明治維新の再検討-民衆の眼からみた幕末・維新㊱

幕末織物業の発展はどのレベルか
                              堀込 純一

   Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識
  
   (7)幕末の織物産業の実態

(ⅰ)戦後も続いたの「厳・マニュ」論争

 幕末・維新期を対象とした戦前左翼の論争では、「明治維新の性格」をめぐる論争を除くと、①服部之総の「幕末厳・マニュ段階」論をめぐるものと、②地主・小作関係をめぐるものが、双璧をなす。論争は、戦後も引き続きおこなわれている。
 1933(昭和8)年2月、服部之総は「明治維新の革命及び反革命」(『日本資本主義発達史講座』に掲載)を提起し、19世紀後半のアジアが資本主義的世界市場へと強制的に包摂される中で、日本がインドや中国とは異なって、民族統一国家を樹立し資本主義的発展を遂げた理由に、単に西欧列強の均衡(日本侵略で意思統一ができなかった)ことだけでなく、幕末時の日本経済の発展段階の高さを挙げた。すなわち、幕末時の日本経済は、マルクスのいうところの「本格的なマニュフャクチュアの時代」(これを服部は「厳密な意味でのマニュファクチュア時代」と訳した〔以下、「厳・マニュ」時代と略〕)に達しており、その後の資本主義化を可能とした根拠である―とした。
 そして、1833年4~7月に発表した論文「維新史方法上の諸問題」では、「『厳密なる意味に於けるマニュファクチュア時代』とは、決してマニュファクチュアが、乃至(ないし)マニュファクチュアの形態及び段階に於ける資本制生産が、社会的生産の全領域にわたって侵入している状態乃至段階を意味するものではなく、却って『厳密なる意味におけるマニュファクチュア時代、換言すればマニュファクチュアが資本制生産方法の支配的形態となっている時代』を意味する」(『服部之総著作集』第一巻 理論社 1954年 P.117 *下線は服部氏)と、注意を促す。
 やや理解しにくいかもしれないが、言うなれば資本主義社会が成立する前の封建制末期に資本主義的要素が拡大しつつある時期(これを服部らは「早期資本主義」と称した)において、マニュファクチュア(工場制手工業)が「資本制生産方法の支配的形態」となっている―と言うのである。
 服部の提言に対しては、労農派はもとより、講座派の内部からも批判がくり出された。服部は、戦後の1952年7月に発表された論文「マニュファクチュア論争についての所感」(これは元々が講演記録)で、先の提起は、「これは講座派の内部批判として提起されたもので、山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎三君の理論に対するものであります。このことは多くの諸君にとって初耳だろうと思います。私はこの事実を公けに話すのはこの席が最初であります。」と、真の狙いを吐露している。その背後にはさらに服部の政治的主張が込められており、彼は次のように述べている。「トロツキストは日本のブルジョア革命が明治維新でともかく完成したという説をとっている」(「服部之総著作集」第一巻 P.293)、「……山田、平野両君の日本封建制を図式化して強調する理論体系は、特殊日本型理論と申しますか、トロツキー的誤謬のうらがえしではないか、そう私は考えた。……トロツキズムの偏向とは、まえにものべたように農民の役割についての無関心、農業革命の問題についての無理解であります。日本の労農派理論というものは、まさにそれでありました。平野、山田両君の理論はちょうどその逆を、そのうらがえしをおこなっているのであります。……」(同前 P.301)と強調した。まさに服部は、労農派、講座派主流の双方を批判したかったのである。
 しかし、服部の「厳・マニュ」論は、大方が認めるように、個別の実証分析がきわめて脆弱な時代のものである。したがって、これをめぐる論争もまた観念的なものに傾きがちのものであった。
 地域ごとの個別研究が推し進められるようになるのは、ようやく戦後も1950年代以降である。以下では、先達の苦心の研究結果をまずふまえ、マニュファクチュア論争の総括の前提としたい。

(ⅱ)綿業関連の社会的分業の発展と特産地化

 近世初頭いらい、綿作は畿内が最先端であった。それが18世紀になると、尾張を中心とする東海地方や、芸備を中心とする瀬戸内海地方にも広がる。さらに18世紀と19世紀が交る頃よりは、山陰・関東・東山などの地方へ急速に展開する。これに伴い、綿織業も畿内・尾張・瀬戸内・関東・山陰などでも盛んとなる。
 この中で、比較的早くから綿織業が発展する畿内や尾張では、19世紀初頭には綿作・綛糸(かせいと *糸を紡ぎながら巻き取る装置〔綛〕からはずした糸)生産―綿織生産が分離して、社会的分業が形成される。
 
 〈尾張国尾西地方〉
 三河地方の綿織りは天明期(1781~89年)の終わりから寛政のはじめ(1789年=寛政元年)頃に、発展をみせた。だが、化政期(1804~30年)になると、知多と尾西地方で綿織りが大いに盛んとなり、三河木綿は影を薄くしていった。
 尾張の西部(現・尾西市など)では、「明和(一七六四~七二)頃京都西陣から桟留縞(さんとめじま *木綿の縞織物の一種。インドにあるポルトガル植民地サントメから渡来したのでこの名がある。)の技術が伝わり、さらに菅大臣縞の技術が、京都西洞院(にしのとういん)の火災によって美濃に移住した機業者によって伝えられ、文政期(一八一八~三〇)には関東の結城(ゆうき *現・茨城県結城市)から伝えられた結城縞(*絹と綿の交ぜ織り)が織られ、ことに文政以後、この結城縞(ゆうきしま)が生産の中心で諸国に売られた。」(日本歴史地名体系『愛知県』P.399)といわれる(縞とは、織物に二種以上の色の糸を用いて縦または横に織り出したもの)。またこの時、高機(たかばた *地機〔ぢばた〕に比べ高い位置に腰かけて織る機械)もともに移入された。
 尾西織物については、「尾西縞木綿生産におけるマニュファクチュアの広汎な展開はむしろ明治年代に入ってから」という主張と、「幕末に同地方の縞木綿のマニュファクチュア生産が支配的であった」という主張とが対立していた。だが、林英夫氏は、「近世末期における尾西綿織物の展開過程」(『社会経済史学』第22巻5・6合併号に所収)で、「尾西綿織物における幕末期の支配的な生産型態は、直接生産者による内機生産(マニュか、マニュになりうる生産)ではなく、出機生産=本質的には問屋制前貸生産が支配的な段階であった」と、後者を批判した。
尾西地方は、名古屋城の西方、木曽川の流域であり、対岸は西美濃地方である。この中で、主産地の一つ起村(おこしむら *現・尾西市)は濃尾平野のほぼ中ほどに位置し、木曽川の東岸にある。畑作地帯ではあるが、純農村ではなく、中山道の脇往還美濃路の一宿である。村高(約338石余)の割には人口密度が高く、農業のみでは自活できない農家も少なくなく、農間余業で補う農家も多かった。
 起村総戸数は、1845(弘化2)年で262戸で、このうち(イ)交通業関係が57戸(全体の21・5%)、(ロ)農業が53戸(20・2%)、(ハ)織物業関係が80戸(30・5%)、(ニ)商業が39戸(14・9%)、(ホ)雑業(日雇、出稼、職人特殊業、医師など)が33戸(12・6%)である。
 この地方で、「出機(でばた)制」へ急速に転換したのは、天保末年(1844年)前後である。林氏によると、「出機制」経営には二つの方法があると言われる。すなわち、「(A)織機を所有する農家(内機農家)に織元より原料を貸与して賃織(ちんおり)させる方法=内機制支配。(B)織元より織機を貸与し原料を支給して賃織させる方法=引機制支配。」(林前掲論文)の二つの支配形態である。「生産者側からみて、織元から織機を借りること、つまり引くことを引機(ひきばた)するといい、織元側から出機を出すととなえ、引機に出すとはいわない。」(林英夫著『近世農村工業史の基礎過程』青木書店 1960年 P.145 本項目は、主に前掲論文とともに林氏の見解に依る)のである。天保末年頃には、この地方では、内機中心から出機中心の経営に転換したのである。
 この転換の背景には、尾張藩の政策がある。文政・天保期(1818~44年)に、商品生産が飛躍的に成長し、「……尾張藩は天保一三(*1842)年三月に国産会所を設立して農民的商品生産の利潤を藩財政のうちに吸収しようと図った。そこで、幕政の改革に準じて株仲間の解散を断行し、また解散せざるを得ないまでに成長した在方の商人をも含めて、領内の商品生産の一元的な統制と再組織を敢行しようとしたのである。会所設立に当り、世話役・肝煎役・世話人として城下の特権商人のほか、在方商人・富農をも数多く任命して在方の経済的、政治的支配層と連結して、生産から流通にいたる過程を掌握し、全利潤を藩権力によって握ろうと図ったのである。政策上では正金(*紙幣に対して、金貨・銀貨をいう)の払底からくる米切手の下落や、物価騰貴を押さえるため、金正(*正金)獲得を目的として他所積荷はすべて会所の手を経ることとし、会所では領内の商品を米切手で買入れ、領外へは正金交換で売却することによって正金の入手と蓄積を図った。また同年、幕領・尾張領とも農民の町奉公を制限し、奉公人の還住策をとったことは、内機の織屋奉公人の自由な雇入(やといいれ)が制約されて内機経営者には打撃を与えることとなり、内機経営者は、出機経営への転化をなさざるをえなくなった。」(林前掲書 P174~175)のである。
 また、運上(*一種の税金)の問題がある。「運上は織機所有者に対して所有桁数(*台数のこと)に掛けられる。弘化元(1844)年には『機子一桁ニ付き、一ヶ月十匁ツツ』であるが、『出機機子』つまり―引機の織機は一桁五匁とあって、出機の運上金は半金定額となっている。なぜ出機織機の方が低額であったか、弘化元年織屋惣代から出した願書の中で出機の運上を内機のそれより低額とする必要を次のように述べている。/『織元より百姓家え賃織(ちんおり)ニ差出し候分ハ先達ても申し上げ候通り、女房織(おら)セ申し候処、麥(麦)作・夏作・秋作取り入れ時節ハ勿論(もちろん)、田方植え付け并(ならびに)蒔き物時節ニハ、織方相休(あいやす)み家内の給物(*給仕?)仕拵(しこしらえ)候透々(すきずき *あいまあいまに)織り申し候故、一向(いっこう)得織(えおり)申さず、その内小児持ち居り候女房どもらハ小児え乳持ち抔(など)給させ候透々ニ織り候故、是(これ)などハ尚更(なおさら)、得織申さず』(*「得」は下に否定形を伴うと「不可能」の意となる)」(林前掲論文)と訴えている。出機は農間余業として営まれていたから、当然、専門家された内機生産よりは生産量が劣るので低額にして欲しい―というのである。
 林氏によると、「天保一五(*1844)年の書上(かきあげ)に『惣織屋どもの内、出機と相唱え、織元より賃織ニ差出し候分四百六拾四御座候』……とあって、この年の惣織屋の内機数一四〇桁に対し、出機数四六四桁とある。翌弘化二年(*1845年)の織屋職……が四五戸、仮に仲買の三戸も出機を出していたと仮定して四八戸になるから、大よそ一戸の織元に対して平均は最低一〇桁の出機となる(四八戸の全部が出機を持っていたとは限らないから、これはあくまでも最低の推定)。とにかく四六四桁という織機が何らかの形で起村の織元の支配を受けていたのだから相当広範な地域にわたって出機農家が存在したものとみられる。」(林前掲書 P163~164)のであった。
 しかも、この出機によって、農家を収奪し、「出機的生産様式」を広げたのが、「……内機経営主によって主導されたのではなく、中買(*仲買)的商人によって押しすすめられた」(林前掲論文)のであった。「これらのことから自明のごとく幕末期における経営型態は『出機』による生産・経営型態が主導的であったことである。典型的には一台の織機も自家で運転せず、出機専業の織元=問屋制経営が支配的なあり方であった。だから当然にマニュファクチャーが主導的な生産段階ではなかった」(同前)のである。
 
 〈下野国足利〉
 桐生・足利をふくむ両毛 (上野・下野) 地帯で織物業が発展した要因の一つに、「……織物の原料である生糸・綿糸の供給地域が隣接し容易にこれを入手し得たことが挙げられる。すなわち、『御当国、国産の品は蚕糸・糸・機(はた)に御座候所、西上州は繭、中上州の絲(*絹糸)、東上州より野州え引き続く機と相互に古来より渡世仕り候』とあるように、繭・蚕糸・織物の地域的な分化が形成され」(市川孝正著『日本農村工業史研究』文眞堂 1996年 P.168)、この社会的分業の一環に両毛地方の機業地帯が繰り込まれていたからである。
 明和期(1764~72年)以前はあまり盛んでなかった真岡木綿は、安永・天明期(1772~89年)には、とみに生産量・売買量を増やすようになる。「下野国芳賀郡から常陸国真壁郡にわたる、鬼怒川・小貝川の流域は、関東を代表する棉作地帯であり、ここで生産される地棉を原料として近郷百姓が農間余業に織出したのが真岡木綿であった。」(『栃木県の歴史』山川出版社 1974年 P.213)と言われる。生産量そのものは、真岡近辺よりも、常陸の下館・真壁・結城の方が多かったが、「真岡木綿」の名で売り出された。
 農間余業として行なわれた生産は、綿打(わたうち *木棉の実から種を除いた繰綿を綿弓などの道具で打って精製すること)や晒(さらし *水で洗い日光にあてたりして白くすること)を除いて、棉作・糸とり・綿織の各工程は、同じ農家で行なわれ、工程ごとの分業は未だほとんど展開されてない。
 一部を除きほとんどが、二反以下の棉を作付けする農家が、農間稼ぎとして織り出されたわずかな木綿は、近在の商人が買い集め、それは晒屋の晒加工を経て、江戸へ出荷される。「賃晒屋の多くは、晒賃や費用の前払いを在地の木綿業者からうけて、これに従属支配されていた。したがって江戸の木綿問屋は、仕入金の前貸を通じて在地の木綿業者を統制し、それを通じて賃晒屋をも規制することができた。真岡木綿の特産地形成は、こうした江戸問屋へのタテの系列化によっておこなわれていった」(同前 P.214)のである。
 桐生周辺では、天明期(1781~89年)頃から、高機(たかばた *従来のいざり機〔地機のこと〕よりも5倍も能率が高い)が普及し、足利近在でも、文化・文政期(1804~30年)頃に高機が広がる。だが、それ以前から盛んであった真岡木綿は、技術革新に遅れ、天保期にはむしろ棉作地帯となり、足利や佐野の機業地帯への原料供給地へと変わった。
 先述したように桐生や足利での高機の普及とともに、「織元(=元機)による小生産者に対する問屋制的支配も漸次進展していった。」(市川前掲書 P.277)のであった。織元は一方で家族労働に加え、奉公人を雇傭して自家経営をするとともに、他方で近在の農家に高機・原料などを貸し付けて(賃機制)、問屋制支配を拡大した。原料費は、商品価格の7~8割と高い比率を占める。よって、物価変動や過酷な年貢上納などで経営が行き詰まると、織元へ借金しながら経営回復をせざるを得なくなる。果ては借金を返済できなくなり、所持する田畑の永代売りや質入れでしのがねばならなくなる。現に大経営を行なう織元には、地主を兼ねる者も多く、また名主や組頭などの村役人を務める有力者でもある。
 文政期(1818~30年)、桐生周辺では賃機制がすでに広汎に展開していた。これに対して、足利周辺でもやや遅れたが、賃機制が普及する。そして、足利織物は桐生市場から独立するようになる。「足利織物は初め上野国桐生の六斎市(*月のうち、6日仏事をおこなう日に所定の場所で開かれた市)に搬出されたが、桐生の高価な絹織物に対し、木綿地縞・結城縞・鶉縞など安価な絹綿交織物(*絹と綿が交ざって織り込まれたもの)が生産を伸ばし、天保三年(一八三二)桐生市場よりの独立をみた。」(日本歴史地名大系『栃木県』平凡社 P.720)と言われる。
 足利織物が両毛地方で群を抜く原因は、主に①従来のいざり機から高機への転換、②絹織物から綿織物へ、あるいは絹綿交織物への転換―による。さらに足利で織物業が発展した条件として、政治的に恵まれたものもあった。それは一つには、「足利地方の農村に育まれ、発達した織物業には、西陣のような封建的特権もギルド的規制も存在しなかった。農民達は封建領主の年貢徴集の基礎である農耕をおろそかにしない限り自由に織物業を営むことが出来た。」(市川前掲書 P.228)のであった。それに足利藩においては、「領主は織物業の発展を規制しない許(ばか)りか、むしろ織物業の発展を助成していたように考えることができる。」(同前 P.261)と言われる。古文書には、藩が農家の田地を引当(担保)にして、資金の貸し付けを行っている様子がうかがえる(同前 P.261~262)。
 既述のように賃機制が幕末に普及するようになると、織屋の中には、農業は下男などに任せ、自らは織物業に集中するようなものも出現する。こうして、特定の織屋に機台が集中・集積するようになる。
 織屋の多くは15台以下で、その数は121軒であり、全体149軒の81・2%を占める。残りは16台以上で総数28軒(18・8%)である。最大の所有者は江川村・新蔵の50台である。
 市川氏によると、「これまで二、三の研究者はこれをもって(*一部の家に機台が集中したこと)当時の足利におけるマニュファクチュアの展開を示す好箇の史料としていた。しかし大島五郎『徳川時代桐生織物業の史的研究』の伝える古老談にもあるように『記憶に存する限り足利にも、又桐生にも、そんな大経営はなかった』のである。この多数の機台は……『持候もの』であって、自家作業場において運転されていたものではない。これらの所有機台数の中には内機と出機とが含まれているのである。恐らくその大部分が賃機に出されていたものとみて誤りはないと思われる。」(市川前掲書 P.252~253)とされる。
 一部の織屋(農家)に機台が集中したことをもってしては、マニュファクチュアの形成とはいえない。自家経営で使用された内機(うちばた)の外に、村内外の農家に貸し出された出機(でばた)も含まれているからである。ここでは、マニュファクチュアのような工場制ではなく、依然として賃機や小規模農家による小生産が主流なのである。
 1859(安政6)年6月、「開港」・貿易開始によって、日本経済は否応なく世界資本主義体制へ組み込まれた。これにともない国内市場は、大きく再編成される。とりわけ綿織物の輸入の急増により、国内の綿織物業者の多くが潰される。絹織物では生糸の輸出(日本の輸出の第一位は生糸)により、西陣や桐生などの特産地は原料糸の不足で危機に追い込まれる。
 「開港」と明治維新(権力移行)後、経営危機は真岡木綿や桐生絹織物だけではなく、足利織物をも襲った。足利織物は元機(*有力織屋のこと)と買次を中心に、原料市場と商品市場とを結ぶ生産・流通機構を整備し、織物地域全体の立て直しを図った。
 しかし、西南戦争後の景気回復期に、一時的に需要が伸長したものの、足利織物は藍玉の代わりに使った化学染料によって織物の退色や悪臭をもたらし、明治10年(1877)年ごろには、足利織物の信用は地に落ち、生産量も減少するに至った。明治14(1881)年以降の「松方デフレ」下では、足利織物は衰退の極に達したと言われた。
 この中で、足利織物の現場では、生産関係が大きく変化する。「……足利における明治二〇年代後半のマニュファクチャーの形成は、有力な商人資本(元機屋)の主として海外市場という新たなる条件の添加による産業資本(マニュ)への範疇的転化(上からの)に基づくものであることは明らかである。直接生産者(賃機)の国内市場の発展による下からの途の律動を展望しうる為めにはなお若干の時を藉(か)さねばならない」(市川前掲書 P.267)のであった。
 足利で手織(ており)機に代わり力織機が中心となり、機械制工業の段階に移行するのは、大正期(1912~26年)である。  (つづく)