明治維新の再検討ー民衆の眼からみた幕末・維新㉞
  市場統制に躍起となる幕府  

                             堀込 純一


       (4)米中心に形成された
          幕藩権力の全国市場


 近世は、戦国時代とは異なり、領国経済だけで完結しうるものではなかった。遅くとも17世紀後半には幕藩制的全国市場が整備されている。この米を中心に形成された幕藩制的全国市場の形成には、豊臣政権時代の朝鮮侵略時の、名護屋を中心拠点とした全国諸物産の集散も、大きな経験となっていると思われる。

   (ⅰ)三都中軸の全国市場は大坂が中心だ

 幕藩制国家・社会の経済の基本構造は、封建的領有制の下での小農生産である。江戸時代初期には、旧土豪や草分け百姓の系譜を引く有力百姓の大規模経営が中心であった。だが、やがて日本史上空前の土地開発が巻き起こり、これを背景に分家が続出し、小農経営が広がる。
 しかし、近世経済は、村単位で小農生産が支えられ、村単位で収取された(村請制)小農経済中心の領国経済のみで完結しうるものではなかった。
 江戸時代初期、封建的分権制によって、諸地域の経済圏が整備されたが、それは畿内近国型とそれ以外の地域経済圏に大別できる。
 畿内近国型は、16世紀後半頃から、各地の局地的市場圏の結節点として在郷町も形成され、農業技術も高く商品作物を発展させ、また、京都など伝統的に手工業技術が高い地域でもある。これらを背景に、畿内は、17世紀には遠隔地の市場向けの特産物の集散地あるいは加工地として、発展してきた。
 それ以外の地域では、農業生産力の発展は遅れ、小百姓の経営体の自立化も十分ではなかった。ここでは、戦国時代の領国経済を発展させたものもあるが、さらに遅れていた地域では、在郷町以前の定期市段階の市場を、藩権力が上から強引に城下町に吸収し、これを中心とした領国的市場圏を形成した。
 だが、多くの藩では、領内に城下町や鉱山など限定的な米市場しかなく、全国最大の市場・大坂に年貢米などを販売し(一部は江戸でも販売)、貨幣や非自給物を獲得した。禄米を支給された幕臣や藩士も、諸都市の市場で換金し、生活費などにあてた。
 17世紀後半期(1670~80年代頃)に制度化された幕藩制的全国市場の構造は、幕府直轄の三大都市を中心とし、地方の領国城下町を中間、それ以外の遅れた地域を周辺とし、大まかに言うと、中心が中間や周辺に加工度の高い製品を供給し、周辺が農産物を中心に供給する関係である。(米の全国市場の形成過程は、原直史著「全国市場の展開」―岩波講座『日本歴史』第12巻近世3 2014年 を参照)
 しかし、中心の中でもその核心は大坂市場である(図表の移入米は納屋米だけであり、蔵米を含めると、15万貫となる)。大坂とその近郊は商業的農業が盛んであり、綿織物や油製造などの加工業が発達していた。京都は、伝統的に手工業技術が蓄積していた。
 これに対して、江戸は当初、全国の武士が集まり、消費が主なものであった。それへ供給したのが、上方からの「下りもの」である。ここから江戸は恒常的な赤字地域となるが、それは幕府や諸藩の貨幣供給で決済された。
 幕藩制的全国市場の形成と共に、とりわけ西廻り航路や大坂―江戸間の海運業が発達した。1627(寛永4)年には、大坂の菱垣廻船問屋(ひがきかいせんどいや)が成立し、菱垣廻船は元禄期(1688~1704年)に隆盛を極める。1694(元禄7)年には、江戸の荷主の連合組織である江戸十組問屋が結成され、これに呼応して、大坂でも大坂十組問屋が結成され、後に大坂二十四組問屋へと発展してゆく。
 しかし、1730(享保15)年に、酒樽輸送専門の樽廻船が菱垣廻船から独立する。樽廻船は荷役が迅速で運賃も安いため、次第に酒以外も輸送するようになり、両者の間で熾烈な競争が展開された。そのため、幾度となく積荷協定がなされたが、それでもなかなか守られず、文化期(1804~18年)の一時期を除いて、樽廻船が次第に優勢となり幕末にいたる。
   
   (ⅱ)財政危機の慢性化と「米価安に諸色高」

 近世日本は、18世紀初期までは戦国時代に引き続いて、田地の開発がめざましく行われ、また「お手伝い普請」などで経済成長が続いた。しかし、新田開発は17世紀の後半には修正され、その後、町人請負開発も行なわれたが次第に頭打ちとなる。また、公共事業による経済成長の裏には幕府の莫大な財政支出や諸藩の協力があったが、その幕府財政は、5代将軍綱吉(1680~1709年)の頃から赤字に転化する(以降、幕府の財政危機は慢性化し、幕末まで悩まされ続ける)。
 御三家の紀州藩から8代将軍に就いた吉宗は、家宣・家継に仕えた側近をほとんど解任し、紀州藩時代の譜代家臣などを厚遇して身分制=家格制を重視した。その上で「享保の改革」に乗り出したが、それは①年貢増収策、②緊縮政策、③通貨政策などに大別できる。(詳しくは、拙稿『幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源』①〔本紙2015年1月1日号に掲載〕を参照)
 吉宗は、幕府財政を立て直すために、(イ)新田開発や、(ロ)年貢徴収での定免制1)採用などで、百姓からの猛烈な収奪策を推進する。
 これに対して、百姓たちは敢然と一揆を起こし、激しく抵抗する。これにより、年貢徴収量は延享2年がピーク(約180万石)であったが、その後はまた次第に減少し、5年に及ぶ天明大飢饉(1782~87年)を含む1786~90(天明6~寛政2)年には、平均約130万石にまで減少する。(山口啓二著『鎖国と開国』岩波書店 を参照)
 もはや、幕府財政の改革には、百姓からの年貢収奪だけを当てにする訳にはいかないのであった。だが、問題は財政問題にとどまらなかった。享保期頃から顕著となった物価問題(「米価安に諸色高」)は、近世封建制の基本矛盾を露呈させた。
 米価は元禄期(1688~1704年)までは上昇傾向にあったので、商人などの投機対象となり、米の転売(米ころがし)により高騰した。このため、幕府は米の先物取引や米手形の転売などを規制していた。
 しかし、享保期には「米価安に諸色高」が明白となり、幕府は米価引き上げに本格的に取り組まざるを得なくなった。すなわち、米価安は武士階級の生活費を直接的に脅かし、米中心主義をとる幕藩権力にとっては、致命的な問題になりうるからである。

   (ⅲ)株仲間の公認へ

 財政改革のための緊縮策は、支出の抑制である。倹約令は以前からしばしば出された政策であるが、「享保の改革」では、倹約を明確に民衆の消費にまで拡大した。
 1721(享保6)年に、衣服・諸道具などの増産と新製品の製造を禁止し、江戸の96品目ほどの業種の商人・手工業者について仲間の結成が奨励された。さらに、1721年から1724年にかけて、生活必需品を主として、問屋を中心とする仲間結成令を出している。これは、米価が安いにもかかわらず他の諸物価が伴わない(「米価安に諸色高」)という、幕藩権力にとって極めて不利な事態を打開するためであり、この物価対策に問屋仲間を利用する必要が生じたからである。
 幕府は、近世初期に結成された仲間組織(組合は私的なもの)には、当初、否定的であったが、株仲間は17世紀後半から拡大するようになる。その名目は、公安を保持し、良い製品の製作・販売である。1657(明暦3)年には、江戸の大火(江戸城本丸・二の丸も焼く明暦の大火)があった後、幕府は職人の賃金を公定とした。1694(元禄7)年には、大坂からの下り商品を扱う江戸の問屋仲間の連合組織である十組(とくみ)問屋仲間が成立した。
 享保の改革時(1722~45年)には、「消費抑制」や「物価統制」のためと称して、株仲間の組織化が奨励された。
 それがさらに田沼時代(1758~86年)になると、株仲間は積極的に公認されるようになる。幕府は、株仲間に仕入れや販売の独占権を与え、その代わりに運上金や冥加金などの名目で一種の営業税を上納させた。
 株仲間は、幕府や諸藩の流通統制や治安のためなどに作られたが、上から株仲間を設定した「御免株」と、下からの願いによって株仲間を認可する「願株」があった。
 株仲間の組織構造は、次のようなものである。①仲間組織の運営は、会所・寄合所・通路所などと呼ばれた施設で行なわれた、②日常的な事務機関としては、定行司・年行事・月行事などの諸役が設けられた、③仲間の数は株数の限定により一定の数に固定され、廃業や新規開業は、株の売買や賃借で行なわれた。
 株仲間は集団の命ずる範囲内の活動を行ない、個人の創意をもった活動は禁止された。また、③のような新規加入の制限と、仲間外業者との競争を排斥した。これらの性格から、価格の一定化・供給量の調整が生じ、株仲間の独占機能によって市場支配が可能と考えられたのである。
 株仲間は、運上金や冥加金の賦課により、営業税の徴収単位としてさらに拡大した。こうして、天明年間(1781~89年)には、株仲間の数は、大坂市中だけでも127種も数えられている。
 しかも、株仲間公認政策は、都市の商工業者のみならず、農村の商人(在方商人)に対しても、在方株の公認という形で推し進められた。
 さらに田沼政権は、御用商人に銅・鉄・真鍮・朝鮮人参・朱・龍脳など幕府直営の座を結成させた。また、ミョウバン会所、石灰会所などの会所を設置して、幕府による専売体制も整備した。

    (ⅳ)堂島米市場の抑制から利用へ

 大坂の三大市場としては、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場が有名である。しかし、最も発達したのは、やはり堂島米市場である。堂島米市場に関連した株仲間では、堂島米市(米仲買・米方両替屋)、上問屋上積問屋、搗米屋駄売屋などがある。上問屋・上積問屋とは、蔵米や納屋米(商人米)を取扱い、大坂や地方へ米を積み送った問屋である。搗米屋(つきごめや)は白米を小売りし、駄売屋(だうりや)は玄米1俵以上を売りさばく卸売商である。
 大坂は江戸時代初期から、諸藩の蔵屋敷が林立していた。蔵屋敷はほかに大津・堺・敦賀・江戸・長崎などにも設置されたが、大坂が最も多くなる。各藩ははじめ蔵物(くらもの *米などの諸産物)の販売を自らおこなっていたが、寛文期(1661~73年)には、全般的にその事務を町人の蔵元に代行させるようになる。
 通常、蔵屋敷には藏役人、名代(みょうだい)、蔵元、掛屋(かけや)、用聞(ようきき)、用達(ようたし)と呼ばれる構成員がおり、名代以下は立入人(たちいりにん)と総称され、有力な商人があたった。藏役人は領主から派遣された武士で、蔵屋敷の元締めである。名代は蔵屋敷の名義人であり、蔵元は蔵物の管理・出納を、掛屋は蔵物の代金の管理・出納を行なった。用聞・用達は特定の任はないが出入りの町人を指した。2)
 蔵元のなかで、よく知られた者に淀屋辰五郎がある。その淀屋(淀屋橋南詰)の門前(北浜)で、米市場が自然発生的に開かれた。その時期は、遅くとも1654(承応3)年頃か、それ以前とみられる。だが、1697(元禄10)年、堂島新地の開発にともない、米市場もこの地に移転し、堂島米市場(こめいちば)が発足した。大坂の米市場の発展はすさまじく、承応3年以前からすでに米切手による取引が行なわれていた。
 米売買の流れをみると、以下の通りである。まず各地の百姓の年貢米が領主に納められ、その大半は大坂の蔵屋敷に運ばれる。
 次いで、①蔵屋敷は入札を公示し、②それを受け、資格をもった米仲買(仲買とは一般的には問屋と小売商、または生産者・荷主と問屋との間にたって、売買の仲立ちをする)が入札を行ない、③蔵屋敷は落札者の氏名を公示し、④落札者は翌日、蔵米代金の内、約三分の一を敷銀(保証金)として掛屋に納入して預り証を受取り、⑤米代銀納入日(7日ないし10日間)までに、米仲買は掛屋に残額を納入し、⑥掛屋から銀切手(または米切手)を受取り、⑦米仲買は銀切手を蔵屋敷へ持参して、⑧蔵屋敷発行の米切手を受取る。
 米仲買が小売商に米を販売する場合は、蔵屋敷に米切手を持参し、現物の米と交換した。しかし、このケースは少なく、米切手の多くが堂島米市場で売買された。(米切手は享保期〔1716~36年〕までは、米手形と称した)
 米切手は、形態別には、落札者・落札日の記載がある「落札切手」と、それらがない「坊主切手」に分れる。発行の契機別にいうと、落札によって発行された「出(で)切手」と、借金の担保として発行された「先納(せんのう)切手」とがる。
 取引円滑化のために生まれた米手形は、その後、有価証券(今日の手形・小切手・商品券・株券のように価格をもち、その所持者が権利行使の資格を証明する証書)化し、堂島への移転後は米市場で転売され米切手の売買はいっそう活発になる。
 だが、正米(現米)取引を基本とする幕府は、米手形の転売や先物取引が米価の高騰を招くとして、再三(さいさん)それらを抑制した。1660(万治3)年の触書では、米の蔵出し期限(残代銀を支払って米手形と米を交換する期限)を、米手形の発行から30日以内とした。1663(寛文3)年には、代銀完納の米手形の持参人のみに払い米を行ない、蔵出し期限も10日以内に短縮した。
 しかし、実情は、米代銀の完納のみで蔵出し期限を守らず、米手形の所有者による転売や質入れ、さらには延売買(のべばいばい *一種の先物取引)も行なわれた。
 幕府は、制度・政策によって市場をコントロールしようとするが、なかなか思うようにならず、時には権力をむき出しにして、商人らを弾圧した。
 1696(元禄9)年には、全国的に米価が高騰し、幕府は米を買い占める商人を逮捕し、その米を没収した。1705(宝永2)年5月には、米商いで豪商となった大坂・淀屋の五代目・広当(ひろまさ)は、手代が金を工面するために印判を偽造し、逐電したので、闕所(けっしょ *追放・遠国・死罪の付加刑で土地や財産を没収する)・所払いの処分を受けた。1721(享保6)年7月には、幕府は米価騰貴のため堂島の米商人数名を逮捕し、諸藩の大坂蔵屋敷の米延売り・買占めを禁止した。翌年4月にも、堂島米延売買の米商人を逮捕する。
 だが、これ以降になると、幕府の市場対策の姿勢は、大きく変化する。それは、この頃になると米価が「恒常的」に低下するようになったからである。
 1722(享保7)年12月には、100石以内の先物取引を解禁し、1724(享保9)年には、禁止していた空米(くうまい)取引(在庫の裏付けがなくて発行した切手を空米切手と称した)も黙認するようになる。米価の引き上げの役に立つと考えたからである。
 1730(享保15)年には、幕府の政策転換がさらに鮮明となる。
 同年5月に、冬木会所3)が北浜で設置されることが公認されると、大坂の米仲買600名余は冬木会所の廃止と、大坂仲買による堂島会所の設置、延売買の公許を求める運動を展開する。
 この結果、1730(享保15)年8月、幕府は延売買(先物取引)の公認(帳合米市場の成立)と「冬木会所」の廃止を布達した。こうして、「幕府が一七世紀半ば以来八〇余年にわたって堅持してきた延売買禁止の方針を覆すにいたった……」(宮本又郎著『近世日本の市場経済』有斐閣 1988年 P.202)のであった。
 また、米価対策に必死の幕府は、「米の二大集散地である大坂・江戸で品薄となることを狙い、買米令(かいまいれい)を発した。とくに米相場の中心である堂島の米市場がある大坂では、一七三一(享保十六)、三五(*享保20年)、三六(*元文元年)、四四(延享元)年とたて続けに、富商や三郷(*江戸時代の大坂市域の総称)町々に分担して買米をすることを命じている。/江戸では一七四四年(*延享元年)が最初であるが、まず九月十日に米問屋・米仲買・地廻り米問屋(*近郷近在と取引のある問屋)一〇七名にたいし、一〇万五五〇〇石の買米を命じた。……/この買米が大坂ほど効果があがらなかったのか、幕府は米関係商人以外に対象を拡げ」(林玲子編『日本の近世』5?商人の活動 中央公論社 1992年 P.224)、両替商・木綿問屋・呉服問屋など50名ほどにも買米を命じた。
 しかし、1732(享保17)年には、山陽・南海・西海・畿内などで蝗害(イナゴの大量発生による凶作)が発生し大飢饉となり、100万人近くが餓死者となった。
 享保の大飢饉は、皮肉なことに従来とはうって変わって、一時的に米価を高騰させた。これに対し、同年から翌年にかけて、激しい強訴・打ちこわしが続いた。しかし、米価の低落傾向はその後も継続する。(つづく)
 
注1)近世の徴租法は、大雑把にいうと中期ごろから検見取法(けみどりほう)から定免法(じょうめんほう)へ移行した。検見取法とは、その年の作柄に応じて年貢量を決める方法であるが、その中にもいくつかの方法がある。定免法は、年ごとの豊凶にかかわらず3~5年の一定の期間の年貢量を固定して賦課する方法である。この場合でも、1734(享保19)年から、作柄に応じて年貢率を下げる破免(はめん)条項も設けられた。
 2)蔵元には有力商人、掛屋には両替商があてられたが、中には両方を兼ねる者もいた。掛屋は蔵物の出納を行なうだけでなく、大名家の「指定金融機関」の機能も果たした。蔵物の売却代金を国元や江戸屋敷に送金すると共に、蔵物を担保にして融資も行なった。さらに、諸藩の財政がひっ迫するようになると、未だ藏物となっていない年貢をも担保に金融し、諸大名の借金は増大した。
 3)江戸商人による堂島米市場の支配は、しばしば画策された。正徳期(1711~16年)には、江戸の三谷三左衛門ほか2名が、幕府から大阪米座御為替御用会所の設立を許可され、米取引を同会所が取り仕切った。しかし、同会所は1722(享保7)年ごろに廃止された。以後も3回にわたって江戸商人による米会所が許可された。紀伊国屋源兵衛ほか2名による大坂御為替米御用会所(1725~26年)、中川清三郎ほか2名による堂島永来町御用会所(1727~28年)、冬木善太郎ほか4名による北浜冬木会所(1730年)である。幕府の狙いは、堂島米市場の支配統制と江戸下り商品の安定的確保である。