明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉚
                      堀込 純一

  無定見な権力下で小前層の政治進出

    Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

  (8)小前層の主役化と村方自治
 
(ⅲ)小前層の進出で庄屋を退場させる「鶴田騒動」

 〈ウヤムヤになる年貢半減令〉
 1867(慶応3)年11月から1870(明治3)年にかけて、美作国5郡1)で発生した農民一揆は、「鶴田(たずた)騒動」といわれる。
 上記5郡は、18世紀初期から幕府領となり、18世紀中頃には龍野藩(播磨国揖東・揖西郡を領した中藩で1672年から脇坂氏の領有)の預り地となっていた。そして、その地の支配は実際上、おおむね現地の庄屋らに委ねられていた。そのため、年貢徴収などで不正の評判が絶えず立ち、庄屋層と小前(こまえ *零細農民)の対立が続いていた。
 ところで1866(慶応2)年の第二次幕長戦争や百姓一揆によって、石見国浜田藩主松平武聡(たけあきら)は浜田を逃げ出し、出雲、松江、鳥取と流浪し、ようやく同藩飛び地の美作国鶴田領に仮寓(かぐう)する。すると、血縁関係にある備前藩主池田茂政2)は、武聡による龍野藩預所の領有を目指して、龍野藩管内の小前層を支援する体裁をとった。
 だが他方、龍野藩は5郡の庄屋中(庄屋の連合)に依存し、激動期の農民支配を継続しようとした。庄屋たちも、これより前から龍野藩の支配継続を求めて、老中や諸藩に訴願行動をおこなっていた。庄屋たちの反対理由は、私領への所替で負担が増えることなどにあったが、実際はこれまでの不正が明るみになることを恐れたからである。
 戊辰戦争が始まると、1868(慶応4)年1月下旬、備前藩(岡山藩)は、新政府より美作国内幕府領の鎮撫を命ぜら接収する。1月22日、岡山藩の役人は廻村し、「今般、王政復古に付き、これまで朝敵徳川氏の領地に相苦(あいくる)しみ居り申し候(そうろう)百姓どもへは、当年の処(ところ)御年貢半免、去る歳(とし)未納の分もそのままにて御用捨(ごようしゃ)遊ばされ候間、邨々(むらむら)有り難く承服(しょうふく)奉り、農業出精(しゅっせい)致すべく……」(「改革騒動記」―長光徳和編『備前備中美作百姓一揆史料』第四巻 図書刊行会 1978年 P.1221)と、新政府の「年貢半減令」を触れまわった。これには百姓一同、大いに歓喜の至りとなった。
 しかし、1868(慶応4)年2月、新政府は、美作国旧幕府領を再び龍野藩の預かり地とした。これにより、龍野藩は岡山藩が先に触れた「年貢半減令」をウヤムヤにしてしまった。

 〈あくまでも年貢半減令を要求する小前層〉
 だが、庄屋たちと対立していた小前たちは、「年貢半減令」が取り消しとなっても闘いを止めなかった。4月6日には、久米南条郡行信(ゆきのぶ)組の内6カ村3)の惣代が、同月7日には、同郡大戸(だいと)組の内の7カ村4)の惣代が、岡山藩周匝(すさい)陣屋(現・赤磐市。岡山藩の家老・池田伊賀の陣屋)に越訴(おっそ)し(第1回目)、年貢半減の実施を訴えた。しかし、百姓たちは同藩役人に、“天朝様に御奉公すべき”と説諭され、やむなく帰村した。
 そして、帰村した小前たちは相談し、「評議の結果『去る寅(*1866年)の延納米穀代金内、金石(きんこく)差引(さしひき)残り分、急(いそぎ)請取(うけとり)たく、近来夫喰(ふじき *食糧)高直(高値)に付き、百姓一同困窮迫り、夫喰の手当(てあて)?(ならびに)そのほか入用相請(あいうけ)(中略)急々御下(おさげ)渡し下さるべく候様』歎願する方針に変更した。」(『岡山県史』第九巻 近世Ⅳ P.586)のであった。「年貢半減」から「減税」「お救い米要求」への方針転換である。
 百姓たちは、龍野藩代官へは抗議の強訴(ごうそ)を行なう。だが4月13日、龍野藩は次々と藩兵を山之上村に投入し、山之上村の常八・国吾、大戸上村の小一郎を捕縛する。これに対し、14日、大戸組の百姓たち70~80人ほどは、龍野藩役人が滞在する山之上村庄屋宅を打ちこわす。これが最初の強訴である。
 翌日、捕縛された3人は釈放される。また、百姓たちは庄屋が所持する諸帳面10カ年分の改算(改めて計算し直し清算すること)を約束させた。年貢や諸上納金の割当てでの不正10カ年分を改正させるということである。
 大戸組などの強訴に連携する村々も現れ、15日には行信組の6カ村が山之上村に集結し、16日未明には久米南条郡山手組の宮地・上二ケ(かみにか)・下二ケ(しもにか)の3村が連印し、惣代を山之上村に送り、百姓たちは龍野藩へ嘆願した(前掲の長光編書 P.1720)。この時の嘆願は、年貢半納・延納米代(年貢の延納)・金間(庄屋の不正の一つ。後述)の三点であり、後者二件は聞き入れられた。
 だが、事態の報を受けた龍野藩は、鎮圧のために藩兵を派遣し、4月21日、先に釈放された山之上村常八・国吾と、川口村伊瀬吉の3人を、また、大戸組7カ村の頭取24人を逮捕した。これに対し、23日、大戸組大戸上・羽出木(はでぎ)、塩之内村の百姓たち約100人は、備前藩(岡山藩)領へ逃散し、抗議する。
 龍野藩の役人は、逃散した百姓の引き渡しを岡山藩家老の家臣と折衝するが、かえって逮捕した百姓の即時釈放を求められた。龍野藩は岡山藩の横槍に反発したが、約束通り26日、百姓たちは釈放され、逃散した者たちも帰村した。
 その後、龍野藩は小前たちを地道に説得する工作を行なった。だが、小前たちの庄屋不正への怒りは強く、龍野藩役人はそれらの村々から勘定帳など書類を箱にいれて封印して、保管するようになる。閏4月7日には、ついに山之上・藤原・久木・小瀬・大戸上・羽出木・塩之内の村々から庄屋退役願いが提出され、龍野藩は他村の庄屋をもって兼帯させた。

 〈鶴田藩が小前の11カ条要求を受け入れ〉
 他方、百姓たちはこの頃、新政府への訴願も行なう。大戸上村小一郎ら数人は、上京して龍野藩の悪政を訴えた(だが、これは5月28日に却下される)。勝南・久米南条・久米北条の各郡惣代7人も上京して、新政府のじきじきの支配を歎願した。また、この5月現地では、庄屋の長年にわたる不正を追及する激しい闘いが、小前層によって行なわれ、全領的に拡大する。
 これらの動きに対して、新政府は前々からの岡山藩・鳥取藩の嘆願もあってか、5月25日、浜田藩へ美作国鶴田飛地領(8000石余)に加え、新たに約2・8万石を与えて、合せて約3・6万石の鶴田藩(浜田藩から改称)とした。6月5日、美作国5郡の大部分は、龍野藩預りから鶴田藩への支配替えとなる。目まぐるしい変動である。
 6月18日、正式に大名領となった鶴田藩は、領有地の各村庄屋・年寄・百姓総代を呼び出し、お上に無礼の儀なく、「第一御年貢筋大切に相心得(あいこころえ)」(「柵原村諸用日記」―前掲の長光編書 P.1616)ることを命じて、鶴田藩支配をうけるとの請書を提出させた。またこの時、鶴田藩は、小前百姓たちの以下の11カ条の嘆願(4郡統一要求)も聞入れた。
①延納石代下渡(さげわた)し金、去る卯(*1867年)の納(おさめ)不足へ差引の事
②年々金相場間金(あいきん *金間として実際に生じた差額)の事
③昨年御年貢米銀ども納口(おさめぐち)の事
④延納石代千四百貫目の内六百貫文の事
⑤去る寅年(*1866年)畑方弐歩五厘庄屋引込(ひきこみ *隠匿)の事
⑥去る寅年郡中静謐(せいひつ)に付き御褒美(ごほうび)取納(とりおさめ)の事
⑦年々御年貢改算の事
⑧郡中先銀?(ならびに)組合入用(*組の会計)御取調べの事
⑨庄屋不直の事
⑩去る寅年郡中献金の事
⑪御預り所納米(のうまい)当四月積下(つみさ)げ残り米の事
(前掲の長光編書 P.1249~1250)
 これらすべてが、庄屋の不正追及にかかわる事項である。紙面の関係で全てを説明できないが、たとえば①は、1866年の凶作で年貢の35%が未納となり、1年延期となったが5月末に龍野藩によって免除された。しかし、実際には庄屋たちが1867年9月に百姓から徴収してすでに上納していたとされていた。②は、貨幣価値の差額を庄屋がネコババしていた。「間金」とは、当地では年貢金納分は金貨で徴収していたが、大坂では銀貨に両替して上納していたのであり、この差額を指す。⑤の「庄屋引込」とは、ネコババのことである。⑪は騒乱のため、大坂の藩役人からは廻米するなと指令があり、残り米の行き先がどうなっているのか調査すべきという要求である。
 藩は、小前たちの要求を受け入れ、村々に立ち入って帳面を封印し、藩役人立会いの下で、調査・清算することとなった。これを契機に、6~7月、小前たちの直接行動による庄屋征伐が広がり、村政などの民主化が広範に推進された。

 〈小前層の集訴派と落印派への分裂〉
 こうして小前たちによる「庄屋征伐」の闘いが本格化する。しかし、小前たちの運動は庄屋糾弾、諸帳面の改算などを厳しく追及する集訴(衆訴)派と、これに反発する落印派に分裂する。落印とは藩への(庄屋の不正を批判した)訴状に押す連印をしないことを指している。だが、これは庄屋層の切り崩しで落印したのであった。
 鶴田藩は当初、多数派である集訴派に依拠したため集訴派の「庄屋征伐」に追従し、9月以降、庄屋に対し手鎖や郷宿預の処分を行なう。落印派に対しても抑圧を強めたため、落印派の小前たちは山中に隠れたり、隣の津山藩に逃散して抵抗した。
 秋になると、鶴田藩にとっては待望の年貢収納期である。藩は新領のもとで出来得る限りの収納を実現したいと意気込んでいた。しかし、農村の実情は、集訴派と落印派とに大分裂しており、とても村請制は機能しないのであった。そこで鶴田(たずた)藩は、苦肉の策として、「九月十七日に集訴・落印双方から年貢取立人を選んで納入せよとの命令を出している。さらに、維新政府からの一般政令の通達類も両派それぞれ廻状するように命じている。」(『岡山県史』第九巻 近世Ⅳ P.607~608)のであった。
 これには集訴派も同意しているが、「十一月三日、藩は来る十日までに年貢米を各河岸蔵元まで納入せよと通達、十二月三日にも十日までに年貢米石代金を納入するように命じている。しかし、集訴派の方で年貢納入が遅れたようで、十二月二十六日、さらに翌年二月十九日にも年貢階納を厳しく命じて」(同前 P.608)いる。

 〈ついに集訴派弾圧へ踏み切る鶴田藩〉
 こうした事態に、鶴田藩はついに従来の方針を大きく転換する。集訴派を後援するような姿勢から、落印派へ肩入れする方針へ変えたのである。11月29日、三宅勘助を民政担当の責任者に任命し、12月18日には、民政に関しては公文役所(現・津山市)・鶴田役所(現・岡山市)で行なわずに、大戸下村の蔵元猪右衛門方へ大戸役所を新設してそこで取扱わせた。
 そして、12月28日には、鶴田の郷宿に軟禁されていた庄屋矢吹田作(庄屋たちの頭目で、行信村・角南村の庄屋。手作り地主で、酒・醤油の醸造も兼業)ら6名を大戸下村まで戻し、翌日には謹慎ではあるが帰村を許し、翌(明治2)年1月11日には謹慎も解いたのであった。
 他方、1月5日には、集訴派の指導者12人を呼び出し、彼等の「徒党行為」をとがめ、7日には、“以前の通り、庄屋の支配を受ける”ように命じた。
 これには小前百姓たちは怒り、1月10、11日、ふたたび周匝陣屋へ越訴を行ない(第2回目)、10カ条の嘆願書を提出した。この10カ条は、前年の6月18日の公文役所への訴えと同じである。
 だが、三宅勘助は1月25日京都に出立して、刑法官に出頭した。そこで新政府から「その藩御預所百姓ども申し出候(そうろう)事件処置方、更に御任(おまかせ)に相成(あいなり)候間、正邪混淆(せいじゃこんこう)致さず篤(とく)と取糺(とりただ)し、一同安堵(いちどうあんど)鎮撫行届(ゆきとどき)候様致すべく候事」(「柵原村諸用日記」―前掲の長光編書 P.1626)と、事件処理一任のお墨付きを獲得したのであった。
 そして、2月14日、鶴田藩はついに集訴派弾圧に踏み切り、大戸上村の小一郎を逮捕し、18日夕には、大戸上村での惣代たちの寄合を包囲し、岡山藩領への退去を迫った。 これに対し、19日朝、4郡集訴派惣代はまたまた周匝(すさい)陣屋への越訴を行ない(第3回目)、これまでの要求に加え、自分らを岡山藩の百姓として取り立てることを歎願した。
 小前たちの激しい要求に、鶴田藩と岡山藩の役人(この時から本藩役人が対応)は協議を行ない、3月9日、“鶴田藩民政掛人(三宅勘助、石井条右衛門)の退役、庄屋の取り糺し・改算分の返金”などが、百姓たちに回答された。
 さらに4月6日には、鶴田藩指導のために新政府の監察司が入り、村役人への通達を読み上げ、集訴派のいる27カ村の庄屋88人の罷免と新庄屋候補の選出が通達された。
 通達には、「……郡中連印、多人数出張し、剰(あまつさ)え、彼是(かれこれ)動揺の儀(*集訴派の「騒動」を指す)もこれ有りたる趣、以ての外の事に候、……庄屋どもに於ては……右の如く小前より種々申し候においては畢竟(ひっきょう)兼々(かねがね)心得違(こころえちがひ)、不行届(ふゆきとどき)の廉(かど)あれば也、……双方心得違にて急度(きっと)申し達する策もこれ有り候の処(ところ)、この度(たび)は出格の訳を以て、双方の是非曲直を問わず、これまで差出し候書類は一切(いっさい)取消し申すべく候……」(前掲の長光編書 P.1313)と、問題の根本を処置しない「喧嘩両成敗」で乗り切った。この態度は、1月25日、三宅勘助に一任した際の「正邪混淆せず篤と取糺し」という政府自らの言葉とは正反対なものである。 
 問題の根本を解決しない「喧嘩両成敗」によって、「鶴田騒動」はいったんは収まったかに見えた。しかし、6月23日、周匝村(現・赤磐市)で集訴派の指導者・勝南郡上間村(現・久米郡美咲町)の富蔵らが逮捕された。このため集訴派は、29日夜からまたもや周匝陣屋へ越訴し(第4回目)、勝南・久米南条郡20カ村134人連印で願書を提出した。しかし、岡山藩は小前たちの要求を頑として認めず、再度越境しない請書を提出させた上で帰村させた。
 だがそれでも事態はおさまらず、年貢収納期を迎えた10月16日、小前らは大挙して、元庄屋方へ押しかけ抗議する。11月17日には、この年(明治2年)の凶作に対する鶴田藩の対策への不満も重なり、「百姓たちは山之上村周辺に伝統的な非人姿で終結し、一八日英田郡荒木田・平田村(*現・美作市)などで押し乞いし、夕方土居村(*現・美作市)で沼田藩領(*上野国沼田藩の飛地が英田郡にあった)海内(みうち)代官らの申し出により、年貢半減・庄屋引込銀(*不正金)八〇〇貫の返還などを要求した。」5)といわれる。その後も小前たちは、行信村や山之上村などで「押し乞い」をして抵抗する。
 だが、10月21日、久米南条郡下二ケ山手村(しもにかやまてむら 現・久米郡久米南町)で、鶴田藩役人によって780人が逮捕される事態となる。その後、集訴派は山之上村の幾蔵らが、京都弾正台(今日の最高検察庁兼警察庁にあたる)へ3回にわたり、鶴田藩の非道を訴える。
 しかし、新政府は12月27日、鶴田藩に幾蔵らを引き渡す。1870(明治3)年4月、弾正台は、双方(庄屋と小前)に対し、これまでの行為を「不問」に付すという裁決を下す。これ、により事態は終息に向かう。
 だが、同年8月、鶴田藩は集訴派の4人(久米南条郡山之上村の幾蔵・己之助、勝南郡藤田上村〔現・久米郡美咲町〕の定右衛門・吉兵衛)を流(る)終身とし、11人を徒刑(懲役)にした。小前たちのリーダーは厳しい処分を受け、小前たちの年貢半減・「庄屋征伐」という要求も無視されたのである。

 〈集訴派主導の闘いの画期的意義〉
 「鶴田騒動」における小前たちの闘いは、最後まで激烈なものであった。
 この闘いの意義は、第一に、小前層中心の集訴派が全面的に主導権を握り、終始、闘争をけん引したことである。このため、庄屋層は受身となり、一部の庄屋は退役願いを出して、闘争の嵐が過ぎ去るのを待たざるを得なかった。その後の選挙では、集訴派が村役人に相当程度進出した。やがて庄屋層は小前層を分裂させて反撃し、最後には権力にすがって闘いを収束させたが、そこではかつての庄屋の権威は剥ぎ落されていたのである。これにより、十分とは言えないまでも、これまでの家格制(村役人を輩出させる富裕層―一般の小前百姓―無高という身分制)を大きく揺るがせ、平等意識を前進させたのであった。
 第二は、一時的ではあれ、近世封建制の大支柱である村請制を破綻させたことである。このことは、鶴田藩が苦肉の策とはいえ、年貢取立て人を集訴派と落印派の2系統で設けざるを得なかったことに象徴される。
 第三は、維新政府や鶴田藩などの御都合主義と無定見さを白日の下にさらしたことである。新政府は、幕府が考えた鶴田藩設立の案を真似して、維新後実行した(岡山藩への配慮が大きかったと思われる)が、年貢半減の約束を何の説明もなくなし崩し的に中止し、「鶴田騒動」の解決にしても、「正邪混淆」ではない解決から「双方の行動を不問」に付すという正反対の姿勢に転換した。そこには、何の正義も、真の解決策も無く、ただただ農民全体の支配統制だけを追及する御都合主義が明らかにされたのであった。明治維新などと云うのは、その程度のものでしかないのである。 (つづく)

注1)5郡とは、英田(あいだ)・勝南(しょうなん)・勝北(しょうほく)・久米南条(くめなんじょう)・久米北条(くめほくじょう)の各郡を指す。現在の勝田郡の奈義町・勝央町、久米郡の美咲町・久米南町、そして美作市・津山市それぞれの一部にあたる。
 2)水戸家の徳川斉昭が幕末の幕政に力を振るった様子は、拙稿「尊王攘夷の旗頭・斉昭と日本近代の序章」を参照。その背景は斉昭が老中首座・阿部正弘に取り入ることができたことにあるが、同時に、斉昭は実子を諸家の養継子に送り込み自らの勢力を扶植したことにある。すなわち、第5子慶徳を鳥取藩池田氏へ、第7子慶喜を御三卿一橋家へ(のち将軍)第9子茂政を岡山藩池田氏へ、第10子武聡を浜田藩松平氏へ、第18子昭武を御三卿清水家へ送り込んだ。
 3)藤田上・藤田下・惣田・休石(やすみし)・棚原(やなはら)・連石(れんじゃく)の6カ村(現・久米郡柵原町)。
 4)山之上・藤原・久木・大戸上(だいとかみ)・小瀬(こせ)〔以上、現・久米郡美咲町〕・塩之内・羽出木〔以上、現・久米郡久米南町〕の7カ村。
 5)『百姓一揆事典』民衆社 P.501。小前たちが「伝統的な非人姿」で「押し乞い」などの闘いを展開したのは、「公儀百姓」の身分を捨てて、「捨て身」となって、闘ったことを意味すると思われる。しかし、小前たちの行動は、差別された「非人」や「エタ」などの人々の屈辱や、その社会的位置を理解した上でのものとは思われない。