〔綱領論争!新しい左派共同政治勢力へ〕

 史実に基づく総括で新たな地平を!
                            安田 兼定

はじめに

 資本主義はあまりにも長く延命し、今日の世界は、深刻な事態を迎えている。マルクス主義も、従来の経験を総括して根本からの見直しが問われている。

 〈革命の必然性〉

 幕末・維新期、日本の知識人たちは、蘭語・英語などを訳す際に、日本語化された漢字や見事な造語などをあてた―といわれる。だが、英語のnecessityの訳語は、漢語の「必然」をあてたようである。
 諸橋轍次著『大漢和辞典』によると、その「必然」の項には、「必ずかくなる。きっとそうなる。」と、訳がなされている。すなわち、天命思想に基づく宿命論である。(「必然」の対語は「蓋然」)
 しかし、英語の辞書(『PROGRESSⅠVE』)でnecessityの項を引くと、「1《しばしば‐ies》必要物、必需品;不可欠な物(存在)…… 2(……の)必要(性)、(……に)不可欠の[絶対必要な]事 3必然(性)、不可避、宿命;強制[強要,余儀なく]されること…… 4貧苦,貧困,窮乏……」とある。
 見られる通り、漢語の「必然」と英語のnecessityとを比較すると、大分ニュアンスが異なるようである。漢語では宿命論としての「必ずそうなる」であるが、英語では1~4まで多義的である。しかも、1、2では「不可欠な物」「必要」などと、主体的関係を意味している。
 では、今日の日本語辞典は、どのように解釈しているのであろうか。一般的に広く利用されている『広辞苑』では、「①『戦国策』(秦策下)―必ずそうなること。②(哲)(Notwendig kaitドイツ necessityイギリス)そうあるより外にありようのないこと。論理的な必然性、道徳的な必然(当為)、現実的な必然が区別される。現実的な必然の考え方には、(イ)一切は因果関係に支配されているから、偶然は客観的には存在しないとする考えと、(ロ)ある系列の必然(例えば歴史の必然)は偶然的な諸要因をつうじて貫徹されるとする考えがある。」とされている。つまり、漢語的な意味合い①と、西洋的な意味合い②の両方をかかげている。
 以上を踏まえてみると、マルクス主義者は、「革命の必然」をどのように理解し、解釈してきたのか―非常に興味のあることである。
 筆者の考えでいくと、漢語的な意味の「必然」は、人間主体が介在しない(あっても問題にならない程度で捨象しうる)点で自然法則の分野にあてはまると思われる。しかし、necessityはまず「必要物」や「強制」など多義的であり、社会法則の分野にこそ適合すると思われる。
 革命は言うまでもなく社会事象であり、労働者人民の多くの諸個人の実践ないしは協力なくしては実現し得ない。ただし、諸個人の主観的願望や恣意的な行動のみで実現し得るものではない。そこには、資本主義の諸矛盾が生み出す労働者人民への絶え間ない無限の警鐘と促迫が不可欠となる。この客観的な事態を背景に、諸個人の当為を通して、革命は必然となるのである。
 自然法則と社会法則にはもちろん共通性はあるが、社会法則には必ず人間の実践行為が直接・間接に存在している。この点が、自然法則とは根本的に異なる。

 〈ロシア革命の教訓〉

 ロシア革命の必然性ををめぐっての論争は、既に革命当時にもあった。
 レーニンは、ヨーロッパ革命との結合が当面望みえない1923年1月の口述で、社会民主主義者のスハーノフらが「われわれはまだ社会主義を実現するほど成熟していない」、「社会主義の客観的な経済的前提がない」などと言って批判するのに対して、次のように反論している。すなわち、「社会主義を建設するために、一定の文化水準……が必要ならば、なぜ、この一定の水準の前提を、まず革命的方法で獲得することからはじめ、そのあとで労農権力とソヴェト制度をもとにして、他の国民においつくために前進してはいけないのであろうか。」(「わが革命について」レーニン全集第33巻 P.499)と。
 不幸にも、ヨーロッパ革命は実現しなかった。これは、ヨーロッパ革命とロシア革命を結合させて、「社会主義建設」を計画していた共産主義者にとっては、確かに大きな痛手であった。
 だが、この時点で労農権力をブルジョアジーへ返還することが正しい道であるとは言えない。ほとんどのロシア共産主義者は否と答えるであろう。また、多くの労働者人民は、掌握した権力を手離すことなく、次善の策を求めたであろう。この態度は、ごく普通の常識的態度である。レーニンの前述の言もまたそうである。革命は、理科室の実験とは異なり、教科書に書いてある通りには進行するとはかぎらないからである。
 問題は、与えられた条件の下で、どのように経済建設、社会建設を行なうか―である。
 結論的に言うと、ソ連はこれに失敗した。その理由はさまざまあるが、主要点は二つある。一つは、労働者人民が主権者として自治的社会を発展させる問題であり、もう一つは、生産力問題である。

  自治的社会建設を封殺
 スターリンらは、遅くも1930年頃までには党内反対派をことごとく封殺し、独裁体制をしいた。そのうえで農業の集団化を強行的に推進し、「クラーク絶滅」を号令し、富農のみならず中農までも迫害し、1932~33年の飢饉ではウクライナなどの多くの農民が餓死するのを放置した。その後も、ソ連内のポーランド人、ドイツ人、朝鮮人を「敵性民族」としてシベリアや極北の地などに強制移住させたり、1939年の独ソ不可侵条約後にはバルト3国、東部ポーランド、ベッサラビア(モルドヴァ)を占領・併合し、その地の民族を強制移住させた。1944年には、北コーカサス地方やクリミヤ地方のイスラム教の少数民族を中央アジアなどへ強制移住させた。これらの移送と移住の過程でも多くの人民が死亡した。
 スターリン独裁体制による犠牲者の規模は、一説によると1930~53年の間に1600~1700万のソビエト国民が強制収容所に押し込められ、この内300万人が「反革命活動」の罪で有罪となったと言われる。この内には、ウクライナ飢饉の犠牲者や、迫害された諸民族で虐殺されたり死刑に処せられたりした者300~500万は含まれていない。
 これらは情報公開が限定されていた中での推定数であり、ゴルバチョフ時代の部分的な情報公開によっても全面的になされておらず、正確な数は不明である。
 スターリンらは、ロシア社会を人民相互の監視と密告の社会に変貌させ、人民がいつ逮捕され収容所に送り込まれるか分からない恐怖社会に突き落とした。このような事態がまかり通るのは、人権思想がロシア社会に根づいていないことを示すものであった。1)
 恐怖社会の下でプロレタリア民主主義が開花することは、全くありえない。しかし、民主主義が不在の社会の「計画経済」は社会主義的なものではなく、それは戦時統制経済と類似した代物にすぎない。たとえ生産手段が国有化ないしは集団所有化したとしても、生産現場などで、指揮する者と指揮される者との間には矛盾(生産諸関係での矛盾)が存在するのであり、それは定期的な臨時的な選挙などで解決する必要がある。それなくしては矛盾が敵対的な矛盾に発展する可能性があるからである。人民の意思や希望を発言するためには、政治制度の上だけでなく、農業や工業などの生産現場などでも普通選挙制は不可欠である。
 人権思想もなく、民主主義もない社会とは、まさに「主権在民制」が欠如した社会である。人民が主権者でないという社会は、君主主権の国家か、あるいはそれに類した社会であり、いずれにしてもこのような社会では、明らかに階級が存在しているのであり、とても国家が死滅に至ることはありえない。世界の人民が13世紀以来、国家権力と闘い営々と積み重ねてきた権利のための闘争は、労働者人民が権力を掌握した後もさらに発展させるべきである。主権在民制や人権思想は、国家死滅への思想的政治的な極めて有力な武器となるにちがいない。

  生産力主義への転落
 もう一つの生産力問題では、スターリンは1938年9月に著した「弁証法的唯物論と史的唯物論について」(『レーニン主義の諸問題』真理社 1953年 に所収)で、次のように述べている。「したがって生産力は、生産のもつとも可動的で革命的な要素であるのみではない。生産力は、それと同時に生産発展上における決定的的な要素である。/生産力のいかんによって、生産諸関係もまたそのようにちがわなければならない、のである。」(同著 P.673~674 下線は引用者、以下同じ)と。
 スターリンは、「基底体制還元主義」2)を前提に、しかも生産力至上主義に陥っているのである。したがって、彼は生産力の量的側面のみを専らにし、その質的側面を無視したのである。
 スターリンはその後、1936年11月に、工業・農業・商業の分野で「社会的所有」が確立されたことによって、「わがソヴェート社会は、すでに基本的に社会主義を実現し、社会主義制度を創建できた。すなわち、マルクス主義者が共産主義の第一段階もしくは最低の段階とちがった名で呼んでいるものを実現するにいたった。」(「ソ同盟憲法草案について」)と宣言する。だが、1939年3月の第18回党大会では、ソ連工業の発展をうたいつつも、国民一人あたりの生産高が主要な資本主義国から遅れていることを重視し、10~15年の期間に、これら諸国に「追いつき、追いこす」ことの必要性を強調した。その後のソ連共産党が、フルシチョフをはじめ生産力主義から解放されなかったのは言うまでもない。
 また、アメリカと対峙することを名分に、核兵器開発にいそしみ、ソ連の保存を図った。全世界の労働者人民の闘いに依拠するのでなく、核兵器に依存したのである(唯武器論)。しかも、主要資本主義国と同様に、原発を積極的に稼働させ、生産力の発展に奉仕させたのである。

 〈日本の生産力主義〉

 1928年の3・15事件、1929年の4・16事件での共産党員の大量検挙いらい、国家権力による弾圧は年中行事となる。とりわけ、1931年9月の「満州事変」以降は、共産主義者の政治活動はほとんど窒息させられた。その後、左翼運動の重心は政治的実践から思想的文化的活動に移って行く。
 この中で、1932年5月から『日本資本主義発達史講座』が刊行される。そして、いくつかの潮流をもつ講座派の中でも、山田盛太郎・平野義太郎らに代表される「封建派」が台頭する。その理論的特徴は、「……事物の生成発展の過程をすべて『生産力』の自然発生的な自己運動の過程に還元し、物質的素材の運動の自然史的過程に集約して、歴史における人間主体の能動性・可能性を没却する客観主義である。」(住谷悦治ら編『講座・日本社会思想史』4 反動期の社会思想 芳賀書店 1967年―の第五章「退潮期社会科学の思想―封建派と生産力理論」〈浅田光輝氏執筆〉 P.299)と言われる。
 この「生産力」理論は、「わずか四、五年間の封建派最盛期に、政治的実践を遊離することを余儀なくされた日本のインテリのあいだに、おどろくべき速度で、みるみるうちに、広くかつ深く浸透していった」(同前)のであった。
 この封建派の日本資本主義論に深く影響された生産力思想が露呈したのは、第二次世界大戦中である。すなわち、「日本のマルクス経済学者たちによって、戦争中展開されたいわゆる“生産力論”は、……日本軍国主義の経済政策に奉仕し、また“聖戦遂行”と生産力とを直結して日本人民をあざむくことによっても、軍国主義に奉仕した」(『星野芳郎著作集』7 運動論  勁草書房 1978年 P.251~252)のである。
 星野氏が言ったことは、既にそれ以前に浅田光輝氏によって、前述の論文で詳しく紹介されている。
 結論的にいえば、「大塚史学〔*大塚久雄に代表される〕と『社会政策』理論〔*風早八十二や大河内一男などの〕は、あきらかにその基柢(きてい)の論理を共通にしている。それは資本主義の生成・発展の基軸を、『生産力』の自動的展開の過程としてとらえる立場である。この生産力の展開によって、おのずから生産関係もまたひとりでに変化するものとなる。/さらにこの『生産力の自動的展開』の理論は、資本の運動法則を資本と賃労働の対立関係を基軸としてとらえるのでなく、等価交換としての価値法則の自己貫徹としてとらえる論理に結晶される。……」(P.317)のである。
 大塚史学も風早らの「社会政策」理論も、封建制の色合いを強くもつ近代の日本社会(「軍事的半封建的資本主義」と規定された)を変えるには、イギリス資本主義のような合理性をもった資本主義に変革する必要があるとする近代主義でしかない。だが、風早らは、そのためには軍部に協力し、合理的資本主義の発展に貢献すべきとした―のである。
 生産力主義は、戦後左翼にも色濃く残り、払拭できなかった。その象徴は、核問題である。原水禁運動において、「いかなる国の核兵器」にも反対するか否かを巡って、運動体は分裂し、未だ解決していない。しかも核をめぐる対立は、「原子力の平和利用」問題にも及び、進歩的科学者の間でも賛否両論があった。しかし、日本共産党は、「原子力の平和利用」そのものは否定して来ず、2011年の東日本震災での福島原発事故まで原発建設に明確に反対しなかった。
 生産力主義の誤りは、「原子の力を解放する」ことだけではない。日本共産党は、ソ連の変質をその崩壊(1991年12月)まで認めなかった。1977年10月の第14回党大会で、当時のソ連は社会主義の「生成期」と部分的な手直しをしたが、依然として社会主義と評価した。その根拠として、当時の幹部であった聴涛弘氏は、「社会主義の生産力は、最高に発達した資本主義の生産力を圧倒的にしのぐものである。これが実現されていないことはいうまでもなく、現在の主要先進資本主義諸国の生産力水準に『追いつき、追いこす』という課題も達成されていない現状のソ連を、生成の途上にある社会主義、すなわち『生成期』の社会主義国としてかぞえあげざるをえないのは当然であろう。」(同著「日本共産党の社会主義『生成期』論」―『前衛』1982年3月号)と言っている。ここでは、生産力の量的面のみの比較だけで、質的な面での比較を全く欠落させているのである。
 それがソ連が解体した後の1994年9月の第20回大会では、つじつま合わせのごとく、“ソ連は社会主義ではなかった”と、ようやく「体裁を整えた」のである。
 日本共産党がソ連の変質を認めなかった理由は、大きくいって二つある。一つは、社会主義のメルクマールを生産手段の国有化ないしは集団化のみに求め、政治制度の評価を欠落(ないしは軽視)させたからである。経済が社会主義化されれば、上部構造もまた自動的に社会主義化される訳ではない。ソ連社会は、資本主義社会と違って、“経済的土台と上部構造が相対的に分離した”社会でないことが理解できなかったのである。
 二つ目は、やはり生産力主義である。ソ連社会は未だアメリカ社会に“追いつき追い越し”ていないから、さまざまな欠陥をもっているが社会主義だと擁護していたのである。しかし、生産力の発展が、自然を破壊し人類の生存基盤を脅かし、諸個人の個性の全面的発達を阻害するなかで、そのような態度は、従来の資本による生産力の発展方向を根本的に変えなければならないことに無智な態度である。ソ連や日共などの生産力主義は、世界資本主義の自然破壊を補完するものでしかない。

 〈革命か、それとも生存基盤の壊滅か〉

 第二次世界大戦の荒廃から、戦後は多くの国々で復興が行なわれた。だが、その後の高度成長から資本の生産力主義の弊害が、公然と明らかになる。石油文明の下での大量生産―大量消費―大量廃棄というアメリカ的な生産様式・生活様式は、核兵器・原発とは違う形で人類など生命体の存在を根底から脅かし始める3)。それは半世紀もたたずして、地球規模の気候変動をもたらし、大洪水・大干ばつ・食糧危機などで日常生活をかく乱し、人間の生活・存在そのものにとって恐怖となっている。
 さらにまた新型コロナウィルスの蔓延(まんえん)で日常的な生活が文字通り叶わなくなり、まさに人類の生存基盤が根底から脅かされるようになっている。感染症の脅威は、今年の新型コロナウイルスだけでなく、すでに2002年のSARS(サーズ 重症急性呼吸器症候群)、2012年のMERS(マーズ 中東呼吸器症候群)、2014年のエボラ出血熱などと人類を襲っている。
 このような事態は、マルクスが生きていた時代には全く想定できないことであった。いまや解放闘争は、革命により資本主義を打倒し、搾取・抑圧を廃止し、生産力の発展方向を根本的に変えるか4)、それとも資本の自然破壊を放置して、人類の生存基盤を崩壊させるのか―その分岐点により広くより深く直面しているのである。(終わり)

注1)拙稿「ロシア文化と二つのソビエト憲法」〔理論誌『プロレタリア』2号(2002年3月)に所収〕を参照。
2)拙稿「基底体制還元主義を克服できない俗流唯物論」(労働者共産党ホームページに掲載)を参照。
3)この点において、体制内化した科学・技術が大きな役割を果たしている。広重徹著『近代科学再考』(朝日新聞社 1979年)、同著『戦後日本の科学運動』(中央公論社 1960年)を参照。
4)詳しくは、『プロレタリア』紙1985年1月1日号(労働者共産党ホームページに転載)の安田兼定論文、また、『プロレタリア』誌10号(2011年12月)の拙稿『研究ノート 新農業基礎論』を参照。