明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期㉒
 餓死者が続く中での生活防衛
                        堀込 純一


    Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

  (5)最も飢饉にさらされた東北の闘い

(ⅳ)だが農民一揆は続発

 「奥羽人民告諭」は、「天子様ハ天照皇大神宮ノ後子孫ニシテ、此(こ)ノ世ノ始(はじめ)ヨリ日本ノ主ニマシマシ……誠ニ神様ヨリモ尊ク、一尺ノ地モ一人ノ民モ皆、天子様ノモノニシテ日本国ノ父母」であると、『日本書紀』の神話や中国譲りの家族国家論に基づいた虚構と虚言でもって、一揆などを鎮めようとした。しかし、天皇が天照大神の子孫であるとか、お稲荷さんに天皇が正一位を与えたから偉いなどというのは、全くの虚構であり、非科学的な神話でしかない。ましてや、「一尺ノ地も一人ノ民モ皆、天子様ノモノ」などというのは、たわけた放言でしかない。(この「告諭」の全文は『岩手県史』第6巻 P.166~167)
 だが、たかが一片の紙切れで、農民の長年にわたる怨念が消失するわけではなかった。
 1869(明治2)年3月25日、紫波郡郡山(現・同郡紫波町)の農民が、日詰代官所の物書(書記)の新蔵宅を襲撃する。「これは新蔵が物書在職中、『大欲不道にして下をむさふり(貪り)、御用金等(など)其筋より仰せられ候へは、二、三日も御沙汰(おさた)これ無く、其内(そのうち)に其向(そのむき)の者を以て内願致させ、夫々(それぞれ)の賄(まいない *賄賂)を取り、夥しき金も取り候趣(おもむき)風聞これ有り、其上(そのうえ)我(*新蔵を指す)持高三百石以上もこれ有り、右(みぎ)高より夫伝馬(ぶでんま)諸普請何によらず、無役高同様に取斗(とりはかり)〔*所持地300石にもかかわらず、無高として種々の課役量を処置し〕其(その)真名引きを以て、御帳付け共(とも)両人(*?)共右同様これ在るに依って御百姓共千万(せんばん *色々と)困り果て居り候、外(ほか)諸願(*もろもろの願い)等これ有り候へは、金銭むさぶり取り、御百姓共(ども)極々(ごくごく)迷惑に至り候ニ付き押し寄せ』たものであった。当局は直ちに目付(めつけ)を急派して詮議のうえ、それぞれ処分を行ない、まもなく鎮静した。」(『森嘉兵衛著作集』第七巻 法政大学出版局 1974年 P.579)といわれる。
 1869(明治2)年6月21日には、大迫(おおはざま *稗貫〔ひえぬき〕郡大迫町―現・花巻市)の銭座を焼き打ちする一揆が起こっている。大迫銭座は、幕末時、大槌通大橋・橋野の溶鉱炉鉄生産が年間50万貫もの製鉄に成功していたが、やがて過剰生産に陥り、幕府の認可を得て、大迫通外川目(そとかわめ)村に鋳銭事業を起こし、危急を切り抜けた。しかし、今度は、「急速な大量の通貨(*鉄銭)の増発によって、その周辺にインフレーションをおこし、下層民の生活に悪影響をあたえ、しばしば鋳銭座に助成を要求するようになった。銭座もたびたびの強請に態度を硬化し、対立状態となったが、たまたま明治二年凶作となり、いよいよインフレを強く感じた農民は、明治二年六月二十一日、数百名徒党を組んで銭座を襲い、松明(たいまつ)をつけて銭座を示威運動中、松明が銭座に燃えうつり、ついにこれを焼きつくすにいたった。」(『岩手県の歴史』山川出版社 1972年 P.209)というのである。
この年は、春から雨が降り続き、初夏にはすでに大飢饉が予想され、米価は猛烈に値上がりし始めていた。そんな時に、“長雨は、銭座で使う水車のために、支配人が内川目村(うちかわめむら *大迫町内川目―現・花巻市)折合(おりあい)の滝に雨乞いしたせいだ”という流言が流れた。そこで、町人や周辺の農民たちは、300石の銭座備蓄米の放出を繰り返し要求したのであった。

   飢饉の下での懸命な生活防衛
 1869(明治2)年10月4日、白石県の「伊具郡の内(うち)西根二十四ヶ村百姓共(ども)処々へ集合動揺、夜に入って彌(いよいよ)増し大勢に成り、人数千人余(あまり)西北より同梶賀村倉場へ屯集したが、説諭に服し同六日黎明(れいめい)漸く帰村した。然るに其(そ)の夜(よる)同郡東根十三ヶ村騒擾、右(みぎ)村々一同蜂起人数千二、三百人余(よ)何れも金澤表へ集会したが、之亦(これまた)説諭に従って九日残らず帰村した。……(『太政類典』)」(土屋喬雄・小野道雄編『明治初年農民騒擾録』勁草書房 1953年 P.69)と言われる。【西根村・東根村・梶賀村はいずれも現・角田市】
これは、前年の戊辰戦争の際に、人足に動員され「丁男(*成年男子)四方に役(えき)され候に付き、自然田畑培養の暇なく村々一同困窮して居る処(ところ)へ今年は又(また)稀(まれ)なる兇歳……」(同前 P.69)になって、極度の困窮に陥ったためである。
 1870(明治3)年1月、仙台藩管下の登米郡上沼村(*現・登米市)の神職七郎作が、同郡鴇波(ときなみ)村の帰農者(土地を失うが農業に戻ることを望んだ者)に対し、“王政復古御一新の廉(かど)に基づき、無代価を以て取り戻すへし”と煽動した。この結果、24人が党を結び地主に迫り、ついに訴訟となる。だが、徳政を迫る無主の農民側が敗訴する。
 しかし、神職七郎作は、登米郡八丁田(寺池町―現・登米市)でも同様の煽動を行なった。だが、3月26日に捕縛され、王政復古への幻想は、みじめにも粉々に破壊されたのである。
 1870(明治3)年10月13日、上閉伊郡遠野駅近郊の24カ村(現・遠野市)の農民がついに蜂起した。農民たちは、明治2年の凶作に対して、懸命な生活防衛を行ない、しきりに減税を訴願してきた。だが、新政府は決してこれを容認しなかった。凶作によって米価が高騰し、これを利用した悪徳商人の買占めで米価はさらに暴騰した。「県庁は明治二年三割減税を認めたが、三年四月には納税どころか食糧にも窮し、米七〇駄(だ)の借用願(ねがい)をだしたのに、逆に貢租即納(そくのう)指令がきた。このため下宮守村(*現・遠野市)などはさらに上納免除を申請したが許可にならず、ついに二四カ村の一揆に拡大した。だれが頭取であったかは明らかでないが、当局は一割から二割の減免を認め、かろうじて鎮静している。」(『岩手県の歴史』山川出版社 P.210~211)と言われる。

(ⅴ)三陸会議の最中に一揆や陳情

 1870(明治3)年11月13~17日に、登米県庁涌谷(わくや *現・宮城県遠田郡涌谷町)で、三陸会議が開かれた。それは、維新政府の民部・大蔵省官吏の指導下に、仙台・一関の2藩、登米・胆沢・江刺・盛岡の4県の地方官が合同会議を行なったものである。
 その目的は、各県・各藩であまりにも方針がバラバラで治政が混乱していたので、“仮リニ三陸(*陸前・陸中・陸奥のこと)一般の規則教令ヲ定メ、育子法ヲ立テ、備荒倉ヲ設ケ、商社ヲ合力シ、以テ藩県施行ノ目的ヲ一ニシテ”、地方統治を統一化することである。と同時に、民部・大蔵省の狙いは、富国強兵のための収奪政策を強化するためである。
 ところが、会議中の15日、東磐井郡の村長らが胆沢県庁(水沢市―現・奥州市)に出頭し、維新政府の年貢徴収が納税を混乱させ、収納を妨げているとして、その是正を陳情した。「この原因は明治政府が年貢徴収については『旧慣通り』をたてまえとしながら、同年(*明治3年)七月『検見(けみ)1)規則』を改訂して徴集基準を強化したため実質上増租となったこと、さらに一〇月年貢米を東京に廻送するねらいで金納を廃止し、正米納(しょうまいのう)2)に改めたことにあった。」(難波信雄著「廃藩置県と農民闘争」P.95)からである。
 旧仙台藩領時代よりも税上納増となったので、小前一統が沸騰し、世情が動揺しており、もし政府方針を強行するならば、村長の役付けを辞職するほかはないと陳情したのである。そして、解決のためには、上納米の値段を安くし、かつ東磐井郡のような米不足の村は他郡での買納めを許可するように要求した。
 これに対し、「胆沢県はとりあえず買納めを許し、帰村のうえ取調べにあたるよう指示した。しかし二一日県は三陸会議の方針にそい大蔵省の指示と東京廻米を理由に、晦日(みそか)までの完納を指示した。」(同前 P.96)のであった。
 これには農民の怒りが爆発する。11月23日、東磐井郡北小梨村を発頭村として、ついに一揆が始まった。一揆は、北小梨村をはじめ、徳田・清水馬場・熊田倉・金田・寺沢・上中下の奥玉三か村(以上、千厩〔せんまや〕町―現・一関市)などにつぎつぎと広がった。県側は、直ちに首謀者の逮捕に乘り出すが、農民の抵抗は激しかった。一揆勢は、胆沢県大参事嘉悦(かえつ)氏房を負傷させ、北小梨村村長宅を打ちこわした。12月5日、一関藩の鎮圧隊が出兵して、一揆はようやく鎮圧された。
 一揆勢の要求は、鎮圧される前の11月26日、嘆願書として提出されたが、その嘆願事項は、次のようなものであった。

   恐れながら嘆願奉(たてまつる)ヶ条左の通(とおり)
一、 大政御一新にて万民御恵(おめぐみ)下され候儀有り難く勘弁(かんべん *よくよく考えること)奉り候御事。
一、 田村様(*一関藩主)御旧領の御振合(ふりあい *釣り合い)を以て諸事御取扱(とりあつかい)成り下されたき御事。
一、 当(とう)御物成(おものなり *年貢)肝入所御付書の通(とおり)畏(おそれ *かしこまる)奉り候間(あいだ)、半石の儀は来る出穀にて拝借成り下されたき御事。
一、 拾ケ村悪地銘々(めいめい)御座候間、御百姓引続キ上納奉り候様(よう)御下銘(*
年貢高を下げること)四石銘に御諸納願(ねがい)奉り候御事。
一、 御本石四斗二升一合御触出(おふれだし)の薄衣御蔵元にて四斗三升五合上納の儀不分(わからず *理解出来ない)に付(つき)相伺(あいうかがい)候事。
一、 仙台様御旧領中は押売(おしうり)押買(おしかい)御法度(ごはっと)に〔*藩による強制買い上げや売りつけが禁止〕仰せ出(い)だされる処(ところ)、当節蚕種等に限らず村々へ御割附(わりつけ)に罷成(まかりなり)候に付(つき)此(この)段相伺(あいうかがい)候事。
一、 代相場(*代金の相場)前に御触出の通り二貫五百文(*江戸時代は1貫=960文)
にて肝入所上納致(いたし)候様成り下されたき御事。
一、 当夏中拝借金二拾五両宛ての御割合を以て拝借相成(あいなり)候処(ところ)、追々
五割を以て上納奉り〔*五割増で返済〕候様肝入所々より申付(もうしつけ)られ候儀不分(分からず)の事。
一、 官札にせ本手不分(わからざ)る〔*官札の本物偽物が分からない〕に御座候間小前
(こまえ *小規模農民)は手板金御札拝借成り下されたき事。
 徳田村  御百姓一統
 小梨村   同
 熊田村   同
 上奥玉村  同
 清水馬場村 同
 金田村   同
 中奥田村  同
 寺沢村   同
  金成御役所
(『岩手県史』第6巻 近代編1 P.917~918)

 要求では旧田村藩(一ノ関藩)時代と釣り合ったものにしてくれとか、当夏の拝借金25両割合で借りたものを5割増しで返済するとはいかなる理由なのかとか、官札は信用できないこととか―明らかに新政批判である。
 農民たちにとって、飢饉で極限状態に陥っているのに、東京へ米を送るなどとは思いもよらないことであり、また情け容赦もない大蔵・民部省の収奪政治には我慢ならなかったのである。
 県当局は、さっそくリーダーの調査を始め、結局、北小梨村の寅治・金作・卯左衛門・幸七の4人を検挙した。そして、「県の稟議書は土民の野蛮なことを強調し、『賤民もとより天下の大封、人倫の大義を知る者に非(あら)ず。況(いわ)んや東奥因陋(いんぺい *見聞が狭いことに従がうこと)の国においておや』だとか、『ほとんど千古の夷風を脱せず』とか」(『岩手県の歴史』山川出版社 1972年 P.211)と言って、差別的態度が露骨に示されたのであった。 
 同じ11月の24日、同じ胆沢県の胆沢郡百岡・永徳寺村(現・胆沢郡金ヶ崎町)などでも一揆が起こった。それ以前、当局は、年貢料の残納を25日までに皆納しなければ、入牢させると厳命した。しかし、農家には実際に一粒の米もなく、絶望の淵から立ち上って免除申請のために一揆に決起したのであった。新政府の官員は、餓死者が続出する農村の実情をまったく認識できていなかったのである。

   収穫皆無の八戸も一揆に立ち上がる
 大凶作は八戸藩も襲い、飢饉を招いている。『岩手県史』第6巻は、「明治二年の凶作は極めて悪質の大凶作であって、八戸藩においてもまた非常なる惨害に見舞われ、水田畑作等(とう)何れも収穫皆無の状態であり、藩内住民の糧食に困窮する飢饉を招来した。よって〔*明治2年〕十月一日南部八戸藩知事より『稀ニ出穂(すいほ)これ有る場所モ実入(みいり)これ無く、田作皆無、畑作モ皆(みな)同様御座(ござ)候。近年打続(うちつづ)く損亡(*損失)の上、凶作ニ相成(あいな)り民(たみ)食(しょく)取続(とりつづく)ノ程(ほど)覚束(おぼつか)なく心配至極(しごく)存じ奉り候』と届出るに至った。明治三年は豊作であったが前年の大凶作に影響せられて一般藩民が窮迫し、明治四年にはまたまた枯葉虫食(むしくい)に依って不作となり、紫波七ヵ村においてさえ滞穀七百三十石に及び同地方農民一揆の一誘因となっている。/八戸藩においては従来紫波七ヵ村の出穀を有効に収納し来ったが、かくのごとく連続的な凶作に見舞われている。明治四年に至り急激なる人口の激減もけだしこの凶作に縁由するものと思われる。」(P.514)と述べている。(当時の混乱で、飢饉での死者数などは正確には分からない)

   登米県下でも続発する一揆
 1870(明治3)年12月15~19日には、登米県下で一揆が勃発した。栗原郡宮沢村(古川市―現・大崎市)を発頭村とする一揆は、遠田・志田郡に波及し、52カ村の蜂起となった。この「宮沢一揆」は、12月16日、遠田郡北浦(現・同郡美里町)に入った時は約1万人にまで膨れ上がっている。
 一揆勢の要求の詳細は不明であるが、少なくとも、前年の凶作に際して払下げられた米の代米返納(正米納強制に対し代銭納を願い出たもの)が要求されたようである。
 一揆勢は、鎮圧に向かった官員6名を負傷させ、遠田郡長宅を打ちこわし、登米県庁にまで迫った。しかし、帰農武士団によって制圧された。一揆の鎮圧には仙台からも出兵している。
 権力移行期の混乱、大凶作、農民一揆の続発などにより、新政府内部の混乱・対立が引き起こされている。「胆沢県少参事野田豁通は明治三年(一八七〇)一二月、熊本の同志に宛てた書簡で、維新政府や登米県との圧轢(あつれき)を述べ、『一般ノ法格云々(うんぬん)ヲ以テ一面押(いちめんおし)ノ扱(あつか)』いをする『民部大蔵』の政策を激しく批難した。」(難波信雄著「廃藩置県と農民闘争」P.99)と言われる。

(ⅵ)同情する地方官「西洋派」を批難


 大隈・伊藤・井上ら「西洋派」の露骨な収奪政治は既述したが、余りもの非情さに胆沢県現地の地方官でさえ、その政策の転換を訴えているのである。
 明治2年の飢饉は東北・関東の太平洋岸が最もひどかったが、九州大分の日田県知事・松方正義さえ、1870(明治3)年6月8日、民部官の策問に対し、「日田県下人民疾苦ノ状況ニ就キ意見書」を提出し、旧時代の種々の雑税など数え上げその廃止などを訴えた。そして、「差し当たり旧弊ヲ除き苛政これ無き様(よう)仕(つかまつ)りたく存じ奉り候。」と、上申したのであった。
 しかし、西洋派をささえる木戸孝允は、すでにそれ以前の4月、「天下の事は公平たの寛太(寛大)たの御仁恤たのと申す事にて大互解に至り候は言に待たざる事と煩察仕り候」(1869年4月17日付けの大久保利通宛て書簡〔『木戸孝允文書』三〕)と言い放っている。権力者の本音である。所詮(しょせん)権力者にとっては、「公平」「寛大」「仁恤」などは、表向きの美辞麗句にしかすぎない。木戸ら権力者にとっては、農民一揆の続発はますます権力の集中と統一化の必要性を促すだけであった。 (つづく)

注1)検見とは、その年の状況に応じて年貢上納額を決めるために、米の作柄を役人が検査すること。
2)正米納とは、現物の米で上納すること。