明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑰

天皇の神的権威を高める神道優遇
                             堀込 純一


    Ⅲ 維新政府と対立する初期農民闘争

  (2)復古尊攘派の地方統治

(ⅱ)廃仏毀釈と闘う農民たち

 明治維新で樹立された政権は、王政復古を唱え、初めから祭政一致の政治を推し進めた。
 1868(慶応4)年1月、三職七科の中央官制が布かれると、七科の一つに神祇事務科が置かれた。同年2月3日に、三職八局制に改正されると、八局の一つとして、神祇事務局が置かれた。新政府は、これらの官に復古神道の国学者や神道家を登用して、宗教政策を担当させた。

「五榜の掲示」でキリスト教徒弾圧
 「五ヶ条の誓文」が布達された1868(慶応4)年3月14日の翌日、いわゆる「五榜(ごぼう)の掲示」が布達された。それは、「永年掲示」の「定三札(じょうさんさつ)」(第一~三札)と、「時々ノ御布令」である「覚札(おぼえさつ)」第四~五札から成っている。
 「定三札」は、①五倫(*儒教道徳―君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)の奨励、身寄りのない者や障がい者の援護、殺人・放火・窃盗の禁止、②徒党・強訴・逃散の禁止、その告発の奨励、③キリシタンの禁教―で、基本的に近世以来の民衆統治方針を継承したものである。
 「覚札」は、④新政府による外交の実施、「万国ノ公法」(国際法)の遵守、条約の履行、外国人殺傷の禁止、⑤士民の「本国脱走」の禁止、脱走者の主君・領主の連帯責任、新政府への建言の奨励―である。
 「五榜の掲示」は、この段階の新政府の考え方のレベルを示したもので、その「近代性」の大きな限界を表わしている。特に、④以外は、江戸時代とほとんど変わっていない。
 中でも、③のキリシタンへの弾圧は、江戸時代初期とほとんど変わらない。新政府は、③についての列国使節の厳しい抗議については、珍しく受けつけず、キリシタン弾圧の方針を少しも変えなかった。それは、幕末時、開国後の幕府の方針と変わらなかった。1)
1868年5月、政府は参与・木戸孝允を長崎に派遣し、九州鎮撫総督府と協議させ、教徒の指導者114人を一斉検挙し、これを長州・津和野・福山の各藩に分けて投獄した。翌年10月には、教徒とその家族、約4000人を逮捕し、これを19藩に分けて投獄し、厳しく棄教を迫った。
 この間、各国使節の抗議、中には国交断絶の威嚇をふくんだ抗議があったにもかかわらず、政府はこれをはね付けて弾圧した。1869(明治2)年12月18日、各国公使のキリスト教徒への迫害に抗議する中での外交交渉で、岩倉具視は迫害をしていないと抗弁しながら、次のように言い訳している。すなわち、「本件に対しては、日本国政府の機構と諸外国のそれとの違いを承知してもらいたい。外国では政府は世論にその基礎を置いているとすれば、我国の政府はミカド崇拝の上に基礎を置いている。……」(日本近代思想大系5『宗教と国家』岩波書店 1988年 P.130)と。
 まさに、ここでも明治維新の性格が天皇専制の復活という反動的なものであるという馬脚を顕している。キリスト教徒の投獄は、1873(明治6)年までも続く。政府は同年2月24日、キリスト教禁制の高札をようやく撤廃した。

神仏分離から廃仏毀釈へ

 政教分離の考え方をもたない新政府は、1868(慶応4)年3月17日、「神祇事務局より諸社へ達(たっし)」を出した。神仏習合により、江戸時代、神社の多くが寺院僧侶によって管理されていたが、神主を兼ねていた僧侶をことごとく還俗(げんぞく *僧籍を離れて俗人にかえること)させ、彼等が社務にしたがうのを禁止した。「達」の狙いは、神官の身分を寺院から独立させることであった。
3月28日には、「神仏判然令」(神仏分離令)が出され、神社で仏教用語(たとえば「権現」とか「牛頭天王」など)を使用すること、神社で仏像を神体とすること、神社に鰐口(わにぐち)・梵鐘(ぼんしょう)その他の仏具を置くことなどを禁止し、神仏分離を推進した。閏4月19日には、神職の者は家族に至るまで神葬祭とするように定められた。
 しかし、政府の思惑をこえて、神仏分離は廃仏毀釈(きしゃく *釈迦をこぼつこと)に傾斜する方向を強めた。その一つの典型が興福寺である。「興福寺の大乗院・一乗院以下一山の僧侶は、たいてい公卿の子弟であったが、神仏分離令によりいずれも還俗し、僧侶名をすてて本姓にもどり、興福寺の守り神とせられていた春日大社の神職となった。仏具・経典をはじめ多くの什器(じゅうき *日常使う家具)・宝物は四散し、五重塔はわずかに二五〇円で売却され、買主は塔に用いた金具をとるために塔に放火しようとしたが、住民の抗議でそれだけはやめたという。興福寺は一時廃絶も同様になった。」(井上清著『日本の歴史』20 明治維新 中公文庫 P.127)のである。
 さらに薩摩藩・苗木藩・富山藩・松本藩などでは、藩庁の命令で廃仏が行なわれ、仏教が激しく弾圧された。
 「松本藩では藩主が率先して祈願寺・菩提寺をとりこわし、松本市中二十四カ寺のうち二十が廃せられ、藩全体としては浄土宗三十カ寺のうち二十七、曹洞宗四十カ寺のうち三十一が廃された。その他の諸宗派も多数の寺院が廃された。真宗だけがいくらか大目にみられた。富山藩では一宗派一寺にかぎると厳命し、藩兵を要所に配置して本山と檀家との連絡をたち、寺院の廃合を断行、梵鐘・金仏などは没収して大砲鋳造の材料にした。その結果、総数一六三〇余の寺院が廃止され、浄土・天台・真言・曹洞・日蓮・真宗の七宗派七寺にされてしまった。薩摩藩や苗木藩では、一時、仏教は藩内から影をひそめた。」(同前、P.128)と言われるほどであった。
 美濃国の苗木藩の廃仏(明治2年2月)は、「領内の全寺院一五か寺が廃毀(はいき)されて、全領民が神葬祭に転じ、宗門改め制を廃止して氏子改め制を設ける。村々の辻堂・庵・路傍の石仏・石碑なども仏教色のものはすべて破壊するなどというものであった。」(安丸前掲論文 P.512)といわれる。
 神仏分離が廃仏毀釈にまで進んだのに対して、想定外であったのか、政府はすでに1868(慶応4)年4月10日に、太政官布達で、政府の意図が神仏分離にあって廃仏でないことを知らせた。さらに9月18日には、廃仏運動を批判する布告をも出している。

草莽隊出身者の仏教弾圧
 しかし、一部では廃仏運動は、なお止まらなかった。たとえば、佐渡県である。越後の草莽隊の一つである北辰隊を指揮した奥平謙輔は、佐渡県の統治を任され、県幹部に多くの北辰隊出身者を登用し、次ぎ次ぎと新政策を打ち出した。その北辰隊の隊長・遠藤七郎は、平田篤胤の国学の影響を受けていた鈴木重種を崇拝し、敬神勤皇思想を強くもっており、そのためこれが北辰隊の思想的基盤となっていた。したがって、佐渡県における宗教政策もこの国学思想が強く反映された。すなわち、佐渡県は単に寺院数を減らすだけでなく、宗教活動そのものを大幅に制限し抑圧する狙いを隠さなかった。
 奥平謙輔は、着任して間もない1868(明治元)年11月21日、佐渡の諸宗本寺の住職を呼び出し、寺院の廃合を命じた。「その趣旨は、佐渡が家数一万八八一一戸、人口八万一三六〇人の小国なのに寺院は五三九か寺もあって多すぎるから、佐渡に本寺があるものは本寺に、他国に本寺があるものは近くの大寺院にまとまるようにせよ、というものであった。期限については、浄土真宗は家族があるので十二月二十日までとするが、他宗派寺院は同月十日までとするという厳しいものであった。奥平はこの布達の中で、僧侶を『多ク無学無識、而(しか)モ遊惰(ゆうだ)安逸(あんいつ)ニ流レ、唯(ただ)愚民ヲ誑惑(きょうわく *たぶらかす)シテ勧財(*金銭・物品の寄付を促すこと)ヲ事トシ』と酷評し、寺院を『国家ノ贅物(ぜいもつ *無駄な物)』である」(『新潟県史』通史編6 近代一 1987年 P.135~136)と述べている。
 寺院廃合の期限が迫った1868(明治元)年12月5日、県は諸宗の本寺住職を呼び出して、次のような項目を述べた請書を提示し、調印させている。
一、土民を勧め僧侶に致(いた)す間敷(まじき)事、
一、俗家に至り人を集め、説法勧化等致す間敷事、
一、寺門へ人を集め、遠忌(*3年忌以上をいう)法談抔(など)と唱へ、布告の儀これ有るべからざる事、
一、人の死体は土葬を用ゆべし、火葬に致すこと停止の事、
 但(ただし)、僧侶・穢多・非人は勝手たるべき事、(*「穢多・非人」は、賤民と称されて差別された人々を指す)
一、神社・仏刹・塔婆の類、新規の造営停止の事、
一、金銀銅錫を以て仏像仏器を造作の儀これ有るべからざる事、
 但、木像と雖(いえど)も、新規造営停止の事、
一、浄土門徒の儀、当住の外、その子弟剃髪の儀これ有るべからざる事、
(『新潟県史』資料編14 近代二 P.639)
 集まった一同は、あわやと驚き、また「参謀(*実際は判事)奥平ノ威ニ怖(おそ)レ」、即座に調印してしまった、と言われる。
 さらに12月25日には、寺院廃合の具体的手順とともに、寺院が持つ質入れ地を(質入れ時の代金で)元の持ち主に返すこと、年貢米免除は廃止すること、「田畑・屋敷」以外の土地は没収することの請書を役所に提出させている。そして、廃寺になった寺院の仏像や仏具は焼払い、金具類は大砲と天保銭に鋳直すこととした。
 ここでは、仏教に対する特権廃止や寺百姓の解放など正当なレベルをはるかに超えて、宗教活動そのものへの迫害が露骨に示されているのである。
 神仏分離策は、仏教だけでなく修験道にも及んだ。幕末の佐渡は、真言密教系の当山派74院と天台密教系の本山派80院余りがあって、山伏の活動が盛んであったが、修験者も神官になるか、新たに得度(とくど *出家すること)して僧侶になるか、あるいは農民か兵士になるか―を選ばなくてはならなかった。
 神仏分離・廃仏毀釈によって、佐渡において539か寺あった寺院は、80か寺に激減した(かつての15%)。僧侶の中には還俗して神官になった者もいたが、多くは帰農したといわれる。
 佐渡の寺院では、真言宗が圧倒的に多かった(539の内、360か寺)が、もっとも激しく廃合に抵抗したのは浄土真宗であった。厳しい監視の目をかいくぐって、本山に訴え再興運動を続けた。真言宗も、智山派本山の智積院に訴え、再興をはかった。各宗派の檀家もまた、それぞれの宗派の寺院再興をはかった。その結果、1870(明治3)年135か寺、1881(明治14)年310か寺と部分的に再興された。

弥彦神社での仏像破壊に農民が抵抗
 1870(明治3)年10月、新潟県庁は、政府の神仏分離令に基づき、次のような達(たっし)を通達する。

十月七日、神仏混淆禁止ノ儀ニ付き、左ノ達アリ、
一、 日待(ひまち)月待(つきまち)ト唱ヘ、神前に於て仏経ヲ誦(じゅ)シ候儀、停止ノ事、
…………
一、 竃祓(かまどはらひ)ヲ荒神祭ト称シ、仏経ヲ誦シ候儀、停止ノ事、
…………
一、 甲子待(きねまち)ニ大国主神、庚申待(こうしんまち)ニ道祖神或(あるい)ハ猿田彦神等ヲ祭リ候ニハ、修験(しゅげん)僧徒相携(あいたずさ)へまじき事、
…………
一、 星祭の儀ハ神職ノ者相携へまじき事、
一、 神事祭礼ニ奉仕イタシ候神子巫(みこふ)ノ類、占仏死霊ノ口寄(くちよせ *死者などの霊を招き寄せ、その言葉を伝えること)等致しまじき事、
一、 社内仏像仏器これ有る向きハ、書面を以て申し出で差図(さしず)受くるべき事、
一、 寺院地内ニ祭り置き候神社ハ取払(とりはらひ)致すべき事、
 但し、神体或ハ由緒(ゆいしょ)これ有る向きハ伺ひ出づべき事、
右ノ条々、神仏混淆これ無き様、堅く相心得(あいこころう)べき者なり、
 十月七日 新潟県庁

 新潟県庁の「神仏混淆禁止」令の通達により、弥彦神社でも廃仏毀釈が行なわれたようである。この様子を後に真言宗豊山派の管長を勤めた権田雷斧大僧正が、若き日の目撃談として語っている。すなわち、「……越後の弥彦明神の本地(ほんぢ *仮に神の姿をした仏の本来の姿)真言院の本尊阿弥陀仏は、行基の作と伝へた霊像であった。その住持は老僧で復飾(ふくしょく *還俗)を肯(がえん)ぜなかったので、之(これ)を追ひ出し、その像を破壊して焼いて仕舞(しま)はうとしたのであるが、同地方の信者共が蜂起して、恰(あたか)も百姓一揆同様の騒動をしたので、已(や)むを得ず、別に仮小屋を立てて閉込めて置き、五、六年して出雲崎に民政局が出来たので、此処(ここ)に移して焼かうとし、運搬に取掛ったけれども、又(また)信徒の為(た)めに妨げられて、実行するに至らなかった。乍併(しかしながら)途中迄(まで)持ち出し、途中で放棄した。今は矢張り旧の如く、弥彦山に阿弥陀像を建てて安置せられて居る。/要するに、当時、官の役人は勿論(もちろん)だが、僧侶に無智無識の者が多く、その仏の何たるを弁解する者が殆(ほとん)ど一人もなく、皆(みな)時の風潮に雷同して、滔々(とうとう)として自ら廃仏をやったので、唯一の反対者たりしものは、実に地方の信徒であったのである。実に奇妙な現象と謂(い)はねばならぬ。」(新編『明治維新神仏分離史料』第4巻 名著出版 1983年 P.5~6)と。
 僧侶の堕落で、信徒が一揆の如き勢いで本尊を破壊から守ったというのである。
  
ピラミッド型の社格に諸社を編成
 新政府は、1869(明治2)年7月の2官(太政官と神祇官)6省制では、太政官の上に神祇官を位置づけ、神道色の強い政治体制をとった(ただし、さすがに行き過ぎとみたのか、1871年7月に神祇官は廃止され、8省の一つの神祇省になった)。
 祭政一致の下で、神社にかかわる専門行政機関が設けられ重視されたのは、近代化には逆行するものである。だが、それは国学思想に基づくものであり、天皇制を権威づけるためであった。すなわち、日本は天照大御神が開いた国であり、大御神の子孫が代々治め、日本のすべての土地と人民は天皇の領有するものである―という思想を民衆の心に深く植え付けるために、大御神の子孫である天皇の宗教的神的権威を高める必要があったからである。
 1871年には、皇室でも神仏分離が推し進められた。従来、宮中に安置されていた仏像・位牌・仏具などは、すべて菩提寺である京都の泉涌寺(せんにゅうじ)へ移され、皇族の葬礼は、すべて神祇祭祀によることとなった。
 その後、勅祭社、神祇官直支配社、府藩県支配社など神社の格付けが行なわれ、また、新たに過去の天皇・皇族・忠臣を祀る神社を創建した。
 諸神社の社格は後(1887~1896〔明治20~29〕年)に、大・中・小官幣社―国幣社―府県弊社―郷社のピラミッド型の階層的序列システムに編成される。そして、民衆が信仰する神々を整理・統合し、残された全国の神社を一つ一つを伊勢神宮を頂点とするこのシステムの一環に位置付けた。これもまた、諸神の頂点に立って支配する天照大御神の子孫である皇室の、神的権威を高めるためであった。
 結局、維新政府は、後に「信教の自由」と天皇制を両立させるために、神道を“宗教を超えた宗教”、すなわち「国家神道」として成立させるのであった。〈住奥智春著「――日本の宗教と宗教風土――現世利益と自然への合一」〔労働者共産党ホームページに掲載〕)を参照〉(つづく)

注1)1858(安政5)年に5カ国と修好通商条約が締結されると、居留民の信教の自由と教会の設立が認められる。長崎では、1864(元治元)年12月に、大浦天主堂が落成する。1865(元治2)年3月、浦上の潜伏キリシタンが浦上天主堂を尋ね、「信仰を告白」した。1867(慶応3)年の初め頃から、信仰態度は公然化し、信者は仏教式の葬儀を拒否した。長崎奉行は、同年6月、信者68名を捕らえ、その後もまた逮捕者を出している。 
【お詫びと訂正】
 前号の中見だしの「Ⅳ維新政府と対立する農民闘争」は、「Ⅲ維新政府と対立する初期農民闘争」に訂正します。読者の皆様にはご迷惑をおかけしました。お詫び致します。