明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑪
 土地取戻しに発展する野州一揆
                      堀込 純一


(4)権力移行期に続発・激化する関東の世直し一揆

  (ⅶ)東征軍・下野諸藩と大鳥軍との激突

 1868(慶応4)年3月13日、西郷と海舟の会談により、江戸無血開城が決定すると、これに納得しない旧幕府軍兵士たちは以降いよいよ思い思いの行動方針をとるようになる。この内で一大勢力になったのが、市川(現・千葉県)の国府台(こうのだい)に集結した2千数百人の旧幕兵である。4月12日、市川の大林寺で開かれた軍議で、諸混成軍を統括することとなった大鳥圭介(旧幕府歩兵奉行)は、全軍(参謀・土方歳三)を3軍に分けて、行軍の目的地を日光に定めた。大鳥らは日光に立てこもり、会津藩と連携・協力して新政府軍と戦う作戦であった。
 旧幕府軍と会津藩が南北から挟撃する政治状況の下で、下野(現・栃木県)の諸藩は、新政府に恭順するか、それとも抗戦するかの最終的態度の決定を迫られた。「黒羽(くろばね)・大田原・足利藩などは自藩第一主義が作用し、はやい時期から新政府側にたったが、勤王と佐幕派の対立にゆれる宇都宮藩が勤王で統一したのは三月下旬、藩論をまとめた家老県(あがた)信緝(のぶつぐ)はただちに板橋宿(東京都板橋区)の東山道総督府に領内の不穏な情勢を訴え援軍を願い出た。四月一日、総督府は兵二〇〇人を差しむけ宇都宮城は新政府軍の支配下にはいった。しかしこのことは政治的な安定を意味せず、これが契機となり下野諸藩にとって危機的な政治状況がうみだされていった。」(県史9『栃木県の歴史』山川出版社 1998年 P.272)のである。
 政治危機の一つは、3月末から4月上旬にかけて爆発した野州(現・栃木県)世直し一揆であり、もう一つは、4月下旬まで続いた旧幕府兵からなる大鳥軍と東征軍との衝突である。前者については、別個に項目をたてて検討するので、ここでは後者について簡単にみてみる。
 4月12日に市川を発った大鳥軍は、二手に分かれて北上し日光を目指した。先鋒軍(隊長は会津藩士・秋月登之介)は水海道(みつかいどう)を、残りの中軍(全軍総督の大鳥圭介が直接に指揮)と後軍(旧幕臣の米田桂次郎が指揮)は日光街道を北上するルートをとった。4月16日、先鋒軍は宗道村に着陣し、ほど近い下妻藩(1万石の譜代藩)に協力要請を行なった。小藩の下妻藩は混乱するが、結局、物品の提供の代わりに藩士・歩卒約30名を派遣することとなった。先鋒軍の参謀をも兼務していた土方歳三の部隊は、下妻から先発して4月17日早朝に下館に至り、同藩にも下妻藩同様の協力を要請した。だが、下館藩主・石川若狭守総管(ふさかね)は、若年寄や陸軍奉行を歴任し、幕閣の一員も務める経歴をもっていた。土方は、石川を大鳥と並ぶ大将となること望んでいたといわれる。だが、すでに新政府軍に金銭を供出していた下館藩は土方の要求を鄭重に断わり、代わりに金500両・米100俵、さらに味噌・沢庵(たくわん)、薪(たきぎ)、炭などを供出した。
 中軍が市川を出発したのは、先鋒軍に遅れたが同日(4月12日)であり、後軍は翌13日に出発した。両軍は15日に、諸川で合流する。この頃、諸川北東の結城には、祖式金八郎が指揮する東征軍が駐留していた。この結城と諸川の間の武井で、4月16日、両軍が衝突する。武井村の戦闘は、大鳥軍にとっては初の本格的な戦いであり、大鳥軍の勝利となった。
 大鳥軍とは、別ルートで北上していた旧幕府軍の集団があった。それは、旧幕臣の子弟で組織され西洋式調練を受けた草風隊約200名、剣術にすぐれた幕臣らによって組織された貫義隊約150名、郡上藩の凌霜隊約50名である(郡上藩は旧幕府軍・新政府軍のいずれが勝利しても藩が存続できるように両軍に藩兵を派遣した)。彼らは、さまざまな経歴を持つ兵士の集団である大鳥軍の伝習隊に対する対抗心からか、独自の行動をとり、4月15日には、古河にほど近い所までに進出していた。危機感を懐く古河藩は、すでに宇都宮に入っていた東征軍の軍監・香川敬三に援軍要請を行なう。香川は早速、土佐藩の平川和太郎が率いる部隊(笠間藩・彦根藩・壬生藩など)を派遣する。両軍は、4月16日、小山近辺で戦闘に入る。戦闘員数は互角だったが、一時間ほどの戦いに勝利したのは、草風隊などの旧幕軍であった。
 小山戦争は、翌日の4月17日にも行なわれる。前日の武井の戦いに勝利した大鳥軍は、17日の早朝、諸川を目指した。他方、東征軍も前日の小山の敗戦と、この日の大鳥軍(中軍・後軍)を警戒し、軍監香川は諸藩の兵とともに宇都宮城を出て、小山北方に宿陣していた平川和太郎の率いる諸隊と合流した。両軍による小山の戦いは、午前10時前から始まり、午後2時には終わった。この戦闘でも旧幕府軍(大鳥軍)は勝利し、小山を制圧した。
 しかし、小山の戦いは、午後5時ころから再開した。前日の16日に、武井の戦いで敗れた東征軍の祖式金八郎の部隊が、同じく16日に小山で草風隊などに敗れた笠間藩兵などとともに、小山に進軍し大鳥軍と戦ったのである。戦闘は短時間で終わった。総勢7藩・1500の編制であった東征軍は、それぞれバラバラになって敗走した。

    一時は宇都宮城を奪う旧幕府軍
 4月18日早朝、先鋒軍の秋月登之介と土方歳三は、全軍を整え、下館を出発し、夕刻には宿陣地の蓼沼に到着する。秋月は、早速、宇都宮城下を探索させる。16~17日の戦いで連敗した東征軍の香川は、18日、近隣の諸藩に応援要請を行なった。香川らは、大鳥軍に気をとられ、秋月軍への対処に遅れをとった。秋月の先鋒軍は、3隊に分かれ、19日の夜明けとともに進軍を開始した。秋月・土方らの攻撃はすさまじく、午後2時過ぎころには宇都宮城へ攻め入っている。そして、午後4時頃には本丸に「焼弾」を打ち込み、ついに宇都宮城を落城させている。
 しかし、旧幕府軍の宇都宮城占拠は、短期間であった。東山道軍総督府は、続々と救援隊を宇都宮方面に向かわせ、4月23日の戦いで宇都宮城を奪回している。「政府軍(*東征軍)の宇都宮攻撃は人海戦術、波状攻撃を展開した。第一救援隊が安塚の戦1)を有利に展開したあと一たん停滞すると、第三救援隊が安塚の戦闘を聞いて無謀ともいえる進撃をし、鶴田から六道に攻め入った。ここで持ちこたえている所へ第二救援隊が来て南方から攻撃し、城内に攻め入った。旧幕府軍は二荒山と八幡山で抵抗を試みる所へ壬生から河田の軍が到着し、ついに旧幕府軍は宇都宮から日光へと敗走した。」(『栃木県史』通史編6 P.26~27)のである。
 大鳥らの主目的は、日光に全軍を結集し、そこを抵抗拠点とすることであった。大鳥軍は4月24日早朝に、日光近くの今市の本陣に入る。この時点で、旧幕府軍は、3000余であり、けが人は300人ほど(この中に土方歳三もいた)であった、といわれる。大鳥らは、24日夕方には、日光へ到着している。だが、大鳥軍はしだいに糧食と弾薬が不足ぎみとなり、結局、会津に補給を頼ることとなる。閏4月5日、大鳥軍全軍は、会津田島に移動する。

注1)壬生城の争奪をめぐって、姿川をはさんで4月22日に戦われた。東征軍は苦戦するが、壬生城を守る因州の河田佐久馬の軍の活躍もあり、大鳥軍を撃退した。

  (ⅷ)宇都宮や真岡で野州世直し一揆

 下野諸藩にとってのもう一つの政治危機は、1868(慶応4)年3月末から4月上旬にかけて、下野国(現・栃木県)の中心部である宇都宮や芳賀郡真岡(もおか)などで、世直し一揆が吹き荒れたことである。

    助郷軽減・物価下げから質地証文破棄へ
 『図説 日本の百姓一揆』(民衆社)を参考に野州世直し一揆のあらましをまとめると、以下のようである。一揆は、3月29日、日光御成道(おなりみち)沿いの安塚村(壬生町)あるいは石橋宿(石橋町)で発生したのが発端といわれる。助郷(すけごう)賃銭の不正割り渡しに怒った農民が、宿問屋を襲撃したのが始まりである。間もない4月1日夜、宇都宮周辺の下栗村の天王山に400~500人の農民が集まり、近隣の村々の参加を得て隊列を増大させ、上桑島と石井村の商人に掛け合い、酒食を供応させた。一揆勢は、助郷軽減と物価引下げを目標として闘うとともに、打ちこわしが始まる。すると、要求内容も有力商人・豪農に対する金穀の放出、質物の無償返還、質地証文の破棄へと拡大する。
 一揆勢は東刑部(ひがしおさかべ)村、東汗(ひがしふざかし)村へ南下し、そこから西方に進路をとり、西汗村、石田村、長島村を経て、さらにそこから北上して、上御田(かみみた)村、上屋板村へ着く。ここで藩役人の説得を振り切って南進し、日光道中の雀宮宿の本陣を打ちこわし、さらに宇都宮城下を目指して北上する。総勢5000人に膨れ上がった一揆勢に対し、武装した宇都宮藩兵が滝の原で待ち構えた。「藩は城下への進入を拒否する代わりに一揆勢の要求を聞くという条件を出し、簗瀬(やなぜ)村郷村取締役宅で交渉が行われ、糠(ぬか)・干鰯(ほしか)・酒・醤油などの2割値下げが決ま」(『図説 日本の百姓一揆』P.65)ったのであった。
だが、世直し一揆は継続する。宇都宮藩の西部に位置する村々が決起し、城の北側にある八幡山に約3万人が結集する。一揆勢は城下になだれ込もうとしたが、藩兵の銃火で阻止され、主流部分は田原村から白沢宿へと北進を余儀なくされる。白沢宿での打ちこわしのあと、一揆勢は2手に分かれ、一手は鬼怒川を越え氏家宿など塩谷郡の村々へ向かい、もう一手(主流部分)は日光道中の徳次郎宿から鹿沼宿へ向かった。再び隊列を強化した一揆勢は鹿沼宿に入ろうとしたが、「入口の御成橋(おなりばし)で待機していた宇都宮藩兵の容赦ない発砲にあい、例幣使街道を北上して日光領に入りながら勢力を弱めて」(同前、P.66)いったと言われる。
 芳賀郡における世直し一揆は、4月4日から8日にかけて真岡(もおか)を起点に広がった。真岡周辺の一揆での農民の要求も、物価引下げや生活救済のための金穀拠出が中心であるが、闘争が深化した所では、質地証文を破棄させ土地を取り戻す闘いに進んでいる。 
 長谷川伸三氏によると、「真岡近辺のように、木綿生産を中心とする商品生産の展開と開港以後の経済的影響が大きかったと思われる地域のみでなく、『前地』とよばれる隷属農民を抱えて村落に君臨する有力地主の存在など、農村構造が後進的と見られる芳賀・高根沢方面にも一揆が波及し、かなりの商人・豪農が金百両・米百俵を上まわる拠出を一揆勢に約束している点から、この地域でも地主・豪農層と中下層農民との対立の激化が進んでいた」(同著「幕末・維新期北関東の農民一揆」)と言われる。

    黒羽藩と東征軍の厳しい一揆弾圧
 真岡・芳賀地方での一揆に対して、周辺の烏山・喜連川(きつれがわ)・黒羽(くろばね)・太田原などの諸藩は、自藩領への波及を恐れて鎮圧に出動している。中でも、黒羽藩と東征軍の弾圧は際立っている。「真岡・芳賀地方の世直し一揆は、四月九日に真岡に進駐した官軍(東征軍)と、八日に黒羽を出発して益子周辺の分領(下之庄)警備のために南下してきた黒羽藩らによって鎮圧されている。」(長谷川伸三著『近世後期の社会と民衆』雄山閣 1999年 P.304)と言われている。
 芳賀郡東郷村大前(おおさき)神社に集った一揆勢に対しては、13カ寺の僧侶が仲裁に入り、夫食(ふじき *食糧)・種穀助成・質物貸借について、貧民への配慮を最優先した調停案がまとまった。しかし、具体的な実施方法まで決めておらず、結局、町村内の力関係に依存することになる。「そのため、世直し勢、町役人層ともに自己の正統性を訴えるため、結城町(茨城県)に進軍してきた新政府軍に代表を派遣しました。/4月9日、真岡町へ到着した新政府軍は、リーダーの詮索(せんさく)など世直し勢の期待を裏切る行動に出ました。/亀山村の名主勘兵衛(経済的には中農)が頭取として逮捕され、処刑されましたが、真岡町のリーダーはいい伝えとしてあるものの今もって不明」(同前、P.67)であると言われる。
 3月29日に勃発した野州世直し一揆は、その中心部分は宇都宮に向かったが、他の一部は西方に進み、鹿沼辺の村々を闘争の渦の中に巻き込んだ。この内で、例幣使街道の金崎宿とその西方に点在する13カ村での一揆は10日夜から11日朝にかけて、富士浅間山(西方山)に結集し、10日昼頃に、金崎宿木之宮の名主重右衛門宅を打ちこわした。それは、次の事情による。「四月二日郷内村々の村役人と豪農が集まり、合計二五〇両を醵金(きょきん)して郷内窮民への救済資金として準備したが、一揆勢が一応鎮静した七日の村役人の集会で、この救済資金の配分方法が決まりかけた際に、重右衛門が資金の配分は『五〇両テ(で)よろしかろふ、其内(そのうち)ニ而(て)役人呑食(のみく)いの分ヲ引割(ひきさき)遣(つかわす)よかろふ』と話したことが郷内の農民に伝わり、彼らの憤激をかった」(長谷川前掲書 P.310)ためである。
 農民間の対立と緊張が高まる中で、四ケ寺の説得もうまくいかなくて、結局、一般農民側の要求を活かした内容で妥協が成り立った。その内容は、「①七カ年以内の借用証文の借金は五カ年賦、四~一五両の質物は元金の三割で返還、一五両以上の質物は元金の半額で返還、返された元金は郷内窮民の救済資金とする、②村内ごとに富家が窮民へ穀物を来る八月まで貸し付ける、肥(こや)し代金は二五両に金一分(*1%)の利息で八月限りで元利返済する、③酒・醤油・水油・白米の値段を引き下げるという、農民側の要求を相当もり込んだ条件になっている。」そして、「この日以後、各村ごとに醵出(きょしゅつ)された金穀が、村役人の手で村内の生活困窮者に配分されている。その対象とされた窮民の家数は、金崎宿三九軒、他一二カ村で二一六軒に達している。」(同前 P.311)のである。

    一揆勢の成果を破壊する新政府
 しかし、新政府の支配体制が確立してくると、維新政府の本性が現れてくる。「明治元年(一八六八)冬(一一月頃か)、この地域の質屋渡世の者が連名で日光県知事鍋島道太郎に、春の世直し一揆中に返還した質物を取り戻すことを願い出ている。鍋島知事は質物を一二月朔日(*1日)までに取り返すように命じたが、自主的に質物を質屋に戻しにくる者はいなかった。そこで鍋島知事は、重ねて質物を質屋に戻すことを命じ、自ら視察をかねて農村部に出張して、質物を残らず返させた」(同前 P.311)という。
 明治維新によって確立した新政権は、決して人民の立場からすると味方の政権とは言えないのである。(つづく)