明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊷

 巨大地主が越後で次つぎと
                   堀込 純一


  Ⅳ 領主経済と結びつき特権を得て大地主へ

 (11)質地地主小作関係は近世の基本形態

 近世信濃で地主・小作関係を最も広げたとみられる佐久平の大地主は、江戸中・後期における農民的米穀市場の発達(上州の畑作地帯と信州の小諸・岩村田・野沢・臼田など)とそれを基礎とした金融活動の拡大によって成長した。だが、「信州各所領それぞれの名だたる大地主は、その大半が領主経済とむすんで得た諸営業特権を最大限に活用し、商業・高利貸資本を運用しつつ、地主としても大をなしているのであって、佐久におけるように農民向け商品経済に乗っていて領主経済との関係が薄いケースは、むしろ例外にちかい」(塚田正明著『長野県の歴史』(山川出版社 1974年P.180)といわれる。
 
(ⅳ)領主から特権を得て拡大する庄内・本間家

 1869(明治2)年、小作米3万1000俵をもって、日本一と言われた酒田の本間家もまた、庄内藩との経済的結びつきをもって、大地主にのし上がった。
 庄内地方でも、地主の土地集積が大きく進捗するのは、凶作かその直後の年であった。平年作の年には農業経営がようやく成立し得ても、凶作の年には年貢米や再生産に窮した小百姓たちが、土地を質に入れてどうにかしのいだからである。
 この時、「質地に出した土地は、縄延びの多い年貢率の低い土地〔*縄延びとは、田畑の帳簿上の面積よりも実際の面積の方が大きいこと。〕であった。このため、低年貢率の土地を質地に出した結果農民の手には有利な土地がなく、零細な農民はますます困窮した。/このような質入主の事情は、本間家に限らず土地を集積することができたすべての質地地主に共通した要因であったが、本間家が他の質地地主に比較して莫大な土地を集積することができたのは、本間家の財力と藩政への参画にあった。」(『山形県史』第三巻 P.742)からである。
 後に大地主となる本間家の初代は、酒田の本間本家から分家した原光(もとみつ)である。原光は酒田本町一丁目に「新潟屋」という店を出し、「時々上方(かみがた)に上り衣料品・家具・荒物・仏具・雑貨などの日常生活に必要な商品を移入し、米や蝋(ろう)、紅花などを移出した。取引相手は播州奈良屋権兵衛・大坂小山屋喜兵衛・京都小刀屋太兵衛などで、東北にない手工業製品を移入し、藩の払米(はらいまい)や地米・紅花などを農民から買い集めて上方に販売した。」(『山形県史』第二巻 P.882)のであった。
 酒田は戦国期の終り頃から日本海有数の港として栄え(「三六人衆」という町衆が取り仕切った)、最上川沿いの最上(もがみ)・村山・置賜(おきたま)などの米・紅花・青苧(あおそ *衣類の原料)・大豆などの移出、上方からの日常品、蝦夷地からの魚類などの移入の集散地であった。
 原光の末期・1736(享保21)年の時点では、本間家の集積地は14町歩で、俵田渡(ひょうだわたし *年貢と地主取り分の合計)も350俵余にすぎなかった。二代目の光寿(みつとし)になると、本間家は酒田随一の豪商となり、1750(寛延3)年には集積地57・5町歩、俵田渡1437俵余となる。
 本間家の土地集積が本格化し、大地主としての基礎が確立したのは、三代目光丘(みつおか)の時代の宝暦~寛政年間(1751~1801年)である。寛政12(1800)年には、集積地591・5町歩、俵田渡1万4787俵余となる。
 光丘は庄内藩の藩政に参画し、藩財政立て直しに深く関り、その特権をもって土地集積に活かしたと思われる。「安永四年(一七七五)には財政再建の全権を委任され、翌年財政再建案として安永御地盤組立を、天明元年(一七八一)には再び藩の財政整理にあたり、天明御地盤組立を上申した。この中で以前とはちがった点は、家臣の救済のみならず農政に重点を置いたことである。それは農民の懸り物(*経費)を軽減し代官所を通して村遣(むらづかい)金、組遣(くみづかい)金として莫大な低利資金を融通した。代官所を通した農民に対する貸付制度によって、本間家は藩権力の力をかりて多くの土地を集積した。/光丘は従来から扱った払米や地米の他に大名米を扱い、雇船で上方に販売した。また、米札を買い集め酒田の米券取引所で売買し、莫大な利益をあげた。上方からは日常生活に必要な物を移入して地元で売りさばく一方、酒田の商人や大名を相手に金融業や倉庫業を営んだ。本間家の土地集積が多い年は、まさに本間家の商業活動の活発な時期であり、また深く藩政にかかわった年でもあった。」(同前 P.743)のであった。
 その後も、地主としての本間家の発展は続き、1825(文政8)年には、集積地940・6町歩、俵田渡2万3516俵余に増大する。だが、天保期(1830~44年)の中期から、集積地の増加は停滞するようになる。それでも1850(嘉永3)年の集積地は1160・1町歩、俵田渡2万9017俵余にまで増大する。そして、前述するように明治初期には日本一の大地主に上り詰めるのであった。
 その1869(明治2)年の「俵田明細帳」によると、「本間家の小作農は川南一〇九、川北一五六、由利三、計二六八ヵ村に及んでいた。本間家は広大な小作地を経営するため、配下に六五人の代家・支配人を置いた。」(同前 P.744)のであった。「代家・支配人の職務は、本間家の『心得書』によれば、検見・小作地の管理、融資金の斡旋、肥料や馬の購入資金の貸し付け、貯蓄の奨励・試作田の審査・小作人の生活調査・俵田渡米の徴収・坪刈(*収穫量を推定するために各等級の田畑ごとに一坪を刈り取る事)の実施など地主の権限を代行していたが、その基本は俵田渡米の徴収にあった。」(同前 P.745)といわれる。
 
(ⅴ)大地主続出の越後

 新潟県で大地主が続出したことは、目を見張るばかりである。近代に入ってからであるが、「大正一三年(*1924年)には五〇町歩以上の大地主は新潟県だけで二五七家も生じた。全国の五〇〇町歩以上の大地主のおよそ半数を新潟県で占め、一千町歩以上の地主は市島・斎藤・伊藤・白勢・田巻の五家もあった。」(日本歴史地名大系『新潟県の地名』P.19)のである。(拙稿「巨大地主を生みだす越後の地主・小作関係」〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)

全国市場に組み込まれた米作単作地帯
 その基礎は、すでに江戸時代から始まっていた。すなわち、近世越後の質地地主小作制の特徴は、次の諸点にある。
 まず第一は、米作単作地帯としての特質が、幕藩制的全国市場に組み込まれることによって、固定化されたことである。
 越後は全体として米作単作地帯の特徴を示しており、とくに蒲原、三島、頸城(くびき)などの平野部に典型的に示されている。江戸後期には、魚沼・東頸城の山間部に縮織(ちぢみおり)地帯が形成さるが、それは越後全体からみると、ごく一部である。「新潟米作単作地帯の特徴は、国内市場(*幕藩制的全国市場)のなかで米の生産と販売に専業化しているということである。新潟米作単作地帯はもっぱら米(とその加工品)を国内市場に提供し、……それに対して魚類、砂糖、塩などのほか、工業生産物とくに木綿織関係品を大量に移入し、また蝋、菜種油、藍などの畑作農産物も購入している。こうして米作に専業化した新潟地域は工業生産物、海産物、畑作物商品の販売市場となって、国内市場にかなり強固に編入されている」(高沢裕一著「米作単作地帯の農業構造」―堀江英一編『幕末・維新の農業構造』岩波書店 1963年 P.137)と言われる。
 そして、「……米を最大の商品とする新潟米作単作地帯にあっては、寄生地主制の農業構造が形成されやすいと考えられる。それは、まず米の生産はその加工過程が比較的単純であるために木綿織、絞油、養蚕業などとちがって、耕作農民が個々に稲から米に精製し、とくに賃労働を雇傭する加工業をともなわない。そして、裏作も畑作もない米作専門のこの地域では農民は地域内でほかに生産と生活の手段をもたない。また米はほかの商品にくらべて投機性がつよく、ほかに投機の対象となりうる生産がないため、米と米をうみだす土地が商人・高利貸資本の利殖の対象として集積されやすい。このため米作農業にあっては寄生地主制が早熟的に成立しやすいと考えられる。」(同前 P.137)というのである。

継続する耕地開発
 第二は、越後では土地開発が近世初期のみならず、その後も引き続き行なわれ、土地兼併の前提条件が継続されたことである。
 江戸時代の越後で、「とくに開発のさかんであった時期は、(1)江戸時代初期の河谷平野などの未開発地の開発がさかんにおこなわれた幕藩体制確立期、(2)一七世紀前半の町人の勢力が増大して、その財力で開発がすすんだ元禄期、(3)一八世紀前半から一九世紀前半にかけて干潟(ひがた)の干拓がさかんにおこなわれた寛政期、の三つのピークがあった。」(井上鋭夫著『新潟県の歴史』山川出版社 1970年 P.144)と言われる。
 高田藩など上越地方では、新田開発は17世紀がもっとも盛んな時期であった。それは、大瀁郷(おおぶけごう *現・上越市)の大瀁新田、中谷内(なかやち)新田、大潟(おおがた)新田が有名である。開発に伴う用水整備では、中江(なかえ)用水、上江(うわえ)用水、西中江用水などがあげられる。中越地方では、長岡藩が主導し、灌漑工事では大江用水、牧野一之江用水、刈谷田川大堰(おおせぎ)、飯塚江用水が有名である。下越地方では、領内に多くの沼地をかかえる新発田藩が士農の区別なく開発を奨励し、治水と新田開発が進められた。
 越後の新田開発は、江戸前期だけにとどまらず中期後期においても活発に行なわれた。中期以降の開発としては、頸城平野や越後平野(関東平野に次ぎ全国第二位)に散在する大小の潟湖(かたこ *海岸部が砂丘などで外海と分離して出来た沼や湖)の干拓が主要なものであり、しかも町人請負開発で進められた。また、新田開発は洪水対策と結合して行なわれた。有名なものは、紫雲寺潟・福島潟(以上、現・新発田市)、鎧潟(よろいがた)・田潟・大潟(以上、現・新潟市)などがある。
 二毛作ができない越後では、土地生産性の発展は水田の外延的な発展に頼らざるをえなかったのである。しかも、その地形・自然条件から、豪雪と低湿の地帯が多く湛水田の拡大に成らざるを得なかった。

小作人経営を維持する長期出稼ぎ
 第三は、一毛作の土地柄からして畑作物と連結した商業的農業の多面的発達ができなかったこと、とりわけ平野部では地元での兼業先がほとんどなかったことなどで、江戸や関東諸国への出稼ぎ(「江戸稼ぎ」「関東稼ぎ」と称された)によって、どうにか小作人経営を維持する限界状況を強いられたことである。
 農業を基本とする封建制経済において、幕藩体制は基本的に長期の「出稼ぎ」は許されないことである。しかし、商品経済が次第に発達する状況下で、小作人経営(イエ)を維持するには出稼ぎが不可欠になるようになると、幕府も1777(安永6)年には、“村の耕作に障りがない”という条件付きではあるが出稼ぎを部分的に容認するようになる(『日本財政経済資料』巻二 P.1008)。さらに天明の大飢饉で農村生活が混迷すると、出稼ぎ奉公はなお一層増えていった。
 長期の出稼ぎと困難な小作人経営に疲れ果て、出稼ぎに出たままついには逐電してしまった百姓も少なくは無かったと思われる。しかし、年老いた両親や妻子を棄てることもできず、出稼ぎの給金で小作人経営を補填する百姓も多かったのであろう。その上、厳しい身分差別に耐えながらも、小前たちは小作人経営の維持に懸命となっていたのである。
 その差別の過酷さは、新潟県三島郡越路町(現・長岡市)の長谷川家に残された、享和3(1803)年閏正月付けでの小作人を躾け・統制するこまごまとする家訓(54カ条)で明らかである。
 その第11条目には、「村方博奕(ばくち)吟味致し候所、内の家来共致し候てハ村の者の吟味までの差支(さしつかえ)ニ相成り候間、山長うろん(胡乱)の節は内吟味致すべく候」(『新潟県史』資料編7近世二 P.283)と、村での博奕吟味に差支えが無いようにと、内々で山長(*その正体はよくわからないが、小作人管理の差配人のような者か?)が「内の家来」(小作人)を内吟味するとしている。また、この文書の題名は、「男女家来共え申し渡し条々」である。まさに、文字通り、地主と小作人との関係は、主人と家来の関係なのである。
 また、1816(文化13)年ごろに書かれたある書物は、出稼ぎ奉公人の小作人生活での身分的屈従を次のように描写している。すなわち、「古郷(ふるさと)にては村役人等に頭を押付(おしつけ)られ、或は長(おさ)百姓の庭へ入る時は履物(はきもの)ならず、傘(かさ)足駄(あしだ *雨の日に履く二枚歯の高下駄)は村内にて用る事ならぬ抔(など)と、窮屈に挫き付られて居し者がその苦労もなく……」(武陽隠士著『世事見聞録』青蛙房 1966年 P.122)と。

中小地主をさらに呑み込む巨大地主
 第四は、自作農の土地を集積した中小地主の所持地が、さらに大地主に集中する流れが形成されたことである。中山氏によると、越後での「大地主の土地所持は第一に自営農層を主体とする集積対象からの小規模な、しかし件数上圧倒的に多数の集積によって形成されている。安永・天明期(*1772~89年)から化政期(*1804~30年)までの間の状況は広範な村々で農民的土地所持が質地地主的土地所有に組み替えられていった状況を示すものといえよう。第二に大規模集積・所持は中小地主層からの集積がなければ形成されなかったこともまた明らかである。中小地主=村方地主層からの集中的集積が大地主諸家の地主小作関係に影響したことは容易に想定される。」(中山清著『近世大地主制の成立と展開』吉川弘文館 1999年 P.173)のであったと言われる[t1]。
 その事例として、越後国北蒲原郡中村のケースが見られる。幕領・中村(現・阿賀野市)の所持地は、1800(寛政12)年までに過半の土地が質入れされ、それでも経営は苦境を脱せず、村役人や惣百姓が相談した結果、全村質入れを決定した。だが、すでに中村の所持地のいくつかは村外に流失している。この請返しに奔走し、一村として取りまとめたのは近隣の庄屋(地主)である。だが、その庄屋に「……一村所持の力はなく請返(うけかえし)代金その他の資金は市島家(*越後の大地主)から提供されている。享和期(*1716~36年)から始まった一村質入れへの動きは文化二年(*1805年)二一〇〇余両の質流証文が庄屋家と市島家との間で契約されて終了する。」(中山前掲書 P.174)のであった。
 また、越後国北蒲原郡菅田村(すげたむら *中条町―現・胎内市)の場合は、一村全体が高利貸の金融活動に引き込まれ、雪だるま式に借金にまみれる典型的な様子を示している。その経過を以下に見ると、
 (1)1796(寛政8)年11月、菅田村の村民全員は、中村浜(中条町大字中村浜―現・胎内市)の名主・佐藤三郎左衛門の祖々父に土地を質入れした(この際に、佐藤家は菅田村の庄屋も兼任する)。前々から違作が続き、百姓経営が成り立たなくなったからである。この時の質入金元金は、高501石6斗4升5合に対して、1453両余であった。質入れ年季は、5年であった。
 (2)しかし、5年後の享和元(1801)年の暮れになっても、返済のめどもなく、むしろ5年間の利米は159・9石余になり、換算すると約545両となる。そこでこの約545両を元金に繰り込み、新たな元金は約1999両となった。
 (3)だが、5年後の文化3(1806)年に年季明けとなるが、やはり返済も出来ず新たに借金が約908両も増え、借金総額は約2907両となり、寛政8年時の約2倍に膨らむ。
 この時は、菅田村民はもはや請返しはできないのですべてを流地にして三郎左衛門へ渡すので、代わりに増金(ましきん)1)を受け取りたいと申し入れる。これに対して、地主の三郎左衛門は「内歩改め」をするならば―という条件付きで受け入れた。「内歩改め」とは、畦などを耕地に組み入れ、村高を改め増大させてその増加分を含めた平均金額をもって質代金とするのである。地主にとっては、田畑面積が増えれば、利米も増えて、利益はさらに増大するからである。
 複利計算で借金を膨らませる(たまった利息を元金に繰り入れて膨らませること)のは、高利貸の常とう手段であるが、三郎左衛門は他にもさまざまな手段を以て、百姓からの収奪を図った。たとえば、①前述のように「内歩改め」によって、更に収益を増大させたこと、②自ら指名した時三郎(蒲原郡城塚新田の者)を庄屋代にして、さまざまな策謀を以て借金取り立てを行ない、村民を潰れ百姓に追い込んだこと、③文化3年の凶作に際して、翌年藩から御救い米が下付されたが、三郎左衛門は未納の年貢米と相殺する形にして、実際には百姓への下付を遮断したこと―などである。この結果、菅田村96軒のうち、31軒が潰れた(全体の32.3%)のであった。(つづく)

注1)質地の増金(ましきん *上借金〔うわかりきん〕とも言う)とは、土地を質に入れたときに質代金の他に質置人が後で上乗せして質取人から借用する米金銭のことである。