中国包囲網は戦争の道
 日米同盟基軸外交を止め、自主平和外交へ


 米バイデン政権が1月に発足して以降、日本など同盟諸国との関係強化を軸に、「インド太平洋地域」で対中国包囲網をつくる米国主導の動きが活発化している。菅政権は、この尻馬に喜んで乗り、広大なインド太平洋地域に「専守防衛」の自衛隊を進出させ、また中国との戦争に備えた琉球弧の自衛隊ミサイル基地化などを進めつつある。
 3月14日、日米豪印の4か国(クアッド)首脳が初めて共同声明を出した。非同盟の地域大国インドの立ち位置は若干異なるが、声明は、「自由で開かれたインド太平洋のための共通ビジョンで結束」とし、中国を名指しはしなかったが「ルールに基づく海洋秩序に対する挑戦に対応」とぶちあげた。日米豪に韓国と英独仏が加われば、東アジア版NATOの様相となる。
 3月16日、東京で防衛・外交担当相による日米防衛協力委員会(2+2)が行なわれ、共同声明が出された。声明は、「日米同盟はインド太平洋地域の平和や安全、繁栄の礎」としつつ、久しぶりに中国を名指しで批判した。「尖閣」、台湾海峡、香港、ウイグル自治区と列挙し、また中国海警法改定をとりあげて、「中国による国際秩序と合致しない行動」と非難した。
 日米2+2協議では過去にも、中国名指しはある。2013年声明では「建設的役割、透明性を促がす」、17年声明では「中国に対し、北朝鮮の行動を改めさせる断固たる措置をとることを強く奨励する」としている。今回の声明はこれらと異なり、中国そのものとの対決モードである。
 3月18~19日、米アラスカ州で米中外交トップ会談が行なわれた。しかし、気候変動問題での若干の合意以外は、言い争いに終わった。
 3月27日、バイデン大統領が初の記者会見で、外交・内政を語った。米中関係について、「これは21世紀における民主主義国家と、専制主義国家の有用性をめぐる闘いだ」と規定し、「中国にルールを守らせるための日米豪印の枠組み」について強調した。
 トランプ政権時にそのポンぺオ国務長官は、対中関与政策から包囲政策への歴史的転換を打ち出した。バイデン演説はこの基調を継承しつつも、与党民主党の「人権外交」色を押し出し、同盟国との関係強化を強調するものとなっている。
 凋落の超大国米国と新興大国中国との競合関係、グローバルな抗争は、今後も継続・拡大するみとおしである。日本の立ち位置はどうなるのか、自公政権のままでは、戦争の道しか選択肢はない。東アジア版NATOづくりの要所は、集団的自衛権行使を認めた日本の安保法制である。日本での戦争法廃止の課題がいっそう重要になっている。
 現状のままでは、中台関係での米国の不法な軍事介入に伴う沖縄の戦場化の危険、これが高まる。また戦火が海外であっても安保法制では「重要影響事態」などとして日本も参戦する、こうした危険が具体的に高まる。戦争の危険は、バイデン政権による対朝鮮政策の見直しがどうなるか、という方面からも危惧されている。
 昨年来、「尖閣」の標柱立て替え申請などをネタに、嫌中右派の策動が続いている。情勢をみた右派の挑発を許してはならない。日本政府は、米国の対中政策がどうあれ、「尖閣」や台湾の問題を含む日中関係を、自主的に適切に処理できねばならない。日中共同宣言、日中平和友好条約など4つの基本文書、2014年の「尖閣」合意がその前提となる。
 戦争の危険の根源は、米中対立において日本を米国の側に縛り付け、また日本の軍事大国化の装置ともなっている「日米同盟」にある。米中対立が激化する今こそ、日米同盟=日米安保体制から離脱し、外交路線を日米同盟基軸外交から自主平和外交に転換する必要が鮮明となっている。
 日米同盟の解消は、現在的課題となっている当面の「政権交代」では、いぜん実現されない。立憲民主党など議会野党の多くが、日米同盟基軸路線であるからだ。中国・朝鮮「脅威」論があおられる中、世論も過半数以上が、日米同盟あるいは日米安保条約を支持する傾向が続いており、我々はこれを変えきれていない。もちろん安保を容認する枠内の政権交代でも、辺野古新基地建設の中止、地位協定の改定、戦争法の廃止など論理的に見て可能なことは多い。しかし、我々国民大衆の運動が弱いままでは、かっての民主党政権時のように動揺・挫折・変節は避けられないであろう。
 また日米同盟は、一条約のみによって成り立っているのではなく、超大国アメリカを成立させた戦後世界体制の構成部分そのものである。
 したがって日米同盟離脱は、外交路線の転換といっても、戦後日本の政治・社会の革命的変化を前提とする課題であり、中長期の闘いを必要とするだろう。「資本主義の廃止」と「日米同盟の解消」は、別々の課題なのではない。新型コロナ災害で資本主義の終焉が明瞭になったように、米中対立で日本の立ち位置が問われ、日米同盟の動揺と、その無益さが明瞭となってくるであろう。(了)