明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑱
 真宗門徒農民が廃仏毀釈を阻止

                     堀込 純一

      Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

    (2) 復古尊皇派の地方統治

   (ⅲ)三河の農民・僧侶の果敢な「鷲塚騒動」
 
〈行政機構のあわただしい変遷〉
三河地方の旧幕領は、1868(慶応4)年3月、京都御料に編入され、4月には吉田(現・豊橋市)に三河裁判所が置かれて、その管轄下に入った。
 しかし、この裁判所は6月に廃止され、幕府代官所の旧所在地である宝飯(ほい)郡赤坂に三河県が置かれ、同県が三河裁判所の事務を引き継いだ。
 だが、8月になると信州に伊那県が設けられ、伊那県は三河の旧幕領の一部をも管掌し、加茂郡足助(あすけ *現豊田市)に出張所が置かれた。
 しかし、1869(明治2)年6月になると、三河県が廃止され、その事務は伊那県足助支庁に引き継がれた。
 ところで、三河地方は新政府の直轄となっても、未だ諸藩領が多く、新政府管轄地は少なかった。1868(明治元)年9月、徳川家達(いえさと)を藩主とした静岡藩が成立した。静岡藩70万石のうち、11万6000石余は三河の旧幕府領・旧旗本領である。
 福島藩主の板倉家は、戊辰戦争で西軍と闘い、1869年2月に減封され三河に移転させられている。その所領2万8000石の主な部分は、もともと福島藩の飛地であった三河地方のものである。この藩は、碧海郡重原(現・刈谷市)の旧来からの陣屋を中心としたので重原藩と改称された。
 菊間藩もまた、1868(明治元)年7月に、駿河国沼津藩(5万石)から上総菊間(現・市原市)へ移され、藩主・水野忠敬(ただのり)が移封されたが、沼津藩時代の所領が三河の碧海(あおみ)郡幡豆(はず)郡に散在していた。その所領支配の陣屋所在地が大浜である。
 同じように所領が分散した小大名で、武蔵岡部(埼玉県大里郡岡部村)を本拠とした安倍家は2万石余であるが、1868(慶応4)年4月に、本拠を三河の八名(やな)郡半原(はんばら *現・新城市)に移している。

〈尾張・三河の下層民の闘い〉
 三河地方でも、徳川幕府という既成の権威・権力が崩壊したことから、名も無い民衆が自分たちの要求をかかげた闘いに公然と決起するようになる。
 1869(明治2)年1月、額田・碧海郡を中心とした岡崎宿(*現・岡崎市)の助郷(すけごう)の村々は、前年来の問屋役人の不正を糾弾した。岡崎藩に訴えてもだめだという判断から、京都への嘆願をくわだて、もしこれができない場合は、ともかく他領に逃散(ちょうさん)することときめ、柿崎山へ数万人が集会し、岡崎藩役人の制止をふりきって三〇〇人ほどが知立(ちりゅう)宿(*現・知立市)で三河県役人に接触することに成功した。この結果、問屋役人を退職させることができ、村々はさきに徴集された金(助郷賃)の払いもどしをうけることができた。
 1869(明治2)年12月、尾張中島郡稲葉宿(現、稲沢市)を中心に、大規模な一揆「稲葉騒動」が勃発している。(蓑をかぶって闘ったので「蓑着〔みのぎ〕騒動」とも言われる)
 連年の不作、物価の高騰などで、農民たちは困窮し、清須(きよす)邑宰所(ゆうさいしょ *代官所)へ御救米(おすくいまい)願いを提出した。しかし、この願書は無慈悲にも却下された。一揆は、12月20日から23日にかけて、中島郡・春日井郡・海東郡の3郡68カ村(現、稲沢市・清州市・あま市・津島市・一宮市など)に及び、参加者は3万5000~6000人に達し、焼き打ち・打ちこわしの家は80軒を超えたと言われる。
 だが、一揆はこの地方には珍しい数十センチの積雪の中で、名古屋・犬山・今尾の藩兵や農兵隊の出動と銃撃によって、24日には鎮圧された。大規模な一揆に対し、名古屋藩は救助米を放出し、藩関係者の罷免・謹慎処分を行なうとともに、一揆指導者には徹底的な弾圧と密告奨励を行ない、30~40人ほどを逮捕した。
 1870(明治3)年の春には、拳母藩の城下町拳母(ころも *現・豊田市)で、各町の町民が庄屋の不正会計を攻撃し、庄屋たちから「弁償」させた。古くからの実力者への下層民の怨みがむき出しとなったのである。

〈農民の家格制再編と神道の押しつけ〉
 三河においても、「蓑着騒動」が勃発している。1870(明治3)年10~11月に、伊那県足助(あすけ)支庁管下で、新城(しんしろ)を中心に設楽(しだら)・八名(やな)・ 宝飯(ほい)3郡の70余か村で、年貢減免を要求して数千人が蜂起し、闘いに消極的な村役人を襲撃する一揆が起こっている。これに対して、岡崎・豊橋・半原および信州飯田の諸藩が出兵し、弾圧した。翌年の1月そうそうには100余名が逮捕され、新政府は旧幕時代同様、「徒党」としてこれを処断した。
 三河の浄土真宗の僧侶と農民が神仏分離・廃仏毀釈に対して、激しく抵抗した「鷲塚騒動」(「大浜騒動」、「菊間藩事件」などとも呼ばれる)が起こったのは、この「蓑着騒動」の処分がまだ終わらないうちの1871(明治4)年2月であった。
 三河南部の碧海郡・幡豆郡はとりわけ浄土真宗の門徒が多い地方であるが、駿河国沼津藩の領地が両郡のうちに1万石余あって、菊間藩大浜出張所(旧大浜陣屋)が管轄することとなる。
 同所は、1870(明治3)年8月、服部純少参事が赴任(ふにん)して以来、新政が施行され、「敬老会を開き、管下の高齢七十歳以上の者を旧陣屋に招待して饗応(きょうおう *酒食をもってもてなすこと)し、民心を懐(なつ)け、又(また)藩士及び領民子弟の教育をなすに新民序塾といふ学校を立て、村童教育短歌といふ勤王主義の字句三百三十四を編纂せしものを幼童に教へ年齢に応じて漢籍を授(さず)け、教師及び世話掛(かかり)等(など)周到の方法である。又(また)領民の階級を新製し、或(あるい)は頼母子講(たのもしこう *無尽)に類したものを興して、公衆貯蓄ともいふべき事を計画して、着々励行(れいこう)し、一方には庄屋或(あるい)は富豪を挙(あ)げ帯刀を許し、役名を附(ふ)し、各々任務に就(つ)かしめたり。」(小野武夫編 増訂『維新農民譚』刀江書店 1975年)という。
 ここで、「領民の階級を新製し」というのは、「農民を上中下農に分け、家ごとに表札をかかげさせた家格の編成」(『碧南市史』第二巻 P.37~38)であり、露骨な「身分制」の新製であった。また、教諭使(きょうゆし *村々を巡回し村人を教え導く役で、僧侶がなった)に対しては、1871(明治4)年1月30日から仏法を説くことを禁止させ、神前では念仏ではなく祝詞(のりと)文を読むことを奨励した。一揆勃発の前提には、このような施策に対する下層農や僧侶の不信感が醸成されていた。
 しかも、神前で祝詞を唱えることが、「毎朝天を拝(おが)み朝日を拝むさいに唱えるものと伝わり、耶蘇教(やそきょう *キリスト教)とおなじだとする誤解が生まれた。こうして真宗門徒の反発がしだいに高まっていった。」(『愛知県の百年』山川出版社 1993年 P.19)と言われる。

〈寺院の統廃合強要〉
 こうした情況の下で、服部少参事は1871(明治4)年2月25日、領内の全寺院を呼び出して、下問書を示した。その内容は、細かな点もあるが、主要なことは、①「無檀無禄の寺院は、年限の新古を問はず、合併すべきの論、可否(かひ)如何(いかん)」、②「旧院寺格を問はず、村高戸籍に応じ、智識(*名僧)を選んで国用たらしめんことを要す」が、如何―の2点である。(下問書は、詳しくは増訂『維新農民譚』P.53~55)
 江戸時代、神社が「村の宗教」なのに対し、寺院は「家の宗教」であった。従って、神社は村共同体で管理・運営されていたが、寺院は行政区画の村・町ごとに置かれていた訳ではなかった。寺院は、本山―本寺―末寺の関係の下で、統制・管轄され、檀家との関係はいわば「自由競争」であった。明治初期は、未だ村(小字)単位で寺―墓地が設置される以前の状況・段階であって、檀家の領域的範囲は江戸時代同様に制約されていた訳ではない。服部の核心的下問は、合併後の寺院数を村高で決め、檀家と寺院の関係を特定の村の中に定める―ような方向性が窺えるのであった。
 これに対して、禅宗や浄土宗の寺院は直ちに請書(承知の旨を記した文書)を出したが、檀家に頼っていた浄土真宗の寺院は本山に問い合わせた上で請書を出すので、日延べを要請した。しかし、服部らはこれを許さず退席してしまった。そこで、同宗の光輪寺(当時、教諭使をしていた)や西方寺を頼んで、さらに日延べ要請した。しかし、これも残った役人がしたたかに叱責(しっせき)し、退席してしまう。結局、この時、浄土真宗では大浜村の西方寺・棚尾村の光輪寺・新堀村の光善寺が請書を出したと言われる。
 しかし、下問と称されながら、実際、議論がつめられた形跡も見られず、請書なるものも、その文面は明らかでない。要は、寺院合併が既定路線であったのである。

〈若き僧侶を援護し弾圧と闘う農民)
 この事件は、「天拝日拝」問題とともに、地域一帯の真宗寺院の危機感をかきたてた。青年僧侶を中心に組織された「護法会」の総管である碧海郡高取村(現・高浜市)専修坊(せんじゅぼう)星川法沢(ほうたく)は、1871(明治4)年3月2日に、碧海郡暮戸(くれど)村(現・岡崎市)の集会所に参集するように通達した。集会で法沢は、各寺院が合併に賛成したことを激しく非難し、とりわけ西方寺・光輪寺を詰問することを主張した(光善寺はこの場で詫びた)。
 2日の集会に参加できなかった碧海郡小川村(現・安城市)の蓮泉寺石川台嶺(たいれい)は、西方寺・光輪寺と服部少参事を法敵・仏敵として打ち果すことを決意し、法沢や主だった寺院と相談した。そして、数十人が参加した3月8日の集会では、台嶺は西方寺・光輪寺を詰問することを提案し、これに約30人ほどの僧侶が賛成し、血誓した。
 9日明け方、台嶺らは大浜に向けて出発し、この途中から竹槍を持った門徒農民たちが徐々に加わるようになった。彼等は、僧侶たちが耶蘇(やそ)退治に赴くから助勢せんと、多くが流言を信じて参加し、膨らんだ。
 大浜に着いた台嶺らは、僧尼調方(しらべかた)取締・山中七一郎(なないちろう)と交渉した。しかし、山中は、寺院合併は下問しただけで決定したものでないこと、藩外の僧侶だけでは交渉に応じがたいことを理由に、交渉を拒否した。そこで、台嶺らは、光輪寺に行き詫(わ)び状を書かせ、次に西方寺に向かおうとしたところ、菊間藩の権少属(ごんのしょうさかん)・勝呂(すぐろ)肇(はじめ)がやって来た。しばらく問答した結果、碧海郡鷲塚村(現・碧南市)で交渉することとなった。
 交渉は鷲塚村庄屋の片山俊次郎宅で行なわれた。役人側は、杉山廉平(れんぺい)少属・勝呂肇・藤岡濱・杉浦秦五郎・藤岡薫・杉浦普の6名であったが、昼になって杉浦秦五郎が西尾藩に応援のため派遣され、5名となった。他方、僧侶側は30~40名ほどで、さらに家の周りには多くの門徒農民が囲んでいた。
 僧侶側の要求は、次の3点である。

一、 宗風ニ有間敷(あるまじき)神前ノ呪文天拝日拝等浄土真宗門徒ノ者ヘハ禁止ノ事
一、 寺院廃合ノ儀ハ御見合(*見合わせること)ニ相成(あいなり)候様(そうろうよう)
  御歎願成り下されるべく候事
一、 宗判(*宗教上の裁き)ノ儀ハ在来ノ通(とおり)ノ事  (『碧南市史』第二巻 P.44)

 僧侶たちの要求は、端的にいうと、護法と生活権の擁護であった。だが、これらの要求は真宗僧侶の全体意志ではなく、真宗寺院の中でも意志統一はできていない。しかし、それは維新政府の神仏分離・廃仏毀釈に反対する真宗革新派の若き僧侶たちの意志を示したものである。


〈多大な犠牲を払い宗教弾圧に立ち向かう〉
 交渉は激烈を極め、難航した。こうする間にも周りを囲む門徒農民らの数はますます増加し、難航する交渉に不満を募らせる農民たちには、威嚇をふくめて、不穏な空気が広がり出した。杉山らは、交渉は難航するばかりで、日は暮れたのにもかかわらず応援隊は来ないので(大浜出張所にも応援を求めた)、交渉の決裂を宣告した。
 そして、杉山少属らは、大刀を振りかざして農民たちの囲みを突破しようと突き進んだ。白刃に恐れる農民たちが引き下がるところを、杉山たちは遁れることが出来たが、殿(しんがり)の藤岡薫は農民たちの竹槍につかまり殺害される。
 台嶺らは、西方寺との談判を目指して大浜に向かう。他方、救援の知らせを受けた大浜出張所では、勝呂少属が農兵をふくめた20名足らずで救援に向かい、両者は鷲塚村のはずれで遭遇した。しかし、ここで藩側は門徒農民たちに向けて、容赦(ようしゃ)なく銃撃を繰り返し、農民たちは敗走した。翌10日には、西尾・岡崎・重原・刈谷・西端の藩兵が到着し、各地で弾圧が開始され、多数が逮捕された。
 事件を受けて、「民部大丞渡辺清が東京から出張し、四月末から六月にかけて岡崎城の大広間を法廷として審問がおこなわれた。十二月二十七日に判決が申しわたされ、二人が死刑、すなわち石川台嶺が斬刑、藤岡薫殺害下手人として榊原喜代七(碧海郡城ケ入村〔現・安城市〕)が絞刑となったのをはじめとして、僧侶三四人・農民八人が有罪とされた(専修坊法沢をはじめ六人が獄死)。このほか、一〇〇〇人以上が口上書・始末書を提出させられた」(『愛知県の百年』P.21)のであった。
 三河の真宗僧侶と門徒農民の闘いも、大きな犠牲を強(しい)いられた。しかし、激しい一揆のあと、服部は次の一書を差し出した。「一、朝日ヲ拝スル事ハ固(もと)ヨリ之(これ)無き事 一、神前ノ呪文ハ祝詞(のりと)の文なり、此(この)儀(ぎ)宗旨(しゅうし *宗門の教えの核心)〔に〕背(そむ)ク儀ナラバ相止(あいとど)メ申すべく候
一、 寺院廃合ノ事(こと)致(いた)す間敷(まじき)事/右件々の外(ほか)、西方寺光輪寺?(ならび)ニ当藩マデヲ耶蘇(やそ)ト申触(もうしふ)レ候(そうろう)故(ゆえ)此儀ヲ風俗ニ御諭(さと)シ下され候様(そうろうよう)致度(いたしたき)事」 (『碧南市史』第二巻 P.45)と。
 寺院廃合は、ついに取りやめとなった。神前の祝詞も、宗旨に背反するならば、行なわなくてもよい、とされた。三河の真宗僧侶と門徒農民の一揆は、大きな犠牲を出しながらも廃仏毀釈を阻止したのである。
 しかし、民部省は、東本願寺派寺院に対して、「勝手な私集会を禁止し、法談講釈法用(*法事)などで多人数を集めるときは許可を受けること、何事によらず、檀家を使役し、頼母子講や財産の寄進催促をして〔は〕ならないこと、不学の僧侶をなくせよという、きびしい御達しをだした。」(同前 P.45)と言われる。政府は、あくまでも仏教を国家の統制の下に置く方針を変えようとはしないのである。(つづく)