明治維新の再検討-民衆の眼からみた幕末・維新㉝
 一揆の正当性は「公儀百姓」意識
                  堀込 純一



       Ⅳ 近世百姓一揆の基礎認識

   (2) 近世の百姓一揆像の大転換
 
(ⅰ)江戸時代の訴訟制度

 百姓一揆の史料集である『編年百姓一揆史料集成』(三一書房)は、青木虹二(こうじ)氏が1979年から刊行しはじめ、青木氏の没後は保坂智氏が引き継いだ。これによると、近世において3000件以上の百姓一揆が起きたと説明されてきたが、この史料(すべての一揆が網羅できている訳ではない)を精査した須田努氏によると、合法的なものを除くと百姓一揆(すなわち徒党・強訴・逃散)は江戸時代を通じて1430件だったと言われる(須田努著『「悪党」の19世紀――民衆運動の変質と“近代移行期”』青木書店 2002年)。
 百姓たちは、通常は江戸時代の訴訟制度を利用して、お上(かみ)にさまざまな要求を訴えていたのである。それでも百姓たちは半分近くの件数で、非合法とされた徒党・強訴・逃散などを通して支配者に迫ったのである。その背景には、端的に言って、この時代の訴訟制度の不備が存在する。
 江戸時代は「訴訟の時代」と言われる。近世日本は封建制社会であるため、各奉行所支配地(幕府領)、代官所(幕府領)、知行所(旗本領)、藩(大名領)が、重要な支配と統治の単位である。したがって、人びとの紛争解決や公権力への嘆願は、これらの「支配単位」の管轄機関(奉行所・代官所、知行所役所、藩の役所など)で受理され、審理される。「支配単位」の枠を越えた事件(他領支配が関係する場合)については、幕府の上位機関(評定所、京都・大坂町奉行所)に出訴することができた。ただ、その場合は、出訴者の所属する「支配単位」の添簡(そえぶみ)が必要であった。
 大平祐一氏は、訴訟には3つの分野があり、「私人間の紛争解決を求める民事『訴訟』(出入筋の『訴訟』)、犯罪者の処罰を求める刑事『訴訟』(吟味筋の『訴訟』)、そして行政上の諸問題につき当局に嘆願する訴願(願筋の『訴訟』)、この三者が近世日本の『訴訟』体系を形成していた」(同著「近世の合法的『訴訟』と非合法的『訴訟』―救済とその限界」―『民衆運動史』3社会と秩序 に所収 P.52)と、3分野の「訴訟」を措定する。
 幕藩制国家が紛争の解決にあたった事件は、大別して3つのタイプがあった。すなわち、「論所(ろんしょ *田畠・入会地・特権的営業区域・水利など、物権の帰属を争う事件)、公事(くじ *小作料・借金など債権債務関係の争い)、家・村など団体の内部秩序についての事件(家督・跡式〔あとしき *遺産〕・養子・村の座次・役負担・しきたりなどについての争い)がそれである。公事はさらに本公事と金公事に分れた。金公事は有利子・無担保の、物権変動にかかわることのない金銭債権債務事件、本公事は金公事以外の物権変動をもたらす債権債務である。」(水林彪著『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 P.295~296)と言われる。

 出入筋・吟味筋・願筋の三分野

 「出入筋の訴訟」は、原告(訴訟人)の訴えにより、原告と被告(相手方)が争論し、最後は関係役人が裁きをつけるという三極構造をなしていた。だが、「吟味筋の訴訟」では、犯罪者に対して「警察・検察兼裁判官」が一方的に手続きを進めるという二極構造であり、権力者の職権的・糾問主義が幅を利かしていた。
 江戸時代、金公事では一般的には当事者間の話合いによる紛争解決、すなわち内済(ないさい)が奨励されていたが、「吟味筋の訴訟」では、内済は許されなかった。
 大平氏によると、これらの訴訟(出入筋と吟味筋)以外に、行政当局への歎願としての「訴訟」があり、訴願と呼ばれていた。「訴願とは、たとえば、増税、特権団体(仲間組合)による独占取引、災害、役人・村役人の横暴、支配替え等々による不利益・被害の救済を求めて行政当局に訴えでる『訴訟』」(大平論文 P.52)を指すとする。この訴願が近世の百姓一揆に大きく関わったのである。
 近世日本において、厖大な数の訴願が行なわれたが、ある場合は人びとの訴えが認められたが、ある場合は拒否された。その裁きは、最終的には政治判断である。「支配単位」の管轄機関が申し渡す判決の多くが、事前に上級機関に伺いをたて、その指示を仰いでいる。その意味で、日本近世の裁判は、きわめて「行政的な性格」が強いものであった。つまり、「法による支配」という法治主義ではなく、人治主義である。
 したがって、訴願において人々の訴えが認められなかった場合、人々はときとして訴願の手続きを無視した非合法の『訴訟』に訴えでたのである。

 (ⅱ)「公儀百姓」の身分意

 幕府は17世紀の前半から百姓一揆を厳しく弾圧し、禁令上でも処罰を次第に整備してきた(前号を参照)。だが、それにもかかわらず百姓一揆は拡大し、活発となる。百姓一揆の顛末を描いた「百姓一揆物語」も種々作られたが、一揆のハイライトはあたかも武士の合戦のように描写されているものも少なくない。後世の人間が、百姓一揆を反体制運動と誤解する一因ともなった。
 だが、近世百姓一揆の研究者・深谷克己氏は、1973年の『思想』(584号)に、従来とは大きく異なる百姓一揆像を提起する。その要点は、「百姓一揆は支配思想の論理によって要求の論理を構成し、またそこに闘争の正統性の根拠をおいたのだが、しかしそれは、『百姓成立(なりたち)』(『永続』『相続』『行立』等)の側面に重点をおく小農民の階級的要求であった……」(同著増補改訂版『百姓一揆の歴史的構造』校倉書房 1986年 P.70)というものである。
 その「百姓成立」を深谷氏はより具体的には、次のように言う。「『百姓成立』とは、たんに農業民として生存をつづけるということではない。/それは、/(1)封建地代の負担者であり、村落共同体の構成員である百姓身分の農民として、(2)幕藩領主にたいして年貢・諸役を皆済しながら、(3)小農民経営を存続させる、/ということを内容として再生産を維持することであった。/そしてそのことは、思想的には、(1)『公儀御百姓』として、(2)『御百姓相勤(あいつと)』め、(3)『御百姓相続(あいつづけ)』る、/というように観念されていた。」(同前 P.98)と。
 近世の六大飢饉のひとつである寛永大飢饉(1642〔寛永19〕年)によって、小農経営のもろさが一挙に露呈し、幕藩権力は給人(家臣)の恣意的な農民支配を規制し、さらに幕府は小農保護の法令を次々と発布するが、その時期に形成されたのが「百姓成立(なりたち)」である。

 いつも「お救」が不可欠な収奪構造
 しかし、農民収奪・階級支配と小農経営を両立させるには、幕藩権力の「御救い」が不可欠となる。すなわち深谷氏によると、「階級的に未成熟なままで全剰余労働収奪政策にさらされた小農民は、つねに経営破綻の危機に直面しており、年貢を皆済させつつ経営を維持させるためには、夫食(ぶじき *食糧)貸・種米貸等の、種々の名目をもつ領主による助成貸付(かしつけ)の米金をほぼつねに必要とした。それは凶作・飢饉のさいだけの臨時措置ではなく、ふだんにくりかえされる恒常的なものであって、現実には農民の負債――利なしであれ利付(りつき)であれ――であったが、意識のうえでは『御救(おすくい)』(「拝借」)として観念された。」(同前 P.67)のである。

一揆の根底に流れる「御百姓」意識
 恒常的に助成貸付が不可欠になるほどの収奪の苛酷さにもかかわらず、この点をゴマカシして、拝借が「御救」と感謝されるところに問題があるのであり、そのうえに成立する「御百姓」意識は、まさに支配思想(「仁政」イデオロギー)の一環である。
 確かに、小農経営の存続は、百姓自身の「出精・倹約・家睦」などの倫理的努力がなくては成立しないのであるが、「そのような主体的勤労倫理、身分的自立要求を吸収しつつ、それを服従の倫理と統合し、年貢・諸役負担農民にたいする支配倫理として編制し、規範的概念として構成されたものが『御百姓』規定なのであった。」(同前 P.69)という。
 そして「百姓一揆」(深谷氏は、これを島原・天草の乱以降から幕末の「世直し一揆」までの間の一揆を指している)は、非日常的な行為であるとしても、それは決して日常の「御百姓」意識と断絶されたものではない。「百姓一揆は、日常性からの断絶ではなく、むしろ生産と生活をつらぬく日常意識の中核である『御百姓』意識を土台において遂行され、そこに正当性の根拠もおかれた。すなわち一揆は日常的な『御百姓』意識を捨てさることによっておこなわれたのではなく、逆にその『御百姓』意識に依拠しておこなわれた」(同前 P.73~74)のである。
 だから、百姓たちは藩主の苛政に対しては、支配思想を逆手にとって、「上納」に対して「百姓成立」を、「収斂(しゅうれん *税の取立て)」に対して、「御救い」を対置して、自分たちの一揆の正当性を訴えたのである。
 このことを典型的に現わす言葉が、1712(正徳2)年8月、加賀藩の支藩である大聖寺藩で勃発した年貢米軽減を求めた一揆で、決起した百姓たちが吐いたものとして『那谷寺物語』に次のように述べられている。

免切らずめの大盗人ども〔*あくまでも年貢を軽減しない藩役人を指す〕、世界にない取倒(とりたお)しめ、今から我々らが心次第に、したい儘(まま)にするぞや、仕置(しおき *政治)が悪しくば、年貢はせぬぞ、御公領(*幕府領のこと)とても望なし、仕置次第につく我々ぞ。京の王様の御百姓になろうと儘ぢやもの。やれ早く打殺せ、打たたけ。
   (『那谷寺通夜物語』―『日本庶民生活史料集成』第六巻 三一書房 P.46)

 「仕置が悪しくば、年貢はせぬぞ」ということは、逆に、仕置が正しければ年貢を納めるということである。これは、仕置次第では、幕府領や天皇領の「御百姓」になる―という百姓たちの気持ちにも表れている(実際には無理であるが)。しかも、自分たちを「御百姓」と自己規定している。自己の身分意識の誇示である。これらは、明白に体制内の自己意識から発しているものである。
 「御百姓」意識は、思想的には、百姓の身分意識をより高め(儒教では、農は本であり、商工は末である)、農民たちの自負と誇りをかきたてる。だが、その反面では、穢れ思想とあいまって、「賤民」身分層を差別することになった。「『御百姓』意識は、それが幕藩制の支配思想の一環であるかぎり、幕藩制的な『賤民』諸身分にたいする身分差別意識を内包するものだったが、領主が百姓一揆の鎮圧に『賤民』を使役したことなどによって、領主にたいする抵抗意識と相乗的に差別感情が強められる結果になることもあった。」(同前 P.82)のである。
 百姓一揆が被差別部落民を襲撃する事例は、すでに江戸時代に見られるが、明治維新後の新政一揆では激化した悲惨な例が相次いだ(これについて詳しくは後述)。

 (ⅲ)百姓一揆物語の全国共通パターン

 「太平記よみ」という言葉がある。それは、江戸時代初期、路傍などで『太平記』を読み聞かせ、銭をもらったこと、或いは、これを業とした人を意味した。貞享・元禄期(1684~1704年)の頃には、職業として盛行し、後世の軍談師・講釈師の源流ともなったのである。
 『太平記』は、南北朝期の終わりごろには現存本に近いものが既に出来上がっていたとみられるが、室町時代から戦国期にかけては、主として公家や武家によって書写され愛読されたという。しかし、琵琶法師の語りによって広く流布した『平家物語』ほど、『太平記』は広がりを持たなかった。
 しかし、1602(慶長7)年の開版と推定されるものを初めとして、10種類の刊本が次々と刊行される。慶長・元和期(1596~1624年)は、『太平記』が大普及する始まりの時期となった。さらに「太平記よみ」によって、民間にも広く講釈された。
 『太平記』の普及とともに、その読解・鑑賞の手引きとしての注釈書も、多多、出現する。その一つに、『太平記評判秘伝理尽鈔』(以下、『理尽鈔』と略)がある。『理尽鈔』は、日蓮宗僧侶の大運院陽翁(1560?~1622?年)が、『太平記』を講釈したものをもとにして、17世紀半ばには出版されている。
 陽翁は唐津藩主寺沢広高、姫路藩主池田輝政らに講釈し、晩年は金沢藩の前田利常(利家の四男で、第三代藩主)に招聘され、同地で死没している。陽翁やその弟子たちは、外にも利常の子・光高、輝政の孫・光政(岡山藩主)、本多政重(幕府から金沢藩に派遣された家老)、幕閣の板倉重宗、稲葉正則など、武士階級の要人に『理尽鈔』を講釈している。
 若尾政希著『百姓一揆』(岩波新書 2018年)によると、『理尽鈔』は『太平記』の楠正成の人物像を大きく変えた。正成は『太平記』では後醍醐天皇に忠誠を貫いて称賛されると共に「智仁勇」を兼備した武将として描かれた。ところが『理尽鈔』では、単に軍略家としてすぐれていただけでなく、「……領民に仁政を施してその信服を得、家臣の信頼も得て彼らを自由に使いこなす、卓越した政治能力をもつ理想的治者=『明君』(名君)」(P.131)として、描き変えられたのであった。それは、江戸時代初期に領主層から求められた政治思想に応えるものであり、また陽翁が前述のような藩主や要人に厚遇された理由でもあった。
 その『理尽鈔』は、『太平記』の主要な章段に対して、兵法や政道の観点から論評を加えた部分と、『太平記』の記事とは別の異伝・異説や裏話・秘話の類を補説した部分から成っている。
 『太平記秘伝理尽鈔』(東洋文庫 平凡社)1の解説で、加美宏氏は、『理尽鈔』について、「……はじめは、政道や兵法の『秘伝書』として、主として武士階層の間で、『講釈』や『伝授』を行うためのテキストであったが、正保二年(一六四五)や寛文一〇年(一六七〇)に『太平記評判秘伝理尽鈔』という書名でもって刊行されたあたりからは、『秘伝書』的色彩がうすまり、『評判書』として、武士階層以外にも広く流布して、『太平記』そのもに劣らない、大きな影響を世に及ぼすことになった」(P.376~377)と述べている。

 仁君の再登場で一揆の鎮静
 近世に頻発した百姓一揆を素材に、多くの「百姓一揆物語」が作られたが、若尾政希氏はこの事について、次のように述べている。「……百姓を題材にした作品(物語)が、一八世紀半ば以降、北は東北から南は九州まで、ほぼ同一の内容・形式・表現様式のパターンをもって作成された……。結論的にいえば、百姓一揆物語は『太平記』などの軍記物語の系譜を引いているが、軍記物語から直接に百姓一揆物語ができるわけではない。内容・形式・表現様式、いずれの面でも、『太平記評判秘伝理尽鈔』の講釈である「太平記読み」の影響を色濃くうけ、それを媒介にしてはじめて成立した」(同著『民衆運動史』2社会意識と世界像 P.137)というのである。
 内容面でいうと、物語の基本構造は、〈①名君の仁政―②百姓への抑圧・収奪(仁政の危機あるいは破綻)―③一揆の勃発―④仁政の回復(支配秩序の回復)〉となっていることである。
 もともと「御百姓」意識のもとで、仁政ないしは仁政イデオロギーの内側に囲い込まれている百姓たちにとって、藩主の仁政破たんで一揆に決起するが、仁政が回復すれば、直ちに一揆は収束する。百姓一揆が、基本的に体制内運動であるからである。
 たとえば、1749(寛延2)年12月14日の、「岩代安達郡二本松領田沢・茂原村等一円ノ百姓、凶作ニツキ減免、要金延納、小物成免除ヲ要求シテ強訴ス」(『編年百姓一揆史料集成』第四巻 P.37、『夢物語』も掲載)という二本松藩での一揆を題材にした『夢物語』は、次のような筋書きとなっている。
 ①②については、「爰(ここ)に陸奥国安積・安達両郡を守護職丹羽若狭守高庸公御仁徳ニして賢守たり、然るニ領分の百姓近年打続く水損、干損の凶作、就中(なかんずく)寛延二年七月ヨリ雨降り続き五穀実(みの)らず、公納不安(安からず)して〔*気にかかって〕百姓困窮目の前なり、愁訴止(や)もう得ざる事(こと)百姓挙(あげ)て検地〔*ここでは検見を指し、実りの状況を調査して年貢量を決めること〕の願ひ取り取り(*思い思い)なり、この旨(むね)上聞(じょうぶん)に達し〔*お上の耳に達し〕、則ち検地せしむると雖も郷方役人当座の利徳(利得)に心を寄せ、百姓の難渋をも顧(かえりみ)ず、纔に(わづかニ)検地の場所を増進し、収納公納の事(こと)急なる故(ゆえ)、百姓日を逐(おほ)て瘻(?)せ衰え、……上納も半途なり、……飢饉の愁訴頻り(しきリ)なり、」(P.39~40)と。
 仁政にはずれた郷方役人の仕置によって、百姓は難渋し愁訴を繰り返す。しかし、愁訴はなかなか受け入られず、安達郡の百姓たちは山林で寄合し、ついに嗷訴(強訴)に起ちあがる。一揆勢と藩兵とのやり取りは割愛するが、百姓たちの強訴のありさまは、あたかも合戦の様子である。これが③である。 
 この時、殿様は鷹狩りをしていたが、一揆の知らせを受け、百姓たちの願いの趣を調べるよう上使を派遣する。しかし、百姓たちにはねつけられ、上使は退散せざるを得なくなる。二回目は、山木屋村の名主の口利きで、ようやく上使は任務を果たす。報告を受けた殿様は、このような騒動に至ったのは「必竟(畢竟)我か不徳」と反省し、年貢の半免・御用金や未進米の上納の六月までの延期を決定する(12月19日)。これが④である。
 この伝えを聞いた百姓たちは、「謹(つつしみ)て扨(さて)有り難き御事なり」と受入れ、「この上は少しも願ハなし」(P.42)と退散する。
 このことも知らずに安積郡の百姓たちも、やや遅れて強訴に決起する。しかし、先の殿様の決定を上使から知らされると、「百姓共謹て首(こうべ)を地ニ付ケ平伏し、さてさて有り難き御事なり、殿様の御慈悲ハしゆミ山(須弥山)よりも尚(なお)高しと悦(よろこ)び……廿一日午刻残らず宿所へ引きたり……」(P.43)となって、一揆は終結する。
 こうして『夢物語』は、「是(これ)もひとへに太守公(*殿様)陰徳(*隠れた恩徳)仁徳深き故、五穀豊穣(ほうじょう)国豊(くにゆたか)佞人(ねいじん *こびへつらう人)讒人(ざんじん *他者をそしる人)役払(やくばら)ひ、民(たみ)安全ニ御代(みよ)静謐(せいひつ)と前代未聞の事共なれハ、噺(はなし)のたね(種)とそは程(ほど)無く覚(おぼへ)にけり」(P.43)と言って終結する。
 『夢物語』もまた、ほとんどの百姓一揆物語と同じように、名君の仁政回復と百姓たちのその受入れで終わる。まさに支配秩序の回復と、それに合意する被支配者たちの関係を最善とすることによって、支配思想の内面化を人民に迫ることを狙いとするものである。
 形式面で言うと、百姓一揆物語には『因伯民乱太平記』や『播姫太平記』など『○○太平記』という書名が多い。また、『那谷寺通夜物語』や『地蔵堂通夜物語』(佐倉宗吾が主人公)など、『○○通夜物語』を書名にした一揆物語もしばしば見る事ができる。これは、『太平記』巻三五の章題「北野通夜物語」(京都の北野天満宮に詣でた3人が当時の乱世の原因について夜通し語り合ったもの)にあやかって付けられた書名である。(一揆物語のほとんどがが『太平記』や『理尽鈔』に依拠した点について、詳しくは既述の本や論文を参照)。
 〈太平記読み〉は、軍紀物が好きな当時の庶民に広く受け入れられて、『理尽鈔』を媒介に、幕藩権力の支配思想を庶民の精神形成に浸透させる上で、大きな役割を果たしたのである。(つづく)