明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑫
 東西両軍いずれも支持しない民衆
                        堀込 純一


Ⅱ幕末・維新期の農民闘争の独自性

  (5) 薩長の横暴に抵抗する奥羽諸藩


1868(慶応4)年1月7日、新政府は徳川慶喜追討令を下す。それに伴い、同月15日、奥羽諸藩に対して征討軍を援助すべきと命令する。
 同月17日には、仙台藩主伊達慶邦(よしくに)に、“仙台藩の願い出通り会津の容保(かたもり)征討を仰せ付ける”とした。だが、仙台藩は自ら会津征討を願い出たことはないので、強烈に抗議する。新政府は、重ねて1月24日、仙台藩に会津征討を命令する。とともに、米沢・秋田・盛岡藩に仙台藩と共同戦線をとるように命令した。
 新政府は、2月8日、仙台の伊達慶邦を奥州の触頭(ふれがしら)に、秋田の佐竹義堯(よしたか)を羽州の触頭に任命する。
 これを受けて、秋田藩は奥羽諸藩に使節を派遣し、積極的に勤王を勧め、新政府に加担するように説得した。他方、仙台藩はこれとは全く異なる。2月11日、“会津藩の謝罪を受け入れ、薩長の行き過ぎを咎める”べきとする建白書を新政府に提出しようと、使者を京都に送った。建白書は、鳥羽・伏見での行動をもって、慶喜を「朝敵」とすることは公明正大ではないこと、そんなことで天下の兵を動かすことは万民を苦しめ外国の介入を招く恐れがある―として征討の再考を促すものであった。
 しかし、これは在京の家老三好監物によって、“藩にとって不利になる”と判断され、握りつぶされる。後に三好の専断を知った伊達慶邦はひどく立腹し、4月6日、静岡に滞陣していた東征大総督・有栖川宮熾仁親王に、この建白書を提出した。しかし、これは直ちに却下された。
 これより先、奥羽鎮撫府の陣容は、2月9日に決められたが、その後入れ替えがあり、最終的な決定は3月1日であった。総督・九条道孝、副総督・沢為量(のぶよし)、参謀は醍醐忠敬・大山格之助(薩州 *綱良)・世良修三(長州)となった。
 奥羽鎮撫使一行は、3月2日、京都を出発し、同月19日、松島湾の東名浜(とうなはま *宮城県桃生郡野蒜〔のびる〕)に上陸する。4隻の船に分乗した鎮撫軍の兵力は、薩摩藩103人、長州藩106人、筑前藩158人、天童藩(山形)100人、仙台藩100人である。これら藩兵567人に、九条総督と沢副総督の手兵100数十人を加えた規模であった。
 3月23日、一行は仙台に入り、藩校養賢堂を本陣とした。以降、世良ら鎮撫使は、仙台藩に対し、会津攻撃を何回も催促する。しかし、仙台藩はなかなか腰をあげようとしなかった。実は、仙台藩は米沢藩とともに、しきりに会津藩との交渉(謝罪と和解のため調停工作)を行なっていたからである。
 だが、奥羽鎮撫府は、3月30日から4月10日にかけて、仙台藩と羽州諸藩に庄内藩征討を命ずる。
 仙台・米沢藩と会津藩との交渉は、「謝罪条件」をめぐって難行した。新政府側は、容保の「死謝」を譲らず、会津藩側は「武備恭順」の立場から理不尽な処罰に抵抗したからである。4月10日には、征討命令を受けた庄内藩と会津藩との間で、軍事同盟が密約された。
 仙台・米沢藩が考えた「謝罪条件」は、①若松城開城で罪を謝し、②削封で罰を奉じ、③事を誤る重臣の首級3つをもって赦(ゆる)しを請う―ものであった。
 長引く交渉は、“藩主容保が城外に引き取り謹慎し、削封を受け入れる”ことをもって妥協が成立し、閏4月1日、米沢・仙台・会津の3藩代表の会議で確認された。
 これにより、「会津藩降伏謝罪の嘆願申出(もうしで)あるに付き、評議致したく……」との招請状が、東北諸藩に廻状された。

      抵抗は奥羽越列藩同盟に発展
 5月3日、会津謝罪の嘆願の建白書と新たな盟約書が成り、ここにおいて、「奥羽列藩同盟」が25藩で正式に成立した。5月4日には、これまで「中立」の態度を示してきた長岡藩が加盟し、それに続き村上・黒川・三日市・村松諸藩も加盟した。奥羽列藩同盟は奥羽越列藩同盟に発展した。新発田藩も5月15日に加盟した。
 奥羽鎮撫府の3卿(九条・沢・醍醐)は、傲慢無礼な世良が処刑され(閏4月20日)、奥羽列藩同盟が成立した以降、まさに漂流状態となる。新庄にいた沢は、秋田・津軽で歓迎されず大舘に逗留する。九条・醍醐は、世良無きあと、仙台藩に約1カ月間軟禁状態となる。総督府としては、完全に機能マヒとなる。
 5月1日、佐賀藩の前山精一郎は、新政府軍の参謀として、増援の佐賀・小倉の兵900名を率いて東名浜に上陸し、5月10日、仙台に入る。前山は近代兵器で装備した兵力を背景に仙台藩と談判し、九条らの各藩巡行という名目で、仙台を脱出する。
 7月1日、奥羽鎮撫総督の九条道孝と沢副総督が秋田でようやく合流すると、久保田藩(秋田藩の別称)は、早速、同月4日に奥羽越列藩同盟を脱退する。総督軍と秋田藩が連合して、庄内藩征討を目指して、7月12日、新庄藩に迫ると、同藩も同盟を離脱する。だが、庄内藩(鶴岡藩)はその軍事力を発揮して、征討軍を圧倒し、7月14日、新庄を落城させ、7月には、仙台藩とともに秋田藩内に攻め込み、同月16日には、ついにその城下まで進出した。
 しかし、全般的状況は同盟軍側が次第に不利となる。7月29日に、長岡城は再び落城し、同日、新潟も陥落する。2カ月以上も西軍の進攻を防いでいた東軍(同盟軍)は、新潟・長岡の戦略的要地を占領され、8月4日に村松城が、同月11日に村上城が降伏する。さらに、8月23日、会津藩が籠城戦に追い込まれると、仙台藩とともに同盟の主柱をなす米沢藩は、同月28日に、西軍(新政府軍)に降伏することに藩論を転換し、9月11日、同盟離脱の旗幟を闡明(せんめい)にする。9月15日には、仙台藩も降伏し、同盟は完全に総崩れになる。この前後に、上山藩・山形藩・天童藩なども降伏している。9月22日、会津若松城の落城で、ついに庄内藩は四面楚歌となり、9月23日に同藩も開城降伏する。奥羽越の戊辰戦争(詳しくは、拙稿『明治維新の再検討―薩長史観で歪められ奥羽越戊辰戦争』を参照)は、ここに終結するのである。

  (6)戊辰戦争中ならびに直後の奥羽越の農民闘争

 しかし、「この戦争で注目されるのは、鎮撫軍(*西軍のこと)に対しても同盟軍(*東軍のこと)に対してもまったくといってよいほど民衆の支持がなかったことである。民衆はみずからに戦火のおよぶことを心配しながらも、農工商とも日常の仕事にはげんでいた。」(岩本由輝著『山形県の百年』山川出版社 1985年 P.41)といわれる。
 たしかに、農民たちの一部は軍夫に動員され、豪農など農兵に組織され戦争に引き込まれた者もいるが、圧倒的な人民は自分たちの戦争などとは、決して思っていないのである。
 戊辰戦争中でも、一部では農民闘争は継続され、戦争が新政府軍(西軍)側が勝利した後には、全国各地でさらに激しくなる。
 それは、従来からの収奪と戊辰戦争での負担に、さらに凶作も重なり、農民たちが懸命に生活防衛に立ち向かわざるを得なかったからである。しかし、後述するように、この闘いの中で、村役人の不正や中間収奪を摘発し、その罷免と公選制の要求が掲げられることも見落とすことができない重要な事柄である。

     (ⅰ)越後の諸藩県での闘い

 越後では、長岡の戦いを筆頭に戊辰戦争が激しく行なわれたが、特筆すべきことには、この戦の下でも農民たちの闘争は果敢に展開されたのである。
 西軍の長岡攻めが始まった1868(慶応4)年5月の上旬から6月にかけて、信越国境の寺石村(現・中魚沼郡津南町)―十日町―小千谷に至る道筋の村々は、信州より小千谷をめざす西軍(尾張藩や信州諸藩)のために、人馬の継立て(助郷役)に追われた。
 これに怒った魚沼郡の農民たちは、庄屋や豪農への打ちこわしを次ぎ次ぎと行なった。「五月二十二日には十日町村庄屋荘右衛門・年寄八右衛門宅が、二十六日に中(なか)新田(現、十日町市)庄屋新右衛門宅、二十八日には中条村(*現・十日町市)庄屋栄蔵・寛蔵宅が打ちこわされ、村々の小前(*零細農)百姓は、打ちこわすとおどしながら、村役人・豪農層に夫食米(ふじきまい *食用米)や酒などを差しだすよう要求した。六月初旬、騒ぎは近隣の伊達(だて)村・馬場(ばんば)村・六箇(ろっか)村(*以上現・十日町市)などへひろがった。妻有(つまり)郷の庄屋たちは、新政府の直轄地を治めるため設けられたばかりの小千谷民政局に、厳重な取り締りをもとめ、また新政府軍(松代藩兵や尾張藩兵)にたのんで騒ぎを鎮めてもらった。」(『新潟県の百年』山川出版社 1990年 P.22~23)といわれる。
 しかし、農民闘争の鎮静化は必ずしも成功したとは言えないようである。6月初旬、新潟裁判所(今日とは異なり、行政機関でもある。旧幕府領に1868年4月19日に設置。同月24日には佐渡裁判所も設置)は年貢半減令を出すとともに、一揆・徒党禁止令を管内に布達したが、魚沼郡をおおう闘争を鎮めることができなかった。
 他方、「五月十九日に長岡が落城すると、領内の巻・曽根組(*現・西蒲原郡巻町・西川町)にはげしい打ちこわしがおこった。二十日には吉田村および太田村(*現・西蒲原郡吉田町)、二十一日に佐渡山村(*現・吉田町)、二十五日には漆山(うるしやま)村(*現・巻町)で、蔵米(*藩の倉庫に貯蔵した米)を管理している割元(大庄屋)などが打ちこわされた。二十五日、中権寺(ちゅうごんじ)村(*現・新潟市)に集った二五〇〇人あまりの百姓は、長岡藩の夫人足(ぶにんそく)を拒み、蔵米の下渡(さげわた)しをもとめて、中野小屋村(*現・新潟市)・善光寺村(*現・西蒲原郡西川町)・西沙上(にしよりあげ)村(*現・西川町)の割元をおそい、代官所のある曽根へむかった。二十六日から二十九日にかけて、両組の打ちこわし勢は七〇〇〇人ほどにふくらみ、『庄屋宅始メ有徳(うとく *金持ち)之(の)者(もの)征伐』を掲げて、吉田村の豪商今井孫兵衛や加賀屋佐右衛門宅をはじめ、村々の割元らを打ちこわした。長岡藩では、加茂に駐屯中の銃卒隊を差しむけ、六月下旬まで鎮圧にあたったが、夫人足の割当ては中止あるいは軽減され、戦争をつづけるのにいろいろ支障がでた。」(同前、P.23)と指摘されている。
 1868年の8月中旬ぐらいには、越後全域が新政府軍(西軍)によって制圧される。しかし、農民たちは、戊辰戦争(越後の)の終結も定かでない8月末に、闘争に決起する。 
 栃尾組に隣接する村松藩領の長沢・鹿峠(かとうげ)両組38か村は、以下に掲げるように旧藩時代からの租税や種々の負担の廃止と、村役人の一斉退役と「投票ヲ以テ公選スベシ」として決起したのである。
第一 大庄屋役交代スベシ
第二 脇立肝煎(きもいり)、組頭ヲ退役スベシ
第三 問屋役ヲ交代スベシ
第四 村役人ノ員数ハ人民ノ協議ヲ以テ定メ且(か)ツ其(その)人ハ投票ヲ以テ公選ス
ベシ
第五 御貸米ヲ廃止スベシ
第六 五十嵐川小物成米ヲ廃スベシ
第七 御用木ヲ廃スベシ
第八 馬ノ子徴収ヲ廃スベシ
第九 五十嵐川御仕法金ヲ廃スベシ
第十 騒動ノ主謀者ヲ討ツベカラズ (『下田村史』1971年 P.191)
 領主村松藩の敗退という事態を目の当たりにした民衆が、新政府の三条民政局に期待をかけ、人足賃銭の支払いなどを同局の目安箱に投書したものの、要求が一向に取り上げられそうになかったことから蜂起したものである。
 もちろん、この闘争も、年貢・諸役の軽減と、既存の村役人の退役をかかげてはいるが、それだけでなく、「村役人ノ員数」を自分たちで協議して決定し、新たな役人を「投票ヲ以テ公選」すべきだ(第四)―としていることである。まさに、文字通りの「自治」である。 
 『新潟県の百年』によると、「村松藩は、これらの要求を受けいれざるをえなかった。」(P.25)といわれる。(新たな村役人が選ばれたが、1869〔明治2〕年頃から、専制政治の下で旧役が復帰するようになる)
 会津若松城が落城して一カ月ほどした10月下旬、会津に世直し騒動が起こる。会津藩の預地は越後にも多く存在し、その世直し一揆は越後にも波及する。「二十四日から二十五日にかけて、『世直し』は、鹿瀬(かのせ)組(*現・東蒲原郡鹿瀬町)の新渡(にいわたり)・実川(さねがわ)など九ヵ村、さらに上条組(*現・東蒲原郡上川〔かみかわ〕村)から津川へひろがり、検地帳や借金証文などを焼きすて、肝煎(きもいり)の邸宅を焼打ちした。」(同前、P.25~26)のである。徳政要求と土地の均分を要求した闘いである。
(つづく)