そこで農民たちは実力行使に入り、被差別部落に対する不売・不買運動を展開する。
 その後、間もなくして、播但(播磨・但馬)一揆が勃発する。明治4年10月13日、神東郡辻川組大庄屋所(現・福崎町)で、県の役人が出席し人別改(にんべつあらため)が行なわれた。そこには、40カ村の代表だけでなく、元「穢多」村の代表も参加した。そして、人別改めには、元「穢多」村の村民も連名で記載されるとのことであった。これによりこの日の人別改は大騒ぎとなり、約二千名の農民が、「穢多はこれまで通り〔*賤民廃止令撤回を意味する〕」、「年貢引下げ」などの要求を掲げて、大庄屋所などあたり一帯に火を放った。
 一揆勢はその後、市川沿いを南下し、途中、県と結託するいくつかの庄屋宅などを焼き捨て、15日朝には姫路城東側の大日河原に集結した。15日朝、一揆勢は2万人程にふくれあがり、中島村(現・姫路市)の庄屋宅に放火する。しかし、県兵が一揆勢に発砲して弾圧する。この時、5~6人が即死し、30余名が逮捕され、一揆勢は崩れ去った。
 播但一揆は、これ以外に主なものとして、生野県庁まで侵入したグループがある。生野県1)でも、9月15日に賤民廃止令が布達され、以降、管内各地で反対の歎願が相次ぐ。しかしそれらはいずれも却下される。
 農民たちの不満が蓄積する中で、10月13日の辻川村など姫路県下の一揆の報が伝わり、14日には、農民たちは竹槍を持って小室村(現・神崎郡市川町)永良庄天神社に結集する。そんな時に、生野県権少属・白洲文吾が夜になって屋形村(現・神崎郡福岡町)に到着し、農民たちに解散するよう説得する。両者のやり取りの中で、農民たちが激高し、ついに白洲と捕亡・山本源六を殺害する。
 その後、一揆勢はいったん解散するのであったが、翌15日に生野にむかって押し出し、夕刻には銀山町に入る。すると直ちに鉱山寮出張所と器械所を襲い、器械を破壊し建物に放火した。一揆勢の主だった者数十人が県庁に乱入したが、県庁役人はすでに逃亡していたために、町方のものが応対した。これに対し、一揆勢は、「1、穢多・非人の儀はこれまで同様の取扱い致すべき儀、天朝え伺うべし、尤も伺中これまで通リ取極め申すべき事 2、御(当)未御年貢□(*ママ)引きの事 ……4、鉱山の儀、下方難渋致さざる様鉱山役所掛け合い申し遣わすべき事……」(『兵庫県史』第五巻 P.952)など6項目をのませた。
 生野の一揆は、隣の山崎県(明治4年に山崎藩〔別称・宍粟藩〕から山崎県へ)下にも波及し、同県も賤民廃止令を撤回する。
 播但一揆では未だ、部落襲撃が行なわれる事態とはなっていないようだが、その寸前の緊張状態となったと、上杉聰氏の前掲書は述べている。しかも、県の一揆取り調べでは、被害者側のはずの被差別部落民の6人が入牢中に死に至るという非道が行なわれている。

(ⅱ)高知の膏取り一揆
 明治4(1871)年12月15日から翌年1月6日にかけて、高知県で膏取り一揆が起こった。「膏取り」とは、西洋人が滋養分として摂取するために、日本人の人体を熱して、それにより膏(あぶら *脂)を取り出すという噂である。一揆は、新政府が西洋列強の手先となって、日本人から膏を絞り出すという噂・流言に基づいたものであった。
 一揆勃発には、いくつかの前兆があった。第一は、高知市郊外に、県の資金で白い洋館づくりの立派な病院が造られて、ここで患者から膏が取られるという噂である。第二は、徴兵制(布告は明治6年1月)施行に向けて戸籍法が定められた(明治4年4月)が、高知県でも各家の18~20歳の青年の調査が始められた。この調査がまた、先の洋式病院と結び付けられ、“兵隊にするというのはウソで、もしかしたら入院させられ膏を取られる”のではと、流言が飛び交(か)ったことである。
 第三は、賤民廃止令が布告されたことへの農民などの反感である。高知県でも、この廃止令の「告諭」で、“これまでの「風習を改め」、穢れを取り去るとともに、まず心身を清浄にし、その上で平民と同じように神仏にお参りし、平民との付き合いをすべきである”とした。これは、差別の原因が差別された側にあるという見地である。県当局は従来からの差別構造を根本から反省しておらず、また、貧困の原因を差別された側に押し付けるなど、根本的に間違った態度を取り、農民などの偏見を放置するものであった。
 第四は、吾川(あがわ)郡宗津村(そうずむら *現・同郡仁淀川町)出身の修験者(彼らは1868年の神仏分離令で、還俗するか神主になるか迫られている)・隅田教覚が土佐の石鎚山と言われた横倉山で17日間の参籠でえられた託宣が、高知県の各地に広がったことである。その託宣は、①西洋人への極度の偏見と排外的態度をもって、新政府の洋化政策を批判、②旧藩主の東京留置を批判し、帰国させること、③西洋人の膏取り、④日本は神国であり、新政府との闘いには六十余州の神の御加護がある―である。
 「膏取り一揆」は、山間部の各所から始まったが、その主なものの一つは、仁淀川の上流で、吾川(あがわ)郡の山間部である。もう一つは、吉野川の上流で、土佐郡の山間部である。
 隅田の神託は仁淀川上流の谷間の村々に伝わり、明治4年12月中旬頃から農民たちの行動が開始される。総大将には、吾川郡用居村(もちいむら *現・仁淀川町)の竹本長十郎が仕立てられた。彼は学問もあり、中層の農民である。一揆勢は、徴兵のための青年調査や、賤民廃止令などに反対し、番人宅を襲撃しつつ、高知に進撃する。
 竹本らの動きはたちまち周辺に広がり、脇ノ山村(現・吾川郡いの町)では12月30日、山中良吾が中心となって2~300人の一揆が起こる。この動きは川下に伝わり、下中切(現・高知市)の郷士・山中人馬を指導者に押し立て、一揆に参加することとなる。
 1月6日、吾川・高岡郡の一揆勢に対する県兵の急襲があり、野老山村(現・高岡郡越知町)の兼太郎を始めとして、竹本長十郎、大崎村(現・仁淀川町)の善平・作治、宗津村の覚治などを次々と逮捕した。兼太郎らはすぐさまその日の内に処刑される。
 他方、土佐郡の一揆勢は、1月3日に高野村に陣を張ったまま動いていなかったが、仁淀川上流方面で竹本らの処刑が行なわれたことを知ると、山中人馬は腹を切り絶命した。指導者を失った一揆勢は、たちまち瓦解に至った。
 この「膏取り一揆」との直接の関係はよく分からないが、同じ頃に部落襲撃が行なわれている。高知市から西方へ車で一時間ほどの所に戸波(へわ)部落があるが、そこの「七十軒の家屋は、谷陰に隠れて見えなかった三軒を残し、ことごとく焼くか壊されてしまった。/県はわずかな兵隊を駆けつけさせたが、被害をうけた戸波部落からも逮捕していった。襲撃した農民のうち数人は処罰されたが、部落の側も『叱り』の処分をうけた。」(上杉前掲書 P.199~200)といわれる。筋の通らない県の対応であった。高知の東方の坂折(さかおれ)部落(現・南国市)では、農民に包囲され一触即発の対立が三日間続いた。さいわい、大事に成らずに済んだ。

(ⅲ)岡山で広がる部落襲撃
 廃藩置県(明治4年7月)によって、旧藩主に対して9月中に帰京すべきことが命ぜられ、広島・福山・高松県などでは旧藩主引き留め運動が激しく展開される。岡山県でも8月に旧知事復職歎願が提出されたが、旧藩主池田章政は9月に上京した。しかし、11月15日、同県磐梨(いわなし)郡田原下村(たわらしもむら *現・和気郡和気町)など12カ村500人ほどが大井村(現・岡山市)国木宮に集合し、強訴が始まろうかとした時、大里正(*旧大庄屋にあたる)に説得され、要求事項をまとめ県庁に歎願することとなる。その要求の主なるものは、悪田畑改正(*免〔年貢率〕が不相応に高く、また救い米〔加損〕が必要な土地を上知し免下げを行ない、加損を廃止して、競売に付した)と貢租減免(この年6月藩内は大洪水にあう)である。
 以降、一揆は各郡に波及し、11月28日、赤坂郡南佐古田村(現・赤磐市)などで3000人余が蜂起、12月1日、磐梨郡松木村(現・赤磐市)など17カ村が蜂起、12月3日、河内村(現・岡山市)など26カ村1300人余が蜂起、12月4日、上道郡寺山村(現・岡山市)11カ村7~800人が蜂起する。一揆勢は、大里正・里正を集中的に襲撃し、金持ちの酒屋なども攻撃した。
 美作国の諸県では、賤民廃止令は9月中旬に管内に布達された。しかし、この布達はすぐさま反発され、各地から廃止令の中止ないしは猶予の嘆願書が出される。明治4(1871)年10月20日、美作の真島県の垂水村・下方村(ともに現・真庭市)の百姓一同から、「我儘(わがまま)増長(ぞうちょう)、百姓を軽蔑いたし候儀、以来(いらい)取扱向(とりあつかいむき)交り申さず、御用呼出(よびだし)等にも同座仕らず候……」(長光徳和編『備前備中美作百姓一揆史料』第五巻 P.1851)と、元「穢多」とは席を同じくしないと強い反対の態度が表明される。同月25日には、垂水村国司宮あたりに近村の村人たちも続々と集まり気勢をあげる。この時に、たまたま通りかかった被差別部落の青年一人が、ひどく殴られ重傷を負わされた。
 その後も一揆勢は、11月3日、鉄山村(現・真庭市)の年寄宅を打ちこわし、4日には新庄(現・真庭郡新庄村)、美甘村(みかもむら)へ押し出す。6日は美甘組・小童谷組・三家組(以上、現・真庭市)の一揆勢は真島県庁(現・真庭市)の大手前にまで繰り出す。県庁側は一村ごとに呼び出して、必死に説得して大事(おおごと)にならなかったようである。
 明治5(1872)年にはいると1月14日から19日にかけて、岡山県上房(じょうぼう)・阿賀(あが)郡を中心に約1千名の村人が、竹槍・鉄砲をもって被差別部落を襲撃している。1月14日、酒屋での売り買いで口論となり、ついに上・下中津井村、上・下平田村(ともに現・真庭市)の農民が竹螺(たけぼら)を吹き、竹槍・小銃さらには陣屋から奪った大砲一門までも武装して、蜂起する。近辺の村人も集り、その夜は元庄屋会所に逃げ込んだ元「穢多」5人を取り囲み、内1人が逃げ出したのでこれを殺害した。15日深夜、一揆は県官員などにより大方鎮圧されたが、16日朝、中津井村の騒動に加勢し集まった上・下有漢村(かみ・しもうかんむら *現・高梁市)の農民たちは被差別部落に木砲や小銃を撃ち込み、さらに山林に逃げた者を追って、山に火を放ち、2人を殺害した。また、被差別部落30余軒のうち24軒が焼失させられた。その際、2部落が「詫状」を強制的にとらされた。
 また、1月16日には、上房郡竹庄村(現・加賀郡吉備中央町)で、同月20日には、津高郡加茂市場村(同前)でも、被差別部落を襲撃するという非道が行なわれた。
 これらに引き続いて起こったのがいわゆる「美作血税一揆」である。
 1873(明治6)年5月26日午前10時ごろ、西々条(さいさいじょう)郡貞永寺村(ていえいじむら *苫田〔とまた〕郡鏡野町)で、白衣の男が戸長宅に現れたのをキッカケ(白衣の男が徴兵にくるとの噂を流し、演出したのはこの村の惣代役の筆保卯太郎たちである)に、寺の鐘がたたかれ、近村の農民1000人が竹螺を吹き竹槍を携えて集結し、山中に男をさがした。だが、男を発見できず、一揆勢は戸長宅を捜索乱妨する。それから隣村の和田村(被差別部落)に押し寄せ、14戸を打ちこわし、1戸に放火した。
 一揆勢は二手に分かれ、近村を動員しつつ、翌27日未明にまた合流し(総勢約2000人となる)、北条県庁のある津山へ向った。この間に、戸長・副戸長宅4戸、小学校および教師宅4戸を、掲示場1カ所を破壊している。さらに被差別部落の家屋64戸を破壊ないしは放火し、住民一名を殺害している。
 5月27日、一揆勢は津山西寺町の愛染寺内に乱入し、教学院(僧侶の研修施設だが、新政府が作った学校と間違われた)を破壊した。一揆勢はその後県庁へ迫ったが、官員と旧津山藩士300人ほどの銃撃で死傷者を出して、敗退する。県庁強訴に失敗した一揆勢は、津山西郊の二宮村(現・津山市)高野神社に屯集する。そこに元津山藩大参事・海老原極人が駆け付け、一揆勢を説諭した。農民たちの間で帰村の動きが出始めると、原田村(現・久米郡美咲町)の士族小野亀之進が蜂起の継続を主張した。これにより一揆勢は二宮町を本拠とし、県内西部・南部などの諸村の動員を計ろうと示威行動をもって廻村した。
 他方、同じころ東北条郡の加茂谷地方でも蜂起が始まった。一揆勢は直接県庁に向かわず、いったん加茂谷北部の村々を廻り、正副戸長宅など破壊しながら百姓を動員した。その中で、被差別部落を襲撃した。加茂谷で襲われた部落は、北から順に中原(42戸、190人余)・藤の木(12戸、59人)・津川原(つがわら *102戸、約500人)である。中原と藤の木は、脅迫されて詫状を書かされた。しかし、津川原部落は県庁強訴の先鋒にさせられることを拒否して抵抗した。激高した一揆勢は火を放ち全戸を焼き尽くし、裏山に逃げた部落民を執拗に山狩りして暴行を加えた。一揆勢は、津川原部落への襲撃で9人を殺害したと言われる(襲撃の様子は、上杉聰著『部落を襲った一揆』解放出版社 を参照)。
 その後、加茂谷の一揆勢は、旧津山藩士族・遠藤半平に嘆願書作成と県庁への提出を依頼し、大分部は解散・帰村した。
 他方、二宮町を本拠として県の西部・南部・東部に向かった一揆勢は、各地で官員・正副戸長宅などを打ちこわし、放火を続けた。被差別部落に対しては、詫状を強要し、拒否した村々には放火・殺戮を繰り広げた。しかし、最後はそれぞれ県官・旧津山藩士の銃撃で散乱するか、あるいは説諭により解散した。6月1日頃には、岡山県や旧真島藩の士族の応援、それに大坂鎮台2小隊の到着で、一揆は完全に鎮圧された。だが、この北条県の一揆全体で、下級県官・正副戸長宅59戸、盗賊目付28戸が焼失・破壊にあっている。被差別部落民に至っては、263戸が焼失・51戸が破壊され、18人が殺害され、13人がけがを負わされた。詫状を強制された村は、9カ村に上った。

(ⅳ)筑前竹槍一揆
 福岡県では、明治6(1873)年3月、怡土(いと)郡、上座(じょうざ)郡、宗像(むなかた)郡の村々で、徴兵令にかかわって人別調べが行なわれ、種々の流言が飛び交い、各所で不穏な動きが発生していた。また、この年は西日本一帯で干害が広がり、米価が高騰を続けていた。
 「筑前竹槍一揆」の発端は、雨乞いの農民と狼煙(のろし)で米相場を連絡する「目取り」(通信員)の間でのトラブルである。
 6月16日の朝、嘉麻(かま)郡の大勢の農民たちは行き違いもあって、「目取り」側〔当時の小倉県田川の猪国(いのくに *猪膝〔いのひざ〕ともいう)〕へ押しかけ、狼煙をめぐる交渉が失敗するや、猪膝宿の豪商、村役人、「目取り」の家を次々と打ち壊した。翌17日には、嘉麻郡大隈町の石橋弥吉(元・目明しで今回の仲裁人)の家を襲い、さらに大隈町の隣の光代村にある第八大区調所(郡役所)を焼き落とした。その後、一揆勢は嘉麻郡南部の村々の金持ち数軒を打ち壊しながら、飯塚宿の北郊に進み、あたりの豪農や戸長宅などを破壊した。17日の夜には、一揆勢は1万をはるかに超えていたといわれる。18日には、嘉麻郡東部一帯の豪商や村役人宅を打ちこわし、穂波郡の大行司浜を目指した。嘉麻・穂波両郡の百姓を主力とした一揆勢は、勢力を増大させながら郡境を超えて、遠賀郡、宗像郡、粕屋郡に飛び火しつつあった。
 「十九日夜から二十日にかけ、福岡・博多の東部にある長者原に、八木山を越えてきた嘉麻・穂波の数万の部隊が到着した。東北の筥崎宮にも宗像・粕屋郡からやってきた部隊約五千人が、南部の板付周辺には夜須(やす)・御笠・那珂郡から一万余りが、西部の百道松原には怡土・志摩・早良(さわら)郡から約二万人が押しかけてきた。」(『部落を襲った一揆』P.289)のであった。今や、福岡・博多の町は、一揆勢に完全に包囲される形となった。
 福岡県庁首脳部は、当初、一揆について軽視していたようである。そして、一揆への対処策の検討に入ると、旧藩士を募って士族隊を組織して当面の守備に当たるべきとする鎮圧積極派と、当面、県官が説得すべきという鎮圧慎重派に分かれていたと言われる。だが、20日には妙見松原に集まっていた農民に向けて大砲が撃たれ、5~6人が倒れた。この頃、一揆勢による被差別部落への襲撃が行なわれる。博多東方に位置する堀口村・辻村が一揆への参加を拒否したため放火され、ほぼ全戸が焼失した。
 6月21日、福岡・博多の東方・南方から一斉に市内に進入し、町民もこれに参加し、市内の豪商・役所・学校・掲示場などを打ち壊した。午後一時過ぎには、ついに福岡県庁に乱入し、書類・備品類を焼却・破壊し、さらに官舎に放火した。ここに至り、旧福岡藩士族が鎮圧を始め、一揆勢は市内から敗走した。
 しかし、21~23日、西方の一揆勢は豪商・豪農、役場・戸長宅・学校などを打ちこわし、ほぼすべての被差別部落を襲撃し、放火している。南方に逃れた集団は、北上してきた上座・下座・夜須郡と合流し、県南部の豪農商・戸長宅・役所・学校などを打ちこわし、夜須郡内の被差別部落を放火している。6月23日に甘木・秋月を攻撃した集団は、25日に至って、旧藩重臣らの説諭により、解散し帰村する。福岡から敗走した東方郡勢は、それぞれ帰村し、地元の豪農商を打ち壊した。
 6月24日、要請していた熊本鎮台の第一陣1個小隊が、海路から博多港に入り、県庁など要所に配備された。30日には、60名の兵が軍艦丁卯艦で、長崎から博多港に入港し治安に就いた。
 一揆に対する処分は厳しく広範囲に及んだ。処刑・処罰された者の総計は、6万3940人にのぼった。その内、罰金を科せられた者は5万2013人で、罰金総額は11万6627円25銭となった。残りの1万1927人が体刑を受け、内訳は絞罪1名、斬罪3名、懲役94名で、そのほかの1万1829名は笞罪などであった。しかし、一揆による被差別部落の襲撃も悲惨なものであり、1530戸が焼き打ちされ、部落民は「穢多狩り」なるものに追い回され、4人が負傷した。
*  *  *  *
 被差別部落襲撃は、余りにも非道で悲惨なものであった。百姓らは、維新政府がつぎつぎと繰り出す開化政策に、前代未聞の驚き・恐怖・不安に陥り、必ずしもまともで正当な対応をすることが出来なかった。海外情報を一面的にしか分析できず、なによりも従来からの「御百姓」意識を脱却できず、近世百姓一揆の根本的な「限界」を露呈したのであった。

注1)慶応4(1868)年閏4月、兵庫県が設置される。管轄地域は、開港場としての神戸と、西摂4郡(兎原・武庫・有馬・八部)の旧幕府領などである。同じ頃、久美浜代官支配下の但馬・丹後の旧幕府領に久美浜県が設置される。同年5月には、生野代官支配下の旧幕府領のうち、生野銀山が中央政府の所管に入ると、その他の村々は久美浜県に編入となる。しかし、当の村々はこれを不満とし、明治2年8月、久美浜県が分割され、生野県は設置された。