明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑲

 長州襲う一揆と諸隊脱退騒動
                                       堀込 純一


      Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

    (3)即時攘夷派と農民一揆の結合を恐れる政府

鳥羽伏見の戦い(1868年1月)で始まった戊辰戦争は、箱館五稜郭の戦いで榎本武揚らの降伏(1869年5月)により、ようやく終了した。
 だが、戊辰戦争は、諸藩の借金をさらに重くし、また、藩札や贋悪貨幣の大量発行でインフレを招き、諸物価高騰で庶民の生活を極度に悪化させた。さらに、1869(明治2)年の飢饉は、東北や関東を中心に全国の人民の生活を破壊し、餓死者をももたらした。
 こうして、全国諸藩の財政は、ますます悪化した。下山三郎著『近代天皇制研究』(岩波書店 1976年)によると、1968(明治元)年ころの全国諸藩の借金は、平均で年間収入の約3・4倍にまでに増大したと言われる。借金の増大は、新政府軍の主力となった「西南雄藩」においても例外でなかった。鹿児島藩は1・8倍、高知藩は2・1倍、佐賀藩は2・3倍、山口藩に至っては3・6倍にまで至った―と言われる。

  (ⅰ)山口藩を大きく揺るがす農民一揆

 この年(明治2年)の凶作は、山口藩でも例外でなく各地で生活困窮者を続出させた。このため、この年は藩内各地で農民一揆が広がった。9月1日から3日にかけて、大津郡殿敷村では、一揆未遂事件が起こっている。殿敷村の橋かけ作業に集まった25名の農民は、生活苦を乗り切るために窮民修補米(窮民を救うための備蓄米)の下げ渡しを歎願することを相談した。そして、歎願を他の組にも呼びかけ、9月3日、行動を起こそうとしたが、庄屋や畔頭(くろがしら)1)の懸命な説得工作で未発となった。

占領地・豊前企救郡の農民一揆

 11月17日、山口藩が占領している豊前(ぶぜん)企救(きく)郡で、庄屋の不正に怒った農民たちが蜂起した。
 第二次幕長戦争(1866年)で、小倉藩は長州藩に敗れる。同年8月1日、小倉藩は自ら城を焼き、藩士と町民の多くが、田川郡や熊本藩などに逃れた。この時も、京都・中津・筑城・上毛・田川の各郡で、農民一揆が起こっている。1867(慶応3)年1月、小倉藩は長州藩と止戦条約を締結する。この結果、企救郡はもはや小倉藩のもとには戻らぬことが確定し、藩は香原(かはら)に藩庁を置き、再興を図ることになる(3月18日に、香原藩が成立)
 こうして、企救郡は長州藩の占領地となる。敗退の年、「小倉の町は多くの住民が縁故を頼って避難し、荒廃されたまま放置された。企救郡は戦場となり収穫を前にして農民は途方に暮れた。大庄屋と多くの庄屋たちは藩庁と行を共にし、長州・小倉の和議成立後は小倉に長州藩の撫民局が置かれ、新しい大庄屋が任命された」(米津三郎著「維新と混乱」―『北九州の歴史』葦書房 1979年 P.155)のであった。
 1869(明治2)年6月の版籍奉還で、企救郡は政府直轄の地(日田県の管轄)となったが、山口藩は撤兵しないで占領を続けた。
 その下では、「占領政治につきものの政治の腐敗が起こり、大庄屋・庄屋などの地位は金で売買され、村役人は長州藩の役人と結託して年貢を横領するなど不正が横行した。しかもこの年は、前年の凶作で農民は食糧に窮した。政治に対する不満は一揆となって爆発した。一一月(*17日)真道寺村から起こった一揆は、たちまち企救郡一円に拡がり、村役と富豪の家は大部分が打ち壊された。真道寺村の原口九衛門が首謀者として捕らえられ死罪となった」(同前 P.157)のであった。(翌1870年3月、企救郡は名実ともに日田県の管下となり、山口藩は引き揚げた)

郡一円に拡大した美禰郡一揆

 美禰郡一揆は、1869(明治2)年12月18日、美禰(みね)郡岩永村(後の秋吉町)の蜂起から始まる。蜂起の原因は、畔頭が年貢収納時に不正を働いていたのが明らかとなり、農民の怒りが爆発したことにある。畔頭の松原吉太郎は、年貢徴集時に、米1俵あたり5合ぐらいも余計に取立てたのである。
 岩永村の農民はほとんどが小作人であり、農閑期には小商いや駄賃稼ぎ(駄馬で物品を運んで運賃を稼ぐ)、さらには日雇いなどでようやく渡世ができたのである。凶作で収入が減り、その日の食い扶持にも困る生活では、村役人の不正に敏感となるのは当然なことである。
 12月3日、もと奇兵隊員の来嶋周蔵と岩永村内ヶ嶋の養助が、内ヶ嶋の卯吉の家を尋ね、一揆の相談をする。周蔵と養助は岩倉八幡宮の鐘を撞(つ)いて農民を集め蜂起しようとしたが、村役人が駆け付けて蜂起は失敗した。同じような試みは同月5日にも行なわれたが、ふたたび失敗した。
 このような経緯を経て、「十二月十八日、岩永村の明厳寺で取調べがあった。その間、近くの等覚寺に多人数が結集、鐘を撞き、ついに一揆へと展開した。一揆勢は、十九日の明方(あけがた)から行動に移り、中村の松屋勇助方を打毀(うちこわ)し、朸田(おおこだ)へ渡り、秋吉へ出た。ここで二手に分かれ、一手は、青景・赤・絵堂と打毀し、もう一手は、綾木・長田辺を打毀して進み、大田(おおだ)にて合流した。ここにおいて、諸村申合せの上、歎願書を提出し、十二月二十六日に解散した。」(三宅紹宣著『幕末・維新期長州藩の政治構造』P.275~276)といわれる。
 一揆勢の要求は、①勘場(*宰判〔郡に相当〕役所)役人や村役人の交替、②畠方小物成(こものなり *こまごまとした雑税)・馳走米(*自主的な体裁をとった増税)・干し草・豆葉の廃止、③秋作不熟のための農民の救恤(きゅうじゅつ *被災者などを救い、恵むこと)、あるいは囲籾(かこいもみ *非常時に備えて蓄えた籾)の無利息貸付けなどであり、農民はこれを歎願した。(後に、要求の①③の一部は容れられたが、②は拒絶された)
 一揆参加者は500~600人程で、その中心は下層農民である。
 美禰郡の一揆は収束したが、一揆は隣接の他郡に波及した。「一揆はさらに隣接の厚狭(あさ)郡へも伝わり、明治三年(*1870年)一月五日、河原村から出た一揆勢は於福・大嶺・伊佐村(以上、美祢市)を打ちこわし、四郎ヶ原を通って海岸部の厚狭市・津布田・埴生村(以上、山陽町)を経て、一月には吉田(下関)の勘場まで押し寄せた。」(『長門市史』歴史編 P.461)のであった。
 一揆は、日本海側でも起こる気配があった。1869(明治2)年12月30日、前大津(さきおおつ)部(宰判が同年10月に「部」に改称された)の渋木村で、数百人が八幡社に集まり、庄屋宅を打ちこわす行動に出ようとした。不穏な空気が広がり、一揆が起こりかけたのである。「この動きを聞いた前大津部管事兼重慎一は、いち早く駈けつけ、巧みに一揆勢を説得した。しかし、一揆勢はそのまま解散するに至らず、なおも竹槍や鉈(なた)を持って山の中に立て籠った。兼重は懐柔作戦により執拗な説得を続け、明治三年一月一日の暮れ方になって、ようやく一揆勢は解散した」(三宅紹宣前掲書 P.284)といわれる。
 その後も、前大津部では、俵山村などで不穏な動きがあり、1870(明治3)年1月
12日には、熊毛郡岩田村の一揆も起っている。そして、1月13日には、山口県の隣の大森県(今の島根県の西部)で、「浜田騒動」が発生している。

元占領地の大森県浜田での騒動

 旧浜田藩は、第二次幕長戦争で長州藩の占領地となった。1869(明治2)年8月、浜田藩と旧銀山料は、大森県となる。翌年1月には、大森県は浜田県に改称される。
 「浜田騒動」は、土屋喬雄・小野道雄編著『明治初年農民騒擾』(勁草書房 1953年)にわずかな史料が掲載されている。藩の記録では、「顛末の記録は其後(そのご)壬申の震災で散失せるを以て今(いま)遺存する者(もの)少し」とされる。
 残された史料を整理すると、「浜田騒動」は、次のような経過をたどった。
 ①1869(明治2)年12月、豊田儀三郎が猪狩り隊を組織するために人員を募集した。同年11月に山口藩振武隊を除隊した卯助など108人が入隊を申込んだ。しかし、儀三郎からは、その後、何の音沙汰もない。卯助らは儀三郎に掛け合ったが、いずれ正月から2月のうちにお上から沙汰があるだろうと返事された。そこで、卯助や浜田の住人ら11人程が、御用始めの1月11日に、お上に猪狩りの結成許可の歎願書を提出しようと相談した。
 ②そこへ山口藩除隊の前田誠一がやって来て、卯助らに何を相談しているのかと尋ねる。卯助らから、これまでの経緯(いきさつ)を聞いた前田は、“先達て益田(山口藩との境近く)に長州除隊の者15人程をとどめているので、猪狩り隊よりも我等の党に加わり、豊前小倉同様の手柄をたてよう”と勧誘した。その場では、結論は出なかったが、12日には、仲間たちも前田の党に加わることを決したので、卯之助も同意した。
 ③1月13日夜八つ時(14日の午前2時)、合図の鐘が撞かれ、町方の小前たちが穀屋・酒屋などを打ちこわし、さらには裁判所(行政・司法を兼ねた役所)に乗込み占拠する。役所にいた官員たちは少数なので、すでに本庁のある大森方面に退去した。
 ④14日朝、大橋に詰め掛けた小前たちに向かって、前田は“先ず家別五升づつ遣わすので、当分の間、それでしのぐように……”と話があった。
 ⑤15日、前田は町役人を呼び出し、金の用意を命令した。その夜は大雪だったので、静かに治まったようである。
 ⑥16日、一揆勢は思う通りに事が運ばないので、堪忍袋の緒が切れたのか、“松原より焼きはじめ浜田市中・近辺を一時に焼き捨てる”と脅した。だが、その夜8時ころから、東方より官側の反撃が始まり、市中は上を下へと大騒ぎとなった。この中で、前田誠一は蛭子町の油屋太助宅の横側で討たれた。これにより、その他の徒党は四方に退散して、平穏となった。鎮圧部隊は大森の地役人や雇い入れた数十人の壮士であった。
 一揆勢は前田を含めて4人が討たれたが、残りの多くは行方をくらまし逃れ去ったようである。
 だが、この騒動は残された史料が少ないためか、どうも要領を得ない。その最大の点は、
一般の一揆や打ちこわしなどでは通常見られる一揆勢の要求項目が、皆目登場しないのである。官側は、一方的に山口藩除隊組を悪者に仕立て上げようとしている。仕事にあぶれた前田ら除隊組が「騒動」を起こそうとした様ではあるが、山口藩が除隊者の就職先を保証するなどの厚い手当をしていないのが、一揆勃発の最大の原因である。

財政整理のための諸隊精選

 1869(明治2)年11月8日、山口藩は兵制改革を行ない、諸隊のうちから常備兵2250名を精選することを諸隊長官に命じた。戊辰戦争から帰った時、諸隊は5000名に上っていたので、55%が首を切られることとなる。
 11月14日、遊撃隊の幹部3人が連署して、次のような要求13条を提出した。それを要約すると、①賞罰の不正、②幹部の堕落、③会計の不始末、④兵士差別待遇―の是正である。特に、幹部の出張中の妓楼・酒店での遊宴の禁止、兵士の給与の改善とランクごとの給与差別の是正である。兵士の給与の半分はピンハネされ、それが幹部の遊興費になっていたのである。
 11月17日にも、諸隊兵士たちは、幹部の「私曲不正」を訴えた。
 しかし、軍事局はこれらの訴えを無視し、逆に遊撃隊を除き、他の諸隊から兵員を精選し常備軍を編成した。そして、選にもれた残りの隊員には、解散・帰休が命じられた。
 だが、兵士たちは解散命令に服さず、12月1日、総督以下幹部の個々人を名指しして処分を要求した。そして、その夜には1200名余りが山口を脱して、三田尻(現・防府市)に走り、近くの宮市(現・防府市)を本拠とした。
 12月2日、脱退隊員たちは「諸隊中」の名で、藩当局に対し、①兵士・病者・老兵の生活が成り立つような措置、②最近の軍政は余りにも「西洋風俗」なってしまったので、元来の「尊攘の趣意」に叶った「神州の正気」を維持すべきと、歎願している。
 その後も、藩と脱退者との間で交渉がなされたが、両者は翌1870(明治3)年1月26日に脱退隊員が山口の公館(藩主が住み、政事堂がある)を包囲し、遂に両者の全面対決となる。藩政府軍と支藩兵は、2月8日から戦闘に入り、脱退隊員たちを打ち破り、12日には、残徒の追討令が発せられた。
 「脱退騒動」の処分者は、田中彰著『高杉晋作と奇兵隊』(岩波書店 P.150)によると、斬罪84、切腹9、水牢舎2、牢舎33、遠島41、謹慎45、その他7の計221名にのぼった。
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 1869年から1870年にかけて、山口藩を襲った農民一揆と諸隊脱退兵の反乱は、明治維新を根底から覆しかねない大事件であった(詳しくは拙稿『奇兵隊はどのようにしうて生まれ解体されたのか』〔労働者共産党ホームページに掲載〕を参照)。山口藩の広沢真臣は、とりわけ農民一揆の広がりに危機感を強く抱いた。諸隊脱退兵の反乱は、鹿児島藩・土佐藩・佐賀藩などの維新官僚を揺さぶり、彼らは相ついで山口を尋ね調査を兼て山口藩と協議している。(つづく)

注1)畔頭組は、数個の集落が統合されたもので、組の内部には10軒前後を一単位とする十人組という行政組織がある。行政上の指揮系統は、藩庁―大庄屋―庄屋―畔頭となっている。