明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑭
 農民に広がる戦争反対の空気
                      堀込 純一


   (ⅲ)郡山・白河・会津での広範な闘い

 東北諸藩は、会津征討についてはほとんどが否定的で、むしろ寛大な処分が行われることを嘆願した。「会津藩に対する同情もあったであろう。だがなによりも出兵することなく、平和に解決されるにこしたことはない。諸藩がこの嘆願に異論などあるわけがなかった。 
 農民たちにも戦争反対の空気が広まっていた。四月末には、岩代国伊達郡の旧幕領農民が、政府軍出勢による兵糧米運送の猶予を願い出、この閏四月一一日には、同じ岩代国1)信夫郡の旧幕領農民による戦争反対の愁訴があった。」(佐々木克著『戊辰戦争』中公新書P.103)といわれる。しかし、東西両軍とも、そんな農民たちの声に耳を傾けなかった。

 郡山―権力空白下での闘い
 1868(慶応4)年7月末から8月上旬にかけて、安積郡郡山とその近傍で打ちこわしが始まった。
 郡山は、二本松藩領で、二本松―本宮―郡山―須加川―三春へ至る街道の途中の宿村である。6月22日に棚倉城が、7月13日に磐城平(たいら)城が落城し、7月29日には二本松城も落城している。三春藩・守山藩・相馬中村藩などは、戦わずして薩長など西軍に帰順している。さらにこの29日は、長岡・新潟も西軍(新政府軍)によって占領されている。8月になると、戦線は会津・米沢・庄内地方へ移る時期である。
 郡山地方の打ちこわしは、7月27日から8月7日にかけて展開されたが、その特徴は次の通りである。「(1)打こわしは主として町居住者で、借用証文や質入品の借用と称し質品の返還を行ない、同時に米、味噌、醤油等の日常生活品や酒を要求した。都市の打こわしに近似していること。(2)攻撃の対象は豪商で藩の蔵番、宿屋営業者であり質屋を営み、商業高利貸付者であること、(3)藩の軍事力や政治力が戦争最中で明らかでなく町方の取締はいずれも町の役人(前記豪商)にゆだねられ、町兵が唯一の秩序維持者で官軍でさえも無力であったこと。(4)町兵の性格は明らかでないが、打こわし人との連繋(れんけい)を予想できること。(5)打こわし人は町役人と官軍の張紙を無視することができる程(ほど)強力であったこと、特にこのことはさきにみた助郷拒否にみられる。(6)農村でも後出のように世直し一揆が発生していること等をあげることができる。/農村では大槻村の場合は、七月二十七日、仙台兵会津へ引きあげの際、村人は残らず人馬徴発され、その後八月三日には役宅に乱暴し、さらにこの日は村の者多数押込み、土蔵、家具、農具等を打こわし、御用書類を散乱し、質物も取出している。このことは会津地方で行なった打ちこわしと同一であり、徹底した破壊は信達地方の世直しと同一であった。」(『福島県史』4 近代1 P.200)といわれる。
 会津藩と西軍(新政府軍)との戊辰戦争の最中、郡山地方の打ちこわしは進行した。権力の空白期において、「町兵が唯一の秩序維持者」という中で、会津藩の攻撃にたいして、8月6日には「町兵六百人応戦」し、8月6~7日にも「会津兵砲撃」があり、町内が火災となっている(同前、P.200)。それでも打ちこわしは行なわれている。
 打ちこわしが鎮静化した後、西軍は「八月十九日には参謀と太政官会計局の名で『兵火を蒙(こうむ)った者はことしの年貢を破免し、戦地で奔走難渋したものは半税とする』制札を出し」、9月には兵火・水害などの被害を調査し、受難者を救済する姿勢を示した。 
 だが、12月に民政局ができると、「耕地帳(土地台帳)や割符の提出を命じ、さらに十二月五日付で収納日がきても年貢納入しないので皆済を命じ」(同前 P.197)、支配者の本性を明らかにしている。
 また、1869(明治2)年3月には、「郡村役人共(ども)家柄にて向後(こうご)公選入札を以て人望の者」を選ぶように命じ、地域の有力者に依存した旧来の支配方法を継承しているのである。
 なお、民政局は打ちこわしでの質物返還は戻すように命令し、「盗み取った者」は召捕るとしたが、結局、忙しいので宿役人に委任するとして、その結果は不明のようである。
 助郷については、旧制度は廃止し、安積郡は郡山、大槻、片平など四組で郡山宿に一まとめにして継ぎ送るという妥協に終わった。

 白河―安石代の要求と助郷賃の不正追及
 1868(明治元)年11月、白河・石川・岩瀬の3郡で、雑税廃止と安石代を要求して、惣百姓の訴願が行なわれている。「石代要求については、半減された〔年貢〕納入額を十両について四斗入五俵八分七厘余の相場に対して三俵安の白河、黒羽、棚倉三ヵ所の十月中相場平均にしてほしい、塙、浅川両陣屋支配地も白河領同様金納になっているので、当陣屋のみ金納にならないのでは小前の人気にさわるので安石代納を要求する」(同前
P.203)とされている。 
 同年12月には、白河藩白坂村外34カ村で、助郷賃銭の割り増し不正の摘発の一揆と名主豪農の打ちこわしが起こっている。「白坂村は奥州街道の入口で宿駅である。原因は(1)直接には宿駅詰(つめ)三四ヵ村に対し庄屋が戊辰戦争前からと戦争中の割増賃銭の配当を行なわなかったことと、(2)庄屋層の不正、高利貸付に対する攻撃の二つが挙げられる。打こわしは激烈を極めた。一揆は官軍農兵と戦い、さらに一豪農を農民が支持したことに特徴をもっている。」(同前 P.203)といわれる。

 会津ー2カ月にわたる「ヤーヤー一揆」
 会津若松の鶴ケ城は、1868(明治元)年9月22日に落城する。会津藩が降伏したあと、若松民政局が同年10月1日に設置される。その直後の3日に、大沼郡大谷組五畳敷(ごじょうじき)村より起こった世直し一揆は、約2か月間にわたって旧会津藩領に燃え広がった。
 その背景には、幕末以来の会津藩領農民の過酷な負担がある。①蝦夷地の幕領化いらいの警備の負担、②藩主松平容保の京都守護職への就任に伴う経費負担や人夫動員、③戊辰戦争に入り、さらに負担はより重くなる。近村には飯米・夜具・酒・塩などの徴発令が出され、人馬徴発の割当てがなされた。2)
 それだけでなかった。1868(慶応4)年3月、戊辰戦争を迎えるにあたり、会津藩は軍制改革を行なう。藩は藩士を年齢別階層別に分け、合計31番隊、約2800人を組織し、これに砲兵隊・築城隊・地方御家人隊などを加えると約3600人となった。藩士のみならず農町民も兵に動員された。農町兵は、各郡20歳から40歳までの身体壮健なもの2700人を募集し、それを会津4郡各組に分け、各組村の郷頭・肝煎3)を指揮者とし、その上に代官・支配役を置いた。このほかに猟師隊・修験隊・力士隊なども組織した。
 藩権力の命令で、農民町民は兵として強制動員されているのである。
 明治に改元されて初の世直し一揆となった会津の百姓一揆は、郷頭(ごうがしら)・肝煎(きもいり)などの家宅を打ちこわす際に、「ヤーヤー」と掛け声をかけたことから「ヤーヤー一揆」と称された。
 一揆は、10月3日、大沼郡滝谷組の村々から発生し、同組五畳敷村へ2000人が結集し、大谷組の各村から冑(かぶと)組の村々に広がる。15日には、北会津郡荒井村でも発生し、16~17日には、水田地の新鶴村から高田、旭へ、さらに滝谷より宮下へ延びている。河沼郡では、10月15日から高久(たかく)組・笈川(おいかわ)組の村々、会津郡の新井村など会津盆地の中心部の村々、さらに耶麻(やま)郡の喜多方・山三郷(やまさんごう)・猪苗代地方にまで及んだ。10月28日には、南会津郡下郷の松川・楢原(ならはら)・弥五島(やごしま)・小出(こいで)の各組、11月2日~11日には、南会津郡伊南(いな)地方にも広がっている。そして、当時、会津藩領下にあった南蒲原郡や東蒲原郡(現・新潟県)にまで、世直し一揆は波及している。
 農民たちは、この一揆を自ら「世直し」と呼び、村ごとに、あるいは組ごとに要求をまとめている。地域によって違いはあるが、共通する主な要求事項は次のようであった。
一、 肝煎または郷頭の改選
二、 検地帳・年貢帳などの取上げ・焼払い
三、 村入用や諸割勘定〔*村の会計簿〕の不正追求
四、 戦争と不作を理由とする年貢の全免または安石代金納
               (『福島県の百年』 P.18)
 大規模な「ヤーヤー一揆」が激しく展開された事態に、新政府の役人は一部で武力鎮圧を行なったが、多くは「拱手傍観」の体であった。「一揆により多くの村で肝煎が解職され、持高の比較的少ない農民が新肝煎に選出された。しかし、一揆終了後、旧肝煎は復職運動をおこし、新政府がそれを支持したため、一、二年のうちに旧肝煎の多くは復職した。なかには新旧肝煎の対立が長くつづいた村もあった。」(同前 P.18)といわれる。

 権力の警告をはねのけ旧藩領に一揆拡大
 新政府は、10月1日、若松に民政局を設けたが、やがてそれが会津全体を管轄することとなった。10月後半のこと、新政府軍は二本松方面へ出動となったので、兵員・武器などの移送のため軍夫が必要となる。若松民政局は、旧幕府領・旧会津藩領の区別なく、軍夫徴用の触れを出す。
 だが、この頃は各村々で「世直し一揆」が吹き荒れていた時期である。当然、民政局の触れは無視される。民政局は、一揆を「心得違い」のことと警告しつつ、軍夫差し出しの催促を行なう。しかし、これも効き目が無かった。
 次は、在陣参謀の名で、「徒党を結び乱妨(らんぼう)候条、兼(かね)て御制禁の事ニも候得(そうらへ)は、速ニ厳科に処せられるべき筈(はず)ニ候処(そうろうところ)、王政御一新の折柄(おりがら)ニ付き、先ツ今度ハ御用捨(ごようしゃ)なられ候、以来聊(いささか)たりとも徒党がましき義(儀)致し候もの之(これ)有り候ニおゐてハ兵隊を以て急度(きっと)取締いたすべく候、猶(なお)此上(このうえ)ハ益々(ますます)鎮定願い筋これ在り候ハハ、早々民政局へ願ふべきもの也(なり) 辰十月 在陣 参謀」(小林清治編『福島の研究』3からの重引 P.166)と厳しい達しを布令する。
 これにより、一揆はやり方を考え直さざるを得なくなる。それでも一揆は絶えることもなく、10月22日、南会津地方の下郷楢原組の大内(おうち)村で、「村方騒動」が起こる。同月28日には、南会津郡下郷の松川・楢原(ならはら)・弥五島(やごしま)・小出(こいで)の各組、11月2日~11日には、南会津郡伊南(いな)地方にも広がっている。そして、かつて会津藩領下にあった南蒲原郡や東蒲原郡(ともに現・新潟県)にまで、世直し一揆は波及している。
 一揆は新政府の弾圧を考慮し、これまでとは異なった行動様式をとる。それは、「第一に、……組毎(くみごと)に行動する計画的な組織力である。第二は、農民の要求を『廉書(かどがき)』(*個条書きのこと)にして明確に提示している」(同前 P.167~168)のであった。
 組みごとにまとめられた要求は、すでに挙げた一~四の外には、次のようなものが主なものである。
五、 質物の返還、貸金の長年賦償還
六、 田畑質地の返還または当年小作米の全免
七、 人参(にんじん)・生糸などの商品作物の自由販売
八、 伝馬人足・御用米への賃銭・代金支払いとその廃止
  (『福島県の要求』P.18)
 しかし、旧村役人たちの巻き返しも激しく、12月に入ると一揆主唱者などを調べ上げ、民政局の介入を願い出て、新村役人たちを切り崩しながら自らの復帰を謀っている。
 このような攻防を経て、「一一月中には小出組九ヶ村で、自主的に仮名主が民主的に改選されたが、年貢については無税や三ヵ年半税要求が退けられ、当年だけの半税減税が達しられ、伝馬・献納金等は銘々(めいめい)取調べて申立てること、漆(うるし)蝋(ろう)については時価相場を以て買上げ六割の減免を約したが、自由販売は一切禁じられた。」(『福島の研究』3 P.178)といわれる。
 新政府の態度も、「御一新」と言いながら、旧幕藩時代と全く変わらない反人民的なものであった。(つづく)
             
注1)陸奥(むつ)国は、1868(明治元)年12月7日に、磐城(いわき)、岩代(いわしろ)、陸前、陸中、陸奥に分国された。
2)人夫や食糧の徴発は、会津軍だけでなく、薩長軍など西軍も行なっている。「他国人である薩長軍は、その徴発にあたって返済を約束する手形を発行せざるをえず、さすがに新政府はその後その返済にあたっている。しかし、遠征してきた薩長軍の一部が会津の民衆に対し掠奪(りゃくだつ)・暴行などの非人道的行為をおこなったことも事実であった。薩長軍の一部の者が掠奪品を露店で売ったり、分捕り品と称して掠奪した貴重品を白河まできていた商人に売りはらうため人馬を徴発したり、あるいは婦女子に対し暴行を働いたりしたことが、会津の人びとを憤慨させ、そのことが維新後まで会津藩士だけでなく会津の民衆にも反薩長の意識を強くいだかせる原因となったといわれている(会津若松市出版会『会津の歴史』)。さらに、戦場となった村々では田畑作物があらされ、あるいは人家が焼かれた。……」(『福島県の百年』山川出版社 1992年 P.24~25)のである。
 3)組とは、1万石を基準とした会津藩の行政単位である。組の下にいくつかの村がある。郷頭は組の頭で、他地域の大庄屋に当たる。肝煎は他地域の名主や庄屋に当たる。