明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊳

 土地売買禁止から
    質流れ容認で地主制へ

                               堀込 純一
 
       Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識

  (8) 幕藩権力の土地政策の変遷

 戦国末期から17世紀後半期にかけては、日本史上空前の土地開発の時代であった。この間、約100年の間に耕地面積は約三倍にも拡大している。これも要因の一つとして、五畿内とその近国など全国各地で、分家が続出して、単婚家族が広がった(東北地方山間部などでは、複合大家族制が残った)。
 幕藩権力の基礎をなす農民を一般的に「本百姓」と呼ぶのが、17世紀半ば以降には広くみられる。「本百姓」は家族を養うに足る規模以上の土地と屋敷地を所持するものだが、本百姓など農民が主に武士階級の支配の下で封建社会を支えてきたのであった。

(ⅰ)小農保護のための田畑永代売買禁止令
 寛永飢饉(近世の三大飢饉すなわち享保・天明・天保飢饉に準ずる飢饉)の最中の寛永20(1643)年3月10日、幕府は「本百姓体制」の維持・再生産と村請制を維持するために、7カ条の「覚」を幕領代官に発した。
 その第三条には、「身上(しんじょう *経済状態)能き(よキ)百姓は田畑を買取り、彌(いよいよ)よろしく成り、進退(しんたい *身の処置)成らざる者ハ田畑沽却(こきゃく *売却)し、猶々(なおなお *ますます)身上成るへ(べ)からざるの間、向後(こうご *今後)田畑永代の売買停止を為(な)すべき事、」(石井良助編「御当家令条」二七八号―『近世法制史料叢書』第二 創文社 1959年 P.154)と、売買停止が明記された。(ゴシックは引用者。以下、同じ。)
 さらに翌日、同じく幕領大官にあてて、より詳細な「土民仕置(しおき)」條々(全17カ条)を通達した。
 その13条目には、「一 田畑永代の売買仕る(つかまつル)まじき事、」(同前 二七九号 P.155)と、再度強調された。
 これら二つの法令(前者の第三条と後者の第十三条)をもって、幕府のきわめて重要な土地政策が規定された。しかし、研究者の間では以下の「田畑永代売御仕置」(寛永20年3月)の罰則も含めて「田畑永代売買禁止令」と理解されている。すなわち、

一(第一条)売主(うりぬし)牢舎の上(うえ)追放、本人死(し)候時ハ子(こ)同罪、
一(第二条)買主(かいぬし)過怠牢(かたいろう)1)、本人死候時ハ子同罪、
 但し、買い候田畑ハ売主の御代官、又(また)ハ地頭(*領主のこと)えこれを取上げ(*没収)、
一(第三条)證人(しょうにん *証人)過怠牢、本人死候時ハ子に搆(かまひ)なし、
一(第四条)質ニ取り候者、作り取りにして、質ニ置き候ものより年貢相勤め(あいつとメ)候得ハ(そうらへば)、永代売り同前の御仕置、但し、頼納(たのみおさめ)買ひといふ、
右の通り、田畑永代売買停止の旨(むね)、仰せ出だされ候、
 (『徳川禁令考』前集5・二七八七号 P.157~158)
 売主は「牢舎の上追放」、買主・証人は「過怠牢」と厳しく処罰され、土地はお上に取り上げられた。そして、「頼納」は「永代売り同前の御仕置」となった。しかし、この違法な「頼納」は処によっては以後も公然と行われ、あたかも二重の収奪の事態となっており、注目すべきことである。

 〈諸藩の対応〉
 幕府の田畑永代売買禁止に対し、諸大名の態度は必ずしも一律に同じものではなかった。
たとえば、加賀藩では、元和元(1615)年12月2日、田畠・男女売買および百姓出稼ぎなど関する7カ条の法令を発令し、高札に掲げている(『加賀藩史料』二巻 P.362~363)。その第3条目に、「自今以後、御公領分(*加賀藩直轄地)・給人地(*家臣の領地)によらず、田畠売買堅く御停止の事」として、幕府よりも早く全領域の田畠売買を禁止している。
 徳島藩でも幕府より早い寛永9(1632)年12月23日に、土地売買について〈覚〉(『阿波藩民政史料』上)を出して、永代売買を禁止し、田畑売買はすべて5年以内の年季売りとし、流地にすることを禁止している。
 御三家の一つ水戸藩では、幕府の禁止令が出た約2週間ほど後の寛永20(1643)年3月24日、「御郡奉行衆へ万(よろず)仰せ出だされ候覚」で、「一、郷中ニて田畑を売り申す百姓これ有るに於てハ、改帳に作り壱年切りに指し上げ申すべき事」として、田畑売買を認めている。
 同じく御三家の一つ尾張藩では、幕府の法令が出て間もなくの正保4(1647)年に、領内百姓が自己の所持地を他領の者に売ったという事件が起こる。これに対する藩執政の結論として、“領内で売買をした場合は勿論定めに随い処罰するが、他領の者に売った場合は先方の同意を得られるかどうかわからないので、そのままにしておく”というものであった。(水戸藩・尾張藩の例は、ともに『土地制度史』Ⅱ P.84)
 伊勢の津藩では、田畑の永代売りや質入れを原則禁止した。だが、「然るとも貧窮の百姓ハ拠無(よんどころな)き子細(しさい)もこれ有るべく候間、是非無く(*やむを得なく)候」(『宗国史』下 P.123)と、容認する。ただ、奉行・代官に断り無しに行った場合は、処罰するとしている。
 肥前の松浦藩では、天保11(1840)年の「被仰渡御請印帳」で、「一 田畑永代売買の儀は、兼々(かねがね)御法度(ごはっと)に付き急度(きっと)相守り候致すべく候」(『禁制地方経済史料』第八巻 P.465)と布達している。「兼々御法度に付き」と述べていることは、これ以前にも禁令が出されていたことを示す。だがまた、たびたび布達されているということは、実際は、禁令が守られていないことを推定することができる。
 現実に、各地の地主の史料をみると、永代売りの証文が数々出ていることをよく耳にする。禁止の建前と異なり、実際は年貢徴収が優先され、売買禁止を実施不可能とする藩が多く見られたようである。

(ⅱ)10石以下の分家を禁止する分地制限令
 耕地開発を背景とした本家からの分家―小農の増加傾向は、寛文期(1661~1672年)には一段落し、耕地の増加は静まってきた。そして、17世紀後半ごろには、質入れが頻繁となり質入れ地の所持権が行方不明となる程になり、それに伴なってトラブルが続出した。
 その後、正確な発布の年月日は明らかではないが(大石慎三郎氏によると、1673〔寛文13〕年6月と推定されている)、以下のような分地制限令が出されている。

一、 名主百姓名田畑持ち候大積(おおつもり *概算)、名主弐拾石(*20石)以上、百姓拾石(*10石)以上、夫(それ)より内(うち *以内)持ち候ものは、石高猥り(みだリ)に分(わけ)もうすまじき旨(むね)仰せ渡され畏れ(おそレ)奉り候、若し相背き(あいそむキ)候はば何様(いかよう)の曲事(くせごと *処罰)にも仰せ付けらるべき事、(『土地制度史』Ⅱ P.86から重引)

 分地制限令は、享保6(1721)年7月に、次のようにさらに厳しく規定された。

  田畑配分之定
高拾石  地面壹町(一町)
右の定(さだめ)よりすくなく(少なく)分け候儀(ぎ)停止たり、尤も(もっとモ)分け方ニ限らず、残り高も此(この)定よりすくなく残(のこす)へからす、然(しか)ル上ハ高貮拾(*20石)地面二町よりすくなき(少なき)田地持ちハ、小共(*子供)を始め諸親類の内(うち)え田地配分罷り(まかリ)成らざる候間、養介人(*面倒をみなければならない者。厄介人)これ有る者ハ、在所ニて耕作の働(はたらき)ニて渡世致させ、或(あるい)は相応の奉公人に指し出すべき事、  
  丑七月 (『御触書寛保集成』一三一七号 P.695)

 幕藩社会の基盤である「本百姓」体制の維持・再生産のために、幕府は懸命であった。

(ⅲ)初めて質流れを容認
 「生類憐み令」で有名である第五代綱吉将軍の治世は、延宝8(1680)年7月から宝永6(1709)年1月までの30年近くの長期にわたる。その土地政策は、従来の田畑永代売買禁止などの政策を維持しようという前半期と、現状を受け入れ、それに対応しようという後半期に分けられる(体系日本史叢書7 北島正元編『土地制度史』Ⅱ〈山川出版社 1975年〉―第一編 近世〈大石慎三郎氏執筆〉P.92~113)。
 前半期の特徴は、田畑永代売買禁止の原則をあくまでも強調しながら、質入れ地の年貢諸役の担い手を明確にしていることである。
 貞享4(1687)年4月の〈覚〉の第一条では、「質地取り候者(もの)、年貢これを出さず、質地に遣(つかわ)し置き無田地の者(*質入れ主)方より、年貢役等勤め候者これ在る由(よし)相聞(あいきこ)え、不届(ふとどき)の至りに候(そうろう)、堅く停止の事」(『御触書寛保集成』二六〇二号 P.1214)と、批難している。
 質取り人が年貢諸役を勤めるべきはずなのに、かえって質入れ人の方が年貢諸役を勤めている―これが不届きだというのである。無田地の質入れ人がどうして、年貢諸役を勤められようか―というのである。
 同年11月には、幕府は「御勘定組頭?(ならびに)御代官心得(こころう)べき御書付(おんかきつけ)」(全22カ条)を発し、その第16条目で次のように規定している。
 すなわち、「田畑永代売の儀、彌(いよいよ)停止たるへし、田畑質ニ入れ候者、身代(しんだい *財産)つぶし(潰し)候ハハ(そうろはば)、年季の内ハ質ニ取り候者に作らせ、年季の明ケ候ハハこれを取上げる(*没収)べし、年季をかきらす(限らず)質ニ入れ置き候ハハ、早速(さっそく)取上げるべし、且又(かつまた)田畑質ニ入れ候事、御代官の手代(てだい)方まで相伺(あいうかがふ)べきの事」(『徳川禁令考』前集4 二一一二号 P.130)と。
 しかし、綱吉の時代から幕府の財政危機が明白となり、幕府は、①金銀の海外流出の抑制、②貨幣の改鋳政策など、財政再建を行なう。幕府はその一環として③年貢の皆納を目指し、代官層を大幅に入れ替えた。
 そして、元禄8(1695)年、農民の土地所持権が混乱し、錯雑化している現状を踏まえて、新たな質地政策を打ち出す。綱吉政権の後半期の土地政策の開始である。新たな政策は、1694年春から翌年冬にかけての飛騨総検地を行なっていた関東郡代・伊奈半十郎(飛騨代官を兼任)が、幕府中枢への伺いに対する回答として出された“質地に関する12カ条”である。
 これは質地の取扱いに関するものであり、ポイントは(1)質入れ田畑の流れ地に関する規定、(2)逆に質入れ地の請返しに関する規定である。その観点から12カ条を整理すると、(A)質流れを認める場合、(B)質流れを認めず、質入れ人の請返し請求権を認めている場合、(C)以上の2つの場合と異なり、とりわけ個々の「証文文言」を重視し、これによって処置する場合、(D)その他―のグループに分けられる。(詳しくは、拙稿「幕藩権力の土地政策」〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)
 ここで注目されるのは、従来、田畑永代売買禁止の原則から、田畑の質入れは認めるが、その結果としての質流れは認めていなかった(年季がきても請返しが出来ない場合、証文の書替えを行なったり、領主が没収していた)態度から、ある特定の条件を備えて質入れする場合は質流れを認め、質入れ人の質地請返しの請求権を認めないとする姿勢に明確に転換したことである。
 その特定の条件とは、“年季明けとなっても請返しができない時は、質入れ地を渡す(すなわち、質流れとする)”という「流地文言(りゅうちもんごん)」が証文に書き込まれていることである。当時、相対(あいたい)での質入れ契約の趨勢が強まっており、そのような社会状況を幕府も認めざるを得なかったのである。しかし、これは田畑永代売買禁止をなし崩しに否定し、田畑永代売買への流れを公認する第一歩であった。

(ⅳ)流地禁止令と「質地騒動」
 その後、質流れの容認が広がり、それに連れて小作権も高まるようになった。幕府としては、支配階級の観点から年貢納入者を保護することが迫られたからである。
 元禄11(1689)年12月、幕府は永小作に関して、〈覚〉を発令する。全3カ条のうち、第一条目は次のように規定している。

一 小作田地出入(でいり *もめごと)大概(たいがい)貮拾年ニ及ぶは〔*小作する田地が大体20年に及んだ時は〕、永小作に為(な)すべし、?(ならびに)質地田畑預り金(あずかリきん)売掛金(うりかけきん *売ったのに未回収の金)等廿年(*20年)過ぎ候ハハ裁許(*役所の許可)に及ばず、併(しか)し證文の品(しな)に依るべき事、……
(『御触書寛保集成』二六〇三号 P.1214)

 このように質地を公認する傾向が強まっているなかで、第8代将軍の徳川吉宗政権は、これを突如否定する逆流を出現させる。享保7(1722)年4月の流地禁止令である。  
 そこでは、「……田地永代売(でんちえいたいうり)御制禁ニて候処(そうろうところ)、〔*流地になる事は〕おのつから(自ずから)百姓田地に離れ候事ハ、永代売同然の儀ニ候條、自今(*今から)ハ質田地一切(いっさい)流地ニ成らざる候様、只今(ただいま)まで質入れニ致し置き候分(そうろうぶん)、又は当然(とうぜん)訴出(うったえで)候て出入(*訴訟)ニ成り候分ともに、質年季明け候は、手形(*証文)仕直させ(*書き直させ)、……」(『御触書寛保集成』二六〇四号 P.1214~1215)と、禁止した。
 流地になる事は、「永代売同然の儀」であるとして、流地を禁止した。そして、質年季明けになっても請戻しできない場合は、以前の様に証文の書き直しで契約延長にするべきとした。
 この法令では、他に小作年貢量も以前のように、利息は貸金の15%にし、それ以上は損金に致すとした。本百姓の没落を阻止しようというのである。
 流地禁止令に対し、農民たちの反対運動が昂然と起こる。それは、出羽の村山郡長瀞村(ながとろむら *現・東根市)と、越後の頸城(くびき)郡下の「質地騒動」が有名である。
 長瀞村には、流地禁止令が公表されておらず、農民たちは近くの本飯田村(*現・村山市)の知人から情報を入手した。何人かがともに検討した結果、これは「徳政のお触れ」だと確信した。そして、質入れ地はおろか質流れ地でも、金子を出さずに取り返すことが出来ると解釈した。農民たちは名主宅に押しかけた際には、“この法令を百姓たちに知らせなかったことは不届至極”と責めたて、その罰としてまず質地を取返し、借金はその後に一割ずつ分割で返済すること、今までの小作料金で1割5分を超過していた分の返済を要求した。さらに質取り人から質地証文のすべてを取上げた。
 頸城地方の闘いでは、享保7(1722)年10月に代官所へ嘆願書を出している。それから読み取れることは、①質置人は質地関係によって耕作権を失っている(質地は質取人が手作している)。②そのため土地喪失の農民は働く手段を失って困窮しており、借金を返すあてがない。③そこでまず質地を質置人に耕作させて欲しいと要求している。④さらに、質地の耕作権を取戻した上で、元利金を年賦で返済し、所持権を確実にする―ことなどある。農民たちの要求は③④が具体的な要求である。
 「質地騒動」は、両者とも江戸で裁定された。いずれも質取人の立場に立ったもので、多くの農民の要求は却下された。農民たちは当然のこととして、納得するものではなかった。頸城地方では、享保8(1723)年4月に、闘いは再燃した。しかし、両地方とも幕府ならびに隣接諸藩の武力によって、「質地騒動」は鎮圧された。

(ⅴ)一転撤回し小作規定
 流地禁止令については、どうやら幕府中枢の不一致があったようである。激しい「質地騒動」もあって、流地禁止令は享保8(1723)年8月28日に撤回された。わずか1年4カ月の短命に終わった。
 これにより、質地にかかわるもめごとは享保6(1721)年以前(流地禁止令以前)のルールに立ち返ることとなった。しかし、単に旧に復するものでなかった。
 享保8年8月の留役(書記官)の伺いに答える形で、評定所一座(寺社奉行・町奉行・勘定奉行によって構成)は、享保8年9月2日付けで、以下のように決定している。
 まず小作料債務不履行の処理については、以下のように決定した。
 滞納となった小作料の額に応じて決済の日限を決め、その日限内で完済できなければ、①直小作(じきこさく *質入人がその田畑をそのまま小作すること)の場合、年季の内でも質地を取りあげ、金主(質取人)に渡すこと、②別小作(べつこさく *質入人以外に小作させること)の場合、小作地は金主に返させ、小作人は身代限り(破産)を申し付けること、③質地ではない名田小作(みょうでんこさく *百姓が自分の所持地を小作に出すこと)の場合、地所は地主へ返し、小作人は身代限り(*破産)とした。
 ついで質入れ債務不履行については、以下のように決定した。すなわち、“年季明けの質地が期限内に返済できなければ、「譲り地」「流地」の文言の有無にかかわらず、「譲り候とも、流し候とも、勝手次第」”とした。(2つの決定は、「享保撰要類集」四ノ下 公事裁許の部三十八)
 ここでは、質地の取扱いが主要な問題であるにもかかわらず、すでに小作料問題が大きな問題となっている。
 以降、部分的な修正がくり返されたが、これらについては前掲の拙稿を参照していただきたい。なお、寛保2(1742)年4月、吉宗はかねてからの懸案であった「公事方御定書」を制定した。そのなかには「質地小作取捌(とりさばき)の事」が20条にわたって整理されている(『徳川禁令考』別巻 P.72~75)。
 所持地の質流れや小作地からの小作料収取が公認となると、寛永20年に発令された田畑永代売買禁止令は、ますます形骸化していった。結局、建前上の売買禁止、実際の質入れ・質流れのかたちでの「売買」が、以降も全国で盛んとなってゆく。こうした状況下で、地主・小作関係は全国各地で拡大してゆくのである。(つづく)

注1)過怠は、過失・罪科のあった時、それを賠償する罰金、又は労役に服させる刑のこと。過怠牢はその後者を指す。江戸時代の牢は未決囚を拘置する所であるが、例外として、過怠牢、永牢があった。