明治維新の再検討-民衆の眼からみた幕末・維新㉟

 幕藩統制下から民間市場の台頭
                         堀込 純一


        Ⅳ近世百姓一揆にかかわる基礎知識

    (5)米中心に形成された幕藩権力の全国市場

(ⅴ)堂島米市場における取引

 堂島米市場は、①取引が行なわれた「立会場」、②事務所の役割を果たした「会所」、③帳合米商いの清算が行なわれた「古米場」(「消合場〔けしあいば〕ともいう」)―の3つの空間に分けられている。①はさらに、米切手を売買する正米商いの場、先物取引である帳合米商いの場に分れていた。
 堂島米市場では、一年を三期に分けて取引が行なわれた。それは春相場(四月限市〔きりいち〕)、夏相場(古米限市)、冬相場(極月限市〔ごくげつきりいち〕)の三期である。春相場は、正米商いでいうと1月8日~4月28日、夏相場は同じく5月7日~10月9日、冬相場は同じく10月17日~12月24日である。帳合米商いは三期とも正米商いと同じ日に始まるが、しかし終るのは一日早い。
 米仲買は、正米商いでは、約30銘柄の米切手を売買した。正米商いは午前10時前後から正午前後まで約2時間にわたって行なわれ、取引開始時点を「寄付(よりつき)」、終了時点を「引方(ひけかた)」と呼んだ。
 正米商いが始まる約2時間前からは、帳合米商いがすでに始まっており、米方年行事など会所役員は、前日の終値や、先行して始まっている帳合米商いの動向に照らして、「寄付値段」を公布した。そして、水方(みずかた)と呼ばれる役人が拍子木を打って、これを合図に正米商いの取引が始まる。取引は、正午ごろに終わり、この時の相場を「引方直段」(あるいは「大引直段」)と呼んだ。
 米仲買は自己勘定での取引も行なうが、8~9割方は大坂を含む全国からの注文にもとづく売買であった。ここでの手数料が、米仲買の収益源であった。正米商いの決済は、現金か現物(米切手)であり、遅くとも4日以内に決済を完了させる必要があった。
 帳合米商いは、午前8時頃から始まり、正午ごろに「暫時消」といわれる休憩に入り、午後になって取引再開となり、午後2時ごろに終了するのが原則であった。ただし、これはあくまでも原則であり、状況によっては延長された。したがって、帳合米商いでは、取引の終了時間も独特なもので、会所役人が「火縄をつけます」と言って、約9センチの火縄が消えた時に付いていた値段を終値(「大引直段」)とした。この「大引直段」は、「火縄直段」ともいわれ、「翌日の取引が何らかの理由で大引値段をつけることができなかった場合に、この値段によって清算が行われた。」(高槻泰郎著『大坂堂島米市場』講談社現代新書 P.118)と言われる。
 帳合米商いは、「立物米(たてものまい)」(「建物米」とも「堅米」とも称した)という年三期ごとに、特定の一つの銘柄(たとえば加賀米とか)を仲買が投票で選定し、それを取引の対象とした。ただし、「立物米」は帳簿上でしか取引できないもので、三期ごとの定められた満期日までに、仲買はそれぞれの買いと売りの注文を相殺しなければならない(「買い埋め」と「売り埋め」)。そして、帳合米商いの決済は、その差額を計算して行なえばよい。
 帳合米相場は、「元来(がんらい)正米商い掛繋(かけつな)ぎのため、相始(あいはじ)め候儀にて正帳(*正米相場と帳合米相場)一体の儀、それ故三季(三期)限市(きりいち)には自ら同直段(同値段)に落ち合ひ、天然の相場相顕(あいあらわ)れ候訳に候……」(「芦政秘録」)といわれる。「掛繋ぎ」とは、米価のヘッジ、すなわち価格変動のリスクを免れる保険機能を意味する。
 だが、「火縄直段」に関しては、もう一つ重要な取り決めがあり、「それは、火縄に点火されてから消えるまでの間に、一件も約定がなされなかった場合に、その日の取引を全て無効にする、という取り決め」(高槻前掲書 P.119)であった。これは「立用(るいよう)」と呼ばれた。
 先物取引は、しばしば投機に利用されるが、この「立用の制」は、「本来過当投機を抑制する目的で設けられた」(宮本又郎著『近世日本の市場経済』 P.287)のであった。江戸時代の書・『考定・稲の穂』も、「帳合米商いに立用(るいよう)がなかったならば、資金力を持つ者が正米・帳合米ともに買い注文を入れ、自然と高値になってしまうこともあり得る。立用によって潰れるということがあるが故に、それもできなくなる」と述べている。
 火縄の火が消えるまでの間に、一人も取引が成立させる者がいないということは、それは相場が上がり過ぎるか、逆に下がり過ぎるかのどちらかであり、相場が大きく偏(かたよ)ったことを意味する。偏ることは売り買いが揃わないことであり、相場が潰れて投機を防止するのである。
 堂島米市場は、正米商いで、安全でかつ大量の取引と市場の継続性を保つ(物流機能)とともに、帳合米商いは、適正な価格形成、価格の平準化、ヘッジ取引によるリスク回避という機能を発揮し、両者が相まって市場として発展した(詳しくは、宮本前掲書を参照)。まさに、世界に先駆けた先物取引を有した市場なのである。
 また、堂島米市場は、「全国市場の中心であり、他の市場は堂島で定まった相場で取り引きするありさまであった。堂島の相場は飛脚によって伝えられた」(『大阪府の歴史』山川出版社 1969年 P.172)といわれる。だが、それよりも少しでも早く相場情報をキャッチしようと信号で知らせる「旗ふり通信」のリレーまで考えだされた。それは、「基本的な米の相場が堂島でたてられ、全国の基準となった」(同前)からである。

  (6)幕藩制的全国市場の弱体化

(ⅰ)めざましい地方の経済発展

 幕府の市場統制は、「享保の改革」の頃は、米を中心として行なわれたが、「田沼時代」(1758~86年)になると、綿や油などの重要物資にまで拡大された。しかも田沼らは、株仲間に組織した三都の商人層に営業上の独占権を与え、市場統制もこれらの特権商人に極度に依存した形で推し進めた。
 しかし、地方での市場経済が次第に発展し、18世紀半ばごろからは、それがいっそう顕著となった。そして、かつて幕藩制的全国市場の中心にあった大坂市場の地位は、相対的に低下するようになる。
 このことは、全国各地からの諸物品の大阪市場への移入の激減で明らかである。「大阪への入荷量は、化政期(*1804~1830年)と天保期(*1830~1844年)との短い期間に、蔵米もふくめほとんどの物資が多いものは七割、少ないものでも二割減となっている。白木綿は八〇〇万反から三〇〇万反に、実綿は六八二万斤から四四四万斤に、繰綿は二〇〇万貫から一三四万貫にそれぞれ減少した。」(山崎隆三著「幕末維新期の経済変動」―岩波講座『日本歴史』13近世5 1977年 P.141)のであった。この傾向は、天保期以降も継続するのであった。
 その背景には、第一に、畿内の農村において、商業的農業(農産物を商品として生産する)だけでなく、農村加工業が発達(酒造業や綿繰〔わたくり *木綿の実を繰って種を取り去ること)〕・木綿織など)するようになり、大坂の問屋を通さない商品流通も始められたことがある。
 酒造業では、摂津国西部(今日では兵庫県に属す)の伊丹・池田などで既に17世紀末から発達し、江戸下り酒の特産地であった。それが18世紀になると、灘地方一帯に拡大する。
 近世前期の摂河和の商業的農業は、大まかに言うと、中河内以南の綿作、北河内以北と摂津の菜種作、西摂の綿作と菜種作に色分けされる。加工業では、大坂と堺が拠点であった。そのうち木綿織では、17世紀には既に久宝寺の木綿が有名であったが、元禄期になると、生駒山地西麓に加工業が形成され、18世紀には河内国の広い範囲にも拡大した。
 絞油業では、元禄期以降、大坂で盛んとなったが、その後摂津の在方にも広がった。18世紀半ば以降には、西摂の武庫・兎原・八部郡で水車絞りによって大坂を生産量でも生産効率でも凌駕する。
 第二は、地方都市の発展と地域市場圏の発展である。米生産を中心とする地域、菜種や綿などの工業原料の生産に傾斜する地域、畿内などからの技術移転により木綿・生糸・紙・種油・醤油などの農村工業が展開される地域など、各種の特性をもった地域が生み出され、地方城下町を中心とした地方領国経済圏が格段と成長するようになる。
 生産の波及力を持つ繊維業関連でみると、(畿内以外の)以下の各地で発達した。絹業では、18世紀中期以降、京都・西陣以外に新興の機業地が興る。上州桐生・足利、武州八王子、丹後、越前、加賀、奥州信夫・伊達地方、信州塩尻・諏訪地方、甲州郡内などである。なかでも、信州などでは絹織―製糸―養蚕の社会的分業が進んだ。
 綿業では、上州(?)足利、武州足立郡、野州真岡、山陰地方などで発達した。なかでも尾張では、畿内とともに綿作や綿織業が早くから発展していたが、19世紀初頭には綿織―綛糸(かせいと)生産―綿作の社会的分業が形成される。
 とりわけ畿内以外での発展で極めて大きな役割を果たしたのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、江戸の地廻り経済圏が発展したことである。その構成要素は、①近郊での蔬菜生産(練馬の大根、目黒の筍など)や、その外側での雑穀生産が発達し、②北関東の桐生(現・群馬県)に18世紀前半に京都・西陣の製織技術が導入され、上州絹織物の江戸進出がめざましくなる。それを支えたのが、上州国内の絹業三工程(西部が養蚕・中央部が製糸・東南部が絹織)の地域的分業体制の発展である。③木綿織では、下野・常陸・武蔵などで広範囲に広がったこと―が主なものである。だが、その他にも、秩父・比企(ひき)・男衾(おぶすま)などの紙、野田・銚子の醤油、行徳の塩、川口の鋳物、狭山の茶、相模山間部の材木・薪炭などが有名である。
 第三は、農村と都市、大都市商人と在郷商人の矛盾・対立で、百姓一揆や国訴運動とともに、自由な取引を求める闘いが畿内で広範に展開されてきたことがある。(後述)
 農村での商品経済や地方都市の発展を背景に、18世紀半ば以降に民間の全国市場がしだいに形成されてくる。この流通を支えたのが新興の海運勢力である。「……幕藩制的流通機構を支えた菱垣廻船・樽廻船は、領主的規制と保護のもとで運航され、その流通品も江戸十組問屋・大坂二十四組問屋に結集した問屋仲間の業種にみえるように、都市上層を含む領主的需要を優先する海運勢力であった。これに対し新興海運勢力は、一八世紀半ば以後、勃興する農民的商品生産が生んだ民間市場の流通需要に突き動かされ、急成長してきた民間型の海運勢力であり、そこでは需給バランスという市場原理が、買積方式(*船主が荷主を兼ねる)を通して彼らの海商活動を起動していた」(斎藤善之著「近世的物流機構の解体」―『日本史講座』第7巻 近世の解体 に所収 P.121)といわれる。この新興勢力こそかつては菱垣廻船の下請け的な位置にあった「諸国廻船」であり、天明飢饉の折りに自立化した北前船・尾州廻船・奥筋(おくすじ)廻船(奥筋とは江戸からみて奥州方面を指す)などである。これらが日本列島を連結して、民間の全国市場を形成してゆく。
 なお18世紀半ばごろから、ロシアとの領土分割戦の進行下で、蝦夷地の漁業などの開拓が主に幕府や松前藩によって行なわれ、蝦夷地の資源が全国市場に組み込まれた。1)

(ⅱ)幕府権力に翻弄される株仲間

 「田沼時代」(1758~86年)の政策は、「享保の改革」の後半期のものの延長であり、それがさらに強化されたものであった。したがって、重商主義的な諸政策が次々と導入された。(詳しくは、拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』〔本紙2015年2月1日号に掲載〕を参照)
 これに危機感を抱いた11代将軍家斉(いえなり)の実父・一橋治済(はるずみ)や御三家などは、田沼意次を失脚させ(1786年8月)、幕政の中心に松平定信(白河藩主、三卿の田安家出身)を推戴した。当時は、連年に渡って百姓一揆と共に都市の打ちこわしが激しく、これにより田沼の再起の策動を打ち砕いた。(この時期の百姓一揆・打ちこわしについては、前掲拙稿論文〔本紙2015年4月1日号〕を参照)
 定信らが推進した「寛政の改革」は、①農村の建て直し、②物価・財政問題への対処、金融・市場統制、③風俗統制と思想統制などが主なものである。
 ①では、農村から都市への人口流出を防ぐために、1789(寛政元)年に他国出稼ぎ制限令が発せられ、1790(寛政2)年・1793(寛政5)年には旧里帰農令(これは江戸の秩序を維持する狙いもあった)が出された。こうして、強制的に農村人口を確保しようとした。また、飢饉に備え、幕府領全体に郷蔵建造や囲籾令(かこいもみれい)を発令し、備荒貯蓄策を進めた(大名領にも奨励)。
 ②では、1789年9月に、棄捐令(きえんれい)を発令して、幕臣と札差(ふださし *蔵米の換金を請負い、かつ幕臣への金貸しをおこなっていた商人)との間の債権・債務関係をその期間に応じて破棄あるいは利子軽減とした。これにより、札差は120万両近くを失った。だが、このような強権発動だけでは、その後の幕臣の金融の道が閉ざされるので、幕府は札差へ2万両を貸与し、1万両を札差のための貸金会所の設立資金(これには新たに登用した新興の特権商人10人にも出資させた)とした。
 1790(寛政2)年2月には、物価引下げ令を発し、3月には、大坂の上問屋・上積問屋株を廃止した。定信らは、評判が悪く、さして大きな影響をもたらさない部門の株仲間はたしかに解散させた。しかし、定信政権の株仲間政策の基調は、むしろ田沼政権と同様に、三都株仲間を通じて物価引下げを図ろうとしたものであり、その結果、株仲間の多くを温存したのであった。2月の物価引下げ令も、商人仲間に依存し、生産者からの仕入れ値段を引き下げることで、小売価格の引下げを図るものであった。この点では、「寛政の改革」もまた、新たな特権的商人との共存で、市場関係を維持・再生産するものでしかなかった。
 1813(文化10)年、菱垣廻船積問屋仲間(65組・1995株・冥加金1・02万両)が結成された。これは、1694(元禄7)年に、江戸で結成された十組問屋仲間を編成替えしたものである。同問屋仲間は、業種ごとに株数を定められたが、「冥加金を商品価格に転嫁することは認められなかったが、大坂からの船荷物以外に関東近国に集荷地をもつ問屋では、在地の商人に対して集荷独占を具体化することで事実上転嫁していった。株仲間に属する問屋以外との直取引を禁止し、在方商人にも株仲間を結成させてそれ以外の直売買を禁止していった。」(賀川隆行著「都市商業の発展」―『講座日本歴史』6 近世2〔東大出版会〕に所収 P.209)のである。
 この結果、江戸問屋は在方商人や生産者である百姓とのトラブルを続出させ、反対運動を引き起こした。だが、「幕府は訴訟の過程で特権的な江戸問屋の利益を守り、独占を確認することとなった。畿内の国訴とは異なり、関東周辺においては江戸問屋による流通統制が覆されたのは株仲間解散令2)においてであった。」(同前 P.212)といわれる。

(ⅲ)畿内の村々に次々波及する国訴運動


 百姓一揆は、10年平均でみると、1740年代から1770年代は、大ざっぱにいうと20件前後であった。それが1781~1790年(天明元年から寛政2年)は跳びぬけて多く、10年間で50件前後にはねあがった。強訴・打ちこわし・逃散などあらゆる闘争形態で、人民は幕藩権力と闘った。
 その中で、幕府が株仲間を公認し、都市の特権的商人を保護する動きに対し、畿内農村の生産者や在方商人は、商品流通の自由を求めて、「国訴」といわれる訴願運動を展開した。
 すでに1743(寛保3)年6月に、摂津国豊島郡で起こっている。それは、肥料となる干鰯(ほしか)が高値となり、経営に困った百姓たちが干鰯仲間を訴えたものである。干鰯や干粕(ほしかす)など金肥は、農業経営にとって極めて重要なものであり、それを導入するか否かで生産性は格段に違うのである。畿内農業の先進性は、金肥使用に負うところが大きかったのである。
 金肥の高値に困った百姓たちが、これら肥料代の値下げ、干鰯屋の不正などを訴えた国訴は、1743年7月にも起こり(豊島郡28カ村)、同年11月には摂津国島上・島下郡の84カ村が肥料代の値下げを訴えた。1761(宝暦11)年10月の摂津国豊島郡62カ村の国訴は、再び干鰯が値上げされるのを警戒して、干鰯取締支配人の設置に反対した(大坂の干鰯価格が基準となって他の肥料の値段が高下した)。
 1766(明和3)年になると、絞油(しぼりあぶら)に関する国訴が頻発する。幕府は、同年3月、諸国の村々に対して、手作り手絞り以外の油絞(あぶらしぼり)稼ぎを厳禁した。これに対し、同年5月、大和国葛下郡の11カ村が、摂津郡武庫郡の55カ村が絞油稼ぎの停止と油仲間の独占に反対して、国訴した。
 1767(明和4)年5月、和泉国日根郡など4郡の25カ村は、以前のように在々で菜種絞稼ぎを自由に手広(てびろ)にしたいと願い出た。1774(安永3)年8月、摂津国・河内国の武庫・丹北・渋川・若江郡の村々は、大坂綿屋仲間株を廃止し、手広な売買をしたいと願い出た。
 闘いは継続し、1777(安永6)年7月、同年11月、1781(天明元)年4月、1786(天明6)年5月と、摂津・河内・大和の村々が種々の要求で国訴した。
 1788(天明8)年は、国訴運動が拡大した。同年2月、摂津国豊島・川辺・武庫郡の161カ村は、干鰯など肥料の〆売り(独占販売)・不正売り反対をかかげ、菜種の自由流通を要求した。同年4月上旬には、同郡の158カ村が肥料値段の引下げ、買占め・他国売りの停止を国訴した。同年6月、河内国の85カ村は、肥料買い占めの反対を巡見使に訴えた。同年7月、摂津・河内国の22郡836カ村は、百姓が株仲間を通さず肥料を相対で直に買い取ること、干鰯株仲間の買占め反対などを要求して国訴した。
 1823~24(文政6~7)年には、摂津・河内の1007カ村が、自由取引を求める国訴を行なった。この闘いにより、綿関連は幕府が譲歩し、生産者の直売(じきう)り・直船積みの自由が大坂市中を除く農村部では承認された。しかし、油関連の国訴は、1805(文化2)年に続いて1823~24年も行なわれたが成功しなかった。
 近世日本における民衆の「自由な取引」、「自由な売買」を求める国訴運動は、概して大坂周辺に限定されたものであった。その他の諸地域の各藩では、18世紀後期以降、いろいろな特産物の生産が奨励あるいは開発されたが、藩による専売制をとったため、民間の自由な商品流通は原則的には禁止された。それにもかかわらず、幕藩制的全国市場の外に新たな市場が次第に形成されていった。(つづく)

注1) 蝦夷地の開発について詳しくは、拙稿「徳川幕府の北方政策」(労働者共産党ホームページに掲載)を参照。 
2)水野忠邦政権は、ついに1841(天保12)年12月、株仲間を解散させる。株仲間を通じた物価調整から貨幣政策を通じた物価高の抑制策に転じたためである。だが、結局、この政策でも物価問題は解決しえず、幕府は「開港直前??」の1851(嘉永4)3月、1857(安政4)年12月と、つぎつぎに株仲間の再興を進めることとなる。