明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊵
 
  普通小作何故広がったのか
                            堀込 純一


     (ⅴ)畿内などで普通小作をもたらした諸条件

 畿内などで普通地主小作関係が発展したのには、さまざま要因がある。畿内は、商品経済の最先進地であることをベースに、第一に、局地的「労働市場」が形成されたこと、第二に、自由な売買関係を追求する「国訴」運動などが大規模に展開されたこと、第三に、村落共同体の規制が相対的に緩和されたことなどが、主な要因となったのである。

〈人手不足と手余り地〉

 堺の町は、大坂夏の陣(1615年)で焦土と化したが、「元和の町割り」で、地続きの北庄村・舳松村・中筋村の三カ村と湊村(元は舳松村の枝村)のそれぞれの土地の一部(総計63町歩余)が堺に編入された。そして、堺の北・東・南の三方に濠をめぐらし、農村部と市街地との境界とし、湊村を除く三カ村の百姓たちを移住させ、農人町が成立した。三カ村の村域は耕地のみとなった。
 宝永元(1704)年には、大和川の付替えという大工事が行なわれた。このため、新大和川の河口は土砂で埋まり海辺には洲が生まれ、つぎつぎと新田が開発された。
 その後、安永6(1777)年の頃になると、「村高八千三十八石四斗これ有り候内、六百石余は出屋敷住居の百姓所持いたし、五千四百石余は堺農人町に住居したし候もの所持いたし、二千二百石余ハ堺町人の所持いたし(候)」ものとなっている。
 天明元(1781)年7月、和泉国大鳥郡の幕領舳松(へのまつ)村などの村役人たちは、定免(じょうめん *の一種で、数年程度の期間、豊凶にかかわらず上納率を一定にする年貢徴集法)の引下げを願い出る(青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』(第五巻 三一書房 P.395~397)。その理由は以下のようなものである。
 第一は、今の石盛(こくもり *土地の種類や等級に応じて決められた法定収穫高で年貢の規準額)は、堺が繁栄していた頃に決められたものであるが、今や堺は不繁昌になっており、高い石盛のままで助成もなく百姓が困窮していること。第二の理由は、もともと「堺廻り三カ村」に属していた農人町の者たちは全て百姓だったが、今は堺の戸籍)に入っており、年々町人の風俗に染まり、「百姓の所業(しょぎょう)一向これ無く、男女とも町奉公に出で候もの多分これ有り」の状況で、農業に従事するものが減少したことが振るわないこと。第三は、麦の合間に大豆を仕付けているが、「右(みぎ)大豆仕附(しつ)け候儀は、全て手余り畑ニて年々御年貢諸役ニ引き足り申さず、年々不足の分(ぶん)地主弁納仕(つかまつ)り罷り在り候処、この節(せつ)一同至て困窮いたし候故」、地主の不足分補充も限界に来たということ。第四は、大和川の河口部分での「新田開発出来(でき)仕り候ニ付き、農人町小作人の内(うち)勝手宜しからざる旨(むね)ニて小作地地主へ相返し、右新田の小作いたし、又(また)は無高百姓、小高持百姓等町方奉公相稼ぎ候ニ付き、自然と作人数少(かずすく)なニ相成り」の状態で、人手不足で経営が困難をきわめていること。
 人手不足・手余り地の問題は、堺だけに限ったことではない。小林茂氏によると、「(摂津国)西成郡江口村(*現・大阪市東淀川区)外(ほか)三カ村は、寛政三(*1791)年一一月、労働力の不足で・村内に手余り地が出現していることを訴え、このため役所は、四年一〇月・五年三月と続いて、村民の村外奉公や高持百姓が相当の賃銀を出して村内日雇(ひやとい)を雇用するようにと達している。……同様の問題は西成郡江口村に近い川口村で、近傍一一カ村とともに、文化七(*1810)年一月、大小の百姓がいずれも他借(*借金)して肥料・生活費に当てているも、連年不作で藍作・大根もよくなく、小作人が小作米を未納するので、高持百姓もなりたたないと訴えている。……さらに大坂の外郭をなす地域をみても、たとえば寛政四(*1792)年一一月、天領の西成・東成・有馬の三郡村々では、肥類(こえるい)高値で農業経営が困難であること、村内小作人が小商人となり、農業労働者の給銀や農具が高くなり、村々疲弊し手余り地ができてきたこと、検見取りが実施されては相続できないこと、京坂の革美(*華美)な風に染まっている上に、取箇四つという高免(*四公六民の年貢)で悩んでいること、江戸表役人の出張が多く、その経費に難儀していることを訴え、……。河内石川郡では、天明二(*1782)年に、小作人が払底し、肥料代もなく、『御上え対し強訴等致』すぐらいの世になったといっている。河内茨田郡大枝村(現・守口市)では文政二(*1819)年一月、村内百姓全部が立ち会ったとき、『去ル十三ケ年已前(いぜん)卯年(注―文化四年)中、村方御田地宛作小前、手余りニ相成り候ニ付き』として、以後他領出作を禁止する旨を申し合わせている。」(同著『近世農村経済史の研究』未来社 1963年 P.215~216)という状態である。
 人出不足の背景には、人口問題もあることは言うまでもない。近世の人口(武士を除く)は、享保17(1732)年に約3129万人に達したが、その後、飢饉などにより増減を繰り返し、幕末の弘化3(1846)年には約3222万人にまで回復する。(斎藤修・高島正憲著「人口と都市化、移動と就業」―岩波講座『日本経済の歴史』2017年 P.63)
 大坂およびその近郊農村のかなりの部分が属していた摂津国の人口は、1750(寛延3)年は約80万人であったが、弘化3年には約76万人に減少している。(新修『大阪市史』第三巻 P.384)
 和泉国の場合は、1721(享保6)年が21万8405人で、この年を100.0とすると、1750(寛延3)年が95.2、1786(天明6)年が87.3(19万762人)、1798(寛政10)年が91.2、1804(文化元)年が92.6、1822(文政5)年が94.1と変動し、享保6年水準を回復していない。(『堺市史』続編第一巻 P.934)
 摂河泉では、諸産業の発展に伴う需要に比し、働き手が足りず人手不足に陥ったことが、村域・領域(領地域)を越えて、働き手が移動し、局地的な「労働市場」が形成されることになる最大の要因である。
 
 〈自由な売買を求め国訴運動〉

 第二は、商品経済が発達した摂河泉では、百姓たちは、問屋・仲買などの株仲間の市場支配の動きに抗して、早くから自由な商品取引を求めてきた。その闘いは、文政期(1818~30年)には、1000単位の規模の村々が結束し、幕府に対し油や綿の自由な取引を要求するまでに高揚する。この闘いは、国訴と称された。
 摂河泉では、とりわけ幕府領・旗本領・大名領などが複雑に入り組み、最大の領主である幕府を除くと大藩は存在しない。摂河泉での大名領は、全部で6藩だが、最大の藩は岸和田藩5・3万石である。大名領以下の旗本領などは小さく、一つの村からの年貢を複数の領主が収取する相給・三給・四給も少なくなかった。このような状況下で、百姓たちの闘いは、郡や国を超えて、横に連帯し、結束して幕府にたちむかったのである。
 しかし、自由で公正な取引を求める闘いは、文政期の国訴運動よりも以前から闘われてきた。その代表的なものの一つは、金肥の値上がりに反対する運動である。
 畿内農業の生産性を高めた要因には、金肥の使用がある。そのことは同時に、金肥の暴騰によっては逆に、零細経営の百姓を破産させるもとともなった。
 この金肥には、干鰯(ほしか)・干粕・下尿(しもごえ)などのいくつかの流通ルートがあるが、それらの価格は干鰯の値段を基準として決められた。このため、金肥の高騰に対する闘いは、干鰯屋に集中した。百姓たちの干鰯高騰に対する反対運動は、幕末まで継続される。
 綿関連では、百姓たちが株仲間の独占支配の策動を打ち破り、勝利している。
 摂河の百姓たちは、地元の群小綿商人たちと連合し、大坂の綿問屋の市場支配に反対し、摂河の村々では綿商人の株仲間を実現させなかった。また、「取引が手狭(てぜま)になる」、「投機的だ!」などの批判が摂河泉の村々に広がり、大坂奉行は大坂・平野郷の繰綿延売買会所を天明7(1787)年12月に廃止する触書を出し、堺奉行所は翌年9月に、堺の繰綿延売買会所を廃止した。農民たちの勝利である。
 国訴運動が高揚する文政6(1823)年5月13日には、摂河の786カ村が、“大坂三所実綿問屋株を取り放ち(*免許取り消し)、売捌方(うりさばきかた)手広になるように”と、願い出た。免許取り消しは、真っ向から幕府政治を批判するものである。大坂町奉行所は、これに対し、さすがに“株の取り放ちを願い出るべき道理(どうり)無し”として却下した。
 その後、百姓たちは、「取り放ち」の文言を修正し、手広な取引を認めるように粘り強く闘いを持続する。この結果、同年7月6日、ついに「幕府は綿に関しては農民側の言い分を認め、生産者農民からの直売(じきうり)や直(じき)船積は『勝手次第』という触(ふれ)を出すことになった。三所綿問屋の独占強化によってその下買人のようになっていた在方商人や他国商人の直買(じきがい)・直船積の自由も回復され、農民の手広売買は実現することになった」(新修『大阪市史』第四巻 P.325)のである。百姓たちの広範で粘り強い闘いは、綿に関しては成果をあげたのである。
 油関連での幕府の態度は、頑強であった。それは、江戸の需要に引き合う燈油確保と高値を生じさせないことが至上命題であり、そのために大坂市場を中心にして、他所をそれに従属化させるのが基本的政策であったからである。
 幕府は、すでに17世紀後半に商取引の秩序維持のために、株仲間を公認するようになるが、大坂市場の油問屋は、その代表的なものである。幕府の菜種・水油に対する流通統制が始まるのは、元禄期(1688~1704)年頃からであるが、明和7(1770)年8月には、幕府は大坂市中の外(ほか)、摂河泉の在方にも、油稼ぎ株を設定することとした。この政策は、摂河泉在方の絞り油業者で冥加銀を上納できない零細層をふるい落とし、残りの株を取得できた在方商人を囲い込み従属化させるものである。そして、株仲間全体を排他的・閉鎖的なものにするためである。
 その後も、幕府の市場統制は強化される。安永5(1776)年には、無株の油稼ぎは厳禁となり、寛政9(1797)年には、生産者農民が仲買業者や干鰯屋へ売ったり質入れすることを禁じ、また、在々の絞り油屋の小売りを禁じた。これに依り、農民は菜種を在地で直売りできず、出来上がった油も在地で直買いすることもできなくなった。
 これには多くの百姓たちが怒り、自由な取引(手広な売買)を求めて、幕府への抗議に立あがったのである。郡を越え、国を越え、広範囲にわたる「国訴」運動である。綿・油に関する国訴運動は、文政6(1823)年に頂点に達する。綿関連では、前述したように5~7月の広範な闘いを展開し、勝利する。
 油関連では、同年6月18日、摂津・河内国1179カ村が、「油の直小売り、種物の質入れ、干鰯屋渡しの許可願い、直小売り不許可の時は数カ村組合で手作り種を絞りたき願い」を出す。同日、和泉国一橋領の村々も、菜種の手広売買を訴願する。文政7(1824)年4月13日には、摂津・河内・和泉国1460カ村が、「種物値段引き立つよう(*価格が高値になるよう)、油は時々の相場にて直小売りを許されたき」と、願い出る。
 油に関しては、国訴はついに成功しなかった。しかし、幕府も遅ればせながら従来の燈油政策を根本から建て直さざるを得なくなる。それが天保3(1832)年11月の20カ条(『御触書天保集成』六一三七号 P.669~675)を掲げた大改正である。
 この法令の要点は、①大坂のライバルである灘目(灘周辺)、兵庫を引き立て、ほぼ同格で競争させ、最終的には油価格を値下げさせること、②大坂の油関係の業者の、お上への冥加銀(一種の税)上納を免除し、その代わりに特権的な優遇を無くすこと、③江戸の油市場を霊岸島油寄セ所を中心に育成し、そのために地廻り経済圏の発展を促すこと、④諸国の油絞り業と小売り業への規制を以前よりはるかに少なくし、商売を手広(てびろ)にしたこと―である。
 国訴運動は、百姓一揆とは異なり、庄屋層を先頭とする合法闘争であった。しかし、百姓と在郷の半商人が連合したその闘いは、株仲間による市場の独占支配や、幕藩権力の市場統制に反対する、明確な反封建闘争である。

〈入会地解消と堀井戸増加で共同体規制緩和〉

 第三の要因は、共同体規制の弱体化である。今日においても未だ根強い影響をもつ日本的集団主義(個性を集団に埋没させる)は、近世のイエとムラの秩序によって形成された。そのムラの共同体規制は、土地所持と村請制を基盤に、とりわけ入会地と灌漑施設が物的背景をなした。ところが、さまざまな事情があって、畿内では両者にもとづく個々の百姓に対する束縛が比較的に緩やかであった。
 入会地の問題では、多くの村々で入会地の草木が肥料のもととなった。しかし、大坂周辺農村ではすでに江戸の前期に金肥(*イワシ・ニシンや油粕を肥料に使用)の使用が普及し、農業経営の上で、これに依存する度合いが大きくなる。したがって、新田開発でも河川の芦原を残す必要もなくなってくる。
 灌漑施設の面でみると、1704年の大和川の付替え工事の後も、大和川と石川との合流点に樋を設けて、下流の村々への配水施設を作るだけでなく、「とりわけ古川床その他に開発された新田では、多くの井戸を掘って旱魃(かんばつ)に備えた。例えば幅四間の用水井路(長瀬川)をさし挟んで両側に開発された菱屋西新田では、井戸数は一〇一を数えている。」(『大阪の歴史と風土』株式会社毎日放送 1973年 P.467)のである。
 全般的に大坂周辺には、「……個人持の堀井戸が普及し、それが灌漑に利用されている。これは入会採草地を欠いた条件とともに水不足が綿作を生み、水支配からの諸制約も稲作地帯に比べては弱いものであることを〔*古島敏雄氏は〕指摘する。事実平野郷(*現・大阪市平野区)だけで、天保八年(*1837年)に野井戸一六二五も存在し、溜池は一〇もある事情が雄弁にもの語っている。この点では河州(*河内国)丹南郡の岡村でもかわりはない。宝暦八年(*1758年)に淵(*瀬に対して水がよどんで深い所)は八一ヵ所、野井戸は二二七ヵ所である。明和二年(*1765年)に淵は同数だが野井戸は二八五に増加している。そのうちわく井戸(*湧き井戸)二〇ヵ所、桶かわ井戸一〇〇ヵ所、土かわ井戸一三五ヵ所、川井戸三〇ヵ所となっている。」(津田秀夫著「地主制形成期における小作騒動」―『明治維新と地主制』岩波書店 1956年 P.161)といわれる。このことは、水管理を通じた村内部の身分秩序や、他村との水争いでの村落結合の強化を弱めた。
 畿内では、局地的「労働市場」を形成しつつ、1830年代ころには、土地金融による貨幣増殖(金融業者)と土地集積による収益確保(寄生地主)が分離し、封建制的生産・流通を侵食していったのである。(詳しくは拙稿『近世畿内における普通小作の拡大』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照) (つづく)