明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑳
  諸藩総がかりで日田一揆を潰す
                      堀込 純一

   Ⅲ  維新政府と対立する初期農民闘争

 (3)即時攘夷派と農民一揆の結合を恐れる政府

 豊前・豊後の二豊諸藩領(現・大分県は豊前の一部と豊後で構成1))でも、1868(明治元)年から1871(明治4)にかけて、農民闘争が頻発する。この4年間で、二豊の10郡(国東〔くにさき〕・速見・大分・海部〔あまべ〕・大野・直入〔なおいり〕・玖珠〔くす〕・日田〔ひた〕・下毛〔しもげ〕・宇佐)のすべてで、発生している。「一揆のほとんどが年末の十一・十二月から翌年の三・四月に発生しているのは、十月に年貢を割り付け五月に皆済(かいさい)を確認する制度と深い関係がある。」(『大分県史』近代編Ⅰ P.87)からと言われる。
 この四年間でみた場合、1869(明治2)年と1870(明治3)年が圧倒的に多い。それは、全国各地の多くと共通して、「〔明治〕二年の気候不順による全国的飢饉と、諸藩県による税制改革の進行が原因だ」(同前 P.87)と、推定されている。

〈戊辰戦争開始後、直ちに天領で農民一揆〉
 鳥羽伏見の戦いの直後の1868(慶応4)年3月、幕府領(天領)が没収される直前の日田郡で、農民一揆が勃発する。
 3月15日、五馬(いつま)筋13カ村の農民1000人が、大原宮に集会する。翌16日には、高瀬筋6カ村の農民500~600人が、大原元宮に集会する。同日、馬原・求来里・池田・井出の農民600人が隈町に侵入する。17日には、小野筋8カ村、大肥6カ村などの農民たちも集会する。
 これらは、「『日田郡騒動ノ次第聞合』(千原家文書)『豊西記』『日田変働日記』などによると、その要求事項は、①合際金(あいぎわきん *間際金〔まぎわきん〕)・融通講金・木方(きかた)歩一金等を割り返すこと、②豊後高田新開夫銀・囲い米・卯年上納米・旧農兵への賞与金などについて調査すること、③庄屋の総退陣、④貸方御用捨と質地田畑の差し返し、年貢の減免を行なうこと」(『大分県史』近代篇Ⅰ P.88)などであった。
①は、幕末時、種々の名目で各農家から徴収されていた積立金を個々へ返すこと、②は、上記の件について調査することが要求された。③は、これまでの村役人をすべて退陣させること、④借金の棒引きと質入れされていた田畑の返還という徳政要求2)である。
 しかし、この闘いは、物価値下げや博奕(ばくち)厳禁などの善処以外ほとんどが容れられなかった。このため、松方日田県知事の着任後(日田県成立は1868年閏4月25日)まで、くすぶり続けたといわれる。
 1868(明治元)年11月、延岡藩の飛地である由布院(ゆふいん *現・湯布院町)の農民たちが、乙丸庄屋の不正や、延岡領支庁の千歳役所の年貢徴収に不満を抱いて、一揆を起こそうと六所宮に結集した。だが、これは大庄屋や役人の「説得」で、最後は解散した。
 
〈岡一揆
 1869(明治2)年7月7日、、岡藩の朽網(くたみ)筋(*久住町~直入町)の農民1000余人が、竹槍をもって決起した。一揆勢は、歎願書をもって役人に迫るととともに、七里田・仏原・長野・柏木・湯原などの庄屋宅を打ちこわした。闘いは、岡藩領全体に波及したといわれる。
 「中川領百姓一揆探索書」(広瀬家文書)どによると、「各筋共通の要求は、庄屋下役雑用銭銀の村出(むらだし)銀と大庄屋による井堰(いせき)・御普請等の夫役(ぶやく *人民を強制的に公共工事に従事させること)割り付けの反対にあった」という。また、「佐伯藩日記」によると、「岡藩が御買場(おかいば)をつくって諸産物を買い上げ、農民の他方売りをいっさい禁じたこと、『切手三ヶ年預かり』の国札で買い上げたために、農民の手元には現金がなく、塩など日用品の購入にすら困難をきたしたことが、すべての原因であった」と言われる。(『大分県史』近代編Ⅰ P.89)
 また、九重山の硫黄採取の中止、商品の値下げ、役人による牛の食用化の禁止を掲げた地域もあったと言われる。
 岡藩は一揆に対して、7月12日、藩兵を動員して鎮圧し、「十八日には救米(すくいまい)の配布を公表するとともに、惣百姓あてに要求への回答を出す。その内容は、藩組織にかかわることから諸負担軽減にいたるまで一六項目あり、確答延期か拒否回答がほとんどであった。二十二日には大庄屋・庄屋を廃し、永代郷士格・御家人格とするなど地方組織の改革も敢行される。しかし、八月七日朝より前回以上の一揆が再発した(「佐伯藩日記」)。『凡(およ)ソ二万程(ほど)ノ勢ニテ所々崩シ(中略)家壱人宛〔*各家一人宛ての動員〕御城下ヘ押シ出』したため、臼杵藩・佐伯藩も藩境まで出兵した。八月二十一日には宇目郷の農民も『竹槍・苧総斧・山刀持参』で酒利(さかり)代官所におしかけている。一揆は佐伯藩にも波及した。」(同前 P.90)のである。
 この一揆は、藩が大砲隊を出動させ、ようやく鎮静化させたようである。しかし、この一揆首謀者の処刑は1871(明治4)年の夏にようやく行なわれた。藩政首脳部の路線対立によって、処分は遅延したと思われる。
 1869(明治2)年末には、「島原領宇佐郡橋津組でも農民六〇〇余人の一揆がおこり、旧庄屋・富豪に怨みがあるといって家を打ち崩した。これが国東(くにさき)郡の田染(たしぶ)組にも波及したが、高田陣屋の役人が説諭し、兵隊を派遣して解散させた。」(『大分県の歴史』山川出版社 1971年 P.202~203)のであった。

〈日田県の大規模一揆〉
 この時期、九州で最も有名なのが「日田県一揆」である。一揆は、1870(明治3)年11月17日、日田郡奥五馬(おくいつま)筋(天瀬町)で農民と日田県兵が衝突して始まり、竹田河原(日田市)に6000~7000(一説では一万)の農民が結集し、隈(くま)・豆田両町はもちろん、日田全域を席捲(せっけん)する暴動・打ちこわしとなる。20日には日田県下の玖珠郡にも広がり、両郡で庄屋・県官・県兵宅等290戸が焼き打ちに合う。一揆は、森藩・肥後藩・豊津藩(旧小倉藩)など周辺藩兵の出動により、日田での騒ぎは21日にはおさまる。
 一揆の要求は、次のようなものであった。「まず奥五馬筋村々は、①悉皆(しっかい *全く、すべて)東京回米令に反対する、②年貢米四斗俵立(従来五斗俵)は、俵詰(たわらつめ)手間および運賃がかさむので反対する、③大豆代金納は、当年の相場改正によって負担が倍増した、④金札発行は、有徳の町人の利益になるばかりで、窮民のためには全くなっていない、⑤郡中出銭は、五年前にくらべて一〇倍増になっている、⑥商人の買占(かいしめ)等によって困窮していると述べ、『御苛政の数々不少(すくなからず)、追々(おいおい)百姓相潰(あいつぶ)レ歎ヶ敷(なげかわしく)奉存(ぞんじたてまつり)候』と、天朝領における領主的搾取強化を全面的に拒絶した。/また大山筋村々は、大属以下の地役人および郷兵廃止すなわち天朝領における搾取機構・暴力装置の主要部分の廃絶を要求し、城内筋村々は、口米(くちまい *代官が活動経費として、本年貢のほかに耕地面積または年貢高に応じて一定の割合で徴収する米穀)、蔵前入用、伝馬宿入用、庄屋・組頭給米の高掛賦課などの雑税廃止を、熊本藩にならって実施するようせまり、玖珠郡村々は当年の年貢半減をかかげた。そして、両郡にわたって村役人・豪農商は激しい打ちこわしを受けた。」(佐藤誠朗著『幕末・維新の政治構造』校倉書房 1980年 P.89)といわれる。
 弾圧は、21日未明、豊津藩兵がまず出動し、23日までに秋月・熊本・中津・福岡の各藩兵が日田に到着し、一揆勢を鎮圧した。だが、津江筋(上・中・前津江村)や玖珠郡ではなお余震が続き、一揆は府内藩(12月5日)から日田県別府支庁下(12月15日)・日出(ひじ)領(12月19日)・中津領(12月15日)・立石領(12月18日)などへと広がっていった。
 日田県一揆は、「日田・玖珠関係だけで五名の死罪と一六名の流(る)・徒(ず)・杖(じょう)刑を出して終わるが、この激しい農民の反撃を前に、政府は、安石代廃止措置の中止・回米政策の緩和・大豆石代納相場の引き下げ等税制改革の大幅後退を余儀なくされた。」(『大分県史』近代編Ⅰ P.92)と言われる。  
 維新官僚たちは、激しい農民一揆を前にして、廃藩置県・官僚制の整備などを通して、強固な中央集権をもって天皇制専制主義の必要性をますます感じ取るのであった。それは、当時なお、「小攘夷」(今すぐの攘夷を唱える)の尊攘派の反政府活動が各地でくすぶりつづけ、政府首脳部はこれらが百姓一揆と連合することを最も恐れていたからである。

〈尊攘激派と農民一揆の結合を恐れる政府〉
 1870(明治3)年段階で、全国を見渡した場合、「反政府活動の計画を立てていた尊攘派の有力なものとして、①久留米・熊本藩士と山口藩奇兵隊脱徒を中心として九州各地の藩士・草莽をふくむもの、②堂上(どうじょう *昇殿を許された上層貴族)愛宕(おたぎ)通旭(みちてる)〔一八四六~七一〕を中心とするもの、③堂上外山光輔(一八四三~七一)を中心とするもの、④島原藩士族・丸山作楽(一八四〇~九九)を中心とするもの、⑤堂上沢宣嘉(一八五三~七三)を中心とするもの、⑥秋田藩士族・初岡敬治(一八二九~七一)を中心とするものの六グループがあり、若干のものが、この諸グループ内の横断的オルガナイザーの役割を果していた」(同前 P.94)と言われる。
 日田県一揆においても、山口藩の脱退騒動にからんで姿をくらました大楽源太郎らが、豊前・豊後方面に潜伏していると見られていた。政府は、大楽派が日田県の農民一揆と結合し、反政府活動が拡大するのを極度に警戒した。
 大楽自身は、山口藩諸隊脱退騒動(拙稿「奇兵隊はどのようにして生み出され解体されたか」〔労働者共産党ホームページ掲載〕を参照)には、直接かかわってはいないが、弟子の何人かがかかわり、その関係で大楽は捕らえられるのを警戒し、1870(明治3)年3月6日、郷里を逃れ、3月末には豊後姫島に渡って来た。以降、大楽は豊後諸藩や久留米藩などを往来し、同志を募り、「回天の軍を挙げようと考えていた」と言われる。ここから、1年間にわたって種々の噂が流れ、「大楽騒動」なるものが膨らんでいった。
 1870年11月11日には、久留米藩から日田県へ、「浮浪ノ者豊津藩・久留米藩・熊本藩同志ノ者各二百人許(ばかり)……〔中略〕……三方ヨリ乗リ込ミ、県庁(*日田県庁)ヲ相襲ヒ、右ヲ根拠トシテ豊後諸藩ヲ語ラヒ、旗揚ゲイタシ、京摂(けいせつ)ノ間ニモ同志多人数コレアリ気脈相通ジ居リ候ニ付キ、事ヲ挙ゲ候上ハ、輪王寺宮ヲ紀州和歌浦ヨリ迎エ奉リ、時勢一変サセ候策略」(『大分県史』近代篇Ⅰ P.94~95から重引)があるという情報が入った。
 日田県はこれを受けて早速県兵の召集、森藩への応援要請などの準備を整えた。そして、11月13日、大楽派とみられる小山達之進等5名を豆田町で逮捕した。こうした状況下で、11月17日、日田県兵と奥五馬農民とが衝突し、前述した「日田県一揆」が勃発したのである。
 しかし、大楽派が農民一揆との同盟を考えていたという見解は、幻想である。反政府の尊攘派は武士意識・身分意識が極めて強固であり、農民一揆の意義そのものを認めていないからである。
 だが、政府首脳は両者の結合を極度に恐れていた。「日田県一揆」が周辺の諸藩兵の派遣で鎮圧(11月21日)されたあと、それらの藩兵は自藩へ引き揚げた。だが、政府は逆であった。
 12月に入ると、長崎振武隊(4日)、政府派遣の有馬大巡察(4日)、河野弾正少忠(10日)、松方正義民部大丞(20日)、四条隆謌陸軍少将(21日)らが、続々と日田入りする。とくに四条は二個中隊の皇軍を率いての日田入りである。四条は一個中隊を残して翌年1月2日に大坂に引き揚げているが、2月5日に再び日田出張の命令があり巡察使として着任している。有馬大巡察もまた再度の日田入りを果たしている。
 政府側の大がかりな鎮圧体制にもかかわらず、大楽派との武力衝突には至らなかった。大楽をかくまっていた久留米藩士が、類が藩主に及ぶことを恐れて自ら大楽を斬り捨て、政府に恭順したからである。(つづく)

注1)江戸時代の豊前国の所領地は比較的おおまかであるが、対照的に豊後国は細分され所領が入り混じっており、しかも改易・転封がしばしば行なわれている。文禄・慶長期以降、転封がなかったのは、岡藩(中川氏)・佐伯藩(毛利氏)・森藩(来島氏〔のち久留島氏〕)・日出藩(木下氏)の4藩だけである。地元の藩は、これ以外の中津藩(小笠原氏)・府内藩(松平氏)・臼杵藩(稲葉氏)・杵築藩(松平氏)を加え、計8藩である。国外の藩の飛地としては、島原藩(松平氏)・肥後藩(細川氏)・延岡藩(内藤氏)の領地がある。それら以外は、天領(幕府領)である。明治維新ではいち早く天領が没収され日田県となる。初代県知事は、薩摩出身の松方正義である。
 2)徳政とは、簡単にいうと一種の「借金棒引き」のことである。それは、質入れから何年経(た)とうが、また流質(ながれじち)になろうとも、質入れ時の借金を返済さえすれば、いつでも質入れした土地を請け戻すことができるという法観念に基づくものである。この法観念は、中世にまでさかのぼることができるものである(中世は徳政一揆が盛んであった)。それは、土地を開発し耕し続けて者こそが本来、正当な所有者であり、質や売買によって入手した者の所有は、これよりはるかに劣り弱いものであるという考えによってである。