明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉜
  弾圧体制の整備と密告奨励
                       堀込 純一


    Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識

  (3)一揆の後追いで弾圧法の整備
 
 一揆とは、もともと中国の言葉で、「揆(みち)を一つにする」という意である。揆とは、計略をさす。日本でも、一揆は平安時代の初めから「一致する」という意味で日用語化している。だが、一揆が一味同心(一味とは仲間であり、同じ志をもった仲間)という連帯心をもった集団を指すようになるのは鎌倉時代後期といわれる。
 一揆の特徴としては、その参加者は、神との一体化意識に支えられ、現実の社会的規範・秩序などから解放されると観念され、現実の困難に立ち向かうとき大きな威力を発揮した。中世農民が、一味神水して闘うときにこそ、それは最も典型的である。
 この伝統を継承する近世の百姓一揆は、幕藩権力によって厳しく禁止される。だが、保坂智氏によると、青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』では、「一六三〇年代以降一八世紀末まで、一揆という文言がほとんど現れない」(同著『百姓一揆の作法』吉川弘文館 2002年 P.18)という。幕府は「一揆」ではなく、それに代わり「逃散・徒党・強訴」などの言葉に置き換えていったのである。

 (ⅰ)合法・非合法の新たな闘争形態

 近世の百姓は、1637(寛永14)年の島原・天草の乱(地侍と百姓が連合した一揆)以降、領主に対する武力闘争はできなくなるが、ムラを拠点に新たな闘争方法を編み出し、幕藩権力とその手先との闘いを発展させる。
 江戸期の百姓の闘いは、合法・非合法の両面で激しく展開された。保坂智前掲書によると、近世の百姓一揆の闘争形態には、愁訴(訴願)・逃散(ちょうさん)・門訴・越訴(おっそ)・強訴・打ちこわしなどがあると言われる。(P.22)
 愁訴(しゅうそ)は、意味上は「なげき訴えること」であるが、実際は、文書をもって手続きを踏んで上級者に訴えることである。これは、合法的な闘い方であり、江戸期全般で頻繁に行なわれた。
 越訴(おっそ)は、「訴訟」の手続きの上で、定められた順序に従わず、段階を飛び越して訴願するものである。具体的には、本来なら代官へ訴えるべきものを直接領主へ訴えたり、また藩を飛び越えて幕府の巡見使や江戸の老中へ訴えたりすることである。越訴は愁訴と異なり非合法であり、訴訟人は処刑覚悟の上での闘い方である。
 門訴は、諸藩の江戸藩邸に百姓たちが大勢詰め掛け、集団的に訴願することである。強訴にも似た形態であり、非合法の闘い方である(以下もすべて非合法)。幕府は、1771(明和8)年に、明確に禁止した。
 強訴(ごうそ)とは、集団で申し合せて(一味神水の徒党として)、自らの訴訟を取上げるように領主に強制することである。この際、攻撃目標の人物の家屋を破壊することが打ちこわしである。
 逃散は、百姓が集団で自己の所持地を放棄し逃亡することによって、領主に抗議・抵抗することである。個々の「走り」「欠落(かけおち)」は、逃散とは言えない。
 
〈逃散と直目安〉
 保坂智氏によると、青木虹二編『編年百姓一揆史料集成』に記載された事例をもとに、1600~1700年代の闘争形態を集計すると、蜂起23件(島原・天草の乱が最後)、愁訴199件、逃散131件、越訴126件、強訴40件、打ちこわし1件(総計520件)と言われる。(『百姓一揆とその作法』P.35)
 愁訴・逃散・越訴が圧倒的で、全体の87・7%を占めている。
 1603(慶長8)年3月27日、幕府は「覚」(全七ケ条)を布告する(「御当家令條」二七三号―『近世法制史料叢書』第二 P.152)。ここでは、逃散と直目安について述べられている。
 家康は源頼朝を強く尊敬したといわれるが、鎌倉幕府は関東御成敗式目で、年貢皆済(かいさい)後の百姓の逃散を認めていた。徳川幕府もそれを踏襲した。「覚」の第一条では、「御料(*幕府領)?(ならびに)私領(*旗本領・大名領など)百姓の事、その代官、領主非分(ひぶん)有るに依って、所(*居村)を立退(たちのき)候(そうろう)付(つい)てハ、たとひその主より相届(あいとどけ)候とても、猥(みだり)に返付すべからざる〔*勝手に百姓を引き戻すべきでない〕事」と、容認されている。
 直目安は、原則的には禁制となっている。(目安とは、訴状のことで、直目安は手順を越えてお上に直訴することである)
 すなわち、第五条で「惣別(そうべつ *概して)目安の事、直(じか)に指上(さしあげ)の儀堅く御法度たり」としている。但し手順を踏んで訴状を出しても「承引無き」場合は、直目安も容認されている。
 将軍家の「正史」ともいうべき『徳川実記』によれば、初期には将軍(あるいは大御所)への直訴が行なわれている。第一の事例は、年月日が不明であるが、駿河の百姓が家康に行ったもので、代官は切腹に処せられた。第二の事例は、1612(慶長17)年11月20日、戸田での鷹狩りの際に、将軍秀忠と大御所(家康)に行ったもので、百姓は代官の非違(違法)を訴えたが、これは非とされ、百姓は入牢の処罰を受けている。第三、第四の事例は、1613(慶長18)年11月18日と24日、やはり鷹狩り中の家康に行なったものである。18日、代官と百姓の対論が行なわれた。その結果、代官は職を免ぜられた。24日は、逆に百姓の訴状が不当とされ、6人の百姓は入牢となった。
 以上の事例では、百姓は将軍(あるいは大御所)に直訴を行なったにもかかわらず、それを理由にした処罰を受けていない。この時期においては、将軍への直訴そのものは、容認されていたのである。しかも、裁決は理非を明らかにして行なわれている。しかし、将軍への直訴は、三代家光の頃から無くなり、代わりに老中への駕籠訴となっている。
 だが、1643(寛永20)年3月の「土民仕置覚」には、逃散に関する次の二カ条が含まれているが、少なくともこの頃には、逃散に対し搦め手からの規制を加えはじめている。すなわち、その第一四条で、「百姓年貢方(ねんぐかた)訴訟を為(な)し、所をあけ、欠落(かけおち)仕り候者の宿を致しましく、若し相背(あいそむけ)は、穿鑿(せんさく *根ほり葉ほり聞き出し調べること)の上(うえ)曲事ニおこなふへき事」(『御触書寛保集成』一三一〇号)と、実質的に制約しはじめている。

〈徒党の禁止〉
 幕府は、初期において、百姓一揆そのものを弾圧する個別の法規をもっていなかった。「徒党禁止」で処理できると思っていた節がある。
 江戸期においては、身分制度が厳しいため、徒党禁止も身分ごとに規定されていた。
 幕府が武家の徒党を禁止したのは、1615(慶長20)年に制定された武家諸法度に於いてである。この中で「一、隣国に於て新儀を企て徒党を結ぶ者これ有らば、早く言上致すべき事」とある。民衆に対して出された法規の中で、徒党文言がみられる最初の事例は、1622(元和8)年の「京都町中触れ知らしめるべき条々」である。その中で、「一、諸商売の事、……惣(すべ)て諸事に就いて徒党を結び起請文を書く事は、先規堅くこれを停止され訖(おわる)」(「御当家令條」二五六号)とある。 
 では、百姓への徒党禁止はどうであったのか? 残念ながらそれを明示した最初の文書は、発見されていない。しかし、1645(正保2)年に、紀州藩は、「一、徒党を結び、起請文をかき(書き)、神水をのみ、一味同心仕り候儀、公儀の御法度(ごはっと *禁制)なり。如此(かくのごとき)輩(やから)ハ縦(たとい)道理有るとも罪科を為すべき事」(平山行三著『紀州藩農村法の研究』)という禁令を出している。
 ここで「公儀」というのは、文脈上、幕府を指すのであり、紀州藩が徒党を結んで一揆をなすのに対して禁止するのは、幕府法に則っていることを示している。従って、百姓一揆を禁止する幕府法が出されているのは、少なくとも1645年より以前であることは、明らかである。
 ところで幕府は、1615(慶長20)年7月に、武家諸法度をはじめて制定して以来、何回か改定しているが、1635(寛永12)年6月の改定では、第19条で「万事江戸の法度(はっと)の如く、国々所々に於て、これを遵行(じゅんぎょう *従い行なうこと)すべき事」(『御触書寛保集成』四号)と、規定している。
 これによって、幕府法と藩法との法的整合性が図られた。(だが、現実には、藩法の個々の点においては、封建制であるが故に、独自性を保ったものも少なくない)と同時に、藩法に対する幕府法の優位性が打ち立てられたのである。

 保坂智著『百姓一揆とその作法』によると、「幕府の徒党規定は、寛永年間から正保年間(一六二四~一六四八)に確立した考えられる」(P.99)と言われる。そして、徒党が違法であるという考え方が全国で定着するのは、1650年代末とされる(同前 P.102)。 

  (ⅱ)次々すすむ弾圧の体系化

〈一揆処罰規定と隣接諸大名への動員命令〉
 幕府は、享保期の全藩一揆が高揚するなかで、ようやく一揆禁止令を整備するようになる。幕府が、百姓一揆に対する処罰規定を最初にまとめたのは、1724(享保9)年の「享保度法律類寄」であるが、その当該部分は以下の通りである。

一、 御朱印を似せ、奉行所の裏判或(あるい)は主人の判形を似せ、巧(たくみに)企て候(そうろう)重き謀書(ぼうしょ *文書の偽造)謀判(ぼうはん *官印・私印の偽造)、徒党の強訴を企て候頭取(とうどり)、この類(たぐい)都(すべ)て磔(はりつけ)又(また)は獄門、  (『徳川禁令考』別巻 P.4)

 しかしこれは、謀書謀判と同一文の中にまとめられており、未だ単独条項とはなっておらず、付随的なものにすぎなかった。
 1729(享保14)年3月、陸奥国信夫・伊達郡の幕府領の百姓たちが、夫食・種貸の拝借と減免を求めて決起した。これは、享保7年いらい就任していた代官・岡田俊陳(としのぶ)が法外な貢収奪を続けていたのに加え、前年に大凶作になったためである。しかし、代官所の拒絶により、大森代官所管轄下の2000人は、隣りの福島城下(板倉氏、3万石)に逃散し、ついで幕府への減免願のとりなしを要求した。
 しかし、幕府はかたくなに拒否し、江戸にいた岡田は二本松藩の護衛を受けて4月に大森代官所に帰任し、つぎつぎと主だった者たちを捕らえ、処罰した。(これは、後の公事方御定書で、一揆を「強訴・徒党・逃散」と規定し、処罰規定の基準を示す直接の要因となった。)
 1734(享保19)年8月26日、幕府は大名動員令を命令する。すなわち、幕府領の「御代官所に於て若し悪党もの等これ有りて、人数も入れ申すべき刻(とき)、江戸え相伺ひ、彼是(かれこれ)遅遅(ちち *間に合わないこと)に及ぶべき節、少々の儀は直近辺の大名え申し達し、呼寄せ申すべく候、相応ニ人数差し出すべき旨(むね)、万石以上の領主えも申し達し候間、その意を得らるべく候、/右の趣、御代官どもえ申し聞かせ置かるるべく候、/八月」(『御触書寛保集成』一三二六号)と、代官に示達した。
 また、同日、幕府領に近接する諸大名に対しても、同様の布告をして、代官所の依頼がありしだい、急ぎ救援の兵を出すように命令している(同前 一三九一号)。

〈一揆禁令の整備と百姓への明示〉
 幕府の百姓一揆に対する禁令が完備するのは、18世紀半ばごろである。
 吉宗が編纂を命じた「公事方御定書」(1742〔寛保2〕年に制定)の第28条では、「地頭に対シ強訴その上(うえ)徒党いたし逃散の百姓御仕置(おしおき)の事」として、“頭取(*指導者)死罪、名主重追放、組頭(くみがしら)田畑取上げ所払い、惣百姓村高に応じ過料”という処罰基準が設けられた。これには但し書きが付けられ「但し、地頭の申し付け非分これ有るハ、その品ニ応し、一等も二等も軽く相伺ふべく、(*年貢の)未進これ無きに於てハ、重き咎(とが)に及ばざる事」(『徳川禁令考』後集二 P.97)となっている。
 この法令の策定には、前述の信達一揆(1729年)が大きなキッカケとなった。だが、禁令の完備にもかかわらず百姓一揆はますます激しくなり、1749~50(寛延2~3)年頃には、一揆の一大ピークとなる。これに対して、幕府は1750(寛延3)年正月に、はじめて幕府領・私領全体にわたる弾圧強化令を布告する。
 幕府は勘定奉行への達しで幕府領に以下の法令を出す。

御料所(*幕府領)国々百姓ども、御取箇(*年貢のこと)?(ならびに)夫食(ふじき)種貸(たねかし)等その外(ほか)願筋(ねがひすじ)の儀ニ付き、強訴・徒党・逃散候儀は堅ク停止ニ候処(そうろうところ)、近年御料所の内ニも右体(みぎてい)の願筋ニ付き、御代官陣屋え大勢相集い、訴訟いたし候儀もこれ有り、不届(ふとどき)至極ニ候、自今以後(じこんいご)、厳しく吟味の上、重キ罪科ニ行なわるべく候條、御代官支配限り、百姓ども兼々(かねがね)急度(きっと)申し付け置き候様、御代官え申し渡さるべく候、
(『御触書宝暦集成』一〇二六号)

 この法令は、寛延期に、福島地方、姫路・讃岐・伊予などで連続的に発生した一揆が直接の原因となって発令された法令である。また、この法令は五人組帳に記載されることが義務付けられたことで、重要である。さらに、公事方御定書が秘密の法令であることが原則になっていたのに対し、この法令は、五人組帳に掲載され、あるいは名主宅前などに張り出されるなど、百姓の前に公然と示された点で画期的である。
 同じく私領に対しては、同時期、以下のような法令を発する。

国々私領の百姓、年貢取箇或(あるい)は夫食種貸等の願筋ニ付き、領主、地頭城下陣屋、又(また)は門前え大勢相集り、訴訟致し候儀、近来間々これ有る由(よし)相聞え候、都(すべ)て強訴徒党又(また)は逃散候儀は堅く停止ニ候処(そうろうところ)、不届(ふとどき)至極ニ候、自今以後(じこんいご)、右体(みぎのてい)の儀これ有るに於ては、急度(きっと)吟味を遂(と)げ、頭取(とうどり)?(ならびに)差し続き事を工(たくら)ミ候者、夫々(それぞれ)急度曲事(くせごと *違法)ニ申し付けらるべく候、/右の通り、向々(むきむき)相触れらるべく候、/正月
(同前 一〇六九号)

〈百姓一揆と都市打ちこわしへの危機感〉
 しかし、それでも人民の闘争は衰えることもなく、1767~68(明和5~6)年には、百姓一揆と都市打ちこわしが新たなピークとなる。1767年は、ほとんど近畿・中部地方に闘争は集中していたが、翌1768年には、西は中国・四国地方、東は東北地方に拡大した。百姓一揆に大坂など都市の打ちこわしが重なったのである。
 これに危機感を抱く支配者たちは、明和6(1768)年1~2月にかけ、立て続けに5つの一揆禁令を発した。それを書き並べると、以下の通りである。
 ①正月9日令、②2月7日令、③2月21日令の(一)、④2月21日令の(二)、⑤2月(日付け不明)令 幕府は、上方での激しい一揆が広がるのをみて、①では、「領分限りニては行届き難き儀もこれ有るべく候間、御料私領とも申合せ、御料他領のものニても、最寄り次第人数差し出す」(『御触書天明集成』三〇四一号)べきとした。
 ここでは、一揆鎮圧に「飛び道具用ひ候儀は無用と為すべく候」(同前)といっていたのが、ひと月もたたない②では、「取り鎮め難き様子にも候ハハ飛び道具等用ひ候て苦しからず候」と、一転して許可される代官廻状(山田忠雄著『一揆打毀しの運動構造』校倉書房 P.71から重引)が出されている。
 ③では、諸国百姓へ、願いの筋があれば「名主、村役人等を以て、定法の通り相願ひべく」とし、「大勢徒党致し候段不届ニ候」とする。従って、これからは「若し心得違ひ、徒党致し候ハハ、取上ぐべき願ひたりとも、理非の沙汰に及ばず取上げ無く、その上急度仕置申し付くべく候」(『御触書天明集成』三〇四二号)と命令した。
 ④では、上方以外の遠国でも、強訴に出るだけでなく「村役人の居宅又は遺恨ニ存じ候もの共の家作併(ならびに)諸道具を打ち損し」、いわゆる打ちこわしの広がりに危機感を抱く。そこで徒党・強訴・狼藉に及ぶ一揆の鎮圧のために、「御料所の百姓とも騒ぎ立て候ハハ、最寄りの領主より人数を出し、私領ニて騒ぎ立て候ハハ、その領主又は最寄りの領主よりも人数を出し、手強く打ち散じ、手に当り候ものとも(者共)はからめ捕り、願ひの趣は理非の沙汰に及ばず、取上げ申さず」(同前 三〇四三号)と、隣国大名の鎮圧出兵を命じている。
 ⑤では、上方の三卿領(一般的に武装力が軽い)での一揆で鎮圧できない場合、最寄りの幕領代官へ応援依頼すべきと命令(同前 三〇四四号)している。
 これら一連の法令は、①願い事は合法的な訴願とすべきこと、②徒党・強訴など非合法の訴願は、道理のいかんを問わず取上げずに処分にこと、③支配領域にかかわらず、全国の一揆鎮圧のために互いに領主階級が応援すべきこと―が命令されている。しかも、飛び道具などの使用さえも容認されるようになっている。

〈密告の奨励〉
 幕府は、1770(明和7)年4月、さらに「定」(『御触書天明集成』三〇一九)を発布し、一揆指導者を訴える者に報償を与え、名字帯刀を許可するなど密告を奨励した。
 この法令では、一揆を「徒党・強訴・逃散」と簡潔に規定し、前々から御法度になっていることを確認している。そして、自村他村に限らず、それぞれ役所へ密告した者に褒美を与えるとした。たとえ密告者が一時の一揆参加者であっても、密告すれば科は許され、もちろん褒美も与えられるとした。完全な人民分断策である。(つづく)