明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期

   村役人などへ徹底した打ちこわし
                      堀込 純一


     Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

  (5)最も飢饉にさらされた東北の闘い

 (ⅰ)転封にさらなる献金要求で南部藩自ら廃藩要求


 東北の戊辰戦争は、最後まで戦った盛岡藩が1868(明治元)年9月25日に降伏し、終った(戊辰戦争全体の終結は、榎本軍の降伏した1869年5月18日)。
 10月10日、盛岡藩(南部藩)は、新政府から7万両の賠償金を課せられ、盛岡城下には秋田(久保田)藩兵が進駐した。盛岡藩は、仙台藩とともに一度領地を没収され、13万石が与えられた。20万石から13万石への減封である。しかも、旧仙台領の白石への転封が命令された。(仙台藩は62万石から28万石への減封)
 盛岡藩・仙台藩から没収された地は、新政府の直轄地となり、以下の諸藩が1868(明治元)年12月7日および同23日に、管理・取り締まりを命ぜられた。
 磐井・胆沢の2郡は沼田藩(一部は磐城〔いわき〕平藩〔安藤氏〕の転封地となる)、気仙・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手・閉伊(へい)・九戸・鹿角(かづの)の9郡は、松本・松代藩、二戸・三戸・北の3郡は弘前藩などである。だが、翌年2月には、弘前藩の代わりに黒羽藩が、沼田藩に代わり前橋藩が管理・取締りを命ぜられた。
 これに先立つ1868年7月17日付けの大久保利通宛ての書簡(『木戸孝允文書』三)で、木戸孝允は東北諸藩の占領地について、人心を鎮め安定させるのが肝要なので、「一先ず人心の安堵(あんど)仕り候処(そうろうところ)までは大中藩の内(うち)一藩へ丸に御任(おまか)せ」を主張している。すなわち、新政府が直に統治するのでなく、勤皇派の諸藩に取締りを委任する方法を主張している。その理由は、「万一新附の地(ち)初発処致(処置)を誤り申し候ては大に人心に相係(あいかかわ)り、随って朝威も相立たず、後来の処(ところ)御難渋にこれあるべきかと只々(ただただ)煩念仕り候」というものである。天皇・朝廷をかかげて権力を奪った薩長らしく、天皇制の権威を傷つけないために、大中藩に委任するという、姑息で小狡(こずる)い方法をとったのである。
 1869(明治2)年3月、盛岡藩主・南部利恭(としゆき)は版籍奉還(版は領地、籍は人民を指す)を行なった。八戸藩主も、一ノ関藩主もまた、版籍を奉還した。6月7日、南部利恭は白石藩知事に任命された。南部氏は、5月末から8月までに白石移住を家臣に指令し、また下級家臣を中心に3855人に「永暇(ながのいとま)」を下した。
 しかし、同時に、重臣をはじめとする藩士や藩御用達商人、さらには村役人をも動員して旧領復帰運動が激しく展開された。この結果、1869(明治2)年7月22日、70万両の献金を条件に、盛岡復帰が許された。新政府も、財政的な困窮に陥っていたため、献金が欲しかったのである。7月、南部利恭は白石から盛岡へ復帰したが、新盛岡藩の領地は、岩手・紫波(しわ)・稗貫(ひえぬき)・和賀の4郡で13万石である。
 1869年8月頃には、現・岩手県の地は、江刺・胆沢(いさわ)・九戸の3県と盛岡・八戸・一ノ関の3藩の体制となった(九戸県・紫波郡中には八戸藩の支配地があった〔約1万石〕。
 1869(明治2)年8月に創設された九戸県(北・三戸・二戸郡の各一部)は、同年9月に三戸県に改称される。同年11月には、北郡・三戸郡と二戸郡の一部が斗南藩(となみはん *旧会津藩)の創設で同藩領となった。三戸県の残部は江刺県に編入された。江刺県は他に気仙・江刺・閉伊・九戸の一部と、飛地の鹿角・二戸で構成された。
 旧仙台藩領は、前述のように28万石に減封されたが、新仙台藩領以外の旧領は1869(明治2)年8月、北上川・阿武隈川流域を中心に政府直轄領となった。それは、北から江刺県・胆沢県・石巻県(7月には桃生〔ものう〕県であった)・登米県(1870年9月に石巻県を糾合)・白石県(11月に角田県へ改編)である。胆沢県のある東西磐井郡には、その一角として、一ノ関藩(田村氏)があり、新仙台藩は、登米県と白石県との間に挟まれる形となる。
 ところで盛岡藩内でも、藩内抗争がつづき、新政府によって強く推された勤王派の目時(めとき)隆之進は反対勢力によって自決に追い込まれた。これまで70万両の献金を厳しく督促してきた(用意できた献納金は5・4万両がやっとであった)東北統括機関の按察府(あんさつふ)は、藩内抗争の激化をみて、新たに献金未納分の代償として、3・5万石を差し出すように要求した。
 次から次へと繰り出される新政府のあくどい要求に対して、盛岡藩はついに廃藩を決意する。廃藩置県(1871年7月14日)以前に、自ら廃藩を願い出た藩は13藩にのぼるが、ほとんどが小藩であり、唯一、中藩(5万石以上~15万石未満)で願い出たのは、盛岡藩と丸亀藩だけである。盛岡藩は、同年7月10日に、ようやく廃藩となり盛岡県となる。
 廃藩置県後の11月2日、新たな盛岡県が設置され、その統治領域は九戸・閉伊・和賀・紫波・岩手・稗貫の6郡(25万石余)となる。新盛岡県は、翌1872(明治5)年1月8日、岩手県と改称された。

 (ⅱ)戊辰戦争中から明治初年につづく農民一揆

 盛岡藩の和賀郡更木村(現・北上市更木町)では、戊辰戦争が未だ終わっていない1868年「六月廿三日夜、村内の者共(ものども)最初は小人数ニ而(て)騒立(さわぎたて)相催(あいもよほ)し〔*互いに誘い出し〕、家別の様ニ戸を卸(たた)キ立貝を吹(ふき)、時の声を上げ、大勢誘(さそい)引立(ひきたて)、翌廿四日東明の頃〔*東の空が明ける頃〕深山社え寄集(よせあつまり)候」(北上史刊行会『岩手の百姓一揆集』1976年 P.437)と、農民一揆が起こり始めていた。
 この闘いの目標は、前年の年貢とり過ぎや藩による過剰な買米(藩による米の強制買上げ)などの返済を要求し、また、村役人の不正追及などであった。だが、結局は村の肝煎(きもいり)の説得で内済(ないさい *内々で処理すること)となる。
 だが、盛岡藩の戊辰戦争が終って2カ月もたたない頃から、旧仙台藩領(現・岩手県南部)では、立て続けに百姓一揆が起こる。

〈西磐井郡赤荻村ら14カ村の一揆〉

 まず1868(明治元)年11月4日、西磐井郡赤荻(あこおぎ)村〔*現・一関市〕4カ村が集会し、同月6日、山目町の大肝入(おおきもいり *大庄屋にあたる)大槻専左衛門宅へ押しかけ、「御貸上げ金など」の小前百姓への割り当ての際の不正を糾弾した。だが、一揆勢は埒(らち)があかないのか、一ノ関藩に歎願した様である。しかし、一ノ関藩は鎮撫説得して、本藩の仙台藩へただ通報しただけであった。
 ついで11月21日、二回目の一揆となり、「突如山目町の板木が打鳴らされ、これを合図に〔*十四カ村の〕一五〇〇~一六〇〇人の一揆勢が、大肝入宅へ『押寄(おしよ)』せて来た。大肝入方では『手元火消』しと称する者五〇人、その他出入りの者五〇人ほどの武装隊を作っており、槍や鳶口(とびくち)を武器として一揆勢に襲いかからせた。藩役人が『制し方』にはいったのは翌日のことで、この日は農民同士だけの乱闘がくりひろげられた」(難波信雄著「廃藩置県と農民闘争」―『宮城県の研究』6近代篇 清文堂出版 1984年 P.75)のであった。これにより、一揆方は即死者1名、負傷者5名が被害を受けた。大肝入方は、大肝入大槻専左衛門など6名が召捕られた。
 藩は大槻を代えて東海林平兵衛を任命するだけでなく、各村の肝入(肝煎)の交替も行なった。幕末から維新政府期にかけて、農民収奪は次から次へと襲いかかったが、それに輪をかけて、この機会を利用して村役人たちが組織的に不正を働き中間収奪を重ねた。だからこそ、大肝入だけでなく、各村の肝入も更迭となったのである。
 しかし、一揆勢の集会はなお続けられ、年貢上納が拒否されていたようである。翌年1月2日、一揆勢の主な者6名が逮捕され、5名が仙台へ送られ、入牢処分を受けている。

〈東磐井郡黄海村・曽慶村などの一揆〉

 赤荻村など14カ村の一揆につづき、東磐井郡下でも一揆が続出する。最初は同郡舞草(もうくさ)村(現・一関市)の農民が、12月9日、10日と、同村観音山で集会を開いた。蜂起にまでは至らなかったが、隣村に影響を与えたようである。
 ついで、同郡黄海(きのみ)村(現・一関市)で、12月11~12日に集会があり、400~500人が結集した。一時は地元の給人(仙台藩の家来)などが説得したが、12月22日に再決起し、藤沢町代官所への強訴を企てた。
 一揆勢の要求は、①人足勘定不正(*徴用人夫の労賃支払い要求)、②生糸金不正、③御用金不正と返付要求、④月溜銭(つきためせん *もともとは備荒のための囲米のこと)迷惑、⑤種籾(たねもみ)種麦貸付け方法の改善、⑥藩専売の塩(しお)下渡し要求、⑦償(つぐのい *郡村入用)取立て不正、⑧山立猟師・農兵出陣手当ての下渡(さげわた)し要求、⑨上納代銭相場改善、⑩肝入・地肝入罷免(難波前掲論文 P.90)である。
 これらの要求をみれば明らかであるが、一揆の「原因は村役人の『諸勘定不相当』にあったが、維新期の藩の収奪政策が当然からんでいた。」(同前 P.80)のであった。すなわち、藩政時代からの収奪と、その収奪制度を利用した維新期の収奪政策が一段と強められたことに対する不満と抵抗である。
 黄海村の決起につづいて、12月22日夜、曽慶(そげい)村(現・一関市)で集会があり、23日早暁から打ちこわしが始まった。曽慶村肝入幸一郎宅が、30~40人の農民によって打ちこわされた。一揆勢は板木・半鐘を突いて人数を増やし、同村大肝入手代善七郎、徒者締役1)栄吉など計4軒を打ちこわした。この頃には一揆勢は200人ほどとなり、翌24日には、渋民村(現・一関市)肝入宇一郎宅に押寄せ、名代伝十郎を縄がけにして引き立てた。同日、中川村(現・一関市)肝入長太郎宅を打ちこわし、同村有力者から籾や白米、袷(あわせ *裏つきの着物)などを「押借り」した。24日夜、一揆勢は800~900人ほどとなり、翌25日朝には、猿沢村(現・一関市)に入って、大肝入中津山直三郎宅などを打ちこわした。26日朝には生出(おいで)村(現・一関市)肝入栄四郎宅を打ちこわし、さらに代官所のある大原村(現・一関市)に3000人ほどで迫った。大原の給人平賀主税や横目付などが説得にあたったが、一揆勢を鎮めることはできなかった。そこで小人組組抜並亀卦川(きけがわ)甚蔵、同小山義一郎、大原村旧肝入堅治らが一揆勢を八幡社内に集め、村毎に説得し、また、一揆勢の要求をまとめ、願書を作成してやり、ようやく鎮静化させた。
 一揆勢の要求は、大まかには黄海村の要求と変わらないが、難波信雄氏によると、「この騒動で村役人不正とその背後にある藩政の責任追究は具体的な姿をとりはじめた」(難波前掲論文 P.82)と言われる。

〈登米郡狼河原村の一揆
登米郡狼河原(おいのかわら)村(現・宮城県登米市)では、11月25日頃から集会が始まり、12月4日、鐘・貝・太鼓・板木を鳴らして、これを合図に村の八幡宮に農民たちが結集した。そして5日早暁には、「町場検断(けんだん)松治、肝入平右衛門の家財を微塵(みじん)に打ちこわし、また村締役(徒者締役)清吉や長右衛門・治七郎の家も打ちこわしにあった。……肝入宅土蔵をこわす際に怪我(けが)をし戸板の下になって踏みつぶされ半死半生になった一人を除いて犠牲者はなく、町在二二三軒から手代・番頭・手間取りまで一五才以上の丁男五〇〇人前後が動員され、ついで日根牛(ひねうし)村(*現・登米市)大肝入首藤(すどう)弥右衛門方へ押寄せ、米谷(まいや)方面に向かった(*有力商人北沢屋源兵衛は200両を差し出して打ちこわしを免れた)。」(難波信雄前掲論文 P.79)といわれる。この5日昼、米谷の給人高泉源三郎の家来たちが一揆勢を説得して、一揆勢の願書を受け取った。その後も、高泉家は、一揆勢を接待し、当局も人を派遣し、説得を続けた。翌6日午前8時ごろ、「罪人を出さないことで両者は合意し、一揆勢は高泉家の家来付きそいで帰村した。」(同前)のであった。
 この一揆の願書の内容は不明であるが、生糸の上納の一部が肝入によって、不正取得された件があったようである。

〈江刺郡の一揆〉

東磐井郡の農民一揆・打ちこわしは26日には鎮静化したが、その翌日、今度は江刺郡下で一揆が起こる。この一揆は、同郡三照(みてり)・倉沢・高寺村三カ村(江刺市―現・奥州市)の農民六百人余が三照村の正源寺に寄合い、それより倉沢村肝入の及川東(藤)之丞宅へ押入ったが、諸役人が駆付(かけつ)け、嘆願の筋を聴取し、善処(ぜんしょ)を約束したので、一揆の群衆は二十九日未明に解散した。一揆勢が掲げた要求は、「戊辰戦用に徴発された御用金や人夫(にんぷ)賃、買い上げ代金の支払い要求は当然であるが、それとともに徴発に便乗した役人の不正・不審行為の追及や制度の見直し要求など、お上(かみ)の政治向きに対する不満がはっきりと掲げられている」(『図説 岩手県の歴史』P.204)と言われる。
 しかし、翌1869年の「……正月二十三日には、先の三照・倉沢・高寺の三村の農民が再び蜂起し、同日上門岡(かみかどおか)村(*江刺市―現・奥州市)の人々を誘い立て、人数およそ千人余りが、肝入または富有者の許(もと)へ押(おし)かけている。二十四日には石関村、一・二・三ノ関村、歌書(うたかき)村(*以上、江刺市―現・奥州市)を参加動員し、さらに上口内(かみくちない)村・下口内村(*以上、現・北上市)をも加えて気勢を増した」。その後も、一揆の勢(いきおひ)はさらに近隣の村々を参加させ、「正月二十八日には大集団となって、仙台街道から岩城氏の城下に迫り、同日の夜に入りこれら一揆の集団は岩谷堂町(*江刺市―現・奥州市。郡村支配の中心)に雪崩(なだ)れ込むに至った。一揆は岩谷堂町川原町の西川大肝入松川松兵衛の家宅を襲い、これを取り壊したほか何事もなかったが、岩城家においてはこれを憂慮し、有司をして退散を命じたが二、三日過ぎるも退散しなかったので、『町内から退散しない者は切捨てても構(かまい)なし』との非常命令を二月一日に発した。」(『岩手県史』第6巻 近代編Ⅰ 1962年 P.171~172)という。これにより、一揆はようやく退散に至った。しかし、一揆勢が要求した36カ条の内、23カ条が通り、全く拒否されたのは3カ条に過ぎなかったといわれる(詳しくは、『日本庶民生活史料集成』第十三巻 三一書房 P.478、P.490~493を参照)。

〈栗原・西磐井郡下の一揆〉
 1869(明治2)年1月18日、栗原郡佐沼地方の新田村(現・宮城県登米市)農民が決起し、周辺17カ村が残らず佐沼本郷大嶽山に屯集し、気勢を挙げた。この一揆の首謀者は、新田上村高橋清右衛門と勝三郎であり、前者は給人大町内蔵人の用人(百姓あがり)であり、後者は農民に武芸を教え、訴訟なれした「口きき者」といわれる。したがって、一揆勢の要求は、「伊達藩主を迎え六二万石を復帰させたいという前書や後書の間に、……諸負担過重を中心とする農民の経済的要求をはさんだ木に竹をついだようなもの」(難波信雄著「廃藩置県と農民闘争」P.86)になっているといわれる。
1月22日、今度は西磐井郡永井村(現・一関市)から始まった一揆が、登米郡上沼村に波及し、さらに北上川西方の14カ村に拡大する。「一揆は二二日昼九ツ時(*12時頃)から暮頃まで登米郡大肝入をはじめ石森村役人宅を打ちこわし、二三日加賀野・森桜場・赤生津(あこうづ)、二四日赤生津・鴇波(ときなみ)・善王寺・上下新井田・黒沼の各村(*以上、現・宮城県登米市)をまわって、二三軒を打ちこわした。……打ちこわしの対象となった者は例外なく村役人層であって、ここではもっとも徹底した『村役人狩り』が展開した」(同前 P.87)のであった。

 (ⅲ)不穏な情勢で「奥羽人民告諭」を発す


 この頃は、農民一揆の続発のみならず、いわゆる「不平士族」の横行、さらには「陸前本吉郡(現・宮城県気仙沼市など)から本県(*現・岩手県のこと)気仙郡海岸一帯に発生した脱走兵に関する騒擾など」が発生し、世情は騒然となっていた。このため、地方町村では地域ボスを中心に、「自警団」が組織されるような状態であった。
 1869(明治2)年2月、新政府はこの不穏な事態を収めるため、「奥羽人民告諭」を発した。天皇の権威で農民一揆を鎮めようとした。(つづく) 

注1)徒者(いたずらもの)締役は、風紀の取締りとともに年貢未納者に対する催促役でもある。