明治維新の再検討—民衆の眼からみた幕末・維新㊲
 
  
イエ維持と賃労働者化との攻防
                         堀込 純一

     Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識
  
    (7)幕末の織物産業の実態(続)
 
〈和泉国宇多大津村〉
 では、中世在郷町の経済力を引き継いだ摂津・河内・和泉は、どうか。
 大阪城の北側・京橋附近を東西に通る線の以南の村々は、一般的に綿作が盛んであった。綿の加工生産では、大坂・堺が中心であった。その他にも、平野郷・池田・天王寺・住吉などに農間余業として加工業が次第に広がった。
 18世紀後半の綿織物は、「農家の婦人の内職であるから、多くても一ヵ月四反から六反くらいしかできなかったが、ほとんどの農家で織られたため、天明六年(一七八六)の江戸商人の見積りによると、大坂集散のものだけで、河内一〇万反、摂津五万反、和泉二〇万反という。もっとも和泉の木綿は、主として堺の問屋があったから、ひかえ目にみても五〇万反はあったろう」(『大阪府の歴史』山川出版社 1969年 P.193~194)といわれた。
 だが、摂河泉での綿作と菜種作は、19世紀に入ると陰りを見せ始め、停滞的となる。これとは対照的に、幕末期、米作と青物作は一段と進展した。この結果、平野郷(現・大阪市平野区)などを除き、摂河泉全般で、綿作は停滞か、あるいは減少をみせるのであった。
 加工生産において、「和泉の場合は繰綿加工と木綿織とが海岸沿いの幾つかの在郷町を中心に進行しており、岸和田藩では寛政二年(*1790年)持高の一〇石につき織機一台と制限している。泉州木綿全体の産額は文化七年(一八一〇)で一〇〇万反、文久三年(*1863年)二〇〇万反に達した」(日本歴史地名大系『大阪府』P.1217)といわれる。
 摂河泉では早くから商業的農業など商品経済が発達し、その分、激しい農民層分解をもたらした。『大阪府史』第七巻は、摂津・河内の米作地帯(21カ村)、河内の綿作地帯(17カ村)、和泉綿作地帯(19カ村)に分けて整理し、幕末の摂河泉での分解の概況を次のようにまとめている。すなわち、「……北摂・北河内の米・菜種地帯では、中農層の比率が大きく、分解度が相対的に低い。河内綿作地帯では、二〇石以上の層が厚く、分解度が高い。和泉綿作地帯も高度な分解を示しているが、さきに忠岡村についてみたように、二〇石以上層の比率が極度に小さくて、五石以下層と無高層が圧倒的優位にあり、下層への分解が顕著に進んでいる。」(P.249)と。
 その忠岡村の北隣りが宇多大津村である。泉郡宇多大津(うだおおつ)村(現・泉大津市)は、紀州街道沿いの半農半漁の村で、寛政4(1792)年頃は耕地の半分ぐらいが綿作であった。
 幕末の宇多大津村の耕作面積別の農民層分化を挙げると、表のようになる。(史料は、天保14年が(A)「村方作付反別諸業取調帳」、嘉永7年が(B)「作附反別其外取調書上帳」で、共に『泉大津市史』第3巻 史料編Ⅱ に所収)
 1町以上の耕作面積を持つ農民は、天保14(1843)年でわずか13戸(総戸数729戸の4.7%。以下、同じ。)である。この層には村役人の過半数(庄屋2人、年寄3人の内1人、百姓代2人の内1人)が含まれている。
 1町以上を経営する農家の多くは、当然にも労働力が足りないので、すべて奉公人を「召し抱え」ている。これら奉公人の数は合わせて28人(男23人、女5人)である。だが、村内で奉公人を「召し抱え」ているのは、1町以上の経営者だけではない。1町未満の農家で、合計42人(男32人、女10人)を「召し抱え」ている。この「召し抱え」農家(24戸)の内訳をみると、大半が2反以上~1町未満の農家であるが、6戸が2反未満でも奉公人を抱えている。
 なお、この宇多大津村279戸の内、無作(無耕作)が90戸(32.3%)もあるが、「専業農家」は、わずか23戸(8.2%)である。だが、1町以上の農家13戸の内、「専業農家」(「余業不仕候」)はわずか4戸にすぎず、残りはなんらかの「余業」を持っている。裕福で村役人にも就いている大規模農家でも、多くが綿業関連の「余業」に従事している。それは単に金儲けのためだけでなく、娘たちの将来を考え非常事態に備え、“手に職を付ける”ことも考慮されていたと推定される。
 これら大規模農家に対し、2反未満農家は49戸プラス24戸の計73戸(26.2%)である。これに無作(無耕作)の90戸(32.3%)を合わせると、その合計は163戸となり、全体の58.4%を占めている。
 土地を喪失している「無作」(無耕作)の家は、天保14(1843)年で90戸であったのが、嘉永7(1854)年には76戸となる。しかし、総戸数が219戸に減少しているので、比率としては32.3%→34.7%となって、かえって増えている。いずれにしても全体の約三分の一が農業からはじかれているのである。その規模は、おそらく畿内以外の農村では見られないであろう。
 土地を所持しないで、しかも小作もしていない層がどうにか生活できたのは、商品経済の発展の下でさまざまな就業先を見出すことができたからである。(A)(B)の史料をみると、宇多大津村の商品経済の発展度合いは、一つは、職業の多彩さ、種類の多さ、もう一つは「農間余業」をする農家の多さで明らかである。
 (A)などの史料は、封建領主の支配を眼目とした調査であるため、あくまでも農業が「本業」とされ、農業以外の職業を「余業」とした。面白いことに、農業以外が実質上、本業の家にもかかわらず、農業を最重要視している建前から「余業」としているのである。
 農業以外の職業については、天保14年4月の(?)「諸商売人・諸職人、他所え出稼(でかせぎ)奉公人名前書上帳」 (『泉大津市史』第3巻 史料編Ⅱ) という史料によって、整理されている。これによると、農家以外の職業は、織物業関連が16戸(織屋職13戸、綿賃打3戸)、漁師7戸、絞油屋2戸、商人14戸(米小売り3戸、豆腐野菜売り4戸、油小売り・綿実買い2戸、ざこ売り3戸、古手紙屑買い2戸)、職人9戸(大工3戸、木挽2戸、桶屋1戸、籠作2戸、犂屋1戸)、手習屋2戸、水茶屋2戸、日雇働き8戸、往来働き7戸、黒鍬働き3戸―と列挙され、合計70戸となる。(往来働きとは街道筋の交通関係の、黒鍬働きとは耕地の土起こしの労働)
 しかし、(A)を子細にみると、これら以外の職業も存在している。具体的には、(「糸稼ぎ」や「木綿荷持」など綿業関連を除くと)「いわし煎屋職」、「地網賃引」、「飛脚」、「村方歩行」(お上からの触れなどを各家に通知する仕事)、「いかけ屋職」(鍋・鎌などの修理をする仕事)、「氏神引請」(神主役か?)である。
 農業以外の就業先が多いこと共に、注目すべきは、兼業農家が多いことである。中には、複数の兼業を行なっている家も少なからず存在する。
 「余業」として表記される兼業でもって、最も多いのは綿業関係である。その数は183戸(総戸数の65.6%)に上る〔(C)でいう織屋13戸を除く〕。そのなかでも圧倒的に多いのは、「糸紡ぎ」の162戸(58.1%)である。次いで多いのが、漁業関係で44戸(15.8%)である〔漁師7戸を除く〕。半農半漁の村とはいうが、いかに綿業が盛んであったかを物語っている。(《補論 綿業の工程による分業》を参照)
 綿業の盛んな宇多大津村で、織屋と称されたのは13戸である。中でも喜兵衛家〔72〕、仁兵衛家〔42〕、などが、多くの織手を雇傭していた。(村内では同名が多いので、史料(A)で記載された名前の順に番号をつけた。それが〔〕内の番号である。)
 雇傭された織手の数を具体的にみると、喜兵衛家〔72〕が19人、仁兵衛家〔42〕が9人である。織屋としての伊兵衛家は、〔77〕と〔254〕の2家あるので正確な数が不明であるが、史料(A)によると、両伊兵衛家に雇傭されたものは、合わせて10人なので、これを仮に二分すると、どちらかの伊兵衛家が必ず5人以上を雇傭していたことになる。この他に甚三郎家〔198〕と儀兵衛家〔269〕が3人、文治家〔65〕が2人、いせ〔105〕家・りよ家〔113〕・新兵衛家〔163〕が1人である。
 なお、各織屋の家族成人人口(15歳以上60歳以下)は、ほとんど4人以下であるが、甚三郎家〔198〕5人と伊八家〔240〕7人がとりわけ多い。織屋としての規模にもよるが、伊八家のように多くの家族労働力が健康であれば、一般的には外部から雇傭する人数はゼロか、極少数でこと足りるであろう。
 宇多大津村など和泉で、少なからずの雇傭労働を抱えた織屋をマニュファクチュア(工場制手工業)とみるか否かの判断の最大の問題点は、古文書に記載された「賃織」という用語のあいまい性にある。織屋での雇傭労働が「賃織」、農間余業として各農家で行なわれた労働が「賃織稼ぎ」と、共に「賃織」という用語が使われ、両者が明確に分離されていなのである。そのうえ、織屋の賃銀支払いは「壱工分賃百廿文ツツ」と、「出来高払い制」が明記されているが、問屋制下での各農家への工賃支払いも、当然のこととして反当り工賃(出来高払い)が通常のことであろう。ここでも両者は明確に分離されておらず、アイマイである。
 この点について、谷本雅之氏は、両者の「……就業形態は可変的なものとなる可能性がでてくる。事実、喜兵衛(*宇多大津村の最大級の織屋)の下で働く一九名の『賃織』は、『佐七娘いと』のように配偶者のいない若年と考えられる労働力が一八名(うち女一六名、男二名)を占めており、集中作業場の下で行うのは、特定の年齢層に限られていた可能性を示すものといえる。経営側からみても、作業場経営の固定費圧力は、手織機(下機)を揃える費用程度であればそれほどの意味をもたなかった可能性がある。ここで対象となっているのは集中作業場、問屋制は、ともに『工賃獲得のために織布労働』を編成する手段であり、生産形態として固定されたものではなく、可変性をもつものとして捉えることができるのではないだろうか。このように考えると、この時期の集中作業場をいわゆる『マニュファクチュア』ととらえ、生産形態として問屋制と二者択一的に議論することが、そもそも不適当と思われる。……集中作業場の存在が、直ちにこの時期の木綿生産が、発展の方向として『マニュファクチュア』の広範な形成、拡大を指向していたことを意味するものではなかったと考えられるのである。」(同著『日本における在来的経済発展と織物業』名古屋大学出版会 1998年 P211~212)としている。
 ここで谷本氏が「可変性をもつ」と指摘しているのは、集中作業場をもつ場合と、問屋制支配の場合とが繰り返され、どちらかに固定されていないこと意味している。
 天保14年の宇多大津村では、織屋が19戸存在したが、中でも飛びぬけて多くの「賃織」を雇ったのは、前述のように喜兵衛家と仁兵衛家である。両家に共通するのは、①ほとんどが村内の娘であること、②工賃が「壱本ニ付き、百廿文ツツ」であること―である。②は、村の協定なのか、領主の命令なのかは不明であるが、何らかの形での規制があったからである。
 問題は①であり、興味深いことが、史料(A)喜兵衛〔72〕の記載方法に見られる。そこでの「賃織」に雇った娘たち18人の外に、別格として1人だけ「当村やす賃職ニ日雇仕り候」という文言が、奉公人についての記載事項の内に差し込まれているのである。村内の戸主には二人の「やす」、すなわち「やす〔66〕」と「やす〔257〕」が存在するが、前者の項を見ると、「当村喜兵衛方へ賃織仕り居り、賃銭百廿文ツツ」と記されているので、「当村やす」は〔66〕の方であることが明確である。
 喜兵衛〔72〕が雇う賃織はほとんどが若い娘なのに対して、唯一「やす〔66〕」だけが年配者(戸主)である。「やす〔66〕」は、本人を含め成人家族が6人であり、子どもとみられる3人は「手代奉公」や「出稼ぎ」に出ている。残りの2人は不明である。しかし同家は、「皆下作」(小作地)の「田畑弐反歩」を耕しており、「やす」は毎日喜兵衛家へ出向いて賃織出来るわけではない。おそらく年配の経験者として、賃織の娘たちに織布の指導をも任せられていたのではないかと思われる。そうでなければ、何故、別格の賃織として一人だけ年配者を雇ったのか、何故、「やす」だけが奉公人たちの記載場所に載せられ、娘たちと同じ場所に記載されなかったのか―その合理的理由が見いだせないかからである。そうすると、直ちに、そんな「やす」の工賃が娘たちと同じなのは解せないという反論があるであろう。その理由は、②の協定の手前から同じにしているだけである―と答えることができる。裏で別個になんらかの「手当」が出ていたかもしれない。
 以上から、喜兵衛家〔72〕は、織屋と伝習所を兼ねており、厳格に言えば、未だ「工場」になり切れてはいないのである。現実に、天保14(1843)年に続いて、弘化2(1845)年、嘉永7(1854)年と調査が行なわれ、織屋は両年とも9戸に減少し、喜兵衛家〔72〕は弘化2年の調査では織屋として記載されていない。嘉永7年には、織屋として「喜兵衛家」が載せられているが、それが「喜兵衛〔72〕」であるかどうかは、不明である。
 
   (8)社会構造全体を見ない方法論上の欠陥

 「厳・マニュ」論争での根本的欠陥の第二(第一は実証分析の脆弱さ)は、「早期資本主義」での資本主義的要素をあまりにも性急かつ一面的に強調したため、当時の社会の全体構造、就中、地主・小作関係が進展する農業構造との連関が軽視されていることである。このため、資本主義が伸長する上での現体制との矛盾・対立や「攻防」が軽視ないしは無視されている。
 老中水野忠邦は、「天保改革」のさ中、天保13(1842)年9月に、「村々風俗その外の儀ニ付き御触書」を公布したが、その中で、「近年は男女とも耕作の奉公人が少なく、自然と高給になった。ことに機織下女と称するものが、とりわけ過分の給金を取っているとのことである。これは余業に走り、本末を取り失った結果である。元来、商売がら当座の利潤を求めて営業する町人と、百姓は違うのだから、これらのことをよく弁(わきま)えて、専ら農業に精を出し、銘々、先祖より持ち伝えている田畑を離さないよう、一所懸命に心がけよ」(『徳川禁令考』)と、命じている。
 農業よりも「余業」に走ることに対する制禁は、その後もしばしば出されたと思われるが、安政4(1857)年8月、泉州の新付村々の代表(惣代)たちは「既ニ当二月中御触れ渡しこれ有り、以来本業の耕作を出情(精)いたし、食物等の小商(こあきない)は勿論、農具の外、在方不似合(ふにあい)の余業は是迄(これまで)仕り来たり候分も追々(おいおい)相止め、農事一般ニ致し、新規ニ小商等相始め候義(儀)ハ決していたす間敷(まじき)段、仰せ渡しの趣、一同承知し畏(かしこ)まり奉り候」(「余業取締方内御伺書」―『泉大津市史』第3巻 史料編Ⅱ P.189)と、権力の命令に迎合している。
 これは単なる建前上の姿勢とは限らない。谷本雅之氏によると、「天保一四(一八四三)年の無作層で、二年後の弘化二(一八四五)年まで系譜を跡づけることのできた四五戸のうち、二五戸が零細ながらも小作経営を始めていた」(同著『日本における在来的経済発展と織物業』P.232)といわれる。これは、単に領主の耕作強制のみでなく、無作の村民が村の「他人(ひと)並み」の構成員たる証しを確保するためでもあった。
 1反未満の耕作地をもつ村民は、表をみても明らかのように、ほとんどが小作地である。たとえ規模が小さくとも、耕作地をもつことが村内で一人前として遇される必須要件なのである。確かに、織屋などの経営が不安定なものであったことも一因であろうが、無作農家が「他人並み」になりたいという欲求と希望は、それほど強烈なものがあった。
 それはまた「村請制」に基づくムラ意識と、その基礎となるイエ意識が村人たちに内面化されていた状況をも物語るものである。日本の家意識は、強固な祖先崇拝に基礎付けられ、それが家職と結合して、歴史的に作られた。それは平安時代末期の貴族から始まり、中世の武士を経て、近世には農民や町人など庶民にまで普及した。
 これに対し、「近世のイギリスでは、農民であっても核家族が一般的で、しかもその規模がきわめて小さかったことも明らかになった。近世のイギリスの家族規模は平均四・七五人であったが、この数字には……非血縁の同居人もふくまれているうえ、この平均値だけでは階層が下にいくほど家族規模が小さくなる事実がみえてこない。十人をこえるような大家族を擁していたのは、貴族や一部のジェントリなど、かぎられたエリート層だけであった。一般民衆は結婚と同時に独立の世帯をかまえた。いいかえれば、独立して生活できるだけの収入が保証されないかぎり、彼らは結婚しなかった。……そのうえ生まれた子供は十歳までには親の家を離れ、他の家に働きにでた。つまり使用人や労働者として雇われた階層の人たちのあいだでは、家族の規模は三人前後にすぎなかった」(世界歴史大系『イギリス史』2 山川出版社 1990年 P.365)といわれる。イギリスでは、自活する年齢以後、子どもたちは親と同居する習慣はなく、家が経営体となることもなかった。
 経営体(家職)としてのイエは、日本独特のものと思われる。そのことは、町家のイエが近代日本の企業体の原型となり、農家の子弟もイエのために奉仕し、いかなる犠牲もいとわないことなどに明白である。
 イエを基礎とするムラは、領主への年貢上納を最優先にして(「村請制」)、厳しい集団秩序を各イエに強制し、その同調圧力(日本的集団主義)は今日においても強烈なものがある。「村請制」は単なる権力的な強制のみならず、ムラ自身の、その基礎であるイエのレベルでの支配秩序(個人を埋没させるほどの強い集団主義)によっても支えられてきたのである。イエ意識は、今日でも、家元制度や政治家の世襲制などに、根強く残っている。
 幕末の1862(文久2)年、一橋慶喜、松平春嶽らの幕政改革に際して、参勤交代制は一時的に緩和され、大名は3年に1年または100日位の在府、大名の妻・嫡子は在府・在国自由となった(慶応元年に廃止され、旧に復帰)。しかし、もう一つの重要な柱である「村請制」は、幕府終焉に至るまで一貫して堅持された。(つづく)
 
 《補論 綿業の工程による分業》
 一般に綿業関連の社会的分業を大きく分かつのは、綿作―紡糸―織布である。毛のついた実綿から種を除くのを、「綿繰」という。分離された繊維の塊りを繰綿という。この繰綿を綿弓の弦の反撥力を利用して細かく、均質に、柔らかくほぐす作業が「綿打ち」である。この「綿打ち」されたものを糸に紡ぐのである。仕上げられた綿糸は、織布担当者(毛綿織屋など)に渡されるのだが、その媒介者である商人が、同時に製品木綿の集荷者を兼ねれば「問屋制」システムが形成される。