明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉘

藩庁の動揺と藩主の権威凋落
                                              堀込 純一


          Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争      

     (8)小前層の主役化と村方自治

 (ⅰ)転げ落ちる旧藩主の権威

 18世紀にもなると、商品経済の発展を背景に農民層分解がすすみ、零細な百姓など小前層が台頭する。幕末には長年の抑圧と不正への怒りが爆発し、封建領主や庄屋など村役人に対する小前百姓の闘いが激烈となり、小前層が主役の闘いとなる。

〈強欲な旗本・神谷を出入で殺害〉
 旗本・神谷勝十郎は、天和年間(1681~84年)以降、代々小普請組に属した家系で、武蔵国榛沢(はんざわ)郡の黒田村(現・深谷市)で71石余、同大谷村(現・深谷市)で143石余を知行していた。
 幕末期、神谷の領民への課税は苛酷であり、年貢の先納、御用金の賦課を矢つぎ早に繰り返した。このため、百姓たちは1861(文久元)年には老中への駕籠訴、1864(元治元)年には検見役人への投石を行なうなどの事件が起きている。
 戊辰戦争最中の1868(慶応4)年3月25日、勝十郎は江戸を出立し、26日、黒田村の組頭で勝手向賄役(かつてむきまかないやく)村上平十郎とともに、黒田村名主・八百次郎宅に止宿した。目的は新政府軍が江戸に満ち、いつ知行地を取上げられるかわからない混乱時に、御用金を名目に百姓から収奪できるだけ収奪しよう―ということである。
 さっそく勝十郎は、用人・玉川郡司の名をかたって、黒田村の村役人に出頭を命じた。しかし、村役人はこれに応じず、27日朝、大谷村名主・三左衛門らが中心となって竹槍・鳶口(とびくち)を持った百姓30人余が八百次郎宅を取り囲み、“御用金は上納できない”と申したてた。
 これに腹をたてた神谷(玉川を装っている)は、抜刀して、名主三左衛門に斬りつけた。これには百姓たちが激昂し、屋敷内に押し入り、竹槍で神谷を突き刺してしまった。「そして、遺体を火葬にするため河原に運んだところ、百姓の一人が死骸の肉片を切り取って食べ、残った肉を家へ持ち帰ったと伝えられる」(『百姓一揆事典』P.498)。
 名主らは、事件が明らかになると、村中に罪科が及ぶため、事故死として届け出た。しかし、この事件は1969(明治2)年、「騒動」に消極的であった元組頭・勇次郎の再吟味要求で明らかになる。裁判の結果、処罰は杖罪・笞罪・??り置きなど比較的に軽微なものに終わった。しかし、人肉を食べた百姓、名主の三左衛門、神谷を刺殺した重太郎など計6人は獄死している。取調は苛酷であった。
 まさに権力移行の真っ只中で、小領主とはいえ、旗本がその強欲さ故に出入(でいり)になり、百姓たちによって打倒されたのであった。(このようなことは類例がない)

〈「上田騒動」―議論のすえ説諭に決定〉

 維新初発での年貢収奪・通貨危機に大凶作が重なった混乱時において、その規模と激しさで郡を抜いたのは、一連の信州各地での闘いであった。これは、本シリーズ??で既述した。
 この中で、特徴的なことは、とりわけ「上田騒動」、「松代騒動」などで、藩知事を務める旧藩主の権威が、完全に凋落していることである。 
 「上田騒動」は、1869(明治2)年8月16日夜、浦野組夫神村(現・小県郡青木村)に結集した百姓たちが、上田城下を目指して進撃することで始まる。百姓たちの決起は、殿戸村(とのどむら *現・青木村)庄屋・小林眞七郎(入奈良本村の庄屋も兼帯)によって、直ちに上田藩庁に注進された。
 これに対し、「藩は打捨(うちすて)置くべきでないので、早急吏員を差遣(さしつかわ)して鎮撫(ちんぶ)せしめたが、其詮(そのせん)無く民衆はその数を増し、又(また)後より遣はした官員の、説諭(せつゆ)も制止も耳に入れず、補亡(ほぼう *罪人を捕縛する役人)を負傷せしめ、押し通り、駆け抜ける者も多く、その内に小泉組塩田組の村々よりも、この一揆に参加するもの馳せ集り、人数は益(ますます)多くなった。諏訪部橋を渡った時、領事久松新五左衛門が、郡奉行代官その他の吏員を引連れて諏訪部橋まで出張し、説諭のうえ制止しやうとした。」(『上田市史』下 P.187)が、成功しなかった。
 上田藩庁は、一揆勢に対して何回も吏員を派遣し、説諭(教え諭す)したが、いずれも失敗した。最後には、藩庁の高官までもが出張して説諭したが、ますます人数を増し、興奮する百姓たちを説得できるものではなかった。
 そして、一揆勢はついには大手門まで迫った(8月17日)。この時、藩庁では一揆鎮静に関して、大いに議論がなされている。「……一揆を鎮制するに、兵隊の力を以(もっ)てすべしとの説ありしも、藩はその議を斥(しりぞ)け、人民愁訴(しゅうそ *苦しみ悲しみを嘆いて訴えること)歎願の儀なれば、説諭して鎮撫すべしとの説を採り、執政師岡(もろおか)主鈴など、大手先より原町辺まで出張したが、其詮は無かった。」(同前)のであった。
 今にも城内に乱入するかの瀬戸際で、藩庁はいかに鎮静化させるか議論があり、兵隊を使うべしとの意見もあったが、藩としては「説諭」の策に決まった。そこで、藩では最高位の官である執政(維新当初の藩主の補佐役で、かつての家老に当る)師岡が出馬して説諭したが、それでもかなわなかった。城下に入った一揆勢は、町家の特権的な商家を打ちこわした。 そこで、「藩知事(*松平忠禮〔ただなり〕)親(みずか)ら馬上にて大手まで出張に及び、願(ねがひ)の趣(おもむき)は聞届(ききとど)け遣はすから、惣代の者(もの)願意を認め差出(さしだ)すべし、と申し諭(さと)せしも、狂乱奮昂(ふんこう *興奮)せる一揆の耳に入るべくも無く、唯(ただ)喧々(けんけん)として〔*やかましい様〕、妄言(もうげん)申し募るばかりで、如何(いか)なる珍事出来(しゅったい)せぬも、測られない形勢であったので、知事は一先(ひとまず)屋形に引取り、命じて揆一(一揆)の者を、大手城戸内に導き入れ、学校、作事場、稽古場、矢場の四ケ所に分置し、食を與(あた)へ説諭する所があった。この時の人数は、六七百人ほどであった」(同前 P.187~188)といわれている。
 だが、その17日の夜、城外には続々と小前百姓などが集まり、豪商宅などを打ちこわし、中には焼き打ちまでもした。その火は折からの風にあおられて燃え広がり、214戸の町家を焼失させた。(18日から19日にかけて、上田周辺の在方〔村方〕でも打ちこわしが行なわれている。)
 翌18日の朝になって、藩庁は城内4カ所に分宿させていた一揆勢に対し、重ねて説諭を行ない、百姓たちに相談の上、願い筋を差出すように命じて、城外に出した。と同時に、城外の一揆勢に対しても、同様のことを知らせた。
 百姓たちは組ごとに、あるいは村ごとに相談し、要求事項をまとめ、藩庁に提出した。要求は村ごとに、組みごとにそれぞれ異なっていた。しかし、すべての組・村が一致して要求したものは、(1)割番廃止1)、(2)二分金の解決、(3)萱・薪・苅豆への課税は時の相場によるべきこと―であった。要求事項は実に多岐にわたり、20ヶ条以上であった。
 藩庁からは、(1)(3)は要求通りに認め、(1)の割番は廃止され、村役人は村ごとに入れ札で行なうと回答された。他にも①難渋者へ御手当て米を支給、②御用捨米(年貢からの免除分か?)は願い通り永引、③御用金は時節柄見合わせる―が回答された。(2)の二分金の件、米相場引き下げの件、定代(年貢率)の件、運上・冥加金免除の件、「無地貫地」(土地がないのに年貢だけ課されている)の年貢免除などは、調査の上、回答するとした。特に、二分金については信州諸藩と相談しているが、解決できない場合は朝廷に嘆願するとした。
 8月21日、藩知事は、今回の「騒動」について、次のように自ら罪する書を藩中に下し、また解決策につき、藩士の意見を徴した。

今般(こんぱん)管下村々挙(あげ)て騒擾(そうじょう)愁訴に及び候儀、一同(いちどう)一覧せしめ候書面の通りに候、是(これ)全く我等政事(政治)行き届かず、積年の旧弊(きゅうへい)洗濯致さず、因循(いんじゅん *古い仕来りに従うのみで一向に改めないこと)今日の大辱を醸(かも)し、牧民(*人民を養い治めること)の天職を失ひ候儀、上(かみ)朝廷に対し奉り、下(しも)庶民に向ひ、謝する所を知らざる事に候。自今以後、深く自ら罪し、戦競(戦々兢々 *おそれつつしむこと)勉励(*つとめはげむこと)、薪に坐し、膽(きも *肝)を嘗(な)むるの前事を踐(ふ)み、速(すみやか)に庶民安堵せしめたく、心願(しんがん *心の中でかける願い)この事に候。苟(いやしく)も救究綏撫(きゅうきゅうすいぶ *急場を救い安んじいたわること)の道に、益ある義は、大小となく、尽(ことごと)く之(これ)を聴き、日夜事に従ひ以て、実績を挙げんと欲す。右(みぎ)見込(みこみ)これ有る面々は、我等身上の事に至るまで、聊(いささ)か忌憚(きたん *遠慮)無く封書に致し、議政堂へ申し出で、未曾有の過失を補ひ呉(くれ)候様(そうろうよう)存じ入り(*心の中で思っていること)頼み候事……
(『上田市史』下 P.194~195)

 藩知事が謝罪したのは、儒教的な「仁政」の観点からのものであった。まさしく人民を見下し、ただただ、統治の対象としてしかみていない。なお、上(かみ)が儒教では「天」であるが、ここでは「天皇家」「朝廷」であった。
 藩庁は、その後、ただちに町方・在方の救済に乘りだしながら、回答した条項の履行をすすめた。8月23日には、村々の庄屋から退役願いがだされ、入札(いれふだ *選挙)がおこなわれた。また、チャラ金引替えのための藩札発行も布告された。9月から10月にかけては、藩知事(藩主)による巡村慰撫(いぶ)もおこなわれている。
 このように藩主が直々に巡村慰撫することなどは、江戸時代には考えられなかったことである。上田藩庁の「騒動」に対する方針は、儒教的な観点からは一貫していたが、だが真田氏の松代藩では、そうはいかなかった。

〈「松代騒動」―「仁政」を覆す新政府〉
 新政府は、1869(明治2)年12月、中央集権的な貨幣制度の確立を目指して、藩県の通用手形類を停止する布告を出した。信濃全県藩は、信濃全国札の引き上げ猶予を出願したが、これは却下された。だが、独り松代藩は藩札の発行規模額が多く、回収は極めて困難であった。
 そこで、新政府は1870年10月、権大参事・赤沢蘭渓、同河原均、少参事・金井麗水、同玉川調布、同鈴木庸らを罷免し、岩崎懋・大熊董を権大参事に、鎌原溶水を少参事に就かせ、また特に高野眞遜を権大参事の首席として藩札手形の回収に当らせた。11月には、民部・大蔵両省は、高野を召して、松代藩は未だ藩札などの回収ができていない―として、その催促を行なった。また同時に、貢租については朝廷の損失と成らないようにと、釘をさした。
 この時に当って、藩庁では「真田(*桜山)大参事以下が其年の収納を協議して、藩札商社手形の相場は太政官紙幣より二割五分乃至(ないし)三割五分引相場なるを以て、石代金(*年貢の金納価格)を拾両に籾七俵と相場を定めて管下に布告した。然るに十一月二十日東京より帰り来る高野権大参事は之(これ)を聞きて大に驚き真田大参事に是非を説いて再議に附させた。高野の主張は七俵相場にては公租の減損すること莫大なるを以て、商社手形及(および)藩札を大蔵省に納めて官札と引替ふるに當り、大蔵省は恐らく之を許可せないであろう。仮に許可を得ると雖も藩の用度(*財政)不足は何を以て之を補ふべき、宜しく二割五分引四俵半と定め朝廷の裁可を経て之を人民に示達すべきである」(『松代町史』上巻 P.485)というのであった。
 真田桜山は、藩札などの相場が太政官札の25%~35%であることを以て、年貢の金納価格を10両で籾7俵と定め、布告した。しかし、東京から帰ったばかりの高野は、石代金を10両で4・5俵と上げた。その根拠を、高野は①公租が大きく減損するので、大蔵省は許可しない、②藩の財政収入も不足する―とした。
 この問題は、松代藩庁で大激論となった。「真田大参事は高野の言を理の当然となし再び庁議に附せし処(ところ)岩崎、大熊両権大参事以下何(いず)れも之(これ)に反対した。就中(なかんずく)市政北沢冠岳の如きは高野権大参事と数時間に亘(わた)りて大激論を闘はせたが真田大参事は衆論を排し断然(だんぜん)高野の意見を採用するに意を決し、藩知事の同意を得たる後(のち)更(あらた)めて二割五分引の四俵半と訂正布告した。」(同前)のであった。
 しかし、一度7俵と布告したものが、たちまち4俵半と値上げされたのには、百姓たちは激怒した。なかには上田藩での闘いが多くの要求を勝ち取ったことをみているので、更級郡上山田村(現・千曲市)や埴科郡鼠・新地(ともに現・埴科郡坂城町)などでは反抗的態度をむき出しにして、蜂起の気運が盛り上がった。
 この情勢を村役人の通報でつかんだ藩庁は、25日、すぐさま吏員を派遣して説諭するとともに、「一方藩庁に在りては岩崎、大熊両権大参事が真田大参事、高野権大参事に迫って早く取消し命令を出して鎮撫すべきである。暴民蜂起せば罪を朝廷に得ること却(かえ)って大ならんと論じ再庁議を開きて論争の真最中(まっさいちゅう)既に暴民蜂起せりとの飛報が到達した。」(同前 P.486)のであった。
 11月25日、2万余の百姓たちが村々から結集し、26日未明(午前5時)には、松代城下を襲った。この時、城中には3000の士卒が防禦に集まり、また吏員は百姓たちを説得した。だが、百姓たちは“真田・高野の首を切って我等百姓に謝罪せよ、松代物産取扱いの悪人どもを誅戮(ちゅうりく)せよ、商法社の奴輩(やつばら)を縛して引き渡せ”と要求して、瓦石などを投げつけて吏卒を追い退けた。
 城中の「大書院に於てはこの報に接し事態容易ならずと善後策を協議せるが、真田、高野の意見は松本藩の會田騒動を鎮撫せる手段の如く兵力を用ふるに如(し)かずと主張したれども、当時の衆論は一揆を勃発せしめたる罪は真田、高野の両名にあり、従って曲(きょく *間違い)我にあれば腕力は用ふべからずと云ふに帰着し、遂(つひ)に上田藩の如く藩主が自ら出馬して説諭を加ふるに決した。」(同前 P.487)のであった。
 だが、この間にも、百姓たちは藩役人や物産関係者の居宅を打ちこわし、焼き落としている。また、「此時(このとき)河中島(川中島)に廻りたる一群の暴徒は寺尾(現・長野市)の船渡(ふなわたし)より松代の北口に迫り市中に濫妨(らんぼう)せんとする勢ひあるを以て、藩知事真田幸民(ゆきもと *宇和島藩主伊達宗城次男)は事態の容易ならぬを察し、真田大参事を従へ城門を出でて柴町の大英寺に至りて一揆と会見し、懇切に説諭すると雖も容易に承服するの色なきを以て、更に前権大参事赤沢蘭渓、河原均をして精々(せいぜい)説得せしめた後、『納籾相場は願ひの通り金拾両に七俵とし、藩札及び商法社手形は十二月五日より同二十五日までに割引なしにて残らず官札と引替へすべし』と布告した……」(同前 P.488)といわれる。これにより、ようやく一揆勢は退散するようになった。
 小前百姓らの闘いによって、①一揆取り鎮めのために藩主自身が百姓の前に乘り出さざるを得なくなったこと、②しかも、百姓に対して、ほぼ要求通りの言質(げんち)を与えざるを得なかったこと―という事態に松代藩は追いつめられたのである。
 まさに、藩主の権威は昔日の面影(おもかげ)すら無くなったのである。しかも、一揆勢に対する約束は、後に維新政府によって反故〔ほご〕にされるのであり、藩主の権威どころか、メンツすら完全に失うのであった。(つづく)

注1)上田藩では、領内行政区分として組が設けられた。それは、小泉組(村数11)、浦野組(同15)、塩尻組(同12)、国分寺組(同13)、洗馬組(同12)、田中組(同19)、塩田組(同22)である。各組には大庄屋が置かれていたが、宝暦初年(1751年)、これに代って割番が設置され、任命された。これは各組に2~3名ほど設けられた村役人であり、藩の意向をより強く村々に浸透させる狙いがあった。