ー共産主義者の団結・統合のためにー

   中央集権国家は資本にとって有用な国家形態
                               山崎  哲


 「カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る」という言葉がある。国家や社会についても同じことがいえる。
 その時の支配階級が自分たちが支配するのに都合のよい社会を築き、国家を形成してきた。資本主義社会が長く続いたので、”中央集権国家が国家制度の中で最も進化した民主的な国家制度だ”とか”議会制民主主義は社会主義社会でも有効だ”という認識が生まれているが、全くの見当違いである。支配階級の変遷は弁証法的な進化の歴史があるが、国家そのものに進化はあり得ない。その時の支配階級が自分たちの支配にとって都合のよいように社会や国家を組織してきたものである。
 資本主義社会における中央集権国家は資本〈家階級)の要請によってつくられた。また、議会制度は中央集権国家の属性である。議会制民主主義もその枠内のものでしかない。議会制度は階級支配をなくすものではなくて、それ自身、新たな支配階級を生み出す制度でしかない。
 議会制度は、それがいくら民主主義的なものであっても、レーニンが『国家と革命』でマルクスの言葉を引用していっているように「抑圧者は数年にいちど、抑圧階級のどの代表者が議会で彼らを代表し、ふみにじるべきかを決定する」というその本質をまぬがれることはできない。労働者人民にとっては数年間、自分たちを支配する人間を選ぶことこそが議会制度、議会制民主主義の本質なのだ。

 一、 武士社会と幕藩体制

 日本の江戸時代、産業の中心は農業だった。土地に結び付いた産業で、農民(百姓)が産業の主な担い手だった。主食であるコメを中心にして経済社会が成り立っていた。
 武士は支配階級として、武力で農業の中心的要素である土地を領有した。農民に土地を使用させ、作物であるコメを軸にした収穫物を年貢として、収奪した。収奪したコメを武士社会を運営する物質的手段とした。
 江戸時代、武士社会は幕府が国全体を統治したが、社会の日常的な運営は、人口30万人から50万人ほどの藩でおこなわれた。武家の頭目である幕府は大名を藩の領主として配置し、領主によって藩の支配体制を維持した。藩が日常的な国家、社会の単位であった。人々は藩の枠内で日常生活を過ごした。
 藩での支配体制は領主のもとに、武士階級によって、家臣団が構成され、武士階級は城下町を築いて、町人(商人、職人)を集め、武士階級が日常生活を送ることができる空間を整備した。城下町には藩の人口のほぼ1割(3万人~5万人)が集められた。人口の9割ほどの農民は土地に結び付いた村落に住み、村落に作られた縦割りの支配構造のもとで農作業に従事することを義務付けられた。
 武士階級はこの社会を永続的に継続するために、社会の変化を嫌って、武士から農民に至るまでのすべてに「家」制度を強制した。江戸時代260年間、日本の人口はほぼ3,000万人ほどで推移しており、社会の変革が武士階級によってほとんど抑え込まれてきた。
 江戸時代の支配階級である武士は、武力を軸にして、城下町に町人を、村落に農民を配置し、移動を原則的に禁止した。各家庭に「家」制度を強制し、家長のもとに土地、財産の相続を限定して、社会の変革を極力抑えこみながら、支配を維持、継続してきた。武士階級にとっては、幕藩体制は自分たちの支配を継続するために最も好都合な国家、社会であった。

 二、 資本主義と中央集権国家

 資本主義社会では、資本の自己増殖が社会を動かす原動力になった。資本の自己増殖は、資本家が資本を投資して、工場や原材料を手に入れ、労働者の持つ労働力を買い入れ、商品を生産して、それを販売することで、投下した資本よりも大きな資金を手に入れ、次のより多くの資本投下を準備するものである。
 その社会的条件としては、商品がより広い範囲で販売できるグランド(市場)が必要である。しかも、そのグランドは商品を流通させる共通の通貨が必要となる。その仕組みが安定していて、安全で、信頼度が高いものでなければならない。商品販売はより広い範囲がよいが、安全と信頼を得るためにはその及ぶ範囲が限られてくる。
 武士社会のような藩では小さすぎる。人口数千万人から数億人という範囲で統一した国家が存在することが基本的な条件となる。資本主義社会は一定の大きさの統一国家の存在なしには成立しない。統一国家は統一した貨幣を保障し、安全を保つために武力を背景とする中央集権的な体制をとらなければならない。
 中央集権国家は行政と軍隊があれば基本的な要素は整うが多数の労働者人民をその支配下に組み込まなければならない。政治制度として議会制度を採用し、議会制民主主義を一方で組み込むことによって、多くの労働者人民を納得させる体制を持つ必要があった。議会制度(議会制民主主義)は中央集権国家を成り立たせるもう一つの要素となった。
 資本主義は産業発展を急速にすすめた。21世紀になって、資本主義はほとんど世界を覆い、資本(家)はより強大になり、産業はより成熟した。社会は「1%の富裕層と99%の貧困層」に分断された。
 また企業の巨大化により、産業の進展そのものが地球環境を破壊し、人類の生存をおびやかすものになってきた。しかし、資本は自己増殖を続けなければ自ら存在できない。資本主義はますます人類の生存と矛盾するものになってきている。

 三、 未来社会とコミューン連合

 人類は生産力が圧倒的に小さかった原始共産主義時代を除いて、他人の労働の成果である余剰生産物を収奪し、搾取する「支配―隷属」の関係を築いてきた。社会の生産力の大きさに規定されて、「支配―隷属」の関係は変遷してきた。21世紀に入って、この関係は「1%の富裕層と99%の貧困層」と言われるように、極端に肥大化した。「支配―隷属」の関係は社会にとって耐えがたいほどになってきた。
 未来社会は人民の自己統治社会である。(人民は支配者に対する被支配者を表す言葉なの
で、「住民」といってもよい。)
 資本主義社会では資本は利潤をあげるために商品をつくる。すなわち「もうけるために物ををつくる」のである。これは物を生産する動機としては明らかに不自然なものである。人間は自然を改造して本来、人間の生活にとって便利なものをつくってきた。人間はよりよい生活をするために物をつくってきたのである。利潤のために物を作るようになって、人間にとって不必要なものまで、また社会にとって不必要な多くの量を生産し、廃棄し、膨大な社会的損失を生み出してきた。このやり方は変えなければならない。
 社会にとって、必要なものは何で、その量はどれほどのものか。わたしたちはそれを自分たちで計算し、計画することができる。現在の生産力は第一次産業、第二次産業、第三次産業といわれるように産業の発展をもたらしてきた。これらの産業を基礎にして、自立的、永続的な経済社会が計画の基礎とならなければならない。一定の大きさの社会、例えば1,500万人~3,000万人の人口規模を持った社会が想像されるが、その社会で住民が何が必要でどれだけ生産し、分配するか、計算し、計画することになる。その主体は住民の自己統治社会(コミューン)となるはずである。
 コミューンはすべての産業を総合し、統合し、自立的永続的経済社会を基礎としなければならないために、一定の広さが必要である。しかし、他方で計算し、計画するためには一定の狭さが必要である。コミューンの大きさは歴史的な条件、住民の協議によって決定される。
 自己統治社会(コミューン)は、これまで社会の変革期に歴史上たびたび登場した。1871年、フランスでパリ・コミューンが組織された。コミューンは当時マルクスが歴史的発見と評したように「真の人民革命」は「できあいの国家機構」を打ち砕き、破壊することなしにはあり得ない、ことを示した。
 コミューンは、蜂起したパリ市民の代表によってコミューン議会を組織した。コミューン議員はパリの各区で普通選挙によって選出され、決定に対して責任を負い、いつでも解任される存在だった。コミューン議員のほとんどは労働者か労働者の公認の代表によって占められていた。
 コミューン議会は、ブルジョア議会のように分業として立法を担うというものではなくて、それ自身、立法府であるとともに、執行府でもある行動的団体であった。コミューン議員はみずから行動し、みずから法律を実施し、実際上の結果をみずから点検し、自分の選挙人に対してみずから直接責任を負う行動団体の代表者であった。
 コミューンの最初の命令は常備軍を廃止し、それを武装した人々と取り換えることであった。いままで、中央政府の道具であった警察や行政府の官吏は既得権をはく奪され、労働者並みの賃金で公務が果たされるようになった。パリ・コミューンは人民革命の一つの典型として人民の自己統治社会(コミューン)を登場させた。
 1917年、ロシアの2月、11月革命のときにソビエトが全ロシアで組織された。ソビエトは2月革命の原動力になったが、革命後に組織された臨時政府の支持を表明し、数か月間、臨時政府とソビエトが併存する「二重権力」状態が出現した。
 レーニンはこの状況を「二重権力について」という論文で分析し、ソビエトについて次のように評価した。労働者・兵士代表ソビエトの階級的構成は、プロレタリアートと軍服を着た農民である。ソビエトは中央集権的な国家権力によって発布された法律に基礎を置くのではなくて、下からの人民の直接の発意、「革命的奪取」に基礎を置くものである。その特徴として、(1)権力の源泉は、あらかじめ議会によって審議され、承認された法律ではなくて、下からの人民大衆の直接の発意である。(2)権力の力は、人民に対立する機関としての警察、軍隊ではなくて、全人民の直接の武装、武装した人民それ自身である。(3)官吏も人民に選出されるばかりか、人民が要求すれば、いつでも代えられるものとなっている。特権層ではなくて、労働者並みの賃金の特別の「兵種」労働者である。これは1871年のパリ・コミューンと同じ型の権力である。
 レーニンは産業が第一次産業から第二次産業へ中心を移している発展段階にあるという歴史的制約に中で、「大規模生産」を基礎としてソビエトによって管理、統制することで、階級社会の止揚、国家の死滅を展望していた。(『国家と革命』)
 ロシアは革命後、国の内外から、ソビエト政府の転覆の企てにあった。外交面では、ドイツ帝国との停戦交渉でレーニンが「屈辱的」と評した条件での講和を受け入れた。内政面では、内戦が勃発した。革命政府は戦時共産主義を実施し、中央集権的な管理と統制のもとに赤軍への物資の供給を実行した。これらの政策は当時ロシアの経済の圧倒的部分を占めていた農村経済の矛盾を深め、農民は当局に没収されてしまう余剰農産物を生産する意欲をなくした。食糧不足が全土に広がった。
 1921年、内戦が終息すると、経済を立て直すために、ネップが採用された。農村での農民の富裕層の生産力を増大し、都市では、かつての工場う経営者を国有企業へ採用することで社会の生産力を高めようとした。1927年、最初の五か年計画が打ち出された。生産力をあげるために、大規模な工場プラントが計画され、アメリカのニューデール政策で採用された方式が導入された。「開発独裁」型の社会建設がすすめられた。
 ロシアでは、分業が可能であるところは分業方式が推し進められた。経済社会でも「支配―隷属」の巨大な体制がつくられた。人民の自主独立の基礎は経済建設における自力更生にある。労働者人民が有用なものを生産し、有用な社会を運営するためには、自分たちで見渡せる一定の範囲がある。未来社会の建設において、労働者人民が自力更生しうる範囲で、経済社会の単位が構成されるべきであろう。次の社会は生産の集中、分業制ではなくて、自力更生と協業制が、権力の中央集権ではなく、分権と分権した権力の協同が基本となるだろう。(了)