明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑯

  梅村知事打倒に総決起
                             堀込 純一

      Ⅳ 維新政府と対立する農民闘争
 
  (1)復古尊攘派の地方統治

 (ⅰ)水戸学の梅村知事を打倒・追放

飛騨でも年貢半減の約束を反故

 1868(慶応4)年1月23日、飛騨郡代1)・新見(しんみ)正功(まさかつ)は、飛騨鎮撫使・竹沢寛三郎が入国するとの報を受けて、25日、事後処理を郡代手代に託して、裏門から密かに江戸へ逃亡した。
 2月1日、飛騨に入った竹沢寛三郎(阿波郷士)は、旧飛騨郡代支配下にあった飛騨三郡(吉城・大野・益田〔ました〕の各郡)を接収し、天朝領とした。竹沢は2月4日には、郡上(ぐじょう)藩、名古屋藩と前後して高山に入り、同陣屋門前に「天朝御用所」の立札をかかげた。そして、郡中総代を召し出し、次のように申し渡しを行なった。

一 当国の義(儀)、今般(こんぱん)天朝御領(ごりょう)ニ仰せ付けられ、追々御仁政仰せ出でされ候間、有り難(がた)く相心得(あいこころえ)、人民安堵(あんど)いたし、家業(かぎょう)出精(しゅっせい *精を出して物事を行なうこと)致すべき事
一 御年貢の義、当年は是迄(これまで)の半減ニ仰せ付けられ、諸運上(しょうんじょう *商工業者などに課せられた色々な税)の義も、追々御除き仰せ付けらるべく候事
 附(つけた)り 向後(こうご)御用金等、決(けっし)て仰せ付けられまじき事
一 総(すべ)て徳川家美事良法(びじりょうほう *すぐれた法)は其儘(そのまま)御取用(とりもち)ヒ遊ばれ、悪法は御改正遊ばされ候事
一 下々(しもじも)難儀(なんぎ)の筋(すじ)これ有り候ハハ、遠慮無く願出(ねがひで)申すべく候事    (『岐阜県の歴史』山川出版社 1970年 P.214~215)

御一新とは名のみの儒教的な「仁政」政治
 典型的な儒教的「仁政」であり、江戸時代と基本的に変わらない。ただ人心収攬(しゅうらん)術として、年貢半減、諸運上のおいおい廃止の布告を行なった。しかし、これは、新政府の方針によって空約束となった。竹沢も、赤報隊同様の立場に追いやられたのである。
 だが、竹沢は相楽総三よりも小狡(こずる)く立ち回り、大垣の東山道総督府に召喚されて以降、いっさい年貢半減には触れず、運上金については「取立て申すべき事」と、態度を一変させている。
 このため、年貢半減などに期待した民衆から「郡中をだまかし候」(「福井清六記」)と手厳しく批判される。新政府も竹沢に不正の廉(かど)があるとして飛騨取締を免じ、後の3月22日に逮捕した。
 2月24日、総督府は竹沢に代えて、弱冠27歳の梅村速水(はやみ)を飛騨国臨時取締に任命した。
 4月18日、笠松裁判所が設置されると、飛騨・美濃の旧幕領はその管轄下に置かれた。次いで閏4月21日、笠松裁判所が廃され、笠松県が置かれる。さらに5月23日、飛騨三郡は飛騨県となって独立する。その飛騨県は、6月2日に高山県と改称され、1872(明治4)年11月20日、筑摩県の管下に入るまでの3年有余、飛騨一国は高山県の管轄下にあった。この高山県の初代知事(6月)となったのが、水戸藩を脱藩した志士出身の梅村速水である。
 梅村は、水戸学思想にもとづく「王道楽土」を目指し、やはり儒教的な「御一新の仁政」を全面的に打ち出した2)。これにより、親孝行の者には褒美(ほうび)を与え、反対に親不孝は慎むように布告した。また、高山や古川の困窮者の実態調査を行ない、飯米(はんまい)などを支給し、70歳以上の老人には手当を支給したと言われる。
 だが、この梅村は、前任者竹沢寛三郎が発令した年貢半減令を取り消した。これによって、農民たちは大きく落胆した。
 梅村県政が、もっとも力を入れたのは商法局の運営である。1868(慶応4)年7月1日、富国の基礎を固めるために商法局を設置し、翌2日、旧幕府時代に糸・紬(つむぎ)などを支配していた糸問屋・福島屋五右衛門の特権をとりあげ、これを商法局の所務とした。また同日、これまでの盆暮の2期の勘定(*納税)を5期(盆暮に加え、陰暦の3月3日・5月5日・9月9日)とした。
 さらに、「八月一日には国産の鉛・硝石を商法局へ買上げることとし、みだりに他国へ売出すことを禁じ、九月二六日には、荏(えごま)・菜種・紙草(*?)・熊膽(ゆうたん *熊の胆のう)・熊皮・猪膽(ちょたん *猪の胆のう)・鹿皮・鹿角、さらには薬草の類に至るまで、商品となる国産品はすべて商法局へ買上げることとして、管内での相対(あいたい)売買〔*一対一の当事者だけの売買〕を禁止した。/更に一〇月二八日、高山天照寺町加賀屋弥兵衛に奉公人口入(くちいれ *周旋)世話方を命じて相対雇傭(こよう)を禁じ、また油屋締方・刀小道具商締方・青物問屋締方・開拓場見立役などを設け、一二月二八日には、仕出し料理屋・菓子屋・会席料理屋・餅一膳飯屋・煮売・汁粉(しるこ)屋・鮓(すし)・鳥獣煮売・鰻屋(うなぎや)・休茶屋(やすみちゃや)をはじめ、青物問屋・酒造屋・越中塩売捌(さばき)・味噌醤油屋・?燭(ろうそく)練油屋・桧物(ひのきもの)屋・桶師・遊女屋・通(かよい)遊女屋等の家業に運上(税)を課し、無許可の者の類似稼業を禁止した。」(『岐阜県史』通史編 近代上 P.113~114)のであった。
 梅村は、このような商業統制や課税による収奪によって、小商人や一般人民の生活を直接に破壊した。それだけではない。梅村は、「同年(*明治元年)一〇月二〇日には、知事の市中通行の節は下座(しもざ *座を下がって平伏する)、判事通行の際は履物(はきもの)を脱いで会釈(えしゃく)するのが人民の礼儀であることなどを定めて公布した。」(同前、P.115)のである。まさに、あいた口がふさがらない―とは、このことである。江戸時代そのもである。
 梅村は、これらの外にも、新田畑の開拓、鉱山の開発、特産物の振興を図り、そのために地主や商人の最上層を登用した。だが反対に、一般農民や小商人にとっては、負担は増大するばかりとなった。
 梅村県政に対する反対機運が次第に県内に広まったのは、①商法局の専売制度や経済統制で、商習慣は混乱し、多くの商人たちが不利益をこうむったこと、②新田開発や凶荒に備えた備蓄米の取立てで農民の負担が増大したこと、③郷兵取立て・強制徴募で一般庶民が不利益をこうむったこと(従来は火消講が治安維持に携わっていた)、④人別米・山方米の廃止により、高山町人や杣(そま)稼ぎ人の飯米が不足するようになったこと―などが主な原因である。

諸階層の決起を促した人別米・山方米廃止
 年貢半減などに期待した飛騨の民衆が、「……梅村県政に対して決定的に離反したのは、人別米と山方米の廃止であった。/人別米は高山・古川などの町方に、山方米は山つきの村々にそれぞれ売りさげられたもので、米不足の飛騨の住民はこれによって生活を支えてきたといってもよかった制度である。」(『岐阜県の歴史』山川出版社 1970年 P.217)と言われる。3)
 人別米・山方米の廃止に対して、高山町年寄の川上斉右衛門は、町組頭らをともなって、人別米の売り下げを願い出た。しかし、川上は謹慎を申し付けられた。阿多野郷、小坂郷などの山の民は、山方米の売り下げ廃止によって生活がたちまち困窮し、総代人が高山まで降りて歎願することが多くなる。「美女峠に一〇〇〇人の農民が集まった。事態を重視した梅村知事は、願方総代を捕縛し、百姓一人を処刑するなど、激しい強圧に転じた。」(同前 P.217)のであった。
 年末のこの杣人たちの陳情に対する梅村の弾圧によって、対立は決定的となり、飛騨三郡には不穏な空気がみなぎり、やがて「梅村騒動」へと発展して行く。
 1869(明治2)年1月20日、高山町人の川上屋善右衛門・医師滝原礼造らは、太政官の脇田頼三の紹介で、刑法官に訴状を提出する。その後、これに続くものが相次いだ。
 1月26日、梅村は、京都での反梅村活動を押さえ込むために、京都に上り飛騨を留守にする。この留守の間に梅村排斥の一揆・打ちこわしが勃発するのであった。
 まず2月23日に、郷兵と高山火消講が衝突する。2月末には、高山町では連夜のように火事がおこり、「商法局を打ちこわせ」と不穏な廻状が村々へまわった―と伝えられている。29日の真夜中に、高山の八幡町で不審火がおこり、火事場に集まった400~500人ほどが一揆の口火をきって、激しい打ちこわしを行なった。この打ちこわしでは、商法局長の江馬(えま)弥兵衛(やへい)ら要人宅や妓楼が打ちこわされ、焼き打ちされた。その数は34軒に上った。翌30日には数千人が一斉に蜂起し、商法局、学校、牢獄などが破壊され、県の役人も殺傷された。
 「飛騨一揆の報を受けた梅村知事は『知事の帰県を妨げる者は討ち取る』と布令し、三〇余人の兵士とともに益田郡萩原に到着したが、火消人足を中心とする一万余人の人びとが一揆となって萩原に殺到した。」(『岐阜県の歴史』1970年 P.218)という。
 この3月10日の萩原での衝突は、一揆勢が梅村の宿舎に放火し、梅村を護衛する兵士が発砲し、1万の一揆勢のうちの猟銃をもった者が応戦したことを指す。これにより、一揆勢の側に3人の即死者が出たが、梅村自身も負傷し高山に戻れず、東美濃の苗木藩領に逃げ去った。だが、梅村は責任を問われて免職となり、3月14日に逮捕される。梅村は、1870(明治3)年10月、東京の監獄で、未決囚のままで病死となった。
 新政府は、この事態を重くみて監察司・宮原積を高山県にただちに派遣し、民心の安定を図った。同年10月、宮原は高山知事に任命され、人別米・山方米問題など梅村の諸政策を廃止して、治安の回復に力を注いだ。
 他方、一揆側の者たちは1871(明治4)年になって処罰されたが、いずれも軽い処分に終わっている。新政府は「梅村騒動」を重く気遣い、人心の安定化を優先したものと思われる。4)  (つづく)

注1)幕府は、1692(元禄5)年に、飛騨一国を直轄化して、高山に陣屋をおいて代官支配を行なった。飛騨郡代の管轄地は、飛騨一国は一貫して変わらなかったが、18世紀前半から美濃の一部、越前の一部、加賀の一部が加わった。総石高は、1805年時点で、10万4200石余(ほかに美濃・越前に預所が4000石余)であった。
 2)梅村速水は、1868(明治元)年11月に著わした「低声竊語」で、次のように施政の抱負を語っている。「……右様の者(旧幕府にありて天朝あることをしらぬ〔知らぬ〕者等々)ハ皇国に生れながら御国体をも不存〔存ぜず〕ものニ付き、夷狄同様のものニ候へども漸(ようやく *だんだんに)忠義の大道を教え華(日本ふう)を以て夷(えびすふう)を変じ皇国人(くにびと)に直(なお)したく存じ候。人倫を明らかにし義気をふるひ旧害を除き新利を起し候折(おり)から、今迄(いままで)見慣(みなれ)ぬ事に驚き彼是(かれこれ)申すハ勿論(もちろん)の事ニ候(そうろう)。固(もと)より俗を驚ろかすことを好むにあらず不得已(やむをえず)していたす(致す)事に付き、愚人の騒立(さわぎだ)ち姦人の誹謗(ひぼう)ぐらゐハ更ニ構(かま)ハず候へ共(ども)、民ハ赤子のごときものなれハ相成(あいなる)べきたけ騒がさる様(よう)致したく存じ、今後新規に事を始め候時ハ其(その)趣意を書著(かきあらわ)し愚昧(ぐまい)の小民(こまへのもの)どもに示し疑念を生ぜざる様いたし候也。」(丹羽邦男著「府県の地方行政と諸藩の藩政改革」―郷土史研究講座6『明治前期郷土史研究法』P.63~64からの重引)と。
 3)山国である飛騨は、生産が低く、とてもまずしい生活を強いられた。だが、高山だけは飛騨とその周辺では有数の大きな町であった。「飛騨から他国へ販売される物資(主として生糸)のほとんどは、飛騨全土の村々から仲買や小商人によっていったん高山に集められ、そこから越中街道を通って富山へ、あるいは飛騨街道を通って上有知(こうずち)や岐阜へ移出されていった。同様に、おもに越中方面から移入されてくる米・塩・魚などの消費物資も、一度高山にもたらされ、ここからふたたび小商人の手によって飛騨の山深い村落にまで運ばれていった」(『岐阜県の歴史』P.216~217)と言われる。
4)江馬修(えまなかし)が書いた小説『山の民』は、この一揆をモデルにしている。