大阪・釜ヶ崎
 12・28~1・6「第50回釜ヶ崎越冬闘争」貫徹さる
  新センターへ要求具体化

 昨年12月28日の「突入集会」から、本年1月6日の大阪府・市への「要望書」提出行動(通称「お礼まいり」)までの、「第50回釜ヶ崎越冬闘争」が同実行委員会のもと、「仲間内の団結で一人の餓死者・凍死者も出すな!」を合言葉に闘い抜かれた。
 越冬闘争とは、冬の寒さが深まり、年末年始にかけて現場が閉まり、また行政の窓口が閉じられるという釜ヶ崎労働者にとってもっとも厳しい時期に、「仲間の団結した力で、仲間の生命を守り抜く闘い」として、1970年に第1回が始まり、以降毎年続けられているものである。
 それは「夏祭り」や「メーデー」とともに、釜ヶ崎にとって最も重要な闘いの一つであると同時に、釜ヶ崎の闘いの「原点」としてある。
 今回も10月下旬に、日頃釜ヶ崎で労働者に責任を持って活動している団体・個人によって「実行委」が結成され、論議を積み重ね、準備が進められてきた。
 12月28日の「突入集会」は、釜ヶ崎労働者だけではなく、大阪・関西の闘う仲間の結集でかちとられた。反原発の「若狭の家」の仲間、「辺野古に基地を作らせない大阪行動」の仲間、「日本軍『慰安婦』問題関西ネットワーク」の仲間、そして今回新たに、「狭山再審を求める関西キャラバン」の仲間から連帯アピールを受けた。そして各班アピール、参加団体アピールと続き、最後に実行委員長の「あいさつ」で締めくくられた。決意が打ち固められた。
 さあ、越冬闘争だ。この「突入集会」と並行して、医療センター前では「集団野営」の準備が始まり、1月6日朝までこの野営闘争は貫徹された(約40名の仲間が参加した)。
 「医療パトロール」も始まった(1月5日まで)。
 「炊き出し」も、1月5日まで続けられた。
 多くの仲間たちの支援・参加によって、一人の餓死・凍死者も出さない闘いを最後まで闘い抜くことができた。
 こうした成果をもって、1月6日の「お礼まいり」は闘われた。行政の施策の不充分性の故に、今年も328名の仲間が「臨泊」を利用せざるを得ず、また医療センター前の「集団野営」も含めて、地域内では100名以上の仲間が今年も路上で年を越さざるをえなかった。この現実を、大阪府・市に怒りを込めて差し示し、更なる施策を求めていかねばならない。安心して働き生活できる釜ヶ崎を実現しなければならない。
 「反失業ー仕事よこせ」の闘いは、引き続き闘いの軸である。と同時に、「センター建て替え」問題も、釜ヶ崎の未来にとても重要な闘いの課題である。
 今から十年以上も前の08年、国と大阪府は、「あいりん総合センター」の建物全体の耐震診断を行ない、その結果、北側部分についてはIs値の最小値は0・208、南側部分は0・214となるとした。
 この数値は、当時の耐震基準も満たしておらず、地震による倒壊や崩壊の危険性があると報告され、利用を続けるのであれば、大規模な耐震・免震工事を行なうことが迫られるものであった。ところが釜ヶ崎ゆえに、長い期間放置され続けてきた。
 そして、こうした建物の安全性の以前にも、大きな問題がある。
 「あいりん総合センター」は、日雇労働者の安心・安全な雇用と就労を目指し、労働者の福利厚生施設、医療も含めた総合的な施設として、1970年に建設された。
 しかし、その後、国・行政の愚策によって失業ー野宿を生み出し続け、今日は、西成労働福祉センターの把握する日々の斡旋者数は、最盛期の10分の1以下となっている。
 一部の「特掃」事業などを除いては、昼間の居場所としての機能しか果たしておらず、機能が大幅に劣化しており、釜ヶ崎の将来を考える時、抜本的な改革、見直しが必要とされている。
 以上の理由から、「越冬闘争」や「夏祭り」の実行委員会のメンバーが中心になって、「センターの未来を提案する行動委員会」が作られ、労働者・住民のための使い勝手がいい新センターの建設へ向け、行動を積み重ねてきた。

  跡地・大阪市有地の売却絶対反対!

 今越冬時においても1月2日、この課題で「新春大討論会」を開催した。1月6日の対府市要請行動では、新センターについても具体的諸要求を提出した。大阪市に対しては、旧センター市有地の売却絶対反対を突き付けつつ、敷地内にコミュニティセンターを設けるよう要求し、大阪府に対しては、新しい労働施設の在り方と機能について、多くの要求を出している。
 越冬終了後も、仲間十数名が、沖縄県の「グッジョブセンターおきなわ」の視察・見学に行っている。(この施設は、かってのセンターの様に国・県・市が同じ建物を使い、ワンストップサービスで事業を行なっている全国的にも先進的な取り組みだ)。
 また、先行して建て替えられた横浜・寿の新センターの実態についても、仲間たちの見学が行なわれた。
 昨年12月23日に開かれた第47回労働施設検討会議(府主催)において、本移転の労働施設については2025年度供用開始を目指し、「市営第二住宅の跡地を含む台形跡地全体の南側に建設するとの方向で賛成が多数であった」と取りまとめられた。
 しかし、大阪市の方針は定まっていない。北側の大阪市私有地を売却してしまう恐れがあることから、同会議では、大阪市に市有地を売却させないことや、労働施設以外の跡地利用について引き続き地域からの意見や要望を尊重した上で、早急にゾーニングすることなどが、付帯意見として取りまとめられている。
 今後、旧センターにあった福利厚生施設や居場所機能を、労働施設の中に含めて要求していくのか、それとも、「あいりん総合センター跡地の利用検討に関するワークショップ」(市主催)で要求されているところの、「労働施設以外の生活・福祉・交流などのための総合施設」およびその空間に組み込むよう要求していくのか、しっかりと論議していくことが必要であろう。
 いずれにせよ1970年当時とは大きく変わった釜ヶ崎の現状をふまえ、そして今後の釜ヶ崎の未来をしっかりと展望し、労働者・住民のための新たなセンターとして、使い勝手のいいセンターを作っていこう。(釜ヶ崎S)

  1・3「新春・釜ヶ崎ツアー」

 釜ヶ崎と市民を結ぶ運動団体「釜ヶ崎講座」は、今第50回越冬闘争の中で、12月30日「越冬闘争連帯行動デー」と、1月3日「釜ヶ崎歩きツアー」を中心とする行動をやり抜いた。この2つの企画に延べ25名の人たちが参加した。
 30日は夕方6時より三角公園で、「越冬臨泊」入所者状況の報告を聞く傍ら、釜ヶ崎日雇労働組合書記長・佐々木さんから、70年当初の釜共闘の攻防の歴史と今日の反失業闘争の意義などについて、お話しを伺った。
 労働者の継続的闘いで、90年代の「特掃」獲得へと展望が切り拓かれたこと、月13日以上の就労(日雇雇用保険を活用できる)で人らしい生活が確立できること、また今後も特掃を中心としつつ、仕事を求める多様な取り組みの必要があることなどが述べられた。
 その後、野営現場での布団敷き、人民パトロール行動、医療パトロール行動へ参加した。
 明けて1月3日は午後1時より、水野阿修羅さんの先導による「新春・釜歩きツアー」が、20名の参加を得て開催された。
 今回は、センター建て替え・仮移転の状況の中、移り変わる釜ヶ崎を見て回るツアーであった。外国人就労支援施設ヨロホテル、2022年完成の星野リゾート予定地、新設の外国人向けホテルなど、街の確実な変化を見て回った。
 最後の感想・意見の交換では、やはり今回も釜ヶ崎で住み、暮らす人の今の生活に関心が寄せられた。ドヤを中心として比較的若い人の流入が目立って増えたこと、就労外国人にも釜で結婚し定住していく人が見かけられること、引き続き安住を求めて流れ着く訳ありの人がいること等が語られた。
 水野さんは、就労はもちろん生活面におけるこうした人々の求めに応えられる街として、釜ヶ崎は今後も役割を果たし続ける必要があると語った。(関西I通信員)


東京・山谷
 1・13日雇全協決起集会
 
非正規労働者総決起へ

 1月13日の午前、東京・山谷の玉姫公園にて、「佐藤満夫さん・山岡強一さん虐殺弾劾・追悼!寄せ場から世界を見据え、社会運動の前進を共に1・13山谷集会」が行なわれ、各地から約150名が参加した。山谷争議団の呼びかけで、日雇全協(全国日雇労働組合協議会)が主催した。
 集会はまず、80年代に天皇主義右翼との闘いで殺害された佐藤さん・山岡さんに黙祷を捧げた。
 山谷の仲間の司会挨拶に続いて、争議団連絡会議、被曝労働ネットワーク、たんぽぽ舎、反天皇制運動連絡会、沖縄一坪反戦地主会関東ブロック、三多摩の生活保護切り下げ反対の裁判闘争、横浜のカジノ誘致反対運動などなど、諸団体が各々の課題をアピールした。
 日雇全協の各支部からの決意表明が、大阪・釜ヶ崎日雇労働組合、横浜・寿日雇労働者組合、名古屋・笹島の越冬実行委、そして東京・山谷争議団と行なわれた。
 集会後、山谷地区を一周するデモ行進を行ない、今年の闘いの気勢を上げた。世界的に高まる下層民衆の反乱に連帯し、また、日本の2千万非正規労働者に共に起ちあがることを呼びかける意義ある行動であった。
 なお、集会では釜ヶ崎のセンター建替え問題について、建替え工事自体に反対とする発言もあったが、新センターをどう展望するかを抜きにしては、労働者・住民の支持は得られない。
 この課題は、センターを丸ごと消滅させる策動があった中、労働施設などは同じ所で建替えとする答申を得てきた闘いの経緯がある。現在は、その建替えの内容をめぐる闘争局面となっている。新自由主義の「地域浄化」策動と具体的に闘い、安全な、かつ労働者・住民のための新センターを闘いとらねばならないのである。
 日雇全協の各支部は、釜ヶ崎センター建替え問題について曖昧性の無い態度をもって、団結を深めるべきである。(東京A通信員)