明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉗
 
 「千人迄は殺すも咎なし」と指令
                              堀込 純一


      Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争
  
   (7)新政府の引続く収奪政治との闘い
 
(ⅱ)幕末からつづく甲州の「大小切騒動」

 甲州では、幕末・維新期に「大小切騒動」が展開されている。
 大小切とは、「田畑を合せた貢租高のうち三分の一は金一両につき米四石一斗四升替えで金納させて、この部分を小切(しょうぎり)と呼ぶ。残り三分の二を当初大切(だいぎり)と称して籾納または米納としたが、のちにその三分の一(貢租高の九分の二)を金納させて大切(だいぎり)といい、……。貢租高の九分の四にあたる残余は米納である。」(『国史大辞典』 吉川弘文館)という。これは、近世甲斐国4郡のうち、都留郡(郡内領)をのぞく山梨・八代(やつしろ)・巨摩(こま)の3郡に施行された税法である。
 大小切については、一般に武田信玄の祖法と言われるが、『甲斐国志』上でも「其ノ始(はじめ)詳(つまびらか)ナラズ」(P.57)と言われるように、疑わしい。近世後期には幕府は甲州枡・甲州金とともに改廃しようとしたが、農民の抵抗で、小切が安石代(やすこくだい *石代納の値段が基準より安いこと)として据え置かれ、実質的に農民の負担は軽減されていた。

 〈幕府瓦解時の闘い〉
 幕府瓦解も間近の1867(慶応3)年10月、幕府は、甲斐国国中(くになか)地方で施行されていた「大小切」を廃止することを布達した。
 これまでも大小切廃止の動きはあり、そのたびごとに反対がなされてきた。今回もまた山梨・八代・巨摩の3郡567カ村の村役人・小前などは、嘆願書を作成し、つぎつぎと門訴をおこなった。この結果、「翌年二月、幕府は御伝馬宿入用・六尺給米を国中相場の一五両増しで納入することとしただけで、その他の租税は従来通りと通達」(『百姓一揆事典』民衆社 P.491)し、大小切は守られた。
 すでに戊辰戦争は開始されており、徳川慶喜は恭順を示し、幕府自身が幕引きの時期であった。

 〈維新後も大小切廃止の策動〉
 1869(明治2)年、維新政府は正貨準備(銀行券を発行する時、それを引き換えるための正貨〔せいか *額面と同じ値打ちをもつお金のことで、金貨または銀貨〕を積み立てて準備する事)のために、全国府藩県に対し石高1万石につき正金(額面と同じ値打ちをもつ金貨あるいは銀貨)2500両を上納させ、代わりに同額の太政官札を下付し流通させようとした。
 この際、甲斐国山梨・八代・巨摩3郡の103か村・4万8960石余(甲州全体は30万7567石余)を支配する田安家は、領民からの上納金のうち贋金と見なした金を突き返した。さらに大切・小切の納期を繰り上げ正金(正貨)で上納することを命じた。
 田安家(一橋家・清水家とともに三卿)の態度に対し、田安領の山梨郡村役人は1869(明治2)年9月9日、田安代官所へ正金上納の不能を訴えた。だが、田安家はこれを拒否する。すると村役人たちは、同月14日甲府県庁に訴え、田安家の従来からの苛政を列挙し、「田安御支配之(の)儀ハ是非(ぜひ)共(とも)御免」と拒み、天朝領への編入を出願した。9月下旬までには、八代郡の農民たちも嘆願に加わる。だが、甲府県の対応は冷たく、逆に村役人たちを説諭するものであった。だが、村々の農民たちは鎮静しないで、10月15日、58か村・4000人余の農民たちが、石和(いさわ)近くの笛吹川原に集合し、嘆願から戻る代表村役人を待ち受け、今や集団嘆願になろうかという勢いで蜂起寸前となった。
 この事態に、政府民部省は、監督大佑の塩谷(しおのや)良翰(りょうかん)を派遣し、田安領民・田安代官所・甲府県庁のあいだを斡旋(あっせん)させ、同月21日には、土肥兼蔵甲府県権知事の立ち合いの下に、田安家の領地返上と政府直轄領への編入を約束して事態をおさめた。この裏には、田安領の接収を急ぐ甲府県の策謀もあった、といわれる。
 田安領の一揆は、蜂起にまでは至らなかったためか、農民にたいする処分は「過料銭」・「お叱り」と、きわめて軽いものであった。
 しかし、実際には、維新政府の態度は峻厳なものであった。当時、政府はこの一揆取調(とりしらべ)御用として、塩谷良翰を緊急に甲州に派遣する。それに当り、塩谷は当時の民部大輔であった大隈重信に、「御用の次第」を伺う。それに対し、大隈は「曰く甲州に暴動起り二萬余人、中には武器を携(たずさ)へたるもの有之(これある)趣(おもむき)、且(か)つ同国民は昔時(せきじ)より健訟(けんしょう *訴訟好き)の風(ふう)あるに付き中々(なかなか)容易に取鎮(とりしず)め難(がた)き旨(むね)認めたり。」という。そこで塩谷は「斯(かか)る状況なるに対し、一、二人の説諭(せつゆ *悪いことを変えるために教えさとすこと)にて鎮定は覚束(おぼつか)なく、又(また)如何(いか)なる暴挙も難計(はかりがたく)、其(その)次第に依(よ)りては知事とも打合せの上(うえ)、適宜(てきぎ)鎮撫(ちんぶ)の道を講ずる必要あるべく、自然頑強なる暴民に対しては多少殺傷も難計(はかりがたく)如何(いかが)心得(こころう)べきやと伺いたる」に、大隈は次のように言い放つ。「暴を以(もっ)て抗ずるものあらば、飽迄(あくまで)鎮圧を加へ不得止(やむをえず)ば千人迄(まで)は殺するも咎(とが)めざるべし」と。
 あくまでも人民の抵抗を抑える、武力をもってでも抑える―という新政府は、大隈の口を通して、「千人までは殺するも咎(罪)」にはならない、と塩谷に覚悟させているのである。(『山梨縣政五十年誌』P.49)

 〈県庁もついに反対訴願容認〉
 維新政府は、かねてより税収増加を画策しており各地の安石代の廃止を狙っていた。「明治五(1872)年六月十九日、大蔵大輔井上馨は、農民が強く抵抗することを考慮して、『漸進主義』をとっている山梨県当局からの時期尚早であるとの再三にわたる上申をも無視して、大小切税法の廃止を厳命」(『甲府市史』P.59)してきた。その際、大小切税法の廃止とともに、「田方正米納(*現物納)、畑米の一〇月中上米平均値段による金納を指示してきた。」(『百姓一揆事典』民衆社 P.549)と言われる。
 同日、県庁は郡中惣代に対して大小切(だいしょうぎり)改正の見込みを申立てるように命令した。これに対して、7月30日、郡中惣代は連印して、大小切廃止反対の書面を県に提出した。しかし、県は廃止反対の嘆願を受け入れなかったので、郡中総代は7月末から8月初めにかけて、国中(くになか)三郡(山梨郡・八代郡・巨摩郡)へ廻章を出し、各村の代表者を塩山(現・甲州市)・向嶽寺に集め討議した。
 これにより、「……各村はただちに反対訴願を行うことに決定した。しかし、その方法をめぐって、村役人による嘆願書提出によろうとする者と、惣百姓による強訴(ごうそ)を主張する者とが対立し、両者の間に緊張をはらんだ形で反対闘争が展開していくことになった。」(同前 P.549~550)のである。
 政府は、8月8日、正式に県をして、「御一新以来(いらい)諸般御改正の折柄(おりがら)、当国大小切穀代の儀、仍って旧慣(きゅうかん)候は不都合に付き今般廃(はい)され候……」との達しを県下に回達させた。
 これに対し、山梨・八代・巨摩3郡の農民からは大小切存続の闘いが、以下のように繰り返された。(『日本庶民生活史料集成』第十三巻 三一書房 P.704~706)
 8月8日、巨摩郡北山筋第五区・六区・七区の村役人から、歎願書が差し出される。また、同じ区の小前の者800人ばかりが、古府中(現・甲府市)の大泉寺に屯集し、村役人から結果を待った。
 9日、山梨郡栗原筋、同郡第六区の村役人から歎願書が出され、栗原筋三日市場村・小屋敷村(ともに現・甲州市)の小前ら300人ばかりが甲府市中の尊躰寺に屯集し、事態をうかがった。
 11日、山梨郡万力筋西保北原(にしぶきたはら)村・牧平村・西保中村(ともに現・山梨市)の小前が諸神社に集り、官員の制止を振り切り甲府に向かい、300人ばかりが板垣村(現・甲府市)善光寺の境内に屯集し、示威した。 
 12日、八代郡大石和筋、山梨郡栗原筋の村々の村役人が歎願書を差し出した。
 15日、山梨郡栗原筋第十二区一町田中(いっちょたなか)村(現・山梨市)ほか7カ村より、歎願書が差し出された。同日、巨摩郡西郡(にしごおり)筋第二十三区より二十八区までの内の、鏡中條村(現・南アルプス市)ほか50カ村より、歎願書が差し出された。
 16日、巨摩郡第二十五区・二十六区は「原方(はらがた)」と言って皆(みな)畑村であるが、それらの小前800人ばかりが旧法の存続を願って、甲府の西側の荒川橋辺まで押寄せ、鬨(とき)の声を発した。
 17日、東西川内(河内)領の村々の大勢の農民が身延山に集合し、甲府へ押寄せる姿勢をみせた。(中巨摩郡鮎沢村〔現・南アルプス市〕以南の富士川流域を河内領とも言う)
 18日、八代郡第十一区九一色(くいしき)郷古関村(現・南都留郡富士河口湖町)ほか11カ村、巨摩郡第二十九区白須村(現・北杜〔ほくと〕市)ほか5カ村、同郡第二十一区樋口村・水上村(ともに現・韮崎市)、山梨郡第五区上下帯那(おびな)村(ともに現・甲府市)ほか6カ村、八代郡第十一区右左口(うばぐち)村(現・甲府市)ほか5カ村の村役人たちが歎願書を差し出した。同日、巨摩郡原七郷(はらしちごう)1)組合西野村(現・南アルプス市)ほか8カ村、布施村(現・中央市)ほか10カ村、山梨郡西青沼村(現・甲府市)ほか2カ村が、歎願書を差し出した。同日、巨摩郡鏡中條村(現・南アルプス市)ほか50カ村の村役人の嘆願の趣を顕わしたが、正副戸長や県の役人が説得し、帰村させた。
 19日、巨摩郡逸見(へみ)筋の小前の者たちが歎願の動きを示し不穏となったが、県の役人が出張し説得した。
 20日、巨摩郡第九区駒井村(現・韮崎市)ほか7カ村、山梨郡山宮村(現・甲府市)、巨摩郡小淵沢(こぶちざわ)村(現・北杜市)ほか13カ村、巨摩郡東向(ひがしむき)村(現・北杜市)ほか14カ村、上手(うえで)村(現・北杜市)ほか7カ村、村山北割(むらやまきたのわり)村(現・北杜市)ほか9カ村、若神子(わかみこ)村(現・北杜市)ほか6カ村の村役人が歎願書を差し出した。同日、山梨郡万力筋・栗原筋97カ村の村役人がふたたび歎願書を提出した。同日、逸見筋の村々の小前たちが各所に群集し、不穏な形勢をとりはじめた。同日、県の役人が巨摩郡第六区副戸長網倉平八郎が不審の筋があるとして引き立てようとしたところ、小前の者たちが騒ぎ立ててかなわず、引き返すことにしたが、帰庁の途中、下今井村(現・南アルプス市)で同村の者たちが棒・竹槍などをもって迫って来たので、同村慈昌寺に潜居して避難した。
 21日、逸見筋の村々小前たちが不穏の動きを示し、若神子村・日野村(現・北杜市)入会(いりあい)字(あざ)恋道原という場所に500~600人が屯集し、鬨の声をあげて甲府方面へ進撃したので、県の役人が説得して思い留めさせた。しかし、後にはより多くの1200人ばかりが古府中大泉寺に屯集する事態となる。
 そして、8月22日、山梨郡栗原・万力筋97カ村9000人ほどは、恵林寺(在・甲州市)に集合し、猟銃や竹槍などを携(たずさ)え、鎮静化をはかる区戸長宅を襲撃し、甲府市に進入して、県庁に押し寄せた。
 その数と勢いに押されて、土肥県令は欺瞞的に「願(ねがい)の趣(おもむき)聞届(ききとどけ)候」と掲示し、その旨を記した黒印状を代表に渡し、一揆勢を退散させた。それにもかかわらず、翌24日、参加者の一部は帰路、豪商・若尾逸平宅を襲い、放火した。

<屠戮も辞せずと鎮圧出兵>
 しかし、「一揆の結末は悲惨であった。大小切存置(ぞんち)の黒印状を獲得し勝利に酔った農民が村に引き揚げたあと、八月末に東京・静岡から軍隊が到着し、九月三日、この兵力を背景に土肥県令は村役人を山梨郡小屋敷村恵林寺に集合させて蜂起をなじり、さきの黒印状を取り上げた」(『山梨県史』通史編5 近現代1 P.23)。そして、大小切廃止が不変であることを改めて申し渡したのである。
 一揆勢にたいする処罰は、苛烈(かれつ)をきわめた。出兵してきた東京鎮台第二分営は、一揆勢を処分するとした上で、「猶(なお)この上(うえ)謹蕭(きんしゅく *慎みうやまう)御沙汰待ち奉るべく、若(も)し又(また)心得違(こころへちがい)何等(なんら)の挙動これ有るにおいては、老若男女を問わず尽(ことごと)く屠戮(とりく *みな殺し)致すべく、その為(ため)我が分営朝命を奉じて出兵候……」(『日本庶民生活史料集成』第十三巻―「大小切騒動」P.702)と厳命した。
 また、司法省は急きょ、権少判事・北畠治房を所長とする山梨裁判所を開設し、11月10~11日の判決で、絞首2人、準流10年1人(後に、県令への復讐を企て脱獄により斬首)、徒刑3年4人となる。ほかには贖罪金を科せられたものとして、名主75人・長百姓325人・百姓代244人、小前百姓3121人がいる。重軽合せて計3772人にのぼったのである。   (つづく)

注1)原七郷とは、上八田・西野・上今井・桃園・吉田(吉田からは十五所〔じゅうごしょ〕・沢登〔さわのぼり〕が分村)・小笠原・在家塚である。『甲斐国志』上によると、原七郷は「ミナ(皆)八田御牧ノ内ナリ乾燥瘠土(*やせた土地)ニシテ水脈乏(とぼし)ク稲田アルコト中世以来徳島渠(とくしませぎ)ノ余潤ニ与(あず)カル地アリト雖(いえど)モ普(ひろ)ク及ボスニ至ラズ……農隙ニ七種ノ売物アリ……」(P.243)と言われる。土地の古老の言によると、“原七郷は月夜でも照る”と語り伝えられる程の乾燥地帯で、中には西野村のように水田が全く無い地域もあった。