明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末維新㊴
  畿内では質地小作から普通小作へ
                                         堀込 純一

        Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識

   (9)建前と実際の乖離の下で地主制の発展

 農業史研究の泰斗の一人と目される古島敏雄氏は、戦後農地改革も間もない1957年に、従来の研究について、次のように総括している。「……地主制史研究と銘うった業績のうち、個別具体性の詳細な検討を志したものは、何れも幕末を時点とするとともに、畑作物商品化の進んだ地点に集中しているという研究対象の片よりが、必ずしも単なる偶然とは考えられない……」(古島敏雄編著『日本地主制史研究』岩波書店 1958年 P.1~2)と。すなわち、「明治以後における地主制の体制的展開の基礎となる大地主地帯の江戸時代に関する解明をやや手薄ならしめ(た)」(同前 P.8)と言うのである。その後、古島氏の言う弱点を埋め合わせるかのように、個別研究の対象は拡大した。
 その結果をみると、近代地主制の出発点とも言うべき江戸時代の地主制は、二つのタイプに大別できる。一つは、全国各地にみられる質地関係による地主小作関係であり、もう一つは、ブルジョア的発展の可能性をもつ畿内に代表される普通地主小作関係である。
 
(ⅰ)日本史における田地売買の歴史

 今回はまず、後者の地主制を中心に検討するが、その前に簡単に、日本の土地売買の歴史を概観してみる。
 古代律令制の下では、土地売買は基本的に禁止であった(山川藪沢は禁制地以外は公私の共利)。その代わり、公私にわたって、出挙(すいこ)による貸借が盛んとなったといってよいであろう。出挙とは、主に稲を春に貸して、秋の取入れの時期に利息とともに返納させた「金融」である。
 中世封建制の下では、鎌倉時代にあっては、在地の武士などが自ら開発した領地(私領)は売買が許されたが、御家人(武士の中でも将軍と主従関係をもった者)が将軍から与えられた新たな御恩の地は禁止され、保護・統制の対象とされた(のちには御家人の私領の売買も禁止された)。
 室町時代にあっては、荘園は鎌倉時代よりもさらに一段と侵食され、ついには、京都周辺の膝下の荘園に狭められてしまった。また、15世紀半ばから16世紀半ばにかけて、徳政一揆の嵐が吹き荒れた。これは、金融業者の法外な収奪を、人民が修正する闘いである。徳政一揆はおよそ100年間も吹き荒れ、在地徳政を基盤に公徳政もみられた。
 嘉吉元(1441)年秋の徳政一揆では、幕府が認めた徳政の基準は以下の通りである。①神物、②祠堂銭(檀家の供養料)、③永領地、④幕府の許可を受けた売買地、⑤寄進地、⑥質流れの期限を過ぎた借銭は、徳政の適用を認めず、⑦本銭返し、⑧年紀売り、⑨質入れされた土地、⑩質流れの期限内の借銭は、徳政の適用が可能とされた。以降においても、大枠でこれらが徳政適用の規準となった。
 中世後期は、畿内を中心に「惣村」や「自治都市」が各所に形成され、人民が自己統治の空間を広げた時代であった。日本歴史は、中央集権的で垂直的な支配制度ばかりではなく、よりフラットな時代も存在したのである。戦国諸大名の覇権争奪の下で、これを鎮圧するのを目的としたのが、信長・秀吉・家康の「天下一統」である。
 中世の「売買」観念も、近代以降の売買観念とは、大きく異なる。中世での「売買」は、(1)永代売、(2)年紀売(または年期売、年季売)、(3)本銭返(または本物返)の三形態に区分できるが、このうち、(1)のみが近代人の売買観念に近似するものである。年紀売(ねんきうり)は一定年数の間、所領を売渡し、期間経過後は、所領は当然売主の手に戻るものである。本銭返(ほんせんかへし)は買戻(かいもどし)権限が留保された条件付きの売買であり、物をもって売買する場合には、本物返(ほんもつかへし)と呼ばれた。(2)と(3)には、とりわけ古代からの徳政観念が色濃く残っているのである。
 近世に入っては、次第に(2)と(3)との違いも、また質入れ地との区別もあいまいになってきたようである。しかし、徳川幕府は基本的に田畑永代売買を禁止した。ただし、質入れは容認された。このため、質地小作が全国(畿内も含め)で広範に見られた。
 
(ⅱ)小農維持策で土地売買の禁止から質地小作へ

 地主小作関係は、時期・地域を問わず、幕藩体制下でも存在していたが、津田秀夫氏によると、「徳川時代における地主小作関係を段階的に整理して、第一次名田小作・質地小作・第二次名田小作に分けられる。」(同著「封建社会解体過程と地主制の展開」〔古島敏雄編『日本地主制史研究』1958年 岩波書店 に所収〕P.205)と言われる。
 『地方凡例録』は、高崎8・2万石の郡奉行を勤めていた大石久敬が領主の命で、寛政6(1794)年頃に作ったものだが、それによると、「名田小作(めいでんこさく)と云(いう)は、質地の小作にてはなく、田畑を多く所持いたし、手作(てづくり)に余(あま)るゆへ小百姓へ数年作らせ置(おく)を名田小作と云、廿(二十)箇年以上なれば永小作に准ず、……」(上巻 P.216)といわれる。名田小作のポイントは、それが質地でなく、大規模農が自ら所持する農地の一部を小作させることである。
 徳川時代初期の地主は、①百姓逃散後の跡地を穴埋めするために、領主が有力な上層農にその跡地を与えて年貢上納に責任を持たせた場合の地主、②初期の新田開発者は主に領主であるが、一部はその領主に支援された大規模農(旧土豪)が新田を開発したが、その場合の地主、③上層農が困窮する百姓から永代売で土地を買い受け、集積した場合などがある。
 徳川時代初期は、新田開発の増大を背景として、複合家族から兄弟などの分家が続出し、また譜代下人の「独立」が進み、彼らが村構成員となり、小農が村の大部分を占める本百姓体制が形成される。その過程で、「第一次名田小作といわれる地主小作関係は、……一面では譜代下人の解放過程で出てくるものであるが、解放された農民の側に本百姓としていまだ完全に独立しえないような経済的条件が存在しているところに著しい特徴がある。いいかえれば、その単純再生産を保証するだけの条件が充分にできていないところに原因がある。」(津田秀夫前掲論文 P205~206)というのである。
 小農を中心とする本百姓体制が形成される過程で、旧土豪の系譜を引く大規模農のすべてが無くなるわけではなく、「独立」したかつての下人などとの関係を維持しながら、不足する労働力を補うものとして小作させる場合が多かったと思われる。
 寛永10年代(1633~42年)は、全国各地で次々と凶作に襲われ、餓死・欠落(かけおち)・走りが続出する。
 これを見て、幕府は、これまでの収奪一辺倒がけっして体制を長期的に存続させるものではないことを自覚し始める。寛永20(1643)年には、田畑売買禁止令を発し、寛文13(1673)年6月には、分地制限令を発するなどして、小農維持策を推進する。17世紀半ばには、大名の改易も急減し、体制は軍事体制から平時体制に転換し、遅くとも17世紀末には、小農を中心主体とする「本百姓体制」が確立する。
 質地を媒介とする地主小作関係の普及は、幕藩権力の田畑永代売買禁止令、分地制限令などの枠組みの下で、村請制を小農たちが維持するうえで、土地の売買ではなく土地金融(貸借関係)に頼らざるを得ない結果である。
 質地小作から第二次名田小作への転換は、東アジアの文化・慣習などの影響を強く受け続けてきた日本では、さまざまな条件を乗り越えなければならず、簡単なものではない。生産力主義者が夢想するように、単に生産力が向上し、商品経済が発展すれば自然と転換するものではないのである。
 
(ⅲ)畿内でもっとも発達した普通地主小作関係

 近代の地主制にも連なる近世の地主制のスタートは、18~19世紀の商品経済の発展を背景とした農民層分解に基づく。それには二つのタイプがあり、一つは、主に畿内にみられるもので、ブルジョア的発展の可能性をもつ第二次名田小作(普通小作)のタイプである。もう一つは、東北・関東などに典型的にみられる質地小作にとどまるタイプである。
 このブルジョア的発展の可能性をもつ地帯の一例として、山崎隆三氏は摂津の武庫郡・川辺郡南半の平場農村地帯を挙げ、この地域の30数カ村の土地所有別農民層構成を1744~1843年(延享元年~天保14年)の一世紀間の変化を分析した結果、次のような三つの傾向を見出している。
 (イ)20石以上層の増大と成長―この層は多少とも雇傭労働を有して富農経営を営み増大する。そして安永期(1772~81年)以降は、50石以上の大高持が出現し、しかも以後没落することなく発展しつづける。
 (ロ)5~20石層の安定と5石以下層の分解―分解は5石以下の零細農民が主なもので、10石前後の中農層の両極分解ではない。
 (ハ)高持農民の減少―これは5石以下層の没落により生ずるのであるが、その反面で無高層の増大を暗示する。(同著「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」―岩波講座『日本歴史』近世4 1963年に所収 P.363~364)
 そして、この三つの傾向は、18世紀中期以降一貫して進行するが、「ところが(ロ)のように分解層が下層農民にかぎられている段階から、天保期をさかいとして、分解が中層農民に波及する新しい段階に入る、すなわち天保期から明治初年にかけて、それまで維持もしくは増加してきた五~二〇石層はいちじるしく減少し、それにたいして二〇石以上層への土地集中が一そう進み、とくに五〇石以上の地主が増加し、ときには100石前後の地主がはじめて出現するにいたるのである。これらの五〇石以上の地主は、その土地所有の拡大に反比例して経営規模を縮小し、貸付小作地による小作料収入への依存度を高める。」(同前 P.364)のであった。これはまさに、寄生地主制への道にほかならない。
 

図表 幕末・維新期の農民層分解   〔単位は戸、()内は%〕

     摂津武庫・川辺郡  河内郡棉作地帯  和泉大鳥郡
100石以上    3( 0.2)   2( 0.5)   3( 0.7)
50~100石   27( 2.1)   12( 3.1)   7( 1.6)
30~50石    55( 4.3)   17( 4.4)   16( 3.6)
20~30石    90( 7.1)   27( 7.0)   21( 4.7)
10~20石   200( 15.7)   49( 12.8)   48( 10.8)
5~10石   243( 19.1)   67( 17.5)   70( 15.8)
5石以下   657( 51.5)   209( 54.6)   279( 62.8)
高持合計   1275(100.0)   383(100.0)   444(100.0)
無高     614       282      561   
注)1)武庫郡は下大市村など13カ村・川辺郡は東富松村など17カ村
の合計(明治10年前後)、河内綿作地は丹南・丹北郡の11カ村(慶
応2~明治5年)、大鳥郡は赤畑村など8カ村(天保14年~明治7年)。


 図表は、摂津・河内・和泉の各地の幕末の階層構成を、山崎隆三著「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」(岩波講座『日本歴史』12 近世4 1963年)から転載したもの(一部を抜粋)である。
 幕末から明治初期において、各地とも50石以上層は二桁を超し、100石以上も2~3軒存在するようになる。5~20石層は3割台から2割台で分布するレベルである。これに対して、5石以下の層は半数以上を占め、とりわけ和泉国大鳥郡は62.8%にまで増大している。
 さらに顕著なのは、無高層の多さである。図表で示された無高は、判明しない村もあり、従って無高の判明する限りの村々の無高と高持の比率である。その比率(無高/高持)は、摂津両郡で48.5%、河内綿作地帯で161.7%、和泉大鳥郡で166.5%にも達している。後の二者では高持百姓よりも、無高の方が大幅に多くなっている。
 山崎氏は、畿内での“普通地主小作関係の成立は、質流れ後に質地地主小作関係から普通地主小作関係に転化していく経路が基本線”(山崎隆三著『近代日本経済史の基本問題』ミネルヴァ書房 1989年 P.135~144)と言われる。
 しかし、18世紀半ば以降の畿内では、質地小作からの転化だけでなく、永代売買による普通地主小作関係が広く展開された。このことは、古島敏雄著『近世日本農業の展開』(東大出版会 1963年)、丹羽邦男著『形成期の明治地主制』(塙書房 1964年)、竹安繁治著『近世封建制の土地構造』(御茶の水書房 1966年)などで指摘されている。
 中村哲著『明治維新の基礎構造』(未来社 1968年)によると、和泉国大鳥郡の赤畑村・梅村などの土地集積を土地金融の観点から見るならば、①近世初頭(慶長・寛永期)、②17世紀末~18世紀前期(元禄・享保期)、③18世紀中・後期、④19世紀前期(化政・天保期)に、時期区分できるという(同著 P.328~354)。
 ①の時期は、残された古文書はわずか6通だが、そのすべてが永代売であった。②の時期は、年季売が最も盛況であった。③の時期は、永代売と質入(しちいれ)が急激に増加して、土地金融の中心となった。④の時期は、永代売と質入れ(=書入)が土地金融の中心であり1)、年季売の比重はかなり低下した。
 中村氏は、丹羽邦男氏の研究を踏まえて、幕末の大坂周辺では、「土地購入は永代売りの形態をとり、土地の質入は活発に行なわれているが、その多くは受け返されており、質流れとなるものが比較的少ない点などから、『天保期以降すでに流地→土地取得のための土地金融つまり金融と土地集中が未分離な形態は姿を消し』、『土地金融と地主的土地集中とは、一は一般農民・地主金貸業者・領主と貸付の対象を拡げつつ貨幣増殖の追求、他は、採算にもとづく有利な土地=小作地取得というそれぞれ独自の活動を展開していって』おり、『明治地租改正、および地所質入書入規則制定以後、急速に全国的にあらわれてくる傾向が、この地帯ではすでに出現している』ことを明らかにした。」(中村哲前掲書 P.329 なお二重かっこ内は、丹羽邦男前掲書のP.23~27)というのである。
 日本は伝統的に国家による土地売買が規制されてきて、代わりに土地金融(貸借関係)が盛んであったが、天保期以降、土地金融による貨幣増殖と、土地集積による収益確保(寄生地主)が未分離状態を克服したというのである。

(ⅳ)近世農業の雇傭労働形態

 農民層分解は、膨大な百姓を没落させ、その多くを雇傭労働に追いやった。近世農業の雇傭労働形態(=段階)は、時期や地域によって、じつにさまざまなものがあるが、これを山崎隆三氏は、大まかに(1)譜代下人、(2)長年季奉公、(3)一年季奉公の三つの範疇に分けた。
 (1)の譜代下人は、一種の奴隷である。譜代下人は「その出身の小農民経営からは永遠に離れ、その生涯において下人たるのみでなく、その妻子にいたるまで下人として主家に隷属する。それは生産・生活手段を完全に失っている上に人格の自由はなく、それ自体が『商品』として『一まとめ・一度きり』に売渡されたものである点において、本質的に奴隷である。」(山崎隆三著「摂津における農業雇傭労働形態の発展」―『封建社会解体期の雇用労働』青木書店 1961年 P.197)と言われる。(引用文中のゴシックは著者)
 (2)の長年季奉公は、土地の質入と同様に、年貢その他の事情で、経営体であるイエの再生産が困難になった際に、一時的な前借金あるいは「口減らし」のために、家族構成員が奉公に出される。しかし、成年後はイエの家族労働に戻ることが予定されている。この形態は、「奉公に入るさいのことはともかくとして、継続的には人格の自由を保持していない。それは『一定の時間ぎめ』ではなくて『一まとめ・一度きり』に売渡されたからである。」(同前 P.203)とされる。
 (3)の一年季奉公(この特殊形態が、日割奉公や日雇など)は、(2)と異なり、平均的な熟練度が前提となり、したがって、その実体は成年労働である。これは、「農業労働力として生産手段から分離し、雇傭されることによってはじめて再結合しうる労働力」(P.205)であり、「一年季奉公は『一まとめ・一度きり』にはではなくて、『一定の時間ぎめ』で販売された労働力」(P.208)である。この点では、一年季奉公は、資本主義下の賃労働の性格を部分的に保持する。
しかし、(3)の場合も、基本的に封建制の枠内にあり、とりわけ日本特有のイエ経営体と深く関係づけられている。(3)は、明和期(1764~72年)以降激増し、明治期に至るまで農業雇傭労働の基本形態である。
 すなわち、「……月の一定部分の労働力販売という形態は売るべき労働量の部分を明確にする点で新しさを持つが、そのことは同時に彼等が自らの小生産を持つ存在であることを明確にしてもいる。彼等の受けとる労賃はそれのみに労働力の再生産をかける緊迫度を持つことが少い。そこからも伝統的な賃銀前払形態を契約形態としてとらせ、『人代』(*契約時の奉公人が逃亡・病気などの事情で働けない場合の身代わり)提供その他の古い形式を奉公人請状の上に残させる。そしてさらに著しい点としては、労働力の販売者、従って賃銀の受領者を働く本人でなく、父であり、兄である小農主とさせ、賃銀はこの父であり兄である小農の再生産の補充物たるにすぎず、雇傭されて働く本人の、賃銀による労働力の再生産という形を分離・独立させないこととなる。」(古島敏雄著「幕末期の農業被傭労働者」―『封建社会解体期の雇傭労働』青木書店 1961年 P.192)のであった。
 家族構成員をイエ意識の下で行動させる集団主義は、近代に入っても色濃く残存させたのである。 (つづく)

注1)書入(かきいれ)とは、「……担保物を引渡さず、たんに証文にその物を書入れるだけで借金した場合に成立する。名主の加印も必要でなく、債権者のために何ら物権的効果を生じない。すなわち、債務者が債務を弁済しない場合、債権者には、普通の借金以上に特別の保護は与えられなかったのである。しかし、二重書入は処罰された……。」(石井良助編『法制史』山川出版社 1964年 P.225)のである。