明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉛

支配でも抵抗でもムラが最前線
                             堀込 純一

   Ⅳ 近世百姓一揆にかかわる基礎認識

 百姓たちの闘いは、いよいよこれから明治政府の新政策との闘い、いわゆる「新政反対一揆」に入る。だが、その前に、百姓一揆にかかわる基礎的な事項をいくつか確認することとする。それは、遠回りではあるが近世百姓一揆をより深く理解し、ひいては近代の農民闘争を正しく分析するうえで、大事なことであるからである。

  (1)兵農分離と参勤交代制の意味するもの

 近世初頭、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など「天下人」を目指した戦国武将を、小説やドラマなどでは、あたかも「平和主義者」であるかのように描くことが、しばしば見受けられる。しかし、これは全くの偽りである。 
 彼らが唱える「天下静謐(せいひつ)」とは、端的にいって、「下剋上」のない世の中をつくることである。そのためには、第一に、人民の抵抗を抑えつけるための武装解除であり、第二に、武士階級における主従制を再編強化し、「下剋上」を未然に防止することであった。
 この「下剋上」を歴史的にみると、その主なる社会的基盤は、土豪(地侍)がリーダーとなり、百姓たちを率いる集団である。地侍とは、室町幕府や戦国大名などに組織された武士ではなく、惣郷・惣村に土着して勢力をもつ武士である。
 1428(正長元)年の正長一揆から実に百数十年にわたる時代は、土一揆(つちいっき)の時代である。その中で、戦いはときには1485(文明17)年、36人の国人衆の連合によって指導された山城国一揆、1488(長享2)年6月に、守護の富樫氏を攻め滅ぼした一向一揆、15世紀から16世紀にかけて、継続的に組織された近江国甲賀郡中惣一揆のように発展した。
 しかし、戦国時代の到来で、地侍たちは次第に戦国大名に系列化される。唯一、大規模な形で残ったのは、加賀・越中・越前・摂津などで「本願寺領国」をもたらした一向一揆ぐらいである。
 であるが故に、織田軍団の一向宗門徒の殺戮(石山戦争や越前・加賀など)はすさまじく、長島一揆ではだまし討ちによる虐殺(1574年9月)が数万人にものぼっている。のちに秀吉が繰り広げる刀狩りの先駆けは、織田軍団の柴田勝家が、1576(天正4)年、越前で一向一揆が再発するのを防止するためであった。
 第二の主従制の再編は、徳川幕府が最終的に整備した兵農分離と参勤交代制に特徴的に現れている。
 参勤交代制は、戦国時代の人質政策を制度化したものであり、藩主が在国と江戸詰めを交替で行なう制度である(ただし妻子は江戸詰め)。大きな戦争が無くなってくると、領地の経営が重要な課題となり、在国と江戸詰めの交代制となった。参勤交代制の確立、幕藩制的全国商品市場の形成、幕府法を諸藩法の基準としたことなどは、日本の近世封建制の集権制を象徴している。1)
 より重要なのは兵農分離であるが、これは地侍層を解体し、城下町に集住させるか、それとも帰農させるか―そのいずれかを「選択」させた。「下剋上」の社会的基盤である地侍と百姓との結合の解体こそが、最大の眼目である。この結果、士と農の間を峻別し、強固な身分制社会が形成された。また、近世所有制もこの身分制に規定され、支配階級の土地領有権と、被支配階級の土地所持権へと重層化された。後者はまた、百姓的所持権・町人的所持権・被差別民の所持権に分別された。(詳しくは、後藤正人著『土地所有と身分』法律文化社 1995年 P.32~63 を参照)
 そして、豊臣政権と徳川政権は、中世惣村の農民自治(年貢の割付や自検断などムラの運営全般を、惣を代表して乙名・年寄層が担ってきた)を破壊し、領主階級の権力を直接ムラ内部に打ち立てようとした。
 しかし、これは失敗した。領主階級の権力の末端を担い、ムラを主導した庄屋(関東では名主)に対して、年寄層(庄屋と同等の階層)が小百姓をも動員しつつ、初期「村方騒動」をけん引して対抗したからである。この結果、「初期『村方騒動』は、領主の直線的農民把握方式を拒絶し、言うなれば領主の在地不掌握(つまり村を媒介にしてしか在地の生産を把握できない)という結果をもたらし、同じことであるが、年貢収取問題の多くを村の内部問題として扱うという構造をもたらした」(水本邦彦著『近世の村社会と国家』東京大学出版会 1987年 P.23)のである。
 江戸時代の農民支配を兵農分離制とともに特徴づける村請制(むらうけせい)は、こうして実現した。村請制とは、領主が年貢などを村人それぞれから徴収するのでなく、村単位で請負にして納入させることである。
 年貢の基準は検地帳であり、夫役(ぶやく *城普請や河川工事などに人民を強制的に従事させた)の基準となるのは、家数改(いえかずあらため)である。具体的には、前者は所持地の量(高)であるが、後者はイエ内部の成人の数である。(しかし、夫役は時代の経過と共に貨幣納に代ってゆく)

  (2)百姓の生活と闘いの基盤

(ⅰ)農民のイエ普及とムラの機能
 戦国末から江戸時代初期は、歴史上、新田開発がもっとも盛んな時期であり、本家の経営体から後継ぎ(多くは長子だが、地方によっては末子がなる)以外の次・三男などの経営体が、つぐぎつぎと生みだされた。
 そして、幕府は小農保護のために、1643(寛永20)年3月に、田畑永代売買を禁止し、さらに小農の破産を防ぐために、1673(延宝元)年に、分地制限令を出す。
 こうして17世紀後半頃、不分割の家産を基礎とする単独相続のイエが次第に普及してくる。すなわち、「庶民のレベルで、家業・家産・家名の三位一体としてのイエが確立した。家業とはイエという一個の団体の業のことで、生業が個人単位で成立している近代社会(職業選択の自由)とは反対に、この社会では、諸個人の職業は、その者が生まれ育ったイエによって決まる。家産とは家業を担う基礎となる家の財産であり、家名とは、そのような一個の団体としてのイエを対外的に表示するための団体の名にほかならない。……庶民の家名は、苗字という形ではなく、父子相伝で同一の個人名を名乗る通名相続や屋号という形をとることになった。」(水林彪著日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.221~222)のである。
 かつての草分け百姓(乙名・年寄層)の大経営体の分解(血縁者の本家からの自立)と単婚小家族の経営体の広範な成立は、同時に、大経営体の「家内奴隷」ともいうべき譜代下人(げにん)層が、次第に衰退へと向い、奉公人層が形成されてくる。
 近世のムラでは、中世後期の惣村が勝ち取った自治が大きく後退させられた(惣村自治については、原田耕一著「中世後期の村落共同体と農民闘争」を参照―労働者共産党ホームページに掲載)。
 近世のムラは、中世と異なり検断権を奪われた。だが、それでも村内の個々の細かい紛争はムラの内部で解決された(殺人や放火などの重刑は、領主権力が裁いた)。とりわけ、盗みに対しては厳しく対処された。
 ムラは、そのほかにも、山や水など共有物の管理運営、祭礼の執行、他村とのもめ事の解決のための交渉、村入用(財政)の管理などのさまざまな行政を行なった。だが、もっとも重要なことは、年貢や雑税などを徴収し、領主に納入する村請制である。
 これらの執行は、村寄合(よりあい)や名主など村役人が行なった。村寄合は、村法の決定、村役人の選出、村入用(財政)の管理などを行なったが、村政全般について最終権限をもつ最高機関である。日常的なムラの運営は、名主(庄屋)が行ない、これを数名の組頭(年寄、長百姓ともいう)が補佐した。彼らには、村入用から給米が支給された。
 名主・組頭に対する一般村民の民主的統制の闘争から成立してきた機関が百姓代であり、これは名主・組頭の監察機関として機能した。名主や組頭など村役人の不正(年貢を村人に割り当てる際や、「村入用」などの不正)をただす闘いは、「村方騒動」と呼ばれた。百姓代は、寛文・延宝期(1661~1681年)に各地に生み出され、18世紀を通して各地に定着した(しかし、百姓代の機能は貫徹せず、「村方騒動」は幕末まで繰り返される)。 
 以上の名主・組頭・百姓代が、村方三役(地方〔じかた〕三役ともいう)であり、村役人の中核である。

 (ⅱ)支配秩序の生産と再生産
  近世の身分制社会・国家の基礎単位は、イエである。そのイエ内部の人間関係は、町家では主人と奉公人の主従関係が明白である。農村のイエも、主人と「下男」「下女」(初期においては譜代下人―家来とか被官と呼ばれた)との間での主従関係が明瞭である。しかし、主人の親子関係にも主従的意識が色濃く浸透するようになる。そして、1742(寛保2)年に制定された「公事方御定書」での、刑事事件の刑罰では、奉公人の主人や昔仕えたことのある故主に対する犯罪、子の親に対する犯罪が、特に重く罰せられた。
 個別経営体としてのイエの連合体として、ムラが成立する。ムラでは、「結(ゆい)」や「もやい」など、共同労働などによる相互扶助も行なわれた。
 農村では、田植え・稲刈り・脱穀などの農作業で、「ゆい」が行なわれた。一時的に多くの労働者を必要とする繁忙期だからである。「ゆい」はまた、農作業のほかにも、屋根ふき・家普請・葬式などでも行なわれた。
 「ゆい」に類似したものとして、漁村では「もやい」がある。だが、「もやい」の場合は、共同労働とその成果としての収穫物の平等な分配という点で、より「共産主義」的である。
 これに対して、「ゆい」は基本的に、個々の労働力の交換である。それはもちろん、商品交換などの市場交換とは異なるが、一種の交換であり、「贈答的交換」である。それは、慣習的に贈答社会の系譜をひく日本での、正月・盆・通過儀礼(誕生・成人・婚礼・葬儀など)・新築・病気・火事などの際の「贈答」をベースとしたものである。
 しかし、他面では、ムラには村役人を輩出する富農層―所持地を持つ本百姓―所持地を持たない水?百姓という階層制の中で、「身分格差」が厳然として存在した。もちろん、この身分階層への村人の所属は、完全に固定的なものではなく、家産の上昇・降下で変わりうるものであった。しかし、その変化がない限り、村内での身分は変わらず、村役人は世襲的であった。ムラにおける身分格差を最も頑強に維持したのは、中世以来の宮座(神社の祭祀集団)である。従って、ムラで新興勢力が台頭すると、しばしば紛争が起こった。
 幕藩権力は、「初期村方騒動」を踏まえ村請制を運用したが、また、五人組を設置して百姓たちに連帯責任を負わせた。
 幕藩権力が設けた五人組は、納税、土地の質入れや「売買」、イエの相続・継承の点などで連帯責任を負わせた。五人組の構成員が欠落(かけおち *「走り」とも称す)した場合には、その捜索に第一の責任を負わされた。構成員が欠落することは、直ちに年貢納入に支障をきたすからである。五人組は、寛永期〔1624~44年〕には、ほぼ全国に設置された。
 幕藩権力による人民支配のうちで重要なものとしては、寺壇(じだん)制度と寺請制度がある。
 寺壇関係とは、本場インドでは僧・寺院が信者のために仏事を行なう代わりに、檀那(寺側が、信者を指していう)が財物を施与し、特定寺院の維持と僧の生活を維持する―という関係を結ぶことである。しかし、日本では檀那の役割を、イエが行なう。したがって、日本では檀那というよりも、檀家と称した。
 イエは、日本における仏教の教義まで変質させた。仏教は、本来、諸個人の彼岸における救済を説く宗教である。しかし、イエを基礎とする近世社会では、民衆の従来からある祖先崇拝と現世利益の欲求により、祖先は仏として理解され、その仏(=祖先)に守られたイエこそが家族員の最奥の拠り所である。イエこそが、幸福の源泉となる。こうして幕藩制社会の高名な僧たちも、祖先への崇拝・父母に対する孝養・家業への精励がもっとも重要な徳目として説経した。
 寺請制度とは、寺壇関係を基盤にして制度化されたもので、キリスト教や日蓮宗不受不施派などの禁制を目的または名目とした民衆統制制度である。具体的には、宗旨人別帳(実質的な戸籍)への登録であり、これにもとづく寺請証文(キリシタンなどでなく、その寺の壇徒であることを壇那寺に証明させた文書)の作製である。この結果、民衆は、結婚・旅行・住居移転・奉公などの際には、村役人の手形(*証文の事)とともに、所属寺院発行の宗旨手形(寺請証文)を必要とした。
 総じて、ムラ・イエ・五人組・寺などを通して、江戸期の支配秩序が生産・再生産された。村人など民衆は、これらの支配秩序の下で、代々、日常生活を送ったのである。
 イエが近世身分制社会の基礎単位であることは、諸個人の社会的存在に決定的影響を与えた。諸個人はそれぞれがもつ能力や個性によって、社会的存在や社会的意味を有しているのではない。諸個人が生まれながらにして帰属しているイエの成員としてのみ社会的意味を有し、彼が帰属しているイエの地位の単なる表われにすぎないのである。2)
 イエ意識・ムラ意識などは、今日でも影響力を根強くもつ日本的集団主義の基本である。権力と諸個人の間の「中間団体」が国家に統合される形で国家が成り立っていることは、封建社会に共通してみられることであるが、集団間や集団内部での緊密な重層的な序列関係が支配構造の基本骨格をなすのは、日本的社会の基本的特徴である。
 これは、近代にも継続され、現代日本でも支配秩序の根幹をなす。その代表をなすものこそが、企業間の重層的な支配構造である(拙稿「日本帝国主義と中小企業問題」を参照。労働者共産党ホームページに掲載)。

 (ⅲ)ムラが拠点の百姓一揆
 中世農民は、支配者に抵抗したり、他の惣村と闘ったり(水争いや山争いなど)するのに、惣村・惣郷単位で結束して行動した。近世の農民もまた、この伝統を継承した。
 一揆に決起することを促す一揆廻状は、村が対象であり、個人ではない。廻状は村ごとに次々とリレーされた。時には不参加の村もあるが、その場合も、村での相談で行なった。 
 具体的な参加者は、15~60歳の男性がほとんどである。女性の参加は、逃散や米騒動の際であり、例外的と言われる。参加者は、参加意欲の有る者が多いが、男性の留守部隊を残す場合は人選をムラがおこなった。
 一揆への参加を促す際にも、強い共同体規制が発揮された。一揆に参加するように動員令が発せられた時には、“一揆に参加しなければ(不参加者の家に)火をかける”と「威嚇」して、参加を「強制」した。権力に対し、自らの要求を強制させるには、何千何万の百姓がウンカの如く結集し、闘うことが不可欠であったからである。だが、この「威嚇」が実際に行使(不参加者の家を焼き落とす)された事例はまず耳にしたことはない。集団主義が強い当時、村で決めた参加に逆らうことはあり得ないからである。
 中世の百姓たちは、団結をかためるために一味神水(起請文を燃やし水にまぜ、それを各自が飲んだ)するが、それを行なう場所は神社であった。百姓たちが、闘いの方針を決するために、時には警戒して山中で討議した(これを「山林に交わる」という)が、最後はやはり村の神社に結集して決起集会をもった。神社は村の公共施設である。イエの宗教が仏教であるならば、ムラの宗教は神道だったのである。
 一揆の際には、百姓たちは木綿の襤褸(ぼろ)切れや紙などで作った旗に、必ず村の名前を入れて、その下に結集した。百姓たちは、村旗の下に結集し、村旗の動きに沿って村ごとに行動した。そうすることで、何千何万の隊列は、規律ある行動が出来た。
 百姓一揆には、幕藩権力から厳しい弾圧が加えられた場合が極めて多い。これらの経験から、犠牲者(処罰された家)に対して、村から出来得る限りの補償がなされた。たとえば、犠牲者のイエの諸役負担(年貢・村入用など)をムラが行なったり、追放で田畑・屋敷が売払われるとムラが買い取ったり、追放先に賄いを送ったりした。死罪の場合には、100両の弔い金を2カ年にわたって送った事例もある。権力から処罰されたイエには、ムラが大なり小なり補償したのである。まさに、百姓一揆はムラを拠点として行なわれ、また、それなくしては一揆はできなかったのである。
 まさにムラは、権力者が支配する際の最前線であり、百姓が一揆して闘う際の最前線でもあった。(つづく)

注1)封建制といえば、一般的には分権制が原則である。しかし日本近世の封建制は、分権制をベースとしながらも集権制と堅く結びついている。西欧中心主義史観は、日本封建制の上での種々の独自な史実について、西欧封建制の「普遍」に対する日本封建制の「特殊」でしばしばゴマカシてきた。しかし、「分権」と「集権」の関係は対比の関係であり、「普遍」に対する「特殊」の関係ではない。
 2)日本的集団主義(集団の諸個人にたいする同調圧力の強さ)は、近現代の日本文学にも大きな影をもたらしている。それは、文学形式で言うと「私小説」である。「私小説」とは、作者自身が自らを主人公とし、その直接の経験を描くものである。これについて、『岩波 国語辞典』(西尾実・岩淵悦太郎編)は、「現代日本文学に特有な小説の一体」と特徴づけている。つまり、「私小説」は、諸外国では例をみない稀有な現象であるというのである。すなわち、日本人の自我の確立において、近世以来の日本的集団主義からの脱却が、近現代においても大きな課題であることを示しているのである。