明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑮

西洋派の一揆弾圧と収奪
                              堀込 純一


Ⅱ 維新政府と対立する初期農民闘争

 (1)明治初期の府藩県三治体制

   (ⅰ)過渡期の政治機構

 維新政府は、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月3~4日)の後、直ちに諸道鎮撫軍(実態は勤王派諸藩の連合軍)を派遣する。それとともに、新たな政治機構の確立をすすめる。
 1868(慶応4)年1月17日、三職七科(さんしょくしちか)制がつくられる。三職とは総裁・議定・参与であり、七科とは神祇・内国・外国・会計・刑法・制度の各事務科と海陸軍務科のことである。だが、同年2月3日には、それは三職八局制(七科を七局とし、新たに総裁局が増設)に改正される。
 維新政府は、諸道鎮撫軍によって幕府直轄領と抵抗する佐幕派諸藩を占領・支配しつつ、軍政機関である鎮台(後の1871~1821年まで置かれた陸軍の最大編成単位とは異なる)や裁判所を次ぎ次ぎと設置していく。裁判所は、当時、司法と行政を担当する民政機関である。

   (ⅱ)府藩県三治体制へ

 1868(慶応4)年3月14日、明治天皇が京都御所の紫宸殿(ししんでん)で、公家・諸藩主以下を率いて天地神明に誓う形で、「五ヵ条の誓文」(新国家の基本方針)が発表された。
 この誓文に対しては、違反しないように宮・公家・藩主の誓約署名が求められ、総計544名が署名している。ここで諸藩主は天皇との間で新たな臣従関係を結んだこととなる。
 維新政府は、1868(慶応4)年閏4月21日、「五ヵ条の誓文」の趣旨を実現するために政体書を発表する。
 政体書のいう組織原理の核心は、「天下ノ権力総(すべ)テコレヲ太政官ニ帰ス、即チ政令二途(にと)ニ出ルノ患(かん)無カラシム、太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行政司法ノ三権トス、……」(『政体書』)というものである。
 ここで、中央官制はまた変更され、議政官(立法)と行政官からなる太政官制となる。議政官の下には、上局と下局(これが後に集議院となる)が設けられた。行政官の下には、神祇官・会計官・軍務官・外国官・民部官が設けられた。刑法官(司法)は、太政官の直属とされた。ここで、三権分立の形式を整えたわけである。
 地方行政組織は、府と藩と県から成るとされた。ここで藩が、新たな国家の地方行政単位として組み込まれ、府藩県三治制が明らかになった。政府の直轄地を府・県とし、その他の大名領を旧来のまま藩とするものである。
 廃藩置県(1871年7月14日)が断行される直前の府藩県の数は、府3・県40・藩261であった。全国およそ3000万石のうち、朝廷の直轄地である府・県の石高は800万石程度でしかなかった。たしかに、直轄地には東京・大阪・京都・長崎・神奈川など政治・経済上の要地があったとはいえ、800万石規模の財政ではとても「万国に対峙する」近代国家を建設するには困難であった。(「万国対峙」は明治維新の最大目標である)
 1868(慶応元)年正月から1869(明治2)年2月に至る約1年間は、会計官・由利公正(三岡八郎 *坂本龍馬が財政担当として強く推薦した人物)の名を以て、「由利財政」の時期と呼ばれている。
 「由利財政」は、巨額の紙幣発行と借入金によって運営され、とくに金札(太政官札)と呼ばれる紙幣発行が中心であった。由利は、「金札発行の目的を殖産興業資金をうるためであるとした。そのため彼はこれを取扱う機関として商法司―商法会所を新設し、商法会所には三井・小野・鴻池など京阪の豪商を集めて彼らを役員とし、あらかじめこれら商業資本から調達した御用金を引当(ひきあて)に同額の金札を貸付けた。それは御用金調達によって生じた経済界の正金枯渇・資金欠乏を金札によって補うとともに、封建的ギルドの物価統制権を政府の手に収め、商品売買を統制しようとした」(中村尚美著「『由利財政』の退場」―『日本歴史』204号)のである。
 しかし、金札は「殖産興業資金」の名の下に、実際には、新政府の財政補てんを目的としたものであった。中村氏によると、「控目(ひかえめ)にみても、発行総額四八〇〇万両の約三分の二に当る三〇〇〇万両が財政補てんにあてられた」(同前)という。この財政補てんは、言うまでもなく、その多くが戊辰戦争の経費である。

   (ⅲ)四藩「先頭」に版籍奉還

 1869(明治2)年1月20日、薩長土肥の4藩主が連署して、版籍奉還を建白する。
同年6月17日、政府は薩長土肥4藩主の版(領地)籍(人民)奉還を許し、それぞれを各藩知事に任命した。
 版籍奉還に引き続いて、1869(明治2)年7月8日、新たな職員令が制定され、中央・地方の官制の大改革がまた行なわれた。
 中央では、古代律令制の形式を復活させ、祭政一致と称して、神祇官と太政官の二官を設け、さらに祭式などをつかどる神祇官を太政官よりも上位とした(2官6省制)。
 太政官には、太政大臣・左右大臣・大納言・参議をおいて、天皇を補佐し、国政全般を当たらせた。その下の行政各部門は、民部・大蔵・宮内(くない)刑部(ぎょうぶ)・兵部(ひょうぶ)・外務の6省を設けた(長官を卿〔きょう〕、次官を大輔〔たいふ〕という)。さらに大学校(文教を管轄)、弾正台(だんじょうだい *検察兼警察の最高機関)も設けた。
 地方では、府・藩・県の三治一致を原則として、藩にも府県と同様に知事の下に、大参事・権大参事以下の役職を置き、家老・年寄などの旧藩の職を廃止し、人材登用が強調された。藩知事の職掌も府県知事と基本的に同じだが、藩知事は独自の藩兵をもてる点で重大な違いがあった。藩は、形式的には府県と同じ地方行政区画であるが、実際は未だ半独立的な要素を維持していたのである。

   (ⅳ)大隈・伊藤らによる強権的な収奪政治

 諸省の実務を維新官僚が掌握するようになると、今度は維新官僚間の対立が目立つようになる。その一つの中心は、大隈重信・伊藤博文・井上馨(かおる)で、これに五代友厚・山口尚芳・中井弘らも加わった。これらの勢力は、「西洋主義」とか「開明派」などと称された。
 長崎府判事や外国官判事を歴任した大隈重信は、由利公正(三岡八郎)の戊辰戦争中からの金札発行政策が、通貨混乱を引き起こし、さらには外交問題にまで発展し失脚することによって、代ってそのらつ腕ぶりが評価され、会計担当に登用された。大隈は、1868(明治元)年12月27日に外国官副知事に、翌年3月には会計官副知事に任命され、2つを兼務することとなった。
 「由利に代わった大隈の財政政策の特色は、金札の時価通用を禁じ、その増刷を停止して、額面を大きく下まわっていた金札の信用を高める点にあった。大隈は、金札の正金(しょうきん *紙幣に対して金貨などの正貨を指す)同様通用を命じるとともに、金札を全国流通させるために、明治二年六月六日に府藩県の石高一万石に二五〇〇両ずつの金札を強制的に下げ渡し、替わりに同額の正金を上納させている。諸外国から抗議を受けた贋悪(がんあく)貨幣については、外国人が所持した分の回収に着手していた。また二年二月には、外国官に貿易を管轄する通商司を設け、諸藩や府県の諸品買入れを免許制とし、大隈が会計官専任に転じた後の五月十六日には、それを会計官管轄下に移していた。」(松尾正人著『廃藩置県の研究』吉川弘文館 2001年 P.111)のである。
 大隈ら「開明派」官僚は、藩の境界を越えた近代化政策を積極的に導入し、「万国対峙」の国家建設に必要な内政改革を重視し、そのための裏付けとなる政府中央財政の確立と安定化を急務としていた。このため、前述の金融・通商政策の推進だけではなく、同時に府県からの租税収奪を強行した。この狙いから、会計担当者による民政への積極的関与となり、また府県への監督強化となった。
 これに対して、各地の農民が激しい一揆で応えた。明治初期の全国の一揆件数は、1868年88件、1869(明治2)年112件、1870年70件、1871年53件と多発しているが、1872年は減少する。しかし、1873(明治6)年と1877(明治10)年には、50件前後とふたたび増えている。
 地域別にみると、1868年は格段に東北と関東が多い。しかし、凶作が襲った1869年以降になると、地域的な片寄りはなくなってくる。幕末の物価高騰、戊辰内乱への強制動員などにあえぐ農民たちに追い打ちをかけたのが、1869(明治2)の凶作である。
 「政府は戊辰戦争後、戦争中に掲げた年貢半減令を撤回し、旧幕府や旗本領などで年貢を先納した分についても、元年十月二十九日のその免除を収納額の三分の一にとどめ、残額の再納入を命じていた。金札の乱発は、物価騰貴を引き起こし、下層民の生活を破綻させている。そして明治二年は大凶作で、天候不順であった東北・関東地方を中心に窮状がはなはだしく、東北では多数の餓死者を生じていた。太平洋側の陸奥・陸中・磐城の三国や岩代国の一部では、三〇パーセント以下の作柄であったという。とりわけ陸中国の胆沢県では、民部・大蔵省に宛て、凶作にともなう県内の作柄を、平均一五パーセントたらずであると報告して」(松尾正人著『廃藩置県の研究』P.115)いる。
 凶作は、米価の高騰を必然的にもたらす。「米価は、仙台の場合をみると、明治元年十月に金一分で米七升五合を購入できたのが、翌二年十月には金一分で米三升、三年三月には二升五合。まさに大暴騰である。それまで東北から供給されていた三〇万石余の東北産米が途絶したことは、東京深川の米価をも上昇させ、中・下層民を窮乏のどん底に追いこんだ。」(松尾正人著『廃藩置県』中公新書 1986年 P.63)のである。東京の米不足は、中国からの輸入米で何とか「しのいだ」ようである。
 凶作に加えて、戊辰戦争時からの贋悪(がんあく *偽物)貨幣が横行し、経済混乱を起こした。「贋悪貨幣は戊辰戦争中の会津藩領など各地で大量に密造されたが、悪貨は軍費の財源に苦しんだ鹿児島・高知両藩、あるいは金・銀座を接収した新政府も鋳造した。大量に使用された贋悪貨幣は、一部が新潟、箱館、横浜などの開港場に運び出されて外交問題に発展し、さらに藩県下で物価高騰や徴税の障害を引き起こし、その交換を求めた『贋金騒動』の発生に至った」(松尾正人著『廃藩置県の研究』P.115~116)のである。
 1869(明治2)年1月、英仏など外交団は、政府に贋貨・悪貨の取締りと、外国人が所有するそれらの「貨幣」と正貨(額面と同じ価値をもつ金貨あるいは銀貨)との引き替えを強力に要求する。何回かの交渉の結果、政府は同年7月17日、日本側で通用させた贋貨・悪貨で外国人所持の分は、すべて1対1で正貨と交換することを約束した。当時、外国人所持の二分金だけで総額82万8812両のうち、33万4925両(40・4%)もが正貨と引き替えられた。
 だが政府は、国内の日本人に対しては、同年10月から翌年3月までの間に、銀台にメッキした二分金に限って、その100両を太政官札30両に引き替えることにし、その期間終了後にはその通用を禁止することにした。これは一方的な貨幣価値の切下げであり、人民からの露骨な収奪である。これには庶民の怒りはすさまじく、信州の上田・松代・飯田、美濃の土岐(とき)、豊後の岡、摂津の高槻など各地で反対の大一揆が起こった。
 激しい農民一揆や打ちこわしに政府は動揺し、大隈ら「開明派」の強行策に対し、地方官や政府上層部からも批判が出てくる。

 (ⅴ)廃藩の請願と長州諸隊反乱

 戊辰戦争の軍費や1869(明治2)年の凶作などで、諸藩の財政も危機を深め、廃藩置県(1871年7月)以前に、自ら廃藩を申し出た藩は13藩にも上った。この内、県へ合併された藩が9藩、他の藩に合併された藩が4藩である。廃藩を願い出た藩の規模は、中藩の盛岡藩(13万石)と丸亀藩(5・15万石)を除くとすべて小藩(1~5万石未満)である。これら中小藩は、いずれも藩財政が逼迫し、藩政改革そのものが出来ないで、藩を維持できないというのが理由である。
 しかし、藩財政の危機は、いわゆる「西南雄藩」でも例外ではなかった。これに関わる大事件が、勃発した。1869年末から1870(明治3)年1月の、長州藩の諸隊解隊とこれに伴う反乱事件である。戊辰戦争を直接に戦った兵士たちの多くが、反乱者として処罰された。
 その後、反政府士族は弾圧されて挫折するか、テロリズムに走る。1869(明治2)年1月5日の横井小楠、同年9月4日、大村益次郎が襲われたのに続いて、長州出身の参議・広沢真臣が、1871(明治4)年1月9日、暗殺される。
 広沢暗殺直後、東京は戒厳状態となる。そして、反政府士族への弾圧は、これまでのタメライをふり捨てて、情け容赦もなく執行されるようになる。(つづく)