明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊸
 差別の根源踏まえぬ賤民廃止令
                    堀込 純一

    Ⅴ 列強に対峙するための近代化

  (1)開化政策の一環としての賤民廃止令

 明治維新は、西洋列強に「対峙」することが最大の目標であった(この結果は1945年8月、日本帝国主義の無条件降伏に終わった)。その維新の主導力となった薩長など西南雄藩は、徳川幕府を倒すために天皇制を利用し、慶応3(1867)年12月9日、王政復古の大号令を発した。しかし、いくら王政復古といえども、西欧列強に「対峙」するためには、近代的統一国家の創出が不可欠であり、さまざまな分野の開化政策が必要となる。
 
(ⅰ)維新初期の通達
 維新の初め、政府や府県の賤民に対する態度は、徳川幕府時代と大差なかった。
 1868(慶応4)年8月の「天皇東行のため穢多村の取隠しなどの指示」(全7カ条)では、「一、穢多村ハ筵(むしろ)・葭簀(よしず *すだれ)等有合(ありあわせ)の品ニテ取隠シ、戸外(こがい)致さざる様(よう)申し付くべく候事」(原田伴彦・上杉聰編『近代部落史資料集成』〈以下、『集成』と略〉第一巻 三一書房 1984年 P.6)とし、非道な「貴と賤との間の差別的取り扱い」なるものを鮮明とした。
 差別的態度は、地方でも変わっていなかった。明治2(1869)年9月の大津県通達は、「穢多(えた)ハ従来獣類・斃物・穢物等ヲ拾ヒ得候事ニ成り来たり候処〔*生計を営んできたが〕、近来ハ増長(ぞうちょう)心得違(こころえちがい)」(『集成』第一巻P.236)をいたしておるので、村役人から戒めるべきであると言っている。被差別民の生活を勝手に決めつけて卑しめ、そのうえ最近は「増長」しているとたしなめている。
 明治2(1869)年12月27日、紀州藩庁が発した「達」はもっと露骨で具体的である。
 「皮田(かわた)の奴共(やつども)不作法の儀これ無き様、前々ヨリ相触れ有る処(ところ)」だが、「向後(こうご)左のヶ条書の通り、屹度(きっと)相守らせ申すべし、万一(まんいち)心得違(こころえちがい)の者これ有り候ハバ、見掛(みかけ)次第厳重に処置に及ぶべく候間、右奴共へこの段早々篤(とく)ト申し聞かすべき事、(皮田ハ穢多ノ方言ナリ)
一、市中ハ勿論(もちろん)在中(*村の中)タリトモ、通行の節(せつ)片寄候テ、往来の人へ聊(いささか)モ無礼がましき儀(ぎ)致すべからざるの事。
一、物貰(ものもらい)、履物(はきもの)直シ等ニ罷り出で候節ハ、町家の軒下タ雨落ヨリ〔中へ〕入り候儀相成らざる事。
一、朝日の出ヨリ夕日の入りまでの外(ほか)、市中ハ勿論町端(まちはた)タリトモ徘徊(はいかい)相成らず、且(かつ)在中ニテモ夜分(やぶん)みだりニ往来相成らざる事。
一、町内ニテ飲食致し候儀、相成らざる事。
一、雨天の外(ほか)笠カフリモノ(被り物)、相成らざる事。
一、履モノ(はきもの)ハ草鞋(わらじ)の外、総(すべ)テ相成らざる事。」(同前 P.365~366)
 このような日常生活に至るまでの差別的規制は、「維新」と言っても、江戸時代となんら変わりはない。

 (ⅱ)廃藩置県と矢継ぎ早の開化政策
 薩長など維新主導勢力は、西欧列強に対峙するために、土地(版)と民(籍)を天皇に「返上」する版籍奉還によって、中央集権的な近代天皇制国家の建設を早くから準備してきた。そして遂に、1871(明治4)年2月13日、薩長土3藩から献兵があり、歩・騎・砲8000名からなる天皇の「御親兵」が編成された。また、同年4月には、小倉と石巻に鎮台が設置される。こうして同年7月14日、ようやく廃藩置県の詔書が発せられた。
 天皇制の下で近代的な中央集権制国家が形成されると、「富国強兵」とともに「文明開化」が時代のスローガンとなり、その頃から開化政策が怒涛のように推進された。明治4(1871)年から明治6年にかけて行なわれた開化政策の主なものを挙げると、以下のようになる。
 (1)国家制度にかかわる事項―郵便制度の規則制定(明治4年1月24日)、戸籍法の制定(明治4年4月4日、翌年2月1日から実施)、新貨条例の制定(明治4年5月10日)、司法省の設置(明治4年7月9日)、文部省の設置(明治4年7月18日)、「学制」の制定(明治5年8月3日)、太陽暦の採用(明治5年11月9日)、徴兵の告諭(明治5年12月28日)、地租改正条例の布告(明治6年7月28日)、内務省の設置(明治6年11月10日)
 (2)封建的身分制度の改廃にかかわる事項―県外寄留・旅行の鑑札廃止(明治4年7月22日)、散髪・廃刀の自由(明治4年8月9日)、華士族と平民の間の通婚許可(明治4年8月23日)、「穢多・非人」の称廃止(明治4年8月28日)、卒の身分を廃止し、皇族・華族・士族・平民の制とする(明治5年1月29日)、「娼妓・芸妓解放令(人身売買や終身・長期奉公の禁止も含む)」(明治5年10月2日)
 (3)職業の自由、売買の自由にかかわる事項―田畑勝手作りを許可(明治4年10月20日)、在官者以外の士族の農工商への従事を許可(明治4年12月18日)、土地永代売買の解禁(明治5年2月15日)、全国に地券公布(明治5年7月4日、壬申地券)
 
(ⅲ)廃止令の公布への経過
 幕末時、差別され抑圧された賤民の側で解放を要求した主張としては、(A)摂津・渡辺村からの嘆願書(慶応3年2月)と、(B)関東諸国の「穢多・非人」を統轄していた弾左衛門の役所の「抜擢解放」論―がよく知られている。
 (A)は、これまで幕府の御用金要求に応えてきたことを強調しながら、「……四民の外に御遠避(*遠ざけること)に相成り候段、誠に以て、歎かわしき次第に存じ奉り候、何卒(なにとぞ)私共身分に於て、穢多の二字を御除き仰せ出され候」(小林茂編『近世被差別部落関係法令集』 P.392)と、願い出ている。
 (B)は、慶応4(1868)年1月10日に、町奉行から老中へ弾左衛門の身分引上げの「内慮伺い」に示されているが、その内容は弾役所で用意されたものと思われる。その末尾は、「……平人の交わり相成り難きは、如何(いか)にも歎かわしき儀にて、出格(しゅっかく *破格)の思召しを以て、抜類のけんぎ沙汰成り下され、身分平人ニ御引上ヶ……」(同前 P.395)となっている。これに対する沙汰は、鳥羽伏見の戦争に幕府軍が敗れ、慶喜が軍艦で江戸に逃げ帰った2日後の1月13日になされ、浅草の弾内記役所の配下一同も2月26日に平人身分に引き上げられた。「抜擢解放」とは、当人の功績や品行の良さなどによって、徐々に身分を引き上げることである。
 維新後、賤民廃止を唱えたものに、①会計官権判事・加藤弘蔵の「非人穢多御廃止之議」(明治2年4月)、②日出議員の帆足亮(龍)吉による「穢多ヲ平人トシ、蝦夷地ニ移スベキノ議」(明治2年4月)、③松本藩の内山総助による「穢多非人ノ身分御改正ノ議」(明治2年5月)、④大江卓の「穢多非人烟亡(えんぼう)ヲ平民トナスノ議」(明治4年1月)などがある。①②③は、公議所1)の議案に提案されたものである。
 ①は、「非人穢多の儀、……到底人類ニ相違これ無き者ヲ、人外ノ御取扱ニ相成り候ハ、甚だ以て天理ニ背キ候……」(『集成』第一巻 P.12)と、西洋の天賦人権論の見地からのものである。彼は後に東京大学綜理となった加藤弘之のことであり、社会ダーウィニズムに陥る。②は、「穢多」を平民にするというが、それはあくまでも蝦夷地開拓に利用する目的のためのものでしかない。③は、「穢多非人」の身分を百姓町人と同様にするべきとし、蝦夷地開拓利用論には否定的である。④は、民部省に建議されたものであるが、賤民の生活改善の具体策を提言してはいるが、「曰く穢多非人烟亡(おんぼう)等ノ名目ヲ廃シテ賤民(適宜ノ名ヲ下スヘシ)ト称シ、平民ヲ下ルコト一等ニシテ、……」(『集成』第一巻 P.33)と、順を追って徐々に「解放」すべき主張である。大江はこの主張を後に撤回し、「一時に平民籍に編入しなければならぬ」(同前 P.36)と再度、意見書を提出している。
 賤民の廃止について、公議所で最初に論議されたのは、明治2(1869)年4月2日、「里数改定」をテーマにした討論で、派生的に論じられたものである。福知山議員の中野齋から「諸道ノ内(うち)朱印地穢多地等、旧幕府ヨリ諸役免除ノ故ヲ以テ、路程町数ノ高ニ入ラザル者、往々これ有り、且つ土地古来ヨリノ沿襲(えんしゅう *古いしきたりに従うこと)ニヨリ、五十町一里ト称スルモノアリ。是(これ)等ノ類、里数平等ナラズ、人馬ノ労ヲ掠(かす)ムルコト少ナカラズ。依テ以来都(すべ)テ 皇国従来ノ里程三十六丁二一定仕(つかま)りたく存じ奉り候。」(『明治文化全集』第一巻 P.29~30)との提起があった。朱印地とは、幕政時代、幕府や藩によって特定の土地が課税の対象から免除された土地のことである。「穢多」の居住する所持地は、斃牛馬の処理・掃除・下級警察などの役務と引き替えに免除された土地もあった。ただ彼らが購入した農地については、百姓の所持地に準じた。
 公議所は、4月7日に「里数改定」を採用し、翌8日には上呈した。これは行政官で受け入れられたが、なお詳細の調査が必要とされ、民部官へ調査が命じられた。
 近代の統治術においては、近代的な合理性に基づき、均質・一律の尺度が前提とされたので、国土の範囲を定めるための里程においても例外を除去する必要があった。したがって、「里数改定」において、穢多地も除地(じょち、よけち)からはずされることとなる。
 明治2(1869)年5月、公議所書記の大岡玄蔵から「生殺ノ権ヲ、穢多頭ニ委(ゆだ)ヌへカラサルノ議」が提案された。幕藩制時代には、土地の所持権が身分に応じて定められたが、裁判・処罰権も身分に応じて異なっていた。弾左衛門は関八州と伊豆・陸奥・甲斐・駿河の地域の長吏頭(「穢多非人」の支配頭)であった。この制度も、中央集権的で専一的な近代的な国家統治権とは相いれないものであった。
 弾左衛門の支配役所である弾役所は、江戸時代は江戸の町奉行の支配下にあったが、維新となり慶応4(1868)年5月27日、弾内記(第13代目の弾左衛門が幕末の身分引上げの際に改名したもので、明治3年にはさらに弾直樹と改名した)は改めて市政裁判所附きに任命された。しかし、明治2年12月には、太政官はそれまで東京府が管轄していた囚獄関係の施設をすべて刑部省の下に組み込む。その施設には、伝馬町牢屋敷、徒刑場、浅草・品川両溜(たまり)などがあり、弾内記配下の者も牢番、処刑、管理などを通して深くかかわっていた(部落解放研究所編『史料集・明治初期被差別部落』P.104 を参照)。
 国民国家の形成のためには、国土のみならず国民をも創出しなければならない。明治2年12月、太政官は民部省の提起によって、「戸籍編製例目」を提示するが、その布告案の冒頭、「戸籍編製ハ治国ノ要務(ようむ)黎庶(れいしょ *諸々の民)率育(そついく *率いて育成すること)ノ根楨(こんてい  
 *根本)ニテ、人民戸口ノ総計明瞭ニこれ無テハ教育ノ/御徳沢(とくたく *恩恵)行届かせられ難く、実ニ民政ノ礎(いしづえ)也」(『近代部落史資料集成』第一巻 P.22)と、意気込んでいる。戸籍は「治国の要務」である。しかし、民部省の「戸籍編製例目」(全25ヶ条)の第4条目で「戸籍ヲ編製スルニ、華族士族平民族ノ三等ヲ立」て、第5条目では、「一、神職僧尼その外(ほか)右(みぎ)三等外ノ者ハ、概シテその所又(また)ハ近傍ノ村町ニ附属セシメ、荘屋(*庄屋)年寄ノ支配トスベシ、……/但し穢多非人ノ徒ハ、都(すべ)テその所又ハ近傍ノ村町ニ附属セシメ、その荘屋年寄ノ支配トシ、本村町戸籍ノ末江同体ニシテ編入スベシ」(同前 P.22)としている。すなわち、この案では臣民(日本は国民ではなく臣民)は三等に区別されたが、神職僧尼などはこれら三等から外され、「穢多非人」はこれからもさらに隔てられ、「本村町戸籍ノ末」へ、まとまって差別されて編入されるべきとされた。
 この戸籍に関する考え方と、差別的な記載方法は、明治4(1871)年4月5日に、全国統一の戸籍法が公布されることにより、正式なものとなった。
 ところで「穢多」の旧来の役務にかかわるものとして、明治4(1871)年3月19日、太政官から、「従来斃牛馬これ有る節、穢多へ相渡し来り候処、自今牛馬ハ勿論(もちろん)外の獣類タリトモ、総(すべ)テ持主(もちぬし)ノ者(もの)勝手ニ処置致すべき事」(『集成』第一巻 P.38)と布告した。
 これに関連した「屠牛営業規則」は、明治3年9月24日に、すでに通商司によって立案されている。そこでは前文で、「近来肉食漸ク民間ニ行ハレ、随テ椎屠(ついと)ヲ業ト為ス者亦(ま)タ漸ク多キヲ加ヘタリ」(同前 P.30)といって、規則を立てる理由とした。
 財政の立て直しが求められる新政府において、明治3(1870)年4月、民部省は「地子免除御廃止等ノ儀ニ付き伺書」で、「社寺朱印寄附地等ハ別ニ御処置相成るべく候へ共、既ニ諸藩大夫士ニ至ル迄(まで)総テ封土奉還夫々(それぞれ)禄割御定相成る上ハ〔*明治2年1月には版籍奉還が薩長土で基本合意されている〕、古来武将ノ由緒或ハ旧領主ノ恩賜ヲ以て居屋敷山林その他地子等免除申し付け置き候分モ悉皆(しっかい)御廃止、相当ノ租税相納めさせ候方(かた)当然ノ理ニこれ有るべし、……」(『集成』第一巻 P.55)と、基本的に無税地を全面的に廃止する方向を示す。実際、明治4年に入って1月5日、「神社仏寺ノ領有地ヲ還納」させ、同年3月20日には「三府及ヒ五開港場」に地租を賦課し、さらに同年7月14日には、廃藩置県の詔書を発する。
 ところが、民部省は戸籍法が公布される直前の明治4年3月15日、「穢多等廃止」にかんする案を太政官に提出する。それは、「差向(さしむき *さしあたり)穢多等の名目ヲ廃シ、更ニ□民〔*新たな名称が未定のこと〕ト唱え身分の儀ハ先ず以て平民ヨリ一等下(し)モニ差し置き」、職業を身につけさせる事業へのカンパや、技能の熟達者などを「相選び漸ヲ以て平民ヘ籍(せき)差加ヘ候ハハ、世人の折合(おりあい)モ宜しく、……」(『集成』第一巻 P.37)という、「抜擢解放論」の立場に立つものであった。少なくともこの頃までは、太政官も同じように「抜擢解放論」の立場に立っていたようである。
 だが他方、民部省は同年7月、「府県管轄地穢多非人等ノ類屋敷地除地ノ内、墓地ヲ除ノ外一般上地(*国家が召し上げること)ト相心得べき事」(『集成』第一巻 P.55)の「御布告案」を太政官に提示する。しかし、これには枢密局が8月9日、「穢多非人ノ類のみ上地イタシ貢納致させ候儀ニ候ハハ、不公平ノ御処置……」(同前 P.55)と、クレームがはいる。そこで、大蔵省(民部省は7月27日に廃止され、その事務は大蔵省と工部省に分属される)は、前年4月の「地子免除御廃止等ノ儀ニ付き伺書」に対する返答を要求する(8月19日)。
 ところが以外にも、左院が即日、無租地全体の廃止を裁可する。この裁可の「……以後、それが賤民身分制に抵触することが明らかになり、三日間で賤民廃止令の大蔵省原案が作成され(二二日)、左院による即日裁可ののち、二八日に賤民廃止令が大蔵省原案を手直しして公布されたのである。その間、わずか九日という迅速さである。」(上杉聰著『明治維新と賤民廃止令』P.129~130)と、上杉氏は評価する。これは、従来の「抜擢解放論」ではありえず、まさに即時無条件の全面「解放論」への転換である。
 
 (ⅳ)布告と各界の反応
 8月28日の「賤民廃止令」の全文は、以下の通りである。

 布告
穢多・非人等の称(しょう)廃せられ候条、自今(じこん *今後)身分・職業共(とも)平民同様たるべき事
 同上(*「布告」のこと)府県へ
穢多・非人等の称廃せられ候条、一般民籍に編入し、身分・職業共(とも)都(すべ)て同一に相成(あいな)り候様取扱(とりあつか)ふべし、尤(もっとも)地租(ちそ)其外(そのほか)除?(じょけん)の仕来(しきた)りもこれ有り候はば、引直し方(*訂正する方法)見込(みこみ *目当て)取調べ、大蔵省へ伺(うかがい)出べき事  (『集成』第一巻 P.59)

 賤民廃止令が布告された直後の9月には、各府県ともその管轄下の民衆に「告諭」を出して、布告の趣旨の徹底を図った。そのほとんどが、この度の布告はじつじつ天皇の恩恵によるものとした。差別の根源を総括するのでなく、王政復古の徹底である。
 その中で、姫路県の「告諭」は、(イ)管内県民全体に対するものと、(ロ)旧穢多に対するものの二つの部分から成っていた。
 (イ)では、やはり天皇の恩恵を強調し、天皇が「穢多非人の称廃せられ、平民一様に取り扱い仰せい出され候」なのに、中にはこの深き「御趣旨ヲ弁(わきまえ)ず疑惑ヲ抱キ候者モこれ有る」ようだが、それはもってのほかであるとたしなめた。そして、従来の賤民に対する差別的な扱いは、日本が開化していなかったことに依るものとした。だがしかし、それはこれまでの差別の根本原因を明らかにしたものでなく、従って、差別を根本的に無くすものではなかった。
 (ロ)では、旧「穢多」に対して次のようなお説教を垂れ、心得違いがあっては今回の趣旨を背き相すまないことであるので、相当な罰も加えられると脅しているのである。
 
  旧穢多の者エ告諭
 今般穢多非人ノ称廃セラレ、平民同様取扱仰せい出され候上ハ、厚き御趣意の程(ほど)、一同有り難く存ジ、今一層農業相励(あいはげ)み申すべくハ勿論、向後(こうご)行住坐臥(*日常の立ち居振る舞い)清潔ニシテ、第一朝夕ノ掃除ヲ能(よく)為(な)シ、獣肉ヲ屠(ほふ)リ獣皮ヲ取扱ヒ候節ハ必ズ改メテ身ヲ滌(すす)ギ清メ候様ニ致シ申すべし、惣(すべ)テ身ノ臭気ニ注意シ、従来平人ノ穢レト致シ来リ候事務ハ、急度(きっと)相改め申すべき事。
 人ニ応接致シ候迚(とて)モ、従前身分ノ程ヲ能々(よくよく)省(かえり)ミ、重頭(がさつ *動作・態度に落ち着きがなく、荒っぽくぞんざいな様)がましき儀(ぎ)毛頭のれ無き様(よう)相心掛(あいこころがく)べく候。若(も)シ御憐憫(*お上のあわれみの気持ち)ニ乗ジテ心得違(こころえちが)ヒこれ有るに於てハ、却(かえっ)テ有り難キ趣意ニ背(そむ)キ相済(あいすま)ざる事ニテ、相当ノ咎(とが *罪)モ申すべく候間、屹度(きっと)申合セ互(たがい)ニ相戒(あいいまし)メテ謙遜(けんそん)辞譲(じじょう *控えめにすること)致すべき事。……
 (『集成』第一巻 P.344~345)

 部落民が差別され抑圧される身分からの解放を勝ち取ろうとして必死になっているのに対して、賤民廃止令を受け入れない村々も、少なくはなかった。
 篠山県の郡中組々(現・兵庫県??)は、賤民廃止令について小前たちによく言い聞かせたが、「一同承服仕りかね、強いて申し聞かせ候得者(そうらへば)争擾(そうじょう)を引き出し候様に存じ奉り候ニ付き」(吉田證著『同和問題の歴史と認識』明石書店 1989年 P.243)、次のケ条を聞き届けて欲しいと明治4年9月、篠山県に歎願した。
 それは、「穢多」に対して、①神社の氏子に加入させないこと、②穢多村の庄屋を組の会合に参加させない、年貢の割当てに立ち合わせないこと、③役所の白砂へ召し出された時は、莚(むしろ)一枚分穢多村と離れさせること-などとともに、「一、戸籍帳面一村立ての分は是迄(これまで)通り 但し本村付きの皮多は本村戸籍帳の奥ニ一枚白紙ヲ除ヶ置き然るべき、尤も肩書ニ穢多と相記シ申すべき可(事ヵ?)。一、穢多小前の者ども組々村々俗家へ罷り越し、吸い付き烟草粉(*きざみタバコのことか?)は勿論(もちろん)、落縁(*縁側)へ腰ヲ掛け候儀御差し留めニ成り下されたく存じ奉り候事。」と、従来通りの差別的処置の要求である。
 美作国勝北郡58カ村は明治4年10月連印をもって、新たな廃止令に対し、「積年の旧習とても変革行届き難く、万一人気動揺を醸し候様の事件に立ち至りし候ては実々恐れ入り奉り候間、……従前の通り仰せ付けせられ候様、只管(ひたすら)歎き訴え奉り候、……」(同前 P.241)と、「従前の通り」にするよう考え直すことを訴えている。さもなくば、大事件が起こるかもしれないと、示唆しているのである。(つづく)
 
注1)公議所の公議人は、各藩の重役である執政・参政の中から選ばれた。公議所は立法機関でもなく、立法上の諮問機関でもない。単なる政府に対する建議機関に過ぎない。