明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊶

村請制維持のため質地小作の普及
                              堀込 純一


    Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎知識

  (11)質地地主小作関係は近世の基本形態

 前回、摂河泉などで普通地主小作制が広がった要因として、商品経済の発展をベースに、①局地的「労働市場」の形成、②取引の自由と公正さを求める農民などの村域を越えた国訴運動、③入会地の衰退や灌漑施設での共同体規制の弱さを挙げた。
 これらは、いずれも近世封建制の根幹である村請制を揺るがし、封建制そのものを形骸化させるものである。というのは、村請制は日本近世の封建的生産様式を維持・再生産し、封建的領有者の地代取得を実現する上での要であるからである。まさに村請制は、幕藩権力を背景にしつつ、経済外強制を主要に担うものなのである。

(ⅰ)経済外強制としての村請制
 近世日本では、年貢・諸役の取得は、幕藩権力を背景にしつつ、村請制によって間接的に行なわれた。
 中世の畿内やその近国で普及した「惣村自治」は、近世統一権力の登場によって、完全に破壊・消滅させられたわけではない。水本邦彦氏によると、「初期『村方騒動』(*村役人の会計不正や専制支配などをめぐる反対闘争)は、領主の直線的農民把握方式を拒絶し、言うなれば領主の在地不掌握(つまり、村を媒介にしてしか在地の生産を把握できない)という結果をもたらし、同じことであるが、年貢収取問題の多くを村の内部問題として扱うという構造をもたらした」(同著『近世の村社会と国家』東大出版会 1987年 P.23)といわれる。
 つまり、封建的生産様式に不可欠な経済外強制は、主要に村請制が担ったのである。(経済外強制について、詳しくは拙稿「『基底体制還元主義』を克服できない俗流唯物論」〔党ホームページに掲載〕を参照。)
 その村請制の基本は、領主が百姓に課する年貢・諸役を村ごとにまとめて上納させることにある。近世の権力は検地により、村ごとに村人個々の所持地を明確にし(名請け人)、その代わりに年貢・諸役上納の担い手にした。そして、検地によって設定された村高を基準として、ムラごとに年貢高を決めた。領主は年貢徴集にあたって、年貢免定(めんじょう)・年貢割付を個々のイエではなく、ムラに出した。これを受けて名主(庄屋)などの村役人は、決まった年貢総額(村高)を百姓の所持高ごとに小割りし、それをまとめて上納した。そのために、ムラは領主が作った検地帳(土地の配列順に記載)をバラバラにして、名請け人ごとあちこちの土地をまとめた名寄帳(なよせちょう)を別個につくり、年貢割当てに利用した。
 村請制は年貢・諸役の徴集を基本としつつも、人の移動(結婚や出稼ぎなど)を管理する宗門人別改め(戸籍に当る)、軽い犯罪や民事訴訟の裁判、百姓経営を安定化させる「相互扶助」などもムラの重要な任務とした。村のしきたりや決まりを受け入れない場合には、そのイエは「村八分」にされた。ムラは領主法を遵守させるための下請け団体なのであった。
 
(ⅱ)徳政の内在化と質地請出し慣行
 中世の土地売買は、前々回述べたように、①永代売り、②年季売り、③本銭返し(本物返し)の三形態で行なわれていた。だが、近世初期になると、①が盛んに行なわれるようになる。だが、近世統一権力が成立しても、当初、徳政は戦国大名同様の構造をもっていた1)。
 しかし、過酷な収奪のために逃散が頻発し、さらに寛永の飢饉など天災が追い打ちをかけた。そこで幕藩権力は17世紀後半になると、百姓の成立(なりたち)2)と領主の永続的収奪を両立させようとする体制づくりを進めた。すなわち、村請制と「本百姓体制」を維持・強化するために、幕府は寛永20(1643)年に、田畑永代売買を禁止する。また、中世以来の徳政については、百姓成立の中に質地請戻しとして内在化され慣行とされた(詳しくは白川部達夫著『近世の百姓世界』吉川弘文館 1999年 を参照)。すなわち、徳政は、まさに本来の意味である「仁政」に戻すように務めたのである。
 しかし、百姓の世界において、「永代売証文の売買は、幕府などの永代売禁止令にもかかわらず、ながくつづき、質地証文による売買が一般的になるのは一八世紀中葉以降であった。しかし一七世紀中葉から、質地証文の普及がはじまることも事実であった。その変化は、一般には永代売禁止令の浸透と説明される。しかし、現実には、公儀がともかく永代売禁止令を励行しようとした段階では、ほとんどまもられず、むしろ永代売禁止令を励行することを事実上放棄した一八世紀中葉から、質地売買に移っていくのであるから、この説明は疑わしい。むしろ、永代売にふくまれていた請戻しの可能性がせまくなるとともに、請戻し可能な売買形式を明確化しようとする百姓側の動きが、質地証文の一般化を生み出したと考えるべきであろう。」(白川部前掲書 P68~69)と、白川部氏は強調している。
 中世の徳政は、近世の質地請戻し慣行として変成され、内在化された。この慣行は、年季制限が有るか無いか、あっても何年ぐらいか、また請戻し(取戻し)が無償か有償か、有償でも元金程度か否か―など、地方によって実にさまざまである。しかし、確実なのは、質地請戻し慣行が全国に存在し、近代になってようやく無くなっていったことである。この慣行は、とりわけ東北・関東に強く、普通地主小作関係が広がった畿内にも存在した。そして、この質地請戻し慣行は、幕藩体制が弱体化する幕末から明治維新初期に各地で起こった「世直し一揆」の社会的基盤の一つにもなったのである。

(ⅲ)ムラ・イエ存続優先の質地小作の実態
 近世の地主・小作関係について、大塚英二氏は、「……近世期の地主小作関係は基本的に質地地主小作関係範疇に属し、大別二つのスタイルを持ったと考える。それは年貢立替(たてかえ)と融通を基本とし、剰余収奪は二の次で、村防衛と百姓経営立て直しのために機能したものと、剰余収奪を目途とし、後の寄生地主制的な発展につながっていくもの(従来はこれのみを地主小作関係と見ていた)の二つである。このうち、近世期の地主小作関係は基本的には一貫して前者の枠を出るものではなかったと考える。しかし、近世後期以降徐々にではあるが後者が浸透してきて、近代所有制度の下で前者を圧倒し、一気に制度的確立を見たと考える。」(同著『日本近世農村金融史の研究』)校倉書房 1996年 P.126~127)と、見立てている。
 戦後の近世地主制研究は、圧倒的に金儲け主義の寄生地主制に発展するものだけを追っていたというのである。
 質地地主小作関係は、もちろん村請制と密接な関係を持っている。たとえば、質入れが17世紀後半には頻繁になり、土地の所持権が行方不明になる事件が増加するが、幕府は寛文6(1666)年11月の法令で、質地証文に名主・五人組の加判を命じた。これは村役人や五人組に連帯責任を負わせるだけでなく、質入れには村役人の承認が必要となることを意味する。また、質地小作関係が成立する前提には、百姓が年貢を納められない事情(自然災害・病気・経営破綻など)があるが、年貢上納に責任をもつ村役人らが小作料の設定を行なう。これらはすべて、村請制を維持するためである。
 以下では、剰余収奪は二の次で、村防衛と百姓経営の立て直しを目的とする質地地主小作関係の形成に関する二三の事例をあげてみる。

〈相模国根府川村〉
 根府川村(現・小田原市)は、山間村落で、名主の広井家が村内の政治・経済を掌握する絶対的な存在である。そのため大半の小前層と広井家との間の債権債務が、村内の大半を占めていた―と言われる(この項は、以下、荒木仁朗著「近世中期債務処理の展開」―『関東近世史研究論集』1村落 岩田書 2012年 による)。
 荒木論文によると、小田原地域の土地売買は、17世紀後半までは永代売りが多くを占め、その後、18世紀以降は、有合(ありあわせ)売渡しが増え、「一九世紀には土地売買といえば有合売渡しといえるほどその大部分となっていた。有合売渡証文とは、一種の質地形態で元金を返済すれば何年経過しても、売り渡した土地を請け戻すことが可能である売買契約である。」(P.161)とされる。
 元禄16年11月、関東では大地震が起こり、大規模な津波が発生したため、海にも近い根府川村は甚大な被害をこうむる。「そのため、広井家は、名主の立場から、村民の救済のため、金子貸与を行っていたと考えられる。つまり、この借用は、災害を契機に発生したもの」(P.167)であった。
 この際に、契約された借用金は、権作以下37名となっており、おそらく名主・広井家を除く村の全家と、荒木氏は推定している。借用金は個々人とも二種あって、一つは無利子、もう一つは利子付きで、「拾五両壱分の勘定ニて壱ヶ年分宛ての利金」である。
 しかし、いくら低利であっても、元禄16(1703)年から享保2(1717)年の14年間にもわたると借金は積み重なることとなる。そこで村人たちは、享保2年5月に、見直しの契約を行なっている。それによると、①無利子の借用金273両8匁9分、②15両1分の利子付きの借用金455両7匁4分、合わせて728両4匁3分にふくれあがった借用金の代わりに、村が所持する郷林壱ヶ所を「有合ニ売渡す」ことによって埋め合わせた。
 ここで、村人たちは、①②の借用金を一括にするとともに、個々の村人の家ごとの債務を郷林という村所有の担保に一本化している。村人たちは積み重なる借金の苦悩から、ひとまず「解放」された。
 だがしかし、「この契約は、元金を返済すれば質地は請け戻すことが可能であったが、村落共同体が所持した郷林を担保としたため、個人が自分の借用金を返済しても、郷林を分割して請け戻すことはできなかった。広井家に対する三七人分の借用金七二八両余りが全額返済されたときのみ郷林は、請け戻すことが可能となっていた。郷林を担保にするということは、ある意味では貸主=債権者(広井家)を保護する側面も有していた。」(P.168)と、荒木氏は言う。
 ここでは、個人の返済は認められず、広井家との質地小作関係をより深く、より長期化させるものである。こうして、ムラは存続できたとしても、広井家と他の村人の不平等な関係を持続化させるのであった。
 
〈下野国桜町領〉
 二宮金次郎(尊徳)が小田原藩から桜町領仕法(藩主の大久保家から分家した旗本宇津氏の領地の立て直し)を命ぜられ、家財諸道具を処分し一家を挙げて桜町陣屋(栃木県芳賀郡二宮町→現・真岡市)に転居したのは、文政6(1823)年、37歳の時である。
 北関東は、安永・天明期(1772~89年)に集中した自然災害、領主による年貢・諸役の過酷な押し付けなどにより、著しく農村が荒廃していた。戸数・人口も大きく減り、村そのものの存続が危うくなっていたのである。桜町領(4109石)の三カ村(物井村・横田村・東沼村)の元禄期の耕地は501町8畝20歩、家数433軒であったのが、金次郎が仕法開始する頃には、耕地・人口など全体的に3分の1前後に大幅に減少し、家数は156軒まで落ち込んでいる。
 金次郎の桜町仕法は、さまざまな困難を乗り越え、どうにか戸数・人口を回復し、年貢高も凶作年を除き、一八〇〇俵余に増加した。しかし、金次郎は満足せず、5カ年の仕法延期を願い出て許可された。報徳仕法は近隣で評判となり、さらに天保7~8年(1836~37)年の天保飢饉もあって、報徳仕法による農村・農業の立て直しの依頼は、下野や常陸の諸藩から続出した。さらには幕領の真岡代官所管轄領、晩年には日光神領の立て直しも命ぜられた。
 尊徳の報徳仕法は、藩主・忠真が『論語』の「直(なお)きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報(むく)ゆ」(憲問第十四)から命名したものである。だが、尊徳は極めて実践的な人で、思想的には独自性をもっていた。すなわち、「『報徳』の道とは、過去・現在・未来の三世を一貫する『天・地・人三才の徳』に報いる道であり、人間の主体的な勤労の徳と万物を育む天地の徳とが相和することによって人間ははじめて生存が可能なのであり、したがってその徳に報いる気持ちをもって生きなければならない」(大藤修著「二宮尊徳」―岩波講座『日本通史』第15巻近世5 P.343)とする。そのためには、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」が重要であるが、とりわけ後の二者が重視されている。
 分度(ぶんど)とは、「各々の収入=『分』に応じて支出に限度を設け――すなわち予算を立て――、その範囲内で財政を運営する合理的な計画経済を意味している。一家・一村・一国の財政を維持するためには、それぞれ『分度』を確立することが肝要である。……収入より支出を少なめに見積もって『分度』を設け、倹約によってその『分度』を守れば、余剰が生じる。そして、勤労して収入をふやせば余剰も増大する。この余剰を、自己の将来のため、子孫のために譲り――すなわち貯蓄(自譲)――、また親戚・朋友のため、郷里のため、さらには国家のために譲るのが、『推譲(すいじょう)』である。」(同前)とされる。
 金次郎は、桜町仕法を行なうにあたって、小田原藩および宇津家との間でいくつかの約束事を事前に交わしている。「それは、①今後一〇か年の宇津家の収入を米一〇〇五俵余・金一二七両余、それに雑税の約一七両余とする、②小田原藩から尊徳に年々米二〇〇俵と金五〇両を諸経費として補助する、③一〇年間は尊徳にいちいち経過の報告を求めないし、小田原への引き揚げも命じない、④格別の凶作年は……定額年貢を適用しない」(『小田原市史』通史編近世 P.769)などである。
 この①が、分度にあたり、領主財政の仕法開始前10年の平均(徹底的な調査のうえで算定された)としたのである。そして、余剰がでた分は、インフラ建設など仕法推進の資金に回し(推譲)、さらに生産量を高めるというものである。
 桜町仕法は、たしかに農村・農業を大きく改善させた。「資金の無利子貸与などによる荒地の再開発、窮民撫育を主眼とするこの仕法は徐々に成果を結び、天保二年(*最初の約束期限)には桜町領では一千八九四俵の増収があり、家数も一六四と増加した。」(日本歴史地名大系『栃木県の地名』P.313)のである。
 桜町仕法もまた、他の領主仕法と同じく荒地の再開発、水利施設の整備、領地内外からの入百姓、出精者への毎年のような褒賞などを行なっているが、報徳仕法のユニークさはなんといっても報徳金融にある。
 それは、「一つは無利息ということ、もう一つは年賦あるいはもっと短い周期でもよいが割賦で償還させるということ、そしてもう一つは、元金を完済したのちになお一年なり二年なりの支払いをつづけさせるということ」(守田志郎著『二宮尊徳』朝日選書 1989年 P.169~170)である。この最後のものが、無利息で使わせてもらった徳に報いる意味であり、報徳冥加金と称された。
 だが、問題点の第一は、冥加金の正体が、宗教的ともいえる説得活動の上での、一種のカンパであることである。確かに元金を完済する何年間は、無利子である。しかしその後の冥加金を加えると。利子付きとなる。なるほど、この利率は町人貸しや村備金よりも低率である。しかし、尊徳が無利子と言っても、その実態は利子が付くことには変わらない。冥加金納入についても、強制ではなく自由意志と言うが、結局、冥加金の払い込みがなされるのは、村落共同体の同調圧力(日本的集団主義)を利用しており、実質は「強制」である。何故ならば、払い込みしなければたちまち「村八分」になってしまうからである。
 第二は、貸し出し対象の百姓が選別されていることである。報徳金融の実際の運用では、「質地請戻しへの運用が圧倒的に多い。だが、単にそれだけではなく、肥代金、日光社参時の馬代金、更に村内で何らかの商業活動を行うための資金に充てる等々、その用途はさまざまである。」(大塚前掲書 P.267)
 しかし、その金融対象をみると、明らかに選別されている。すなわち、「弘化二(一八四五)年『御仕法御土台米並(ならびに)日掛縄索(なわない)代共請払中勘帳』には、出精人(*労働に熱心に取り組んだ人)に褒美を与える記述があるが、そこでは縄ない(*縄作り)が可能な、即ち主たる男子労働力が存在する安定している経営のみが出精人表彰の対象となりえて、貧困のため他所稼ぎをせざるをえない農民は、そうした助成策から切り捨てられていた側面を窺うことができる。もちろん、縄ないという労働に参加できないのだから、入札の権利(*報徳金融を受けられるか否かの資格をえる権利)を失うのは共同体の成員として当然のことかもしれないが、縄ないが可能か否かという点で既に困窮農民は仕法(*方法)から外されていたのである。」(同前 P.267)
 第三は、報徳金融の利率は、村民を対象とした場合と、村外の者を対象とした場合では違いがあり、明らかに後者の方が利率は高いのである。まさに報徳金融は村内での低利率を村外での相対的に高い利率でカヴァーしているのである。
 村内外の利率を「……比較してみると、村内同士が一両につき質地を平均二〇八歩出しているのに対し、村外との関係では、一両につき質地三四四歩を出している。この質地として差し出す歩数の差から見て、桜町領三カ村の質地地主は、村内農民と質地関係を結ぶ時は、かなり低利の計算で関係を結ぶのに、他村の農民と関係を結ぶ時は、結構高利で結んでいるように思われる。後者は、前者の一・六五の質地を渡す勘定になっている」(P.324~325)のである。まさに差別的な金融なのである。
 だが、低利率の貸付にもかかわらず、村内の質地小作は以前よりも増大している。質地関係は、「天保以前のものは、五〇年余で一五〇件ほどであるが、天保以降は、嘉永四年までの約二〇年間で二三四件を数えている。」(大塚前掲書 P.282)のである。貧窮分解を阻止する名目で報徳仕法での農村立て直しは、結局、一部のものの犠牲の上に、質地小作を拡大させているのである。(つづく)

注1)100年以上吹き荒れた中世の徳政一揆は、戦国期に入ると、戦国大名によって発動された。その発動は、旧来と変わらず、代替わりの時とか、大きな天災の際などであるが、戦国期らしく領土争奪の結果としての新たな勢力の入部により為政者が交替する際にも行なわれた。しかし、徳政は両刃の剣であり、戦国大名は徳政の発動と停止を状況に応じて使い分け、領国支配を安定化させ、戦国大名の公的権しての性格を獲得する手段にも利用した。他方、在地徳政は惣村自治が発展した畿内やその近国で根強かったようである。しかし、既成武士団と主従関係を結ぶ「侍衆」が横断的身分階層として形成され、彼らが村請制を担い(稲葉継陽著『戦国時代の荘園制と村落』校倉書房 1998年 の第7章を参照)、また、「百姓衆」の徳政発動をコントロールしたとされる。
2)百姓成立については、本シリーズ?を参照