明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑩
一揆を鎮圧・処断する東征軍
                             堀込 純一


   Ⅱ 幕末・維新期の農民闘争の独自性

  (4)権力移行に乗じて続発・激化する世直し一揆

(ⅲ)羽生陣屋の構築と武州北部の世直し一揆

 一揆の攻撃目標は、単に豪農や豪商だけではなかった。幕府が社会不安に対処すると称して、農民に加える抑圧と収奪に対しても、敢然と向けられた。
 これより以前の1867(慶応3)年3月、幕府は従来から幕領であった羽生村(現・埼玉県羽生市)ほか6カ村に、大名領・旗本領11カ村を加えて、関東郡代(上州岩鼻在陣)木村飛騨守の支配下におき、元羽生城跡に陣屋を構築した。
 陣屋の構築は、羽生領の豪農層の協力により、各村から合計八千両の献金と人夫の動員によって、同年11月から翌年2月25日までの短期間に完成された。農民支配のための陣屋を、農民自身の犠牲で急ピッチで建設させたのである。「幕府としては、関東地方の社会情勢の不穏化に対処して、岩鼻陣屋から目の届けにくい関東平野のほぼ中央であり、利根川の川俣関所を控えた羽生を重視したのであろう。関東郡代はまた領内の治安維持のために、慶応三年一二月以降、羽生領一八カ村から八〇名を召集して農兵隊を組織している。この農兵は、早速二月下旬、寄居町付近に発生した打ち毀(こわ)しの鎮圧のため、岩鼻陣屋の農兵とともに出動している。こうした陣屋構築のための御用金の徴収や人夫・農兵の徴発は、羽生周辺の農民に、幕府やこれに協力的な豪農への反発を深めさせた」(長谷川伸三著『近世後期の社会と民衆』雄山閣 1999年 P.338)のである。
農民支配のために農兵隊を作り、実際に世直し一揆鎮圧に動員させられたのは、極めて悲劇的なことであるが、それは、陣屋構築の献金や労働動員とともに、幕府に対する怒りと不満をなお一層高め、世直し一揆をますます激化させたのである。
 武州(埼玉県)北部では、1868(慶応4)年春、主なものでも以下のような闘争が展開される。2月下旬に、榛沢(はんざわ)郡寄居町に数千人の農民らが世直しを求めて屯集する。3月11~12日には、「羽生騒動」(後述)が起こっている。3月18日には、足立郡川口宿で小前百姓400人が決起し、穀屋など15戸を打ちこわし、20人が逮捕されている。3月26日には、榛沢郡大谷・黒田村で御用金取り立て反対で農民が立ち上り、旗本(神谷藤十郎)の用人を殺害している。4月には、埼玉郡下新井で150人が徒党を組んで、米金を奪い取り、関宿藩関宿・栗橋の助郷村々で放火などを行なっている。農民一揆は、埼玉・足立・榛沢郡に集中して発生している。
 「羽生騒動」は、3月10日、東征軍が出来あがったばかりの羽生陣屋を焼打ちしたことを契機に発生している。農民たちは、常日頃、農民を収奪し、また羽生陣屋の構築に協力した村役人や豪農などを襲撃した。打ちこわしは、川俣・上羽生・上岩瀬・上手子林(いずれも現・羽生市)などの村々で行なわれ、その村数は28カ村、家数68軒(過半数は村役人)に及んだ。打ちこわしは10日夜から12日に渡ったが、そのさい「怪我人一切(いっさい)御座(ござ)無く候」(羽生町場村役人惣代の鴻巣宿役人への届出書)と言われる。
 この「羽生騒動」による「打ち毀し騒動は、即座に近辺の村々へ波及した。埼玉郡加須町周辺では、加須町・笠原村・騎西町・栗橋宿を含む四五カ町村で八一軒が襲撃されている。笠原村(現、鴻巣市)では、三月一二日北方から一揆勢が襲来し、名主などの豪農を襲い、金品・食料の強奪と放火を行った後、二隊に分かれて郷地(ごうじ)村と弐貫野村(ともに鴻巣市)へ押し寄せた。しかし、村役人の訴えにより、忍城(*現・行田市)を包囲していた大垣藩兵や代官の手先が来て鎮圧し、暴徒三六名を捕えて処刑した」(長谷川伸三著『近世後期の社会と民衆』P.339)と言われている。
 「羽生騒動」は、東山道総督府が指揮する東征軍によって、鎮圧・処刑されたのである。

(ⅳ)東征軍と旧幕府軍との衝突

 話はやや遡(さかのぼ)るが、1868(慶応4)年2月22日、羽生陣屋の構築がほぼ完成しかけた時、突然、旧幕府歩兵350名がはいってきた。これは前号で述べたように、幕府首脳の抗戦放棄に不満をもち、2月7日江戸を脱走した歩兵の一部である。
 この脱走兵を鎮撫するために、当時、歩兵差図役頭取を務めていた古屋佐久左衛門が派遣された。古屋らは、羽生などをへて野州(*下野)に屯集していた歩兵たちを説得して帰順させ、2月24日、ひとまず忍藩に預けた。
 古屋は、江戸に戻り、勝海舟に鎮撫の報告をするとともに、この脱走兵を徳川幕府再興のための一勢力とすることを願い出た。これが海舟に受け容れられ、古屋佐久左衛門は信濃鎮撫を命じられた。そして、古屋は歩兵頭並格となり、第6連隊の歩兵約400名が新たに指揮下に加えられた。海舟のこの措置については、新選組を甲陽鎮部隊として甲州に送り出した時と同様に、“江戸無血開城の妨げとなる不穏勢力を江戸から追い出した”という評価が少なからずの研究者によってなされている。筆者は、これに加えて、海舟は総てが総べて新政府の言いなりにならず、降伏条件を少しでも徳川家に有利にしようという目論見もあったと思える。いわゆる「武備恭順」である。
 3月1日に江戸を出発した古屋らは、4日に羽生陣に到着する。翌5日には、忍藩に預けておいた脱走兵370名余を受けとり、古屋軍はおよそ850名前後の大部隊となった。
 しかし、東征軍の先発隊が中山道本庄宿に到着したこと知った忍藩は、3月5~7日に旧幕府歩兵を忍城下から退去させ、羽生陣屋へ移動させた。翌日羽生陣屋に結集した古屋軍は、野州(現・栃木県)梁田(やなだ)宿に移った。古屋軍は翌9日未明、ここで東征軍の薩摩・大垣・長州の藩兵二〇〇余名(斥候隊)の急襲にあい、敗北した。いわゆる梁田戦争である。敗退した古屋軍は、一路北方の会津を目指す。

(ⅴ)新田官軍と称される草莽隊の敵対

 桐生や大間々町の打ちこわしにおいて、豪農・豪商にとって、藩権力はほとんど当てにならなかった。一揆勢に武力をもって対決し、ひとまず鎮圧に成功したのは、新政府側についた足利藩・館林藩と「新田官軍」と称する草莽隊の働きによるものである。これは、前述した。
 関東地方での草莽の志士の活動は、先述したように1867(慶応3)年12月、野州都賀(つが)郡出流山の挙兵となった。これは、江戸の薩摩藩邸を拠点とし、幕府の後方攪乱策の一環である。この「出流山事件」に参加しようとして、黒田桃民(新田郡新田村の医師)は、幕吏に捕縛される。一方、佐位郡島村の金井之恭は、両毛地方の草莽の志士と結合して、1868(慶応4)年春、新田義貞の末裔として新田郡に住む新田満次郎(岩松俊純)を擁して、討幕の挙兵に立ち上ろうとしたが、幕吏に探知され捕縛された。しかし、戊辰戦争により、東征軍が進軍してくると、黒田も金井も救出されることとなった。
 「ここに黒田・金井等は、あらためて新田満次郎を将として尊王隊を組織し、官軍への従軍を願い出て三月八日許可された。彼等は一三日を期して中仙道板橋駅に出陣する予定のところ、一二日夜から一揆勢が蜂起して新田郡を横行した。黒田桃民はこれを鎮静させようとして、単身一揆勢の間に乗込み説得を試みたが、かえって一揆勢は彼に将として参加することを求めた。桃民はやむなく一旦引揚げて同志二〇余名をひきつれ、武器を携(たずさ)えて一揆勢を追い、銅山街道を北上した。彼等は大原本町を経て大間々町に入り、ついで砂川村の豪農星野家の要請に応えて同家を一揆勢から守った。/桐生を打ちこわし、小俣で足利藩兵と衝突した一揆勢は、退いて桐生の西方仁田山にたてこもって再結集をはかったので、桃民は如来堂村に布陣して館林藩兵に援(たす)けを求めたが受入れられず、単独で仁田山の一揆勢を鎮撫した。一揆勢がほぼ四散したのは一四日夕刻であった。一方新田満次郎・金井之恭らは、一三日に出立して板橋駅に赴(おもむ)き、東山道総督より上野国鎮撫を命じられ、一七日に帰館して、一揆の吹荒れたあとの新田・山田両郡の治安維持にあたった。」(長谷川伸三著「幕末・維新期関東の農民一揆」―『地方史』110)と言われる。
 ここには、尊王隊と称した草莽隊の尊王討幕が、まぎれもなく一般農民や半プロ層などの人民に真っ向から敵対するものであることを明らかにしている。

(ⅵ)東征軍による上州一揆勢への弾圧・処分


 江戸の制圧をめざす東征軍は、人民に対する人気取りで当初、年貢半減令を発令したが、それは間もなく取り消された。先述したように相楽総三の赤報隊(草莽隊)は偽官軍と決めつけられ(2月10日)、総三も3月3日には下諏訪で処刑される。
 東山道総督府本隊は、1868(慶応4)年3月7日に上州(群馬県)に踏み入り、8日には高崎に入る。そこで直ちに、上州諸藩に対し、次のような布達を発する。①食料・資金の提供、②「賊徒・無頼の徒」の取押え、③「百姓一揆之類ニ至リ候テハ、其(その)情実篤(とく)ト相糺(あいただ)シ、説諭(せつゆ *悪いことを改めるよう教えさとすこと)ヲ以(もって)鎮静致シ候様尽力之(これ)有るべき事」(『復古記』第11冊 P.317)とした。
 と同時に、「上野国村々百姓共へ」と題して、次のように触れだした。すなわち「今度総督様御下向(げこう *都から田舎へ下ること)の次第ハ、賊徒討伐万民塗炭(ばんみんとたん)の苦(くるしみ)ヲ被為救度(すくわれたく)思召(おぼしめし *「考え」「気持ち」の尊敬語)〔*なので一揆を起こしている〕百姓の内(うち)一両輩(*1~2人)、急急御本陣(*本営)へ罷出(まかりいで)、所存(しょぞん)の趣(おもむき)遠慮なく訴訟仕(つかまつ)るべく、百姓共趣意(しゅい)相立(あいたて)候様(そうろうよう)取計(とりはから)ヒ致シ遣(つかは)すべく候」(『復古記』第11冊 P.318)と。
 だが、これらは新政府の人心収攬術であり、本音ではない。このことは、同じ3月8日、高崎藩に宛てた達(たっし)では、農民一揆を「以之外(もってのほか)の大罪」と決めつけ、「右一揆徒党の者(もの)早速召捕(めしとり)、頭立(かしらだち)候(そうろう)者(もの)厳重処置いたすべく候」(『復古記』第11冊 P.319)と命令していることで明らかである。また、桶川まで進軍したさいには、「無頼の悪徒」に対しては「討取(うちとり)候テモ不苦(くるしからず)候……」(『復古記』第11冊 P.341)と、近隣の諸藩に命令していることでも明らかである。
 そして板橋到着後の3月16日、武州の旧幕府領・旗本領の鎮撫取締りと民政を、武州諸藩が行なうように次のように命令する。

……右徳川領知(りょうち)並(ならびに)旗本領、上・武(*上州と武州)両国の義ハ、総(すべ)テ当国列藩ヘ鎮撫取〆(とりしまり)仰付(おおせつけ)られ候條(そうろうじょう)、各藩申合(もうしあわせ)、夫々(それぞれ)持場(もちば)ヲ定メ、諸方ヘ人数差出シ置(おき)、召捕(めしとり)候(そうろう)罪人の義ハ、諸藩脱走人或(あるい)ハ無宿者ニ至リテハ、速(すみやか)ニ其(その)藩に於て死刑ニ行(おこな)うべく候、尤(もっとも)百姓頭立(かしらだち)候雖(そうろうといえど)も徒党の向(むき)ハ、平日の行(おこな)ヒ人物の正邪ヲ糺シ、夫々(それどれ)処置いたすべく候、元来(がんらい)、上・武両国ハ、人気暴激ニシテ、大義条理ヲ以テ鎮定候儀、一朝一夕ニ行(おこな)われべからざる者ニ候得ハ(そうらえば)、勅命の旨(むね)申触(もうしぶれ)シ、兵威を以て鎮撫仕(つかまつ)るべく候、……(『復古記』第11冊 P.342)

 上州・武州は元来、気の荒い所なので、大義や理性での鎮定が一朝一夕にはできないので、「勅命」をかざし「兵威」を以て鎮撫すべきとしたのである。百姓一揆の鎮撫を、天皇の命令として武力をもって行なうというのである。まさに、新政府が農民闘争に敵対するものであることを明確にしたのである。
 そして、新政府に従がう上州・武州諸藩や新田官軍などによる武力鎮圧で、大間々町やその周辺の世直し一揆は、3月下旬頃には鎮静化に向かう。
 閏四月初め、東山道官軍参謀祖式金八郎(長州藩の支藩・長府藩士)が下野・東上州鎮撫の命を受け、足利・佐野・館林藩兵を率いて桐生・大間々へやってきた。桐生新町名主長沢新助の『役用日記』によれば、祖式参謀は打ちこわし参加者を含む囚人に対して、次のような処置を加えている。「当時桐生の陣屋には囚人一四人が居たが、参謀の吟味・裁決により五人が獄門に処せられた。残りの囚人のうち六人は大間々に引き立てられている。/桐生・大間々で官軍の手により処刑された者に関しては、『御仕置人捨札写』(慶応四年閏四月)が詳細である。桐生新町において死罪になった者は、まず勢多郡女淵村百姓藤十郎・代吉と同郡奥沢村百姓紋次郎があげられる。死刑・梟首(きょうしゅ *打ち首にした者の首を木にかけてさらす)の理由としては、『兼而(かねて)悪事を好ミ不宜(よろしからざる)所業等(など)有之(これあり)候(そうろう)処(ところ)、此程(このほど)悪徒共(ども)諸所(しょしょ)令暴行(暴行せしめ)候折(おり)を幸(さいわい)とし、諸人を抽而(ぬきんでて)右徒(みぎのと)江(え)同意し、諸人を欺(だまし)誘引致(いたし)候始末(しまつ)』とされている。……次に大間々町百姓喜六・卯之助は、……慶応三年二月の騒動の中心人物であり、その際剃髪までして免罪になったにもかかわらず、今度の打ちこわしに積極的に参加した点が死刑・梟首に相当するとされている。大間々町で死刑・梟首になった者は、同町百姓久助・芳太郎であり、その理由は一揆勢への同意・参加・勧誘である。群馬県白井で死刑になり、大間々町で梟首になった者は、同町修験大光院義章厄介(やっかい)の観寿(四三才)と山田郡天沼新田村百姓粂太郎(63才)である。……/桐生新町において死罪一等を免じられ、数日の晒(さら)しで放免された者は、勢多郡中村の百姓五名、下山上村の百姓一名、女淵村の百姓一名、および……大間々町の百姓長右衛門・藤太郎である。大間々町においては、他に百姓吉兵衛等三名が死罪を免じられ、五日間の晒しになっている。これ等はいずれも一揆勢への同意・参加の罪を問われたのである。」(長谷川伸三著「幕末・維新期北関東の農民一揆」―『地方史研究』110)という。
 しかし、「要するに官軍の処罰方針は、一揆の主謀者や積極的参加者をねらいうちにし、ことに従来から騒動の中心的活動分子だった者などを見せしめ的に極刑にしながら、一般農民の参加者にはせいぜい晒しや叩(たた)きの刑に処するか、質物等を元に戻せば大目にみるという分断策を講じて、急速に鎮圧の効果をあげようとしたものと思われる。」(同前)と言われる。(つづく)