明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉓ 

越中、宇和島でも次々に一揆

                              堀込 純一

Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

     (5)全国的凶作の下で年貢減免闘争

 (ⅰ)越中の「ばんどり騒動」

 1869(明治2)年11月、「ばんどり騒動」が、越中国新川(にいかわ)郡(金沢藩領)に勃発した(「ばんどり」とは、蓑〔みの〕のこと)。
 越中国新川郡には、金沢藩(加賀藩)と富山藩の領地が広がっている。加賀藩は関ヶ原の戦い後、加賀・越中・能登を領する外様の大大名となり、富山藩は1639(寛永16)年に、加賀藩から分藩して成立した。1)
 闘いは、1869年の凶作から始まった。この年、土用(立夏・立秋・立冬・立春の前の18日間を指す。普通は立秋の前、すなわち夏の土用を示す)中、しきりに雨が降り続き、稲熱(いもち)病が蔓延(まんえん)して、その被害は越中一円に広がった。新川郡の村々からの歎願書には、当年は7割が枯れたと述べられている。
 不作を見込んだ金沢藩砺波(となみ)郡治局は、早くから麦・稗(ひえ)・野菜などの補植をすすめ、山草・山の実などを使った飢饉時の調理法など、飢饉対策を村々に伝えて来た。7月には、郡治(ぐんち)局が御救籾(おすくいもみ)を困窮者に配布している。それでも、8月には福光町に「ばんどり」をまとった困窮農民が集団で救済をもとめて、郡治局に押しかけている。
 これに比べ、新川郡の郡治局は対照的である。「……新川郡では、八月と九月にそれぞれ銭三万貫が貸渡(かしわた)されたものの、新川郡治局や十村(とむら *他藩の大庄屋にあたる)層の村役人2)は、これらの凶作に対する対応策については積極的ではなく、かえって平年通りの年貢収納を求めたのであった。凶作の年には、取籾米・救米(すくいまい)などの名目で年貢の減免を常としていた加賀藩の慣例にも対応せず、十村たちが村々に偽って『秋縮(あきしま)り』(藩に対して村がその年の作柄をみて年貢皆済を請け負う約定一札)を受けさせ、後に至って『秋縮り』を受けた以上、減免を認めぬと威嚇したと伝え聞いた農民の怒りは次第に高まっていった。」(『富山県史』通史編Ⅴ 近代上 P.39~40)と言われる。(*1両=4貫なので、3万貫=0・75万両)
 十村層の対処ぶりに怒る農民たちは、1869(明治2)年10月から、村ごとに組ごとに集会を開き、10月12~24日にかけて、東加積組(ひがしかづみぐみ)、中加積組、大布施組、下布施組など新川郡内各地で、延べ6000人の規模で集会を開き、十村や郡治局に歎願を繰り返した。
 当局の態度に業(ごう)をにやした農民たちは、ついに24日に十村らに飯米要求で押しかけ打ちこわしを始めた。同日明け方、寺田(現・中新川郡立山町)の十兵衛宅を皮切りに、次いで弓庄組(ゆみのしょうくみ)才許御扶持人十村の神田村(現・中新川郡上市町)結城甚助宅、高野組平十村の新堀村(現・富山市)朽木兵三郎宅と激しい打ちこわしをかけた。
 25日には、農民の大集団が常願寺川まで進んだ所で、郡治局の役人に説得され押しとどめられた。一揆勢は、ここで年貢収納に関する嘆願を提出し、29日頃までに返事するとの回答を受け、いったん解散する。だが、翌日にかけて、郡内各地では打ちこわしが行なわれているようである。
 郡治局への嘆願の返事もないまま、29日、竹内村(現・中新川郡舟橋村)の無量寺には200カ村数千人の農民が結集する。農民たちの数はふくれ上がり、塚越村(現・中新川郡立山町)の忠次郎を指導者に祭り上げ、蓆旗(むしろばた)に「忠次郎大明神」の文字を書き付けて、新しく高野組の裁許(さいきょ *村役人の一種)となった吉島村(きちじまむら *現・魚津市)の神保助三郎(農民たちの怨嗟の的であった)を目指して突き進んだ。「二手に分かれた農民たちのうちの一隊は、佐野竹村(現・富山市)の宗次郎を襲い、更に石仏村(*現・中新川郡上市町)七左衛門宅を再び打ちこわす。また上市(かみいち)往来に向かった一隊は、上市から北に向かい、森尻村(*現・中新川郡上市町)の結城善之丞手代の義平宅を打ちこわして、上市川の堀江橋あたりで前の一隊と合流する。ここで隊は更に二隊に分かれ、別隊は塚越村の宗三郎、浅生村(あそうむら *現・中新川郡立山町)の伊七郎の指揮で滑川に進む。本隊は、小林村(現・滑川市)の平十村宝田六左衛門宅を襲う。次に、隣村の栃山七口新村(現・滑川市)の宝田六左衛門の手代多助宅を打ちこわし、魚津の北東吉島村に向かう。このときの人数およそ『二万三千人、彼らは自村の標識として、各々(おのおの)蓆旗を翻(ひるがえ)し、或(あるい)はネコダ、或はバンドリを竹頭に翳(かざ)しつつ、少きは数十人、多きは数百人の隊を組み、篝火(かがりび)を焚(た)き、鯨波(とき)を揚げ』(『塚越ばんどり騒動』)て一行は進んだ。そして、十一日一日の明け方、吉島村の神保助三郎の家・土蔵を破壊し、諸道具類を焼き捨てる……。/これより農民の数は更に増加し、一日朝から二日の夜にかけて黒部川左岸の三日市(*現・黒部市)、右岸の入膳(にゅうぜん *現・下新川郡入善町)、更に泊(とまり *現・下新川郡朝日町)一帯の十村・肝煎(きもいり)などの家々を打ちこわし、焼き打ちを開始する。この数は、十村・新田才許(*裁許)・山廻り役が八戸、十村手代が十八戸、肝煎が六戸、その他を合せて合計四十三戸に及んだ。」(同前 P.47~48)のである。(ゴシックは、引用者による)

  農業雇人の賃上げも要求
 新川郡一帯に燎原の火のように拡大する一揆に対し、岩瀬郡治局は、金沢と連絡をとり鎮圧部隊の派遣を開始する。金沢からは、二隊370余人の火砲方・兵政方が出動する。郡治局は、富山藩にも応援部隊の派遣を求める。
 11月2日、泊の小沢屋に宿泊していた忠次郎を捕らえるために到着した鎮圧部隊と、これを迎え撃つ一揆勢との間で戦闘となり、忠次郎は入膳方向に逃れる。だが、その途中で捕らえられる。農民500~600がそれを取り戻そうと進むが、鎮圧部隊の砲火で散り散りとなる。また、別働隊として滑川に向かった浅生村の伊七郎、塚越村の宗三郎、浦田村(現・中新川郡立山町)の七右衛門など一揆指導者の主だった者も逮捕された。
 加賀藩の厳しい支配と収奪に抗して、農民2万が蜂起したこの闘争の要求は、鎌田久明著『日本近代産業の成立』によると、次のようにまとめられるという。
一、租米徴収の公正、租米の農民管理、郡打銭(*?)の農民による監査要求からすすんで十村(とむら)・手代・肝煎公選の要求。
二、租米の一時的減免、口米・返上米の廃止要求から進んで、租米の永久減免要求。
三、肥料の配給制要求。
四、農業雇人(やといにん)の労賃引き下げ反対。
五、諸物価・米価の引き下げ要求。
 これらの要求をみると、年貢減免や諸物価の引下げ要求は、当時の全国共通のものである。そして、村役人の公選要求が、奥羽越とともに、この地の闘いでも行なわれていることが注目される。とともに、「農業雇人の労賃引き下げ反対」を掲げていることは、特筆される。村々で農民とともに生活する土地無しの「農業雇人」との団結が打ちだされていることは、きわめて先進的な闘いである。
 金沢藩は、一揆指導者を次々と逮捕したが、他方で、打ちこわしの対象となった神保助三郎、結城甚助ら十村13名を解任し、新たに十村を任命している。だが、翌年7月、逮捕者の詮議を始め、忠次郎は斬罪に処せられた(1871年10月に執行)。塚越村の宗三郎は牢死したが、浅生村の伊七郎は正金3両で放免されるなど、全体的には以前に比べると、相対的に「穏便な処罰」であったといわれる。 

(ⅱ)宇和島の「野村騒動」


 江戸時代、伊予(今日の愛媛県)は越後、陸中、信濃に次いで百姓一揆が多かった地方である。1870(明治3)年3月、その南伊予の宇和島藩領北部で、農民らが年貢減免を要求して決起した。
 宇和島藩領北部の山間地帯は、田畑の生産性が低く、幕末以来の物価騰貴、特産物の櫨(はぜ)の実(蠟燭〔ろうそく〕の原料)の値段下落、戊辰戦争の戦費調達と、困窮生活を押しつけられてきた。それに1869(明治2)年の東北地方太平洋岸をはじめとする全国的な大凶作が、宇和島にも襲いかかり、農村は疲弊していた。
 農民たちの年貢減免などの要求に対して、藩当局は、ここでも“田畑・牛馬・農具を売って、年貢を納入すべき”との冷淡な態度であった。これには、農民たちの不満が高まるのは当然のことであった。そこで、「明治三年(*1870年)三月、農民たちが窪野村(*現・西予市)・魚成村(うおなしむら *現・西予市)の?屋(?座)に対し櫨実の値上げを要求し、?屋はいったん承諾しながらその支払いを実行せず、村々に不穏な空気が充満していった。農民たちは、差し迫った大豆銀納の資金を?実の値上げ分で充当しようとしていたのである。この紛糾をきっかけとして、宇和島藩北部全域にわたる野村騒動が発生した。」(深谷克己監修『百姓一揆事典』民衆社 2004年 P.526)と言われる。
 3月19日、山奥郷中通川村(現・西予市)の鶴太郎、川津南村(現・西予市)の和太治らに率いられた農民たちは近隣の窪野村・土居村・古市村(以上、現・西予市)などの農民を動員して、法螺貝(ほらがい)・鉄砲などをならしながら、年貢減免の強訴を野村(現・西予市)にある宇和島藩民政支局にかけた。
 他方、同月20~22日にかけて、山奥郷11カ村の農民と野村郷の農民は、野村の蠟座吉田屋久吾の櫨実買入れが不正であるとして、野村(現・西予市)に集結した。
 3月23日、宇和郷・城下組・川原渕組の農民もまた集合し、一揆は奥野郷全域の73カ村に拡大する。膨れ上がった一揆勢の数は、7500人近くとも1万5000人とも伝えられている。
 藩は大参事の告森周蔵を派遣し、懸命に一揆勢を説得し、ようやく歎願書を作成させた。「藩は、大豆銀納の減免、櫨の実の買入れ値段の値上げを認めた。さらに、従来の庄屋を罷免して、組頭・年行司らの協議による村政の改変なども受け入れた。」のであった。一揆は、4月3日、元家老桜田亀六と農民たちとの会見があり、ようやく終結した。
 だが、藩は鶴太郎(32歳)を梟首、和太治(32歳)を刎首にすることと決め、11月21日、その原案を弁官に提出した。しかし、弁官は両人を准流10年にすべきと指令した。当時は全国各地で一揆が澎湃(ほうはい)と起こり、維新政府もとにかく農民たちを刺激しないようにと、穏便な処置をとったのである。
 しかし、この「野村騒動」は伊予国宇和郡の川筋(三間川に臨む地域)の農民に影響を与える。

  吉田藩農民も相次ぎ決起
 吉田藩(宇和島藩の支藩)の五島小参事は3月下旬、三間内(三間盆地の内側地域)に赴き、山奥筋(土佐国境に接する山間地域)に同調しないようにと説得に努めた。
 だが、4月1日、山奥筋の農民たちが吉田城下(現・宇和島市)に強訴するべく、小倉村(現・北宇和郡鬼北町)まで押し出した。吉田藩は三間(現・宇和島市)に民政局を仮設し、大森権大参事を派遣し、説得させた。
 しかし、小倉村では700人の農民が庄屋宅を打ちこわし、藩の説得は不可能となった。そこで吉田藩は予備兵を吉田城下に至る途中の是房村・曾根村(ともに現・宇和島市)に派遣し、迎撃態勢に入った。
 だが、一揆勢は闘争方針をめぐって一時、筋ごとに分裂する。だが次第にこれを克服し、4月4日には、宮野下村(現・宇和島市)に到着した。この時には、総勢5600余人に膨れ上がっていた。
 以降、吉田藩と一揆勢のにらみ合いが続く。そこで4月9日、藩は農民たちの要求を吟味するために、一揆勢が訴状を作成し、宮野下村(現・宇和島市)の三島神社の賽銭箱(さいせんばこ)に投かんすることを求めた。「農民たちはこれに同意し、①新田検地廃止、②山役などの廃止、③藩用・軍用の夫役(ぶやく)徴発免除、④庄屋入札(*庄屋を選挙で選ぶこと)など、三四か条にわたる訴状を提出した。藩はこれらのうち①・③など七か条に関しては拒否したが、それ以外は、受け入れもしくは検討するとの回答を行った。」(『百姓一揆事典』民衆社 P.526~527)と言われる。
 この時は、一揆勢は納得し帰村した。だがその後、山奥筋の農民たちは再度結集し、庄屋の不正を改め、不正に徴発した米穀の返還を求める強訴を行なう。吉田藩は、これに対して山奥筋に藩兵を派遣して鎮圧した。
 1871(明治4)年2月21日、一揆頭取(とうどり)に対して処罰が行なわれ、高野子村(たかのこむら *現・西予市)の源助ら12名を禁固、鶴間浦(現・宇和島市)の幾三・高野子村の沢吉ら44名を徒刑(とけい *遠島に送って労役させる刑)に処した。4月21日には、「三間騒動」の首魁として、高野子村の嘉三・藤吾の二人が町中引き廻しのうえ絞首刑とされた(4月23日執行)。
(つづく)

注1)富山藩は加賀藩の分藩である(初代藩主は前田利家の三男・利次)が、分藩した時の領地は婦負郡6万石、新川郡浦山辺1・68万石、新川郡富山辺0・32万石、加賀国能見(のみ)郡の内の2万石、計10万石である。1659(万治2)年、飛地の新川郡浦山辺・加賀国能見郡の一部を、富山町(現・富山市)とその近郊と替地した。これにより、富山藩は、婦負(ねい)郡180カ村と新川郡73カ村、合計10万石となった。 
 2)加賀藩(金沢藩)の十村制は、1604(慶長9)年に始まっている。十村制は郡奉行(一般行政)と改作奉行(租税や産業を担当)の下にある十村が、その下の肝煎(きもいり *他領の名主や庄屋に当る)・組合頭(他領の組頭に当る)・百姓代の村方三役を指揮する。十村はその単位を組(約数十カ村)とし、その役職には無組御扶持人・組御扶持人・平十村(ひらとむら)の三種があり、それぞれにまた列(退老者)と並(予定者)があるから9つの階層(ランク)があった。村の住民には、村方三役以外の百姓(高所持者〔田地を所持し、それに応じた税を納める者〕)と、高をもたない水?百姓(「頭振」と称した)がいた。後者は、村の構成員としては認められない。