明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉖

娘を身売りさせても上納迫る
                           堀込 純一


    Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争
  
  (7)新政府の新たな収奪策との闘い
 
 (ⅰ)福島・伊達郡川俣で2万決起
  
〈木戸・大久保両派の手打ち後も続く収奪〉

 政府内部の対立で、戊辰戦争後の通貨政策は朝令暮改となり(本シリーズ??を参照)、結果としてそのしわ寄せは農民など人民大衆に押しつけられた。インフレによって収奪されるのみならず、通貨自身の絶対的不足で売買そのものが困難に陥ってしまったのである。
 それだけでなく、1869(明治2)年6月24日、太政官達で強大な権限を与えられた通商司1)は、通商会社・為替会社の地方商社を手足にして、正金(金貨などの正貨。紙幣に対して言う)と正米(現物納された米)の収納を強行するのであった。
 すなわち、「正金収奪は、金札が地方で通用しないこと、三府(*東京、大阪、京都)で正金が欠乏したことを、地方官の不行届(ふゆきとどき)のためだとして、六月六日、『府藩県共(とも)一万石ニ付(つき)金札二千五百両ツツ、石高ニ応シ割渡(わりわたし)』、同額の正金の上納を命じたものである。公議所2)議員一同の反対意見書なども無視して強行されたが、藩県は対応に困り、民衆は贋金や贋札が満布しているなかで、無理やり正金を取り上げられ、思うように金札が使えずに苦しみ、ときには騒動を起こした。」(『新潟県史』通史編6近代一 P.199)のであった。この典型的な事例として、信州の連続した一揆を本シリーズ??で紹介した。
 では、正米収奪はどうであろうか?「正米収奪のため政府は、まず東京回米(廻米)を直轄府県などに強いた。賞典禄(*戊辰戦争での戦功者への恩賞)を蔵米で支給すると決めた(六月五日)ためもあって、六月三日の『諸国御料所御年貢皆済(かいさい)月定(つきさだめ)』が、八月二十四日・九月二十五日と二度にわたって改められ、府県および諸藩預地(あずかりち)の貢米は、河内・和泉両国を除き、東京御蔵納(おさめ)となったのである。酒田県下では、酒田商人が(*明治)三年二月、東京回米に激しく反対し県官の罷免を要求したため、窮地に立たされた県は、明治三年に限り従来どおり地払いを認めざるを得なかった。」(同前 P199)のである。
 しかし、中央政府の維新官僚たちは、ひるむことはなかった。「新政府は、(*1870〔明治3〕年)七月二十四日『検見規則』を制定するとともに、石代金納地を含めて一律に田方米納・畑方金納を布達し、閏十月二十九日には畑方金納相場を高め、次いで十一月五日『安石代』(甲府県の大小切〔*後述〕・東北の半石半永〔*半分は現物納で、半分は貨幣納〕・中野県の斗安制など)を廃止し」(同前 P.221)、さらなる貢租増徴政策を推進したのである。3)
 だが、政府のこの増税策にたいして、真正面から対決する農民一揆が、1870(明治3)年10月から翌年前半にかけて、全国で連続して発生した。1870年11月の「日田県騒動」・「胆沢県騒動」・「松代騒動」、12月の「登米県騒動」・「須坂騒動」・「中野県騒動」、1871(明治4)年2月の福島県伊達郡「川俣騒動」などは、当時の地方統治をあわや崩壊させるのでは……と思わせるほどの危機に追い込んだのである。

〈一揆の原因と背景


 福島での大規模一揆の原因は、戊辰戦争による農民たちの疲弊に加え、大凶作が1869年に起こったが、にもかかわらず新政府の官吏は何が何でも年貢上納と言い、そのために無理難題をもちかけたことにある。
 すなわち、「陸奥国(今は岩代の国)信夫郡福島県御支配所、伊達・信夫・安達三郡村々百姓共(ども)騒立(さわぎだて)候趣(そうろうおもむき)は、去る明治元年(*1868年)辰秋中、戦争(*戊辰戦争)以来(いらい)当国百姓一同(いちどう)困窮(こんきゅう)仕(つかまつ)り候処(そうろうところ)、去る巳年(*1869年のこと)大凶作にて必至と難渋(なんじゅう)仕り候、年貢御上納(おんじょうのう)相務(あいつとめ)候(そうろう)仕合(しあい *事態)に付き追々(おいおい)歎願(たんがん)奉(たてまつ)り、延引及び〔*年貢上納の延期〕に相成(あいな)り候処、猶亦(なおまた)、去る春中(はるじゅう)就中(なかんづく)米価高直(たかね *高値)、金一分に付き白米一升二合五勺、惣(そうじ)て食物類右(みぎ)に準じて高直に付き、所持の衣類、諸道具迄(まで)売払(うりはら)ひ、或(あるい)は質入(しちいれ)等(など)致し、様々(さまざま)取続(とりつづ)き罷(まか)り在(あ)り候程(そうろうほど)の儀に付き、年貢上納月延(つきのべ)又(また)は年延(としのべ)等願い上げ奉り、様々当春まで露命(ろめい *露ほどにはかない命)相繋(あいつな)ぎ居り候共(とも)、当処の産業相休(あいやす)み渡世方致すべくこれ無く、両村にては明家(*空き家)に相成り候もの百軒もこれ有り、此(この)末(すえ)如何(いかが)成り行き候哉(そうろうか)と心痛仕り罷り在り候処、……」(伊達郡旧掛田村佐藤某「己巳見聞記」下)―『日本庶民生活史料集成』第十三巻 三一書房 P.579)と、困難な事態を述べる。(掛田村は現・伊達市)
 戊辰戦争での疲弊、明治2年の大凶作に加え、明治3年春からの米価をはじめとした食物類一般の高騰で、農民は持っている衣類や道具類まで売り払ったり或いは質入れにして、露命をつなげてきた有様であり、とても年貢の上納などできない―と歎願を行なっている。  
 とくに明治2年(1869年)の大凶作はひどく、全国で平均収穫高は35・5%であり、福島近辺は損毛が7~8分(70~80%)、明治3年は同じく5分4厘2毛(54・2%)もの惨状である。また、米だけでなく蚕糸業も凶作で、「桑生は霜焼に〔*桑の葉は霜で枯れて〕相成(あいな)り産業の蚕(かいこ)半分にも行届(ゆきとどか)ず、殊に大隈川筋皆(みな)畑々の儀は、蚕種一同これ無く、並(ならび)に青作(あおさく *野菜)迚(とて)も不作し畑方取実(とりみ *収穫)相劣り候に付き金銀不融通(*現金収入もなく支払いもできない)に相成り一同至極(しごく)難渋し……(保原村外三十九ケ村歎願書)―(庄司吉之助著『近代地方民衆運動史』校倉書房 1978年 P.34)という状態である。(保原村〔ほばらむら〕は、現・伊達市)
 にもかかわらず、役人たちの年貢上納の催促は厳しく、次のような有様である。すなわち、「御年貢手当これ無き者は〔*年貢皆済のために借金するアテの無い者〕所持(しょじ)田畑売払(うりはらい)、種籾、青麦等売払候ても上納致すべき様仰せ付けられ、猶(なお)右にても上納金不足に候はば牛馬は勿論(もちろん)、子供、娘迄(まで)も引当(ひきあて *抵当)にいたし金子(きんす)拝借致し、上納仕るべき由(よし)にて、在々の者御役人軒別相改め厳重に申し付けこれ有り候事。」(「己巳見聞記」下―『日本庶民生活史料集成』第十三巻 P.579)と。
 酷薄な役人の催促は、官側の資料にも明白である。『明治四年福島県川俣地方騒動一件探索書類』(大隈文書目録政治外交地方政治に所蔵)によると、中央政府から出張した役人である「岡崎少属、初て松沢村(*現・伊達郡川俣町)ニ出張、役宅ニ於テ伍長(*五人組の長)呼出シ、上納方厳しく申し渡し、此節(このせつ)速ニ納兼(おさめかね)候者ハ、家財、農具、田地売払ヒ、且又(かつまた)妻子ヲ奉公ニ出シ、又ハ売リ、六十歳以上ノ老人ヘハ小糠(こぬか)ヲ食べさせテモ苦しからず、早々(そうそう)上納致すべきト厳刻(厳酷)ニ申シ、捕亡方(*逃亡者・罪人を捕らえる者)差向(さしむ)ケ軒別ノ家財等改(あらため)、無用ノ品々直段(値段)積(つも)リ等伍長ノ者(もの)調書差し出させ候趣。」(『日本庶民生活史料集成』第十三巻 P.576)と、酷薄な上納方法を徹底している。
 これに従がい、岡崎とともに出張してきた小幡史生(ししょう *書記などを務める下役)は、郡長の藤右衛門と大久保村(現・福島市)に出かけ、「……納兼(おさめかね)候者これ有るニ於テハ夫々(それぞれ)未納札を張出シ申すべく、左候得(さそうらへ)ハ此方(このほう)ニテ何成(なんなり)トモ取立(とりたて)申すべく旨(むね)相達し候由……」(同前 P.576)と嫌がらせを行ない、百姓たちは「迷惑ノ気色(けしき)」を露骨に示した。
 また、江戸時代の岡っ引きさながらに、「捕亡方杉内忍ト申す者、小浜村(*安達郡小浜村。現・福島市)巡村ノ節(せつ)扇屋長四郎方ニテ茶ト為リ(*「称シ」か?)酒(さけ)差出候ヲ受ケ、且又(かつまた)菓子ノ内ニ金二両ヲ包込(つつみこみ)、小児取次(とりつぎ)ヲ以て〔*子どもを仲介にして〕、指出候ヲ其儘(そのまま)受取候由。其(その)同所吉田屋、小松屋、若杉屋、鈴木屋都合(つごう)四軒ヨリ同様ノ振舞(ふるまい)これ有り……」(同前 P.576)というので、「大ニ民心ニ激シ候」となった。
 「子供・娘まで」をも抵当(ほとんどが人身売買となろう)にして年貢を納めろ!とは、封建時代の「仁政」以下の酷薄さである。また、田畑・牛馬など生産手段を売払ってでも年貢を納める―というのは、とりあえず当面のことをこなそうという維新官僚・下級官員の浅はかな考えであり、長期展望のなさを露呈している。
 また、未納者の家には張り紙を貼って嫌がらせをしたり、他方では富商からは賄賂をとったりしているのは、役人たちの腐敗した姿を露骨に示すものである。
 
〈在々で打ちこわし県庁を目指す〉

 官の無理難題に対し、農民たちは1871年1月頃から鶴田、松沢、東五十沢(ひがしいさざわ)の各村(*いずれも現・伊達郡川俣町)で集会をもち協議を進める。
 一揆勃発必至の情勢の下で、官員が説得をつづけるが、2月12日夜、ついに蜂起となる。一揆勢は村々の加勢をうたいながら、2月14日、「既に川俣市中へ押来(おしきた)り、安斎藤兵衛(福島役人租税取立の者)ちりめん屋(武藤絹問屋)両家打ちこわし候」。これをなお、役人たちが制するが、とても聞き入れりはずもなく、「村金札方高橋五左衛門打ちこわし、秋山村太左衛門打ちこわし候(「己巳見聞記」下)」となる。
 一揆への決起は、2月14日には伊達郡川俣近辺一円と秋山村(現・伊達郡川俣町)にまで拡大する。15日には、鶴田、松沢などの農民5000人ほどが春日神社に集合し、意志統一を行なう。15日夜は徹夜で秋山村を越え、信夫郡渡利村(現・福島市)に向かう。この頃、知事や官員などが説諭を行なうが、一揆勢はこれを受け容れるはずもない。16日明け方、一揆勢は阿武隈川を渡るために舟を確保し、福島県庁へ向かった。そして、県の牢舎に放火し、さらに福島辺の農民と合流し、福島町(現・福島市)の光白屋、井筒屋、喜多屋、立身屋、油屋など13軒を打ちこわす。
 2月16日には、二本松藩兵も到着し、福島近辺一里ぐらいの範囲で警邏(けいら)するが、農民たちは一里以外の渡利、杉妻、下野寺村(いずれも現・福島市)など各村でかがり火を焚き、鐘を撞き気勢をあげ、深更にいたって豪家に押寄せ打ちこわした。
 17日には、蜂起は伊達郡秋山辺から小島村(現・伊達郡川俣町)、月館村、御代田村(以上、現・伊達市)などに波及し、石田村(現・伊達市)、中浜村(現・双葉郡浪江町)近辺の豪家を打ちこわした。ついに蜂起は信夫郡・伊達郡一帯に拡大し、一揆勢の人数もおよそ二万人ほどに膨れ上がった―と言われる。その後も、一揆は安達郡へ拡大し、さらに田村郡へも波及した。
 農民たちの要求事項は、次のようである。「百姓一同歎願奉り候(そうろう)主意は昨年の御年貢十五ケ年賦、当年の御年貢は当暮米納(二石二歩方)来春半分御上納に御定めの段いたしたく、且又(かつまた)此度(このたび)新規に仰せ出し候(そうろう)人役、日掛銭(上等三文、中等二文、下等一文、但し一人前也)口役(不詳)国役、口役(不詳)、街道役、其外(そのほか)諸役惣(すべ)て御免(ごめん)下し置かれ候段(そうろうだん)願いの由にて騒立(さわぎたて)候と申す風説に候。」(「己巳見聞記」下―『日本庶民生活史料集成』第十三巻 P.579)と言われる。
要求の中心は、1870年の年貢を15年の年賦とし、1871年の年貢未納分を1872年の春までに半納とし、また新たな諸役はすべて停止する―ことであった。
 しかし、2月16日には二本松藩兵が、一揆鎮圧のために到着し、17日には中村藩兵も出兵している。また、2月18日には東京から巡察使が到着し、一揆収拾を検分させている。19日には知事の依頼で、逮捕していた松沢村(現・伊達郡川俣町)の粂八(くめはち)を帰村させ、一揆勢を懐柔させることをも策している。これは、成功しなかったようである。20日には三春藩兵も出兵し、23日には、民部大丞松方正義が岡山藩兵一大隊を引き連れて東京を出発している。こうした鎮圧態勢の強化の下で、一揆指導者の逮捕が続いた。
 なお、最後に付言すると、一揆勢の維新政府への幻滅は非常に強いものがあった。たとえば、「一、先知事には悉(ことごと)く服し居る趣の処(ところ)、当知事に相成り一(統)不服の色(いろ)相見え候趣/一、県政を兼て(かねテ)非道と存じ旧藩を慕ふ人気を生ず、其実(そのじつ)は県の支配所に相成り候得者(そうらへば)暮方(くらしかた)も安楽の見込み居り候由の処、不図(はからず)も厳しく取立(とりたて)これ有り失望の趣」(庄司吉之助著『近代地方民衆運動史』から重引 P.45)と探偵の報告は述べている。前任の知事はよかったが、現在の菱田知事の県政は「非道」余りあり、むしろ旧藩時代の方が良かった―というのである。
 そして、「知事暴行の節(せつ)屯集所へ出張の砌(みぎり)、白地縮緬(ちりめん)三尺四寸斗(ばかり)の菊御紋の御籏を戸屋野(鳥谷野)渡場(わたしば)へ取落(とりおと)し、逃げ帰り候(そうろう)行跡を小綱木村(こつなぎむら *現・伊達郡川俣町)常十と申者(もうすもの)拾ひ取り、夫(それ)より町飯坂村(まちいいざかむら *伊達郡川俣町)太三郎と申者篝火(かがりび)にて焼捨(やきすて)候由(そうろうよし)」(同前 P.45)と、菊の紋が入った旗が農民によって焼き捨てられたことが記されている。まさに、天皇制政府の非道な年貢取立てへの怒りが如実に表現されているのである。(つづく)

注1)通商司は、1869(明治2)年2月、外国官の下におかれ、貿易振興を任務とした。だが同年5月、会計官に移され、貿易振興のみならず国内の商業や金融の発達を任として、物価の全国的安定や、商業・海運の振興、貨幣流通と相場安定がはかられた。そして、各地に諸商社を建てる権限が与えられ、開港場や国内商業上の要地には通商司支署も設けられた(明治2年8月、新設の民部省に移管)。通商司は、1869年6月、7月に、通商会社と為替会社を東京につくらせた。両会社とも、三井・小野・島田・鴻池(これらは戊辰戦争の軍備を調達した豪商)など、東京・大阪の大商業資本の出資による株式会社に類似した組織である。通商会社は当初、外国貿易を独占したが、外国側の抗議や国内商人たちの反対で、独占をやめた。また、通商会社は、商業の業種ごとに商社を設立し、単一の国内市場の形成を目指し、米や油の取引所をつくった。そして、東京・横浜・京都・大津の通商会社は、後に米穀取引所となる。為替会社は、日本最初の欧米風の銀行制度を取り入れた金融機関である。諸通商会社に融資することを主としたが、一般の商人にも融資した。しかし、預金が少なかったので政府が莫大な太政官札の貸下げをおこなった。また、準備金をおくことを条件に、金券・銀券・銭券などを発行する特権を与えた。
 2)1868(慶応4)年2月、新たに諸藩の執政、参政の中から公議人をださせ、公議所が開設された。公議所は、定例会議を開き、政府の諮問事項や、議員または議員以外の者から発議された議案を討議し決議した。だが、公議所は討論クラブにすぎず、その議決は政府を拘束するものではなかった。「五カ条の誓文」は「万機公論に決す」と公議尊重をうたったが、それは公議所に見られるように、単に口先だけのものであった。公議所は、同年7月に早くも廃止され、集議院と改称・改組された。だが、この集議院は藩の代表であったので、藩の廃止とともに、なくなった。
3)高官が大蔵省と民部省の両省幹部を兼任し、地方収奪を強め西洋化を急ぐ大隈重信・伊藤博文・井上馨ら(これらのバックには木戸孝允がいて支えた)に対し、現実の農民一揆などの高揚を考慮して漸進主義で行なうという大久保派が対立した。これは、「大蔵・民部分離問題」(本シリーズ⑮?を参照)と称せられた。だがこの問題は、結局、木戸が大隈に懐疑的となり、1870(明治3)年7月、木戸派と大久保派の妥協で終わる。しかし、地方収奪は続く。