明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉕
 中野県庁焼滅させた局地的内乱
                              堀込 純一

     Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争
 
   (6)朝令暮改の貨幣政策に多発する信州一揆

  (ⅳ)伊那県商社事件の露呈で県政改革

 ところが、新政府は1869(明治2)年12月、藩県通用手形類停止の布達を出し、府県藩の私製紙幣の製造停止を命じた。このため、伊那県は商社札の発行ができなくなり、先の商社構想(前号に掲載)は暗礁に乗り上げることとなった。
 そこで伊那県は、豪商の黒野太兵衛、野口善右衛門(吉十郎の弟)、藤牧啓次郎に、当面3万両の調達を申し入れた。しかし、これは実現できず、黒野の紹介で横浜の貿易商・増江屋次郎兵衛を通じてオランダ商社へ調達を申込み、善右衛門所持の生糸630貫や、材木などを抵当に借り入れに成功する。
 だが1870(明治3)年1月、伊那県は外国からの借り入れはまずいと判断(これは当時、政府によって禁止されていた)し、野口善右衛門に借入金の返却を命じた。しかし、善右衛門は返済できず、しかたなく伊那県は租税金2万両を貸して、返済することになった。
 だが、これらは政府の知ることとなり、黒野・野口・藤牧らが逮捕され、北小路知事は罷免され(5月)、関係した県官7人も謹慎処分となった。以上が、「伊那県商社事件」である。
 政府は、これを契機に伊那県改革を推進する。1870年7月、大蔵省は、財源となる貢租の増徴政策を全国的に進めた1)が、あらたに大蔵省官吏となった高石和道、永山盛暉、山下宗一郎らが伊那県に送り込まれ、「伊那県商社事件」の解決と租税の増徴を推進した。
 伊那県改革の過程で、高石・山下は統治の関係から南北に長い伊那県を分県する必要があると伺いを出した。高石らは、世直し一揆を鎮め、貢租の増徴を強化し、統治を強化するためには、伊那県の分割が是非とも必要と考えたのである。
 1870(明治3)年9月17日、伊那県分県願いが認可され、東(ひがし)北信(ほくしん)に中野県が分置されることになった。
 10月9日、中野県大参事2)に高石和道、伊那県大参事に永山盛輝が任命された。山下宗一郎は、伊那県官員の最後の仕事として、10月、中之条局を廃止し、埴科(はにしな)郡14カ村と更級(さらしな)郡5カ村を中野県の直接支配とした。また、小県(ちいさがた)郡32カ村と佐久郡25カ村を御影出張所の管下に置いた。 
 だが、中之条局廃止については、埴科郡下14カ村の農民1500余人が反対し、中之条局の存置を訴えて直訴した。中之条局が廃止されると、貢租の運搬や公事出入(くじでいり *訴訟)の際、埴科郡の農民たちは、いちいち遠い高井郡中野(現・中野市)まで出かけなければならず、明らかに負担が増大するからである。
 このため、埴科郡の坂木・中之条・金井・横尾4カ村(現・埴科郡坂城町)の小前(こまえ)百姓たちは直ちに決起した。小前層を説得できなかった村役人たちも、共同で願書を提出し、再検討を願い出た。
 しかし、山下は「県の廃置分合(はいちぶんごう)皆(みな)天朝に出で、我輩(わがはい)微官奈何(いかん)ともなすこと能(あた)はざるものなり」といい、天朝の指令があるまで待て! と一揆勢を諭し帰村させた。だが、中野県は一揆参加者に対し、過料、御叱りなどの処分を計81人に下したのであった。
 
 (ⅴ)大規模な闘いの続出と中野県庁の焼打ち

〈藩札下落で「松代騒動」
 だが、中之条局廃止反対の闘いは、北信一帯に続出する大規模な闘い、「松代騒動」、「須坂騒動」、「中野騒動」への導火線の役割を果たすこととなる。
 11月25~27日、藩札の下落などから数万人(一説では7万人)が松代藩庁へ強訴し、松代町・善光寺町などで打ちこわし、焼き打ちが行なわれた。「松代騒動」の勃発である。
 「松代騒動」の原因もまた、幕末から明治にかけて膨らんだ藩債増大(約111万両に及ぶ)がその基礎にあった。このため、藩は商法社を設立して財政危機から逃れようとした。
 商法社の頭取には、外国貿易に実績のある豪商・大谷幸蔵が任命された。商法社は、生糸や蚕種を外国へ輸出することを積極的に推進し利益を獲得するために、商法社手形を発行して、領内の蚕種などを強制的に買い集め、横浜に運び、外国へ輸出した。
 1869年商法社発足の頃、商法社手形は20万両余りが発行され、大谷は商法社札20万両のうち、19万両余を独占し、千曲川上流地域の蚕種を買い集めていた。
 ところが、1870(明治3)年になると、蚕種の輸出価格は暴落した。蚕種は仕入れ値の半値でも売りさばけず、商法社の赤字は10万両にも上った、と言われる。商法社札の貨幣価値は大幅に下落し、太政官札との引き換え相場は25~35%引きとなり、商法社に蚕種を販売し、商法社札を手にした生産者農民には大打撃となった。
 またこの頃、前述したように信州では二分金などの贋金(チャラ金)が横行していた。チャラ金は、松代藩領だけでも10万両ほども流通していた。このため、藩は贋金との交換を目的として、1869(明治2)年に領内だけで通用する藩札を発行した。藩札は午札(うまふだ)と呼ばれ(藩札には麒麟の絵が描かれていたが、馬と見違えられ午札と呼ばれた)、一分・二朱・一朱(1両=4分、1分=4朱)の三種類が刷られ、合計21万両にまで達したという。
 しかし、前述したように維新政府は、1869(明治2)年12月に、藩札や手形の発行を禁止し、太政官札と引き換えることが布告された。松代藩の藩札や商法社手形は、2割5分引きで太政官札と引き換えること、年貢の換金相場は10両に付き籾4俵半とすることが命じられた。
 これには、領内百姓や城下の雑業層の生計をさらに圧迫し、各地で不満の声が充満するようになった。上山田村(現・千曲市)の農民たちは、10両に付き籾4俵半を元の7俵にする安石代を求めて、藩に嘆願を繰り返した。
 百姓たちの嘆願は藩庁によって無視された。ついに1870(明治3)年11月25日午後、上山田村の甚右衛門が同村貧農に呼びかけ、午後11時ころには、力石村(ちからいしむら *現・千曲市)の千曲川原に3000人余りの百姓が結集した。
 一揆勢はここで二手に分れ、手に手に松明(たいまつ)を持って松代城下を目指した。「(千曲川)川西を下った一隊は、上山田村から万治峠をこえ、羽尾村の大谷幸蔵宅を焼き払い、向八幡(むかいやはた)・稲荷山両村(*ともに現・更埴〔こうしょく〕市)を抜け、東福寺村赤坂(現・長野市)から岩野村(同前)へでた。一部は川中島平へと押しだしている。川東の坂木村刈屋原(埴科〔はにしな〕郡坂城町)へわたった一隊は、鼠宿(ねずみじゅく)・新地(しんち)両村(同前)の一部農民を加え、上徳間村(同前)から矢代村・土口(どぐち)村(*ともに現・千曲市)へと走った。このときの人数は二万という。/岩野村で合流した一揆勢は、二十六日朝七つ半時(午前五時)すぎ、いっきに松代城下へ突入した。木町の産物会所や加賀井村(長野市東条)の高野広馬邸などを焼き、藩庁にせまって『真田・高野(*ともに県の高官)の首をわたせ。商法社の悪人どもを殺せ』と怒号し投石した。四つ時(午前一〇時)ごろ、事態を重視した知事真田幸民(ゆきもと)が乘り出した。大英寺をうめつくした農民たちは、知藩事から石代納相場一〇両に籾七俵、藩札の額面通用と太政官札との等価引きかえの言質(げんち)をとりつけ、二十六日夕方までに帰村した。」(『長野県史』通史編第七巻 P.66)のであった。
 さらに、26日夜半、松代周辺や川中島平の百姓たちが城下に進入し、藩札関係の藩士宅20余軒、商法社役員をふくむ特権的な御用商人・高利貸し・米穀商など39軒を焼き打ちにした。これによる類焼は、139軒におよんだ。水内(みのち)郡善光寺でも、群衆が決起し、贋金つかいの商人を中心に77軒が焼き打ちされた。
 松代藩領内の世直し一揆も、11月27日、武装藩兵の出動で、ようやく下火となった。だが、再動のきざしは各地に見られた。12月頃には、小作人たちが小作料の低下を要求して、地主に迫った。これに対し、地主たちは非常に恐れ、しきりに権力者の藩に保護を訴えたのであった。(土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾録』勁草書房 1953年 P.147)
 そこで松代藩は、一揆の根元を抑えつけるものとして、一揆首謀者620名を逮捕した。このうち、入牢者は400余人に及んだ。そして、翌1871(明治4)年1月には、民部省の布告により、年貢の公定相場は籾4俵半にふたたび戻されている。同年4月には、産物会所と商法社は廃止となり、商法社手形も藩札もその通用は禁止された。
 また、この「松代騒動」の責任をとる形で、政府は知藩事真田幸民らを謹慎、大参事真田桜山、権大参事高野広馬を閉門としている。そして5月には、逮捕者の中で上山田村の甚右衛門を斬罪とし、准流(じゅんる *徒刑)10年が9人、同5年が1人、同3年が2人などの処分を発表した。

〈年貢の格安相場を求めて強訴する「須坂騒動」〉
 「須坂騒動」では、1870(明治3)年12月17~18日に、須坂藩領全村千数百人が年貢減免などで藩庁に強訴し、須坂町などで呉服商・質屋・穀物商118戸を打ちこわし、焼き打ちした。
 須坂藩の政府弁官への上申では、一揆勢の要求の原因について、次のように記している。「当藩に於ては去る月中、租税籾直段(値段)取極め申したく候処(そうろうところ)、其(その)砌(みぎり)管下の村々安直段にて藩の深恤(しんじゅつ *深い恵み)と一同有り難く相心得(あいこころえ)居り候処、右(みぎ)松代藩同様の折柄、同藩に於て前件格安(かくやす)直段(*年貢の公定相場が格安ということ)相立て候趣に雷同(らいどう *考えもなく他の説に同調すること)仕り、玩愚(がんぐ)の百姓欲情に迷ひ右相場(*松代藩の相場)に見較(みくら)べ、此(この)節に至り松代藩同様の直段に致し候歟(か)又は多分の籾子永拝借(えいはいしゃく)致したく抔(など)不当の難題(なんだい)願い立て候村方もこれ有り候……」(『明治初年農民騒擾録』 P.151)と。
 須坂藩の当局者の推定によると、前年の松代藩と同じように安値段の相場か、あるいは「籾子永拝借」かと述べている。恐らく両方とも当っていると思われる。いずれにしろ、「松代騒動」の影響は甚大なものであった。

〈ついに県庁をも焼き打ちする「中野騒動」〉
 「中野騒動」では、中野県下の数万人が高率年貢米の減免・物価引下げ・伊那県商社の廃止などを要求して決起した。
 1870(明治3)年12月19日、一揆が高井郡高井野村(現・上高井郡高山村)で勃発した。同村は「須坂騒動」の発頭村・灰野村(現・須坂市)に隣接している。
 夕刻になり、一揆勢1000人余りが小布施村(現・上高井郡小布施町)砂川に結集し、「ここで①石代相場引き下げ、②斗安(※安石代のこと)および③安石代の例年通り実施、④商社金割返し、⑤宿人足入用の勘定廃止、⑥二月一五日皆納の六項目の要求を定めた。」(『百姓一揆事典』民衆社 P.533)という。また、「打ちこわし対象者を①商社関係一二人、②幕府時代の郡中取締、③小前に勘弁なき者、④小前に難儀をかける者、⑤私欲の者とし、『タトイ親類タリ共(とも)用捨無く焼き払い申すべし』と定めた。さらに類焼への注意、頭取に従うこと、不法な乱暴の禁止など行動規範も定めている。」(同前)といわれる。
 一揆勢は、19日八ッ時(午後三時)、三手に分かれて中野町をめざした。砂川から東江部を通過し中野町に迫った本隊に対し、権大属大塚正徳は進行を制止しようとしたが失敗し、殺害された。19日夜、中野町に入った一揆勢は、米屋・郷宿・郡中取締役などを打ちこわし、家屋に放火した。さらに一揆勢は門番を殺害し、中野県庁舎を焼き払った。
 砂川から東に進行した一手は、桜沢村・間山村・更級村など(以上、現・中野市)を経由して上条河原へ進み、その一部は中野町(現・中野市)に入り諏訪町を放火した。
 最後の一手は、夜間瀬村(よませむら *現・下高井郡山ノ内町)下須賀川から木島平に出て、翌20日、本隊と合流し北上し、関沢村(現・飯山市)を経過し、坪山まで進んだ。途中、豪農や村役人の家宅を破壊した。一揆勢は、大参事高石和道が税金をもって六川村(ろくがわむら *現・小布施町)からさらに須坂(現・須坂市)を目指して逃亡したのを知って、その探索で後を追った。
 しかし、一揆勢は20日、須坂への途中の小布施町近くで、東京の弾正台から派遣された巡察属篠塚重寿と交渉することとなる。そこでは、新政府側は「①石代相場は一両につき三斗、②商社停止と金子(きんす)割返しの二か条はその場で承認し、③宿助郷廃止、④斗安(安石代のこと)、⑤定免切り替え、⑥上納日限二月一五日限りという四か条は、『天朝』に伺いのうえで沙汰する」(同前)という形で、鎮定をはかった。
 20日夜、木島平に向かった部分は中野町に突入し、再度、放火する。これで中野町全戸数の七割方が焼失したといわれる。21日には、松代・須坂・飯山・上田の藩兵が出動し、一揆・打ちこわしは鎮静化した。翌年以降、逮捕が行なわれ、600余人が入牢となった。そのうち28名が死罪、115名が流三等となった。
 一揆勢の激しい闘いで、中野県庁が焼き落とされた。一地方の事件とはいえ、維新政府のメンツは丸つぶれである。まさに局地的内乱ともいうべき事態である。そこで、「政府は兵部省から兵士三中隊を派遣し、尾張藩ら近隣十九藩に、指令ありしだい一揆鎮圧に出動できるよう動員態勢をとらせた。」(井上清著『日本の歴史』20明治維新 P.183)のであった。
 1870(明治3)年の信州における一揆の中でも、「一揆の頂点といえる中野騒動では、官軍の支援をあおぐほど県藩体制の弱体ぶりが露呈し、維新体制そのものに警鐘をならし、強力な中央集権体制の早期確立(廃藩置県の断行)をうながすものとなった。また、贋二分金にはじまる金融不安と増徴は、県・藩不統一の租税体系の統一(地租改正の実施)をうながした。一揆は、民衆のいくつかの要求を実現したが、民衆がのぞんだ『世直し』はできず、むしろこれを押え込む強固な中央集権体制作りに拍車をかけることになった。」(『長野県の歴史』P.272)のである。(つづく)

注1)地方統治をめぐる政府内の対立をひき起こした「民・蔵分離問題」(高官の兼任で民部・大蔵省が実質的に融合)は、1869(明治2)年8月から1870〈明治3)年7月までと1年近くも続いたが、木戸派と大久保派の妥協で一先ずおさまった。1870(明治3)年7月、大蔵大輔と民部大輔を兼任していた大隈重信は大蔵大輔専任となった。
 2)1869(明治2)年6月の版籍奉還に伴い設置された地方官で、知事を補佐する任務で、知事に次ぐ要職。正・権がある。