明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉔

民衆を襲う通貨危機と食料危機 
                             堀込 純一

       Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

   (6)朝令暮改の貨幣政策に多発する信州一揆

 
 維新政府は、1868(慶応4)年1月、旧幕府領を没収し天朝領とし、同年閏4月、「府藩県三治制」を布(し)いた。これにより、信州では天朝領を統治するために、同年8月2日、信濃国伊那郡飯島の旧幕府陣屋に県庁を置いて、伊那県を成立させた。信州諸藩は引き続き諸大名に統治させ、1県14藩体制となった。
 翌1869(明治2)年6月、薩長土肥以下の諸大名の版籍奉還(版は土地、籍は人民を指す)が次ぎ次ぎと行なわれ、伊那県の統治も強化された。伊那県改革とともに、政府の指示を受けて諸藩の改革も行なわれたが、困難をきわめた。
 民衆は戊辰戦争における宿駅や助郷の負担、農兵や軍夫への動員、軍費の徴発などで苦しめられ、各地でそれを巡った闘いが発生している。民衆にとって、維新政府の「御一新」はつかの間の幻想に終わり、信州でも世直し一揆が広範に起こった。信州の一揆は、1868年5件(全国86件の5・8%)、1869年13件(同110件の11・8%)、1870年9件(同65件の13・8%)であり、全国レベルでみても多発地帯であった。

 (ⅰ)チャラ金さえも不通で
   「飯田二分金騒動」の勃発

 1868(慶応4)年5月、新政府は、殖産興業資金のためと称し(実際は戊辰戦争の軍資金が大部分)、「一〇両・五両・一両・一分・一朱の太政官札(金札〔きんさつ〕ともよばれた不換紙幣)を発行し……、諸藩へ高一万石につき一万両を貸し付けた。信濃諸藩は松代藩一〇万五〇〇〇両をはじめとして二六万六〇〇〇両を借り入れ、信濃一円に金札が浸透した」(『長野県史』通史編第七巻 近代一 P.39)と言われる。
 しかし、新政府の通貨政策は、目まぐるしく変化した。初めは金札の正金(しょうきん *紙幣に対して金貨などの正貨を指す)同様の通用を達したが、金札が下落しつづけたため、年末には金札の時価での通用を許した。さらには、金札120両をもって正金100両にあてる公定相場を定めた。だが、新政府内では、金札を発行した由利公正が大隈重信らに批判され、1869(明治2)年2月末に辞職させられた。この結果、同年4月には、再び金札を正金同様の通用に戻し(強制策として違反者には罪科を課した)、6月には、金札の通用拡大のために、府藩県1万石につき2500両の金札と引き替えに正金を上納するように布達した。朝令暮改の通貨政策である。
 信州でも不作が続き米価が騰貴する下で、さらに銀・銅・真鍮(しんちゅう)台に、金をかぶせただけの贋二分金(にせにぶきん *チャラ金といわれた)が大量に流通(1869年4~5月)して、経済を大いに混乱させた。民衆の間では金札不信と正金確保の志向が高まったが、他方では、小銭が徹底的に不足した。
 だが、このような状況の下で、1869(明治2)年6月、「伊那県は年貢収奪の強化を口達(こうたつ)した。本途(ほんと)・冥加運上(みょうがうんじょう)・小物成金(こものなりきん)定免(じょうめん)のいっせいきりかえ、定免年季の三年年季への短縮、安石代(やすこくだい)の廃止などであった。」(同前 P.54)といわれる。本途物成は田畑の生産物にかけられた本年貢のこと、小物成は海山川の収穫物などにかけられた雑税のこと、冥加運上は商工業などの営業に課せられた税のことである。定免は一定期間一定率で決められた年貢率のことで、安石代は、低く定められた公定相場での貨幣納のことであり、ここでは二つとも廃止され増税となった。そして、増税は通貨混乱へ追い打ちをかけるものであった。
 信州飯田では、6月20日頃に二分金が不通用になってしまった。まさに文字通りの通貨危機である。この結果、7月2日に「飯田二分金騒動」が引き起こされた。一揆のキッカケは、近江長浜の生糸商・小林重助の1万両の贋二分金の搬入にあった。この頃、飯田には生糸商・紙商・元結商(もとゆいしょう *髻〔もとどり〕を結ぶ細かい糸・こより・紐などを扱う商人)によって、すでに2万数千両の贋金が持ち込まれていた。そこでまた小林によって、1万両が持ち込まれたのである。
 「七月二日、上郷の農民六〇〇人、下郷一五〇〇人が蜂起し、藩庁に奸商の吟味と二分金の引替(ひきかえ)を要求して、贋金使いといわれていた飯田町元結商や重助の止宿先を打ちこわしたが、三日に入って、蜂起はいっそう激化した。飯田町周辺村々一万三〇〇〇人といわれる民衆蜂起は、贋金搬入取扱者と目されていた飯田町の商人(綿太物商・締油商・元結商・紙並荷莚商・生糸商など)を打ちこわした。翌四日にいたり、飯田藩の奸商吟味・贋金引替の確約のもとに鎮静化した。」(同前 P.89)といわれる。
 飯田町周辺に勃発した一揆(2日)は、3日には西部地域、4日には天竜川東岸の村々にまで拡大していった。苦慮する飯田藩は、贋金流通の首謀者を逮捕し、吟味を開始した。そして、金2000両を領内に下付するとともに、藩札を発行して二分金(贋金)と交換した。なお、一揆勢への処罰は行われなかった―と言われる。
 この当時(7月4日)、伊那県は浅間村(現・松本市)で信濃全県藩の官吏を集め、駅逓制度の改革の会議を開いていたが、7月9日に「飯田二分金騒動」の急報が入り、衝撃を受け、会議は急きょ、議題を「二分金不通用と低額紙幣不足の解決」に切り替えた。この結果、信濃全県藩が協同一致して、「信濃全国通用銭札(ぜにさつ)」(以下、「信濃全国札」と略)を発行し、この危機を克服するという結論に決した。
 8月7日、伊那県は松本に銭幣局を置き、1貫200文、600文、100文の三種の銭札(低額紙幣)の製造を始めた。「信濃全国札」の製造は11月まで続けられた。

 (ⅱ)「上田騒動」に続き
   会田・麻績、川西と連発


 しかし、1869(明治2)年8月16~18日に「上田騒動」(小県郡)、8月25~27日に「会田(あいだ)・麻績(おみ)騒動」(東筑摩郡)、8月28日に「川西騒動」(佐久郡)と、立て続けに民衆の闘争が展開された。
 「上田騒動」は、小県(ちいさがた)郡浦野組入奈良本(いりならもと)村(現・小県郡青木村)の貧農九郎衛門が頭取となった一揆である。同人が逮捕された後の供述では、連年の違作、明治二年の格別の不作に加えて、米価の高騰や二歩金の不通用が一揆の原因である。“とくに入奈良本村は山間地であり、翌年の種籾さえおぼつかなく、稼いだ二分金が使えないので食糧の米穀も買入れできない困窮ぶりであった”という。
 8月16日夜、浦野組夫神(おがみ)村(現・小県郡青木村)の河原に集まった農民たちは、途中の村々の農民も合流させ、翌17日には、大挙して上田城下に押し出した。一揆勢は17~18日にかけて、城下および領内で徹底的な打ちこわしと焼き打ちを行なった。上田城下では、主だった商人宅151軒を打ちこわし、海野町問屋・柳沢太郎兵衛宅に火をかけ、174軒を類焼させた。また、46カ村で割番大庄屋などの村役人や豪農・豪商20軒を焼き打ちし、191軒の打ちこわしを行なった。
 事態に窮した上田藩では、ついに藩知事(藩主)自らが出向き説諭を行ない、また600~700人ほどの一揆勢を城内へ入れ、慰撫につとめた。
 しかし、一揆勢はますますその数を増やし、18~19日には、上田周辺の村々49カ村の豪商・豪農・庄屋などを191軒も打ちこわした。また、20軒を焼き落とした。
 8月19日に各組・各村から上田藩に提出された願書の内容は、「共通しているのは、米相場値下げ、二分金の通用(引きかえ)、割番役の廃止、村役人の小前(こまえ *零細農)見立(みたて)選挙と三年交替、御用金免除、藩買上(かいあげ)物は時価相場によること、などであった。このほかに、年貢金納相場を伊那県なみにするようにとの要求も多くの村からだされている。」(『長野県史』通史編第七巻近代一 P.58)といわれる。
 これらの要求は、藩によってほぼ聞き届けられた。そして、藩はただちに町方・在方の救済に乘り出した。8月23日には、村々の庄屋から退役願いが出され、入札(いれふだ *選挙)で改選がおこなわれた。また、二分金引きかえのために、藩札発行も布告された。
 他方、一揆首謀者の探索もすすめられ、頭取の九郎右衛門はさらし首、小県郡浦野組沓掛(くつかけ)村の藤兵衛方に日雇い稼ぎに来ていた松本藩領出川(いでがわ)組尾坂村(現・松本市)の馬十は斬罪のところ牢死、沓掛村(現・小県郡青木村)の玉蔵は流(る)終身のところ牢死、同村の幸五郎と歌次は流終身となった。(ただし藤兵衛はいち早く行方をくらまし逮捕されなかった)
 「上田騒動」の影響で、となりの伊那県塩尻局下でも一揆が起こった。筑摩郡の会田・川手・坂北・麻績の4カ組63カ村と、松本平の一部を巻き込んだ一揆は、「会田・麻績騒動」と呼ばれている。蜂起の拠点は2か所であり、一つは会田組会田町村(あいだまちむら *現・松本市)、もう一つは麻績組乱橋村(みだれはしむら *現・東筑摩郡筑北村)である。
 会田町宿では、二分金の不通用・米の不融通で宿駅労働に頼る小前百姓の生活が逼迫し(会田町村の8割近くが宿駅労働に依存)、1869(明治2)年8月23日、名主源左衛門、百姓代義助らが囲穀の借用を伊那県塩尻局役所に歎願した。他方、源左衛門らは翌24日、五人組頭を招集し、「上田騒動」の波及を防止しようと懸命につとめ、組下の農民への説諭と夫食(ぶじき *食糧)困窮者の調査を指示している。
 しかし、25日には、村役人の行動とは別に、「伝馬惣寄合」が触れ出された。同日夕刻、会田蜂起の指導者となった長兵衛、源蔵らは同村酒造業の藤四郎宅やとなりの板場村(現・松本市)の名主弥九郎宅に出かけ、米の安売り(白米200俵を1両につき2斗の相場で)を懇願した。しかし、いずれも拒否された。
 やがて半鐘が激しく鳴らされ、長兵衛が大声で蜂起を呼びかけた。一揆勢は藤四郎宅などを打ちこわし、さらに反町村(そりまちむら)、刈谷原村(かりやはらむら *ともに現・松本市)方面に進出した。会田町村の蜂起にともない、隣接する宮本・小岩井両村(*ともに現・松本市)など14カ村も決起し、川手組の大口沢神社に集結した一揆勢は、会田組27カ村、川手組2カ村の計29カ村に膨らんだ。
 一揆勢は、田沢村(現・安曇野市)で二手に分れ、「一隊は、安曇郡細萱(ほそかや)・重柳・矢原・等々力村(以上、現・安曇野市)に打ちこわしをかけ保高村(*現・安曇野市)にいたったところ、松本藩と衝突し、解隊した。他の一隊は、光村へ向かったところ、東ノ原村(*ともに現・安曇野市)において伊那県官吏に遭遇し、難渋(なんじゅう)救済を歎願して解隊した」(横地穣治著「松本平・周辺(直轄領)における〈世なおし〉の状況」―佐々木潤之助編『村方騒動と世直し』上 青木書店 1972年 P.95)といわれる。歎願の内容は、「穀相場1両につき米3斗、大麦6斗、その他諸品の値下げ」などを要求するものであった。
 もう一つの拠点である乱橋村の一揆勢は、会田組よりもその要求が明確であった。「乱橋村では、村方所有の野山売木の残金をめぐって、二十五日、愛次郎・吉三郎・要吉・兼太郎・由次郎・和三郎らが幾次宅で寄合をもった。売木代金は、いずれも不通用の二分金ばかりであった。この寄合は、当初より蜂起の談合として計画されていたと思われる。この山中の村々はつい先日の上田領一揆村々に接し、しかも、親類筋が多く、一気(一揆)による〈世なおし〉の『効果』が、伝わっていた。すなわち、『上田辺ニテハ、先頃騒動以来、弐分判(*二分金)モ通用致シ、質物ハ無利足(無利息)ニテ請戻(うけもど)し相成(あいなり)、米穀始メ諸色(しょしき *種々の物品)直下(値下げ)ニテ、困窮人共(とも)凌(しのぎ)能(よく)相成』という。/『当方ニテハ、大勢申合(もうしあわせ)身元ノ者へ安米売渡(うりわたし)方申し談じ候ハハ、少シハ融通(ゆうずう)相成り附(つき)申すべし』と愛次郎が提案したところ、『一同尤(もっとも)ノ儀ニテ同意』し、二十六日暮(くれ)蜂起を決め」(同前 P.96)た。そして、次の7カ条を書きとめ、村々に貼付した。
一(第一条)米穀高直(高値)ニ付き百姓一同難渋の事
一(第二条)二分金不通ニ付き難渋の事
一(第三条)御年貢金時(ときの)相場を以て取立(とりたて)難渋の事
一(第四条)三ヶ年免直し増米難渋の事
一(第五条)田方年貢皆無(かいむ)難渋の事
一(第六条)村の金持ち共(ども)高利ヲ取って難渋の事
一(第七条)村の三役人(*庄屋・組頭・百姓代)御廃止の事
 (同前 P.90~91)
 
 これら7カ条のうち、三カ条は、年貢問題である。不作でそもそも年貢を納めるのが困難なこと(第五条)、それに加えて、安石代を廃止し時の相場での年貢納入としたこと(第三条)、また定免の期間を三年に短縮する(第四条)ことは、増税以外の何物でもない。しかも当時の状況は、全国的な不作でどこも米穀が高騰(第一条)し、さらに通貨危機(第二条)で二重に食糧を確保できないのであり、そこで増税というのは、三重、四重の「難渋」なのである。であればこそ、日頃から高利をむさぼる「村の金持ち」に対する怒りは倍化し(第六条)、まさに打ちこわし・焼打ちの対象となるのである。村の三役はこの事態を解決するどころか、ほとんどが当の「金持ち」そのものであり、小前百姓から見ればとても“同じ村の仲間”とも思えず、階級対立の相手そのものなのである。
 乱橋に蜂起した一揆勢は、「西条村(にしじょうむら)・青柳村(*ともに、現・東筑摩郡筑北村)・麻績町村(おみまちむら *現・東筑摩郡麻績村)・永井村(*現・東筑摩郡筑北村)などの村々を襲い、打ちこわしと焼打ちをはげしくおこなった。永井村に到着したとき、その人数は二〇〇〇人ほどであった。一揆勢はここで二手にわかれ、一つは上井堀村(かみいぼりむら)・桑山村(*ともに東筑摩郡麻績村)方面へ、もう一つは野口村(*現・麻績村)から竹場村(*現・筑北村)方面へとすすんだが、伊那県・松本藩などの弾圧で二十七日にはほぼ鎮静した。」(『長野県史』通史編第七巻近代一 P.61)といわれる。
 小諸藩(佐久郡)でも「上田騒動」の影響で、33カ村、2000人が年貢拝借の強訴を行なっている。

 (ⅲ)信濃全国札の発行と伊那県の商社構想

 緊急事態に直面した伊那県は、1869(明治2)年9月末、信濃一般には高額紙幣が多く、低額紙幣が不足しているとして、信濃国諸藩県一統会議の上で、“当分、融通のために信濃全国通用の銭札を製造し10月1日から発行する、金札(二分金を含む)と引き替えたいものは引替所へ持参する”ようにと布達し、各藩とも村々に回達した。
 信濃全国札は、伊那県と14藩が発行し、発行高は、計8万両にのぼった。
 しかし、1869(明治2)年12月に至り、維新政府は中央集権的な貨幣制度の確立を目指すとして、藩県通用手形類を停止する布告を出した。信濃全県藩は、これに対し信濃全国札の引き揚げ猶予を出願したが、しかし政府によって却下され、1870(明治3)1月20日限りで停止になった。
 だが、現実には信濃全国札の回収は順調にすすまず、1870年3月、ふたたび引き揚げ猶予が嘆願された。しかし、これもまた却下され、同年6月、民部省の厳達により、7月末日限り、完全に通用停止となり、回収作業が強行された。それでも回収は円滑にすすまず、信濃全国札の代りの金札の下げ渡しは大半が予定より4~5か月も後となった。
 ところで、維新政府の目まぐるしく変更される通貨政策は、全国の諸藩県をふりまわしたが、前述した政府の金札を正金に引き替える問題(明治2年6月)は、伊那県にとっては致命的な打撃を与えた。政府から課された金札6万両を正金に引き替える件は、「民衆の通貨不信が渦まくさなか(*各地の一揆は前述)、伊那県の自力では不可能のため筑摩郡上神林(かみかんばやし)村の豪商野口吉十郎にたのんだ。野口は同村藤牧啓次郎の献策、すなわち国元で生糸・蚕卵紙などを金札で買い取って横浜に送り、売上代金で上納する方法によって十二月中に皆納した。しかし六万両のなかには刎金(はねきん *贋金)が多く、生糸・蚕卵紙の相場のちがいもあって、二万五〇〇〇両ほどの損失がでた。また伊那県は野口に、本庁付き村々と塩尻局(*県の支局)下の二分金一万三七〇〇両余の金札引きかえを命じたが、真金は九〇〇両ほどにすぎず、贋金が一万二八〇〇両余にのぼった。」(同前 P.45~46)のであった。
 しかし、8~9月頃には、真金であれ贋金であれ全く通用しなくなり、また「上田騒動」、「会田・麻績騒動」などにみられるように農民の通貨への不信は極度につのった。伊那県はこれらを打開するために、次のような方策を採らざるを得なくなった。
 すなわち、「……伊那県は十月、①二分金は真贋(しんがん)にかかわらず正金値段で引きかえる(*政府の金札100両に付き、贋二分金銀台30両の交換という方針と異なる)、②損失は商社を設立しその利潤でおぎなう、③商社の設立は豪農商に命じる、という藤牧啓次郎のプランを採用し、藤牧のほか飯島の宮下権四郎、石曽根(いしぞね)村(上伊那郡飯島町)の飯島弥一郎、林村(下伊那郡豊丘村)の大原弥右衛門を県庁によびだし、商社設立について意見をきき、十一月、知事出席のうえ宮下権四郎ら一六人に商社取扱いを申しつけた。……」(同前 P.46)のである。
 商社の具体的構想は、次のようなものである。「①各局に仮会所を設け、二分金所有者は個人別に封印して仮会所へ納め、持主(もちぬし)には預(あずかり)切手を出し、この切手で租税を納めまたは金札と交換する。県庁にある官金中の贋金の交換も引きうける。②切手納入による租税分は商社人の拝借のかたちにしておき、三年三月二十八日に立替えて上納する。③立替え分償却のため、県貸下げ金一万両と商社人の出金で商社をつくり商社札を発行する。④商社札は立替え高に応じて商社へ貸下げる。⑤商社は商社札で利潤をあげ損失分をつぐなっていく。」(同前 P.46~47)―というものである。(つづく)