明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新㉙
 権力手先機関の庄屋と果敢な闘い
                      堀込 純一

    Ⅲ 維新政府と対決する初期農民闘争

  (8)小前層の主役化と村方自治

(ⅱ)小前層中心の闘いで村役人を追及

 百姓一揆は、17世紀末頃から強訴(ごうそ *集団での実力闘争)がはじまり、18世紀前半には本格化する。そこでは惣百姓による全般的な強訴となる。18世紀後半となると、百姓一揆は、①専売制反対、②藩領を越えた広域闘争の特徴をもつようにもなる。
 これらは、18世紀に入った頃からの商品経済の浸透・発展を背景に、藩財政が困窮するとともに、村方での農民層分解が進展し、階級対立が深まったことを示す。
 1800年前後頃には、本百姓(高持)と水?(無高)の身分秩序が固まり、村政においても長百姓(村役人を排出する階層)とその他の小百姓との分岐が固定化し、これは大前と小前との対立・差別を強めてくることとなる。
 そして村役人層の多くは、各種の商家を兼ねており、しかも地主であり、一般農民とは異なる階級として成長する。これは、商品経済の発展と共にますます顕著となる。
 財政に苦しむ諸藩が特産品生産を奨励し、それを特権商人と結託し専売制として、財政の改革を図るが、小前百姓たちの自由販売の要求(19世紀になると、摂津・河内・和泉ではとりわけ大規模となる)と対立する。しかも、この闘いは共通性をもつが故に、封建的な藩境を越えた闘いに発展するのであった。
 しばしば地主や豪商を兼ねる村役人の不正を追及する小前たちの闘いは、明確に階級対立であり(農民階級内部の矛盾を越えている)、小前百姓自らが担う自治の闘いでもあった。

  〈栃尾郷小前の闘い〉
 越後の栃尾組(とちおぐみ *現・長岡市)は、信州上田藩の青木村(現・上田市)とともに、幕末・維新期に多くの一揆が起こった地域として有名である。
 その長岡藩領栃尾組の近世後期の経済環境は、次の通りである。すなわち、栃尾組1)は山ばかりの所で、田畑は少々あるがそこでの収穫だけでは渡世しにくい土地柄である。したがって、昔から炭(すみ)や薪(たきぎ)、あるいは笊(ざる)などを作って、長岡へ持出し販売して、生活してきた。しかし、19世紀初めごろには、炭薪山も伐(か)り尽してしまい、藩が買い上げる炭焼きで渡世できることもなくなった。そこで村々では蚕(かいこ)生産によって渡世するようになり、組中の多くが蚕の繭(まゆ)で紬(つむぎ)2)を織(お)り、そして、長岡で販売して細々(ほそぼそ)渡世するようになった―のである。
 しかし、その紬も生産者(農家)と商人(藩権力をバックにした)の矛盾・対立が激化し、また長岡藩の財政危機で炭の買い上げ価格も低く抑えられ、農民の生活はひどく困窮する。
 栃尾郷の農民たちは、重い年貢の軽減、才覚金と称した上納金の反対など長岡藩の収奪とともに、藩権力の手先となっている庄屋たちの不正と闘ってきた。
 とくに幕末の政治混乱の中で、藩財政が一層危機に陥り、したがって課税が強化されるのに対して、藩への小前層たちの不満と怒りが高まるとともに、庄屋への不正追及も激しくなる。

  〈献金で職を得た庄屋の不正を暴く〉
 長岡藩では、郡奉行―代官のもとに、各組には3~5名の割元が置かれ、割元1名につき2名ずつ割元格が付いて割元を補佐した。その外に各組には、郷横目(2名)、蔵掛(3名)、杖庄屋(4~5名)などが置かれた。割元は庄屋を兼任し、横目は村役人の監査役であり、蔵掛は会計を担当した。各組役人の指揮の下に、各村の庄屋・組頭・百姓代の村役人がいた。
 長岡藩では、才覚金をしばしば命ずるようになる天保期(1830~1845年)以降、割元同格、割元次座、割元準座、割元格上座など新たな役職が増え、割元役や庄屋役の人員も増加した。「栃尾組の場合、天保七年(*1836年)割元役二二名、庄屋役一四名であったが、嘉永二年(*1849年)には割元格三二名、庄屋役二四名になっている。/この点を才覚金との関連でもう少し詳しく見よう。文化十四~天保十二年(*1817~1841年)においては、庄屋役格に任ぜられたもの七(うち献金によるもの二)、代々庄屋役三、割元格一五、代々割元格四と、献金によるものは、わずかに二名に過ぎなかったのにたいして、天保十四年(*1843年)の三万両才覚を含む天保十三~弘化四年(*1842~1847年)においては、庄屋格に任じられたもの八(うち献金によるもの八)、代々庄屋格三(三)、割元格八(四)、割元格上座一、代々割元格一、割元同格六(二)、割元見習一と、献金によるものが急増し、とくに庄屋役と代々庄屋役ははすべて献金によるものである。また嘉永二年の八万両才覚がおこなわれた嘉永元~六年(*1848~1853年)の場合では、庄屋格四、代々庄屋格七(うち献金によるもの五)、割元格一〇(六)と、献金によって代々庄屋格および割元格を与えられるものが多くなっている。」(佐藤誠朗著「越後における世直し状況と藩体制の崩壊」―『村方騒動と世直し』上、青木書店 1972年 P.21)のであった。
 だが、金で役職を得ることが多くなるとその役職者の腐敗が深まることは世の習いであり、また農民層分解が進み生活に困難をきたす小前層が増加する中で、小前層の庄屋への不正追及が激しくなる。
 1850~51(嘉永3~4)年には、大野村で庄屋忠次右衛門の不正を追及して越訴に及び、1852(嘉永5)年には、入塩川村庄屋啓之助の「諸勘定不正」を追及し、庄屋罷免を要求する運動になっている。啓之助は庄屋役禄を取り上げられ、「??蟄居」となり、同村の組頭や横目も役儀をとりあげられた。だが、同時に追及運動をおこなった百姓たち五名も、徒党を組み村はもとより近隣を騒がした理由で領内追放の処罰を受けた。また、他の多くの村民も処分を受けた。同年7月には、隣村の本所村でも庄屋藤次右衛門が「諸勘定向き不正」で追及され、庄屋をはじめ組頭、横目、庄屋役などの村役人が処分されている。(大野村・入塩川村・本所村はともに現・長岡市)
 こうした小前層の庄屋不正追及の闘いのうえに、1853(嘉永6)年8月、1万人規模の世直し一揆が栃尾郷に起こる。長岡藩の収奪に反対するこの一揆においても、小前層は、既存の庄屋の不正への不満と思われるが、庄屋を一年交替にするべきと要求している。
 その後、長岡藩は勘定機構と人事を刷新して、財政改革に取り組んだ。そこでは才覚金頼みの財政改革から借金の利下げ交渉、藩経常費の確立、収納米の安全かつ確実な売却などでの改革に移行した。しかし、文久年間(1860~65年)の緊迫した政治情勢の下で、河井継之助らの軍制改革が断行されると、再び才覚金が巨額なものとなった。1862(文久2)年の郷中5000両才覚、1863(文久3)年の4万両才覚、1866(慶応2)年2月の郷中3万両・長岡町1万両、同年9月の郷中5万両・長岡町7千両・豪農今井家1万両の才覚などと、再び才覚金が人民などに課せられるようになる。しかも、小前層の多くは零落し、もはや対象とはならず、ますます村の少数部分である富裕層などが担うようになるのであった。

  〈権力の移行後も続く農村内階級対立〉
 1868(慶応4)年5月19日、長岡城は西軍の攻撃で落城する。しかし、河井継之助に率いられた長岡藩士など奥羽越列藩同盟によって、同城は7月25日に奪い返される。だが、それもつかの間であり同月29日、長岡城はふたたび西軍によって落城する。
 両軍の激烈な攻防の下で、越後長岡藩領内の栃尾組では、日和見を決め込む庄屋も少なくなかった。だがその中で、維新政府は早くから新政府寄りの態度をとった帰一・準作・俊造の3人を庄屋に抜擢し重用した(栃尾郷は新政府の直轄領となった)。9月には、割元など組の諸役を廃止した。そして、「郷役所詰(つめ)庄屋」を新設し、帰一ら3人を含む11人を起用した。
 しかし、3人と他の8人との間で対立が深まり、12月頃には、「詰庄屋」は実質その3人だけとなった。しかし、3人の横暴と不正はやまず、1869(明治2)年5月には、ついに村役人罷免の訴えが組内から出されるようになった。同年後半からは、栃尾組内のいくつかの村々で庄屋の不正を糾弾し、その特権を削減・縮小する要求をかかげた運動が起きている。この中で、帰一は11月に庄屋を罷免されている。(溝口敏麿著「維新変革と庄屋役札入」―幕末維新論集5『維新変革と民衆』吉川弘文館 2000年 P.83)
 1870(明治3)年7月20日未明、古志郡栃尾町(現・長岡市)の民衆が早鐘をついて下層民を集め、町の大家2~3軒を打ちこわし、秋葉山に屯集した。これが契機となって、23日の夜半には、栃尾組でも最も極貧の者が多いと言われる栃尾郷塩谷から大一揆が始まる。一揆はまたたくまに、東谷・西谷・川谷・北谷にも広がり、4500~4600人ほどの民衆が村名を書いた幟(のぼり)を立てて、25日に栃尾町に入り秋葉山にたてこもった。
 騒ぎを聞きつけて、柏崎県小参事・石川昌三らがかけつけ、説得した。梅之俣村・藤七、葎谷(もぐらだに)村・儀右衛門、上塩村・金兵衛が頭取となった一揆勢は、次の10カ条の要求をつきつけた。(梅野俣村・葎谷村・上塩村はともに旧栃尾市―現・長岡市)

一(第一条)庄屋御廃止、年番庄屋(*1年交替の庄屋)願(ねがい)之(の)事、
一(第二条)当午年(*明治3年)より御年貢米、三季御取立〔*年貢納入を三回に分けて行なう〕願之事、
 但し壱度(一度)ハ安値段ニて、御取立(とりたて)被下(くだされ)度(たき)事、
一(第三条)去巳(*昨年)御年貢米代高直(たかね)ニ付(つき)、直段(値段)御下ケ(おさげ)願之事、
一(第四条)栃尾町新役所御取建(*建設)之(の)儀(ぎ)、御免(ごめん)之事、
一(第五条)金銀札御通用願之事、
一(第六条)新規(しんき)運上物(*商・工・運送業者に課した税金)御免之事、
一(第七条)栃尾町新市(*新市場のこと)御取建願之事、
一(第八条)当節米直段高直ニ付(つき)、米壱升ニ付、代五百文位(くらいに)、被仰付(おおせつけられ)度(たき)願之事、
一(第九条)去辰年(*1968年のこと)御戦争(*戊辰戦争のこと)人足賃銀壱万石へ御渡高(*支払った額)御書下ヶ願之事、
一(第十条)正保年中より御高引追々(おいおい)手当願之村、慶応年中河井様御趣意ニ付(つき)、免引おこし迷惑いたし候ニ付(つき)、前段之通(とおり)御取立願之事、

 この一揆もまた、当時の多くの一揆と同じように窮迫した生活を少しでも改善しようと、年貢の軽減や物価の値下げなどを要求した。しかし、この闘いでは、庄屋の一斉罷免と年番庄屋制がもっとも重視された。石川小参事は、この要求を直ちにその場で受入れ、28日には、栃尾郷のすべての庄屋を集めて、一同の廃役を言い渡した。
 7月末には、各村で後任の庄屋を選ぶ投票が行われ、藤七をはじめとして一揆の指導者が選ばれる場合が多く、旧庄屋は一人も再選されなかった。
 石川小参事は、8月2日、新庄屋に選ばれた者を召集し、「仮庄屋」(旧庄屋が復帰できる余地を残すための妥協策でもある)に任命し、さらに旧庄屋から取り上げた過去三カ年の村政に関する帳簿や書類を仮庄屋に引き渡した。彼等は、帳簿類の点検・物品との照合などを行ない、旧庄屋の不正を摘発し、さらに困窮者の救済や、郷役所の廃止など郷中経費の削減を県につき付け、実現させた。

  〈旧勢力の反撃に抗し小前中心の自治貫く〉
 だが、旧庄屋側も反撃に出た。8月6日、揃って郷役所に行き、“主謀者を速やかに処分し、庄屋役は長岡藩時代の姿に戻してほしい”と、石川小参事に訴え、また代表者が嘆願書を持って柏崎県庁におもむいた。8月末、県庁は一揆の指導者を逮捕して、入牢や宿預けなどの処分を行なった。維新政府の役人はあっさりと旧庄屋側に寝返った。彼らは、年貢さえ確保できれば、それでよかったのである。
 しかし、村々の農民たちは、すぐに後任の仮庄屋を選んだり、また金を出し合って弾圧を受けた者を援護し、旧庄屋の一斉復帰を許さなかった。その後も、旧庄屋側は、さまざまな術策をもって、仮庄屋側の切り崩しを行なったが、それは成功しなかった。
 10月下旬から12月にかけて、旧庄屋側の一部が復帰したが、それでも農民たちは、断固として旧庄屋の特権を廃止する運動を進めた。こうして、仮庄屋を中軸とした「小農の自治組織」は、庄屋制が廃止され大区・小区制による戸長制(1872年4月)ができるまで継続したのである。(つづく)

注1) 長岡藩領は、およそ7・4万石であるが、統治上、郷中を7組に分けて民政を行なった。7組は、上組(50カ村)・西〔川西〕(50カ村)組・北組(52カ村)・河根川組(35カ村)・栃尾組(103カ村)・巻組(39カ村)・曾根組(55カ村)である。このほかに、長岡町・新潟町・栃尾町があった。
2)紬(つむぎ)とは、紬糸で織った絹布である。紬糸とは、くず繭(まゆ)または真綿(まわた *くず繭を引き延ばして作った綿)を紡(つむ)いで作った絹糸のことである。絹糸は蚕(かいこ)の繭(完全変態する昆虫の幼虫が口から繊維をはいてつくるもので、サナギの期間をこの繭の中ですごす)からとったままで手をくわえていない糸というが、くず繭は生糸にならない不良の繭のことである。