明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑨

 権力移行期の関東世直し一揆
                      堀込 純一


(3)慶喜の「謝罪恭順」と幕府歩兵に走る動揺不満

 1868(慶応4)年1月12日、徳川慶喜は江戸に逃げ戻る。しかし、江戸城内ではさまざまな意見が巻き起こり、主戦論者の方が多数であったようである。だが、幕府は、
“基本的には恭順するが、場合によっては抵抗もありうる”という「武備恭順」の方針をとった。「武備恭順」は、具体的には、大政奉還をした以上、徳川家は関東の領地を維持して、一大名として新政府における枢要の地位を保持する、というものである。
 慶喜は、1月23日、勝海舟を陸軍総裁に、矢田堀鴻を海軍総裁に、大久保忠寛(一翁)を会計総裁に任命して、この方向性を人事面で明らかにした。
 慶喜が、鳥羽伏見戦争の責任者を一斉に処分し、「朝敵」とされた会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬(さだあき *容保の実弟)や旧幕府閣老に、罷免謹慎をいいわたしたのは2月9~10日である。2月12日には、江戸城を徳川(田安)慶頼(よしより *徳川家達の父)・松平斉民(なりたみ *津山藩主慶倫の父)に委ね、自らは上野寛永寺の大慈院に籠り、「謝罪恭順」を示す。だが、新政府は慶喜の「謝罪嘆願」を一切許さず、あくまでも江戸の征討を目指して、東征軍を進める。
 2月9~10日ころに、慶喜の「絶対恭順」が明らかになると、まず鳥羽伏見を戦った歩兵たちに動揺が走った。鳥羽伏見で懸命に戦い、慶喜に置き去りにされながらも必死に江戸へ後追いして来た歩兵たちに不満と怒りが渦巻いていた。そこへまた、「絶対恭順」である(松平容保は「武備恭順」)。
 幕府歩兵は、その多くが身分的には武家奉公人で、その日稼ぎの日用(日傭)取りである。戦争が終われば解雇され、次の機会を待つか他の職を探さざるを得ない。
 旧幕府軍から脱走兵がしだいに増えてくるのは、この頃からである。勝海舟の回顧録によると、2月5日には、伝習歩兵400人が、八王子方面へ脱走した(この部隊は、後に大鳥圭介の軍に合流する)。2月7日夜には、第11連隊と第12連隊の歩兵約600名が当直の士官数人を銃殺し、小銃を以て脱走し千住の関門を破って北方に向かった。第11連隊・第12連隊は、主に大坂近辺の気性の荒い「志願兵」であり、幕府首脳の「恭順方針」におとなしく従えるものではなかった。(江戸城明け渡しの前日の4月10日の夜からは多数の兵士が脱走し、その数は5500~5600人に達すると言われる)
 他方、あくまでも討幕を目標とする東征軍は、東海道先鋒軍、東山道軍、北陸道の先鋒隊の三道に分かれて江戸を目指す。
《補論 幕府歩兵の形成》
 幕府は、1862(文久2)年6月、オランダ兵制を手本として、歩兵・騎兵・砲兵の三種をもって編成するとした。同年12月2日、歩兵人員差し出しの「兵賦令」をすべての旗本知行地に発布した(17―45歳の壮健な者を選び、5年を限度に入隊させる)。歩兵は、江戸近郊の農民が多かったが、兵賦は金納でもよいとなり、金納の旗本が増えた。このため、歩兵隊は後になればなるほど、傭兵部隊化した。(1連隊=2大隊、1大隊=小隊10隊。1小隊は、銃卒400人程から成る)

(4)権力移行に乗じて続発・激化する関東の世直し一揆

 権力移行期には、以下に述べるように、北関東(上野・武蔵・下野など)で、激しい世直し一揆と打ちこわしが展開されるが、それは幕府権力の崩壊と軌を一にしている。ここでは、幕府の関東支配機構の変化をややさかのぼって検討しながら、東征軍と旧幕府軍との戊辰戦争の最中での大規模な百姓一揆の様子を見ることとする。

  (ⅰ)岩鼻陣屋の構築と農兵の組織化

 従来、関東の幕領支配は、関東郡代伊奈氏が代々世襲となっていた。その支配地高(たか)は約30万石にのぼっていたが、伊奈氏の家来である4人の奉行が分担して支配していた。ところが1792(寛政4)年に、伊奈忠尊の失脚により、伊奈氏支配は廃止された。その後、1806(文化3)年まで、勘定奉行が郡代を兼任した。
 この間に、関東農村を支配する施策がつくりだされる。それは、①上州(群馬県)に岩鼻陣屋の設置(1793年)、②関東代官(幕末期、全国に40人強の代官がいた)の手附(てつき)・手代(てだい)1)、町奉行組のものを、関東一円、幕府領・私領(旗本領・大名領)の区別なく廻村させ、博奕打(ばくちうち)や悪党なる者の取締りを積極化したことなどである。さらにこれらの取締りを制度化するものとして、1805(文化2)年6月に関東取締出役(通称「八州廻り」)が設置された。
 これは、公事方勘定奉行・石川左近将監の命により、関東の4代官(早川八郎左衛門・榊原小兵衛・山口鉄五郎・吉川栄左衛門)が「無宿・悪党ども」の召捕りについて、具体的な施策を練る中で設置されたもので、警察機関そのものである。「八州廻り」は、廻村先の村落内の訴訟に介入することは禁止されており、あくまでも警察的な捜査や逮捕が主要な任務とされた。関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)を設置した背景には、内憂外患(「開国」圧力と小農の変質・動揺)とともに、人心の不安定化と遊民化などの情勢の下で、とくに幕府領・旗本領・藩領・寺社領の入り組んだ関東農村(武蔵国の旗本領678カ所のうち、500石以下が474カ所〔69・9%〕)の再掌握の必要性があった。
 時代が下るにつれ出役の活動範囲も拡大するが、しかし、関八州は広大であり、それをわずか10名前後の出役が廻村して、警察活動を行なうにはさまざまな難点があった。それは、森安彦氏によると、「①無宿・悪党の集団徒党化に対して対抗しえない。②召捕ったものの江戸送りは、すべて村費用によったため、村負担が増大し、村の協力が得られない。③文政期(*1818~1830年)に入ると村落荒廃がいっそう激化し全面的になってきたので、従来のように特定の地域をパトロールするのでは取締効果はあがらず、一定の組織で全域を網羅できる取締区域(組合村)を設定する必要があった。④単に無宿・悪党の追捕(ついぶ)のみでは村落治安の維持強化にはならず、広汎に展開してきた農間余業(*農閑期の農業以外の仕事)、在方商人(*田舎の商人)の実態とその把握が必要になってきた。」(同著「幕末期の幕政」―郷土史研究講座5『幕末郷土史研究法』朝倉書店 1970年 P.174)のである。
 この結果、組合村が設定された。組合村は幕府領・私領の区別なく、近隣の村々を3~6村ごとに小組合とし、さらにこの小組合を10前後集めて大組合に組織し、これを取締組合の一単位とした(村数にして約45村を目当)。小組合には、村役人の中から一人を小惣代として選び、小組合の統括者とした。大組合は各小組合の小惣代から数人を選んで大惣代として大組合の運営にあたらせた。なお、取締組合の中で、とくに石高が大きく治安が良い村を親村と定めて、会計やその他を扱うようにさせ、その村を組合村寄場(よせば)と呼び、そこの名主を寄場役人として、取締組合の中核とした。組合村の「機能は、大別して、①警察的支配の強化、②村内訴訟の処理、③経済統制、④若者対策と封建意識の再建」(同前 P.189)といわれる。
 上野国に散在する幕領を支配するために1793年に築かれた岩鼻陣屋(高崎市岩鼻町)は、1863(文久3)年7月以来、代官が在陣するようになり、村高100石につき3人の割合で農民を選抜し武術の稽古を行なわせ、また、猟師を構成員とする鉄砲隊を編成した。1864(元治元)年11月には、新規の関東郡代(1867〔慶応3〕年から関東在方掛と改称)が設けられ、1865(慶応元)年には岩鼻陣屋はその代官所となり、上野・下野・武蔵の幕領50万石を管理した。
 1867(慶応3)年11月29日、下野国出流山(いずるさん)で、先述したように浪士を中心として草莽隊が討幕の宣言を発した。これに対し、岩鼻陣屋は鉄砲隊を編成して鎮圧に向かい、12月11日に、岩舟山の周辺で戦闘となる。戦闘では、猟師鉄砲隊が鉄砲の威力を発揮し、刀や槍の浪士隊はあっけなく敗退した(出流山事件)。この戦いで猟師鉄砲隊に自信を深めた岩鼻陣屋は、翌1868年1月、新たに壮健な者を徴発し、猟師だけでなく農民の鉄砲隊をも編成し、西洋式の軍事訓練を行なおうとした。
 1868(慶応4)年1月、鳥羽・伏見の戦いの後、岩鼻陣屋詰めの関東取締出役の渋谷鷲郎は、碓氷峠で東征軍を迎え撃つために、農兵銃隊人足取り立てを寄場組合の村々に命じた。しかし、これに対し、新町寄場組合など農民の反対が激しく展開されたことと、上州諸藩が勤王詔書を提出したことなどで、2月15日、渋谷はこの作戦を断念する。さらに同月18日、関東在方掛の木村甲斐守勝教が罷免される。これにより、陣屋役人は江戸に撤退し、岩鼻陣屋は機能喪失状態となる。

注1)手附も手代も、江戸幕府の郡代・代官の属僚で、実務を担う。江戸時代中期以降、手代は、農民・町人で地方(じかた)の事務の熟練者を縁故で採用した。手附は、寛政年間(1789~1801年)以降、幕府直属の御家人から任用されており、身分は幕臣である。

  (ⅱ)世直し大明神を掲げた一揆が上州一帯に拡大

 権力の空白状況下の1868年2月22日、上州国多胡(たご)郡神保(じんぼ)村(多野郡吉井町)の辛科(からしな)神社に農民たちが集まる。集会では、米商人・質屋、ならびにこれを兼務する村役人たちに対し、質物の返還、質地や借金証文の破棄、貧農への施金(せきん)や施米(せまい)が要求された。そして、これらの要求を廻状に認め、村々に回した。
 2月23日夜、農民約1000が辛科神社と仁叟(じんそう)寺に結集し、竹ぼらを吹きながら吉井宿に向かい、商家8軒を打ちこわす(一揆勢は要求を突きつけ、受け入れられない場合、打ちこわしに入る。)。上州世直し一揆の始りである。その後、一揆勢は、一手は富岡・下仁田(しもにた)方面へ、他の一手は藤岡・新町方面に向かい、世直し一揆はまたたくまに西上州一帯に広がる。
 東上州の一揆は、3月2日ころ、佐位(さい)郡小保方(おぼかた)8カ郷から始まる。同月7日夜からは那波(なわ)郡連取(つなとり)村(伊勢崎市)にも貧農たちが集まり、10日頃から伊勢崎町やその周辺を制圧する。一揆は、その後、日光例幣使街道沿いに木崎宿・太田町とその周辺の村々に波及する。13日には、北上し、大原本町・藪塚村・田部井(ためがい)村・赤堀村・新川(にっかわ)村などの豪農・豪商を襲う。
 3月13日の夜、「世直し大明神」と大書した旗を掲げて、総勢1000余の一揆勢は、桐原村(大間々町)へ入り、2軒を打ちこわす。その後、一揆勢は大間々町へ向かい4軒を打ちこわす。これを見て、他の商人たちは一揆勢の要求を受け入れ、打ちこわしを免れた。14日未明、一揆勢本隊は天王宿村の2軒を打ちこわし、渡良瀬川を渡って桐生新町へ入り、4軒を打ちこわし、出羽松山藩桐生陣屋前の牢を壊して囚人3人を釈放する。一揆勢は、その後、新宿村で1軒を打ちこわし、境野村を経て下野国(栃木県)小俣宿へ向かうが、待ち構える足利藩兵と衝突する。大砲・小銃で追いまくられた一揆勢は、新宿村に戻り、一手は広沢村で打ちこわしを行ない、下広沢村へ行くと、今度は館林(たてばやし)藩に攻撃され、手負いの一揆勢は西方へ逃走する。
 15日、新宿村で分かれたもう一手は、桐生新町を北上し、湯沢村へ向かう。「これに対し、桐生陣屋と町方の手勢も武器を携(たずさ)え、後を追いました。そして、皆沢(かいざわ)村で一揆勢約200人を追い詰め、頭取1人の首を取り、もう1人を虜(とりこ)にしました。」(『図説 日本の百姓一揆』民衆社 1999年 P.83)と言われる。
 だが、大間々町域では、世直し一揆が再び活発となる。14日早朝、600~700名の一揆勢が西方から大間々町へ進出し、その後、奥沢村(新里村)で1軒打ちこわす。「14日夜、再び一揆勢が大間々町に入ってくると、新田(にった)官軍=岩松満次郎の手勢約数百人が出張して来て、一揆勢に向け大砲を放ちました。これにより、一揆勢は『木の葉の如くちりちりに』なったと」(同前、P.83)のである。
 もともと草莽隊である新田満治郎らは、幕末時、討幕挙兵には最後まで逡巡していたのだが、武器らしき武器ももたない農民一揆に対しては、躊躇(ちゅうちょ)することなく弾圧したのである。
 上州国田面村(東上州)の笠原弥兵衛の日記によると、世直し勢が1868(慶応4)年3月14日に、弥兵衛に約束させた一札が次のものである(佐々木潤之助著「世直しの状況」〔『講座日本史』5明治維新 東京大学 に所収〕からの引用)。

 差出し申(もうす)一札之事
一、 今般(こんぱん)仰出(おおせい)だされの通り、拾七ヶ年已来(いらい)質物証文、且(かつ)又(また)、借用証文相返(あいかえ)シ?(ならび)ニ金百五拾両米百俵、隣村迄茂(までも)施(ほどこし)仰渡(おおせわた)らせ、慥(たしか)ニ承知(しょうち)仕(つかまつり)候、依って件(くだん)の如し
 慶応四辰三月十四日 田面村        
 百姓代 佐左衛門
 与 頭 吉  蔵
 当 人 弥 兵 衛
世直シ大明神様
  
 ここでは、質物証文と借用証文が返却され、かつ、施米・施金が一揆勢に供出された。そして、この一札のあて先は「世直シ大明神」となっている。一揆勢の展望構想は決して確かなものとは言えないのであるが、当面は金持ちと貧民の格差をなくすことが必要であり、そこには「世均(なら)し」という平均主義の思想が強烈にこめられている。
 一揆が通常、巨大なものに膨れ上がる理由は、農民に対する抑圧と収奪に対する怒りが積み重なっていたことが基本としてある。しかもそれだけでなく、一揆が立ち上る時の方法として「共同体規制」としての強制を行使しているからである。次の「世直し回状」(佐々木論文からの引用)は、その様子を以下のように伝えている。
  
 世直し回状
    
  上高尾村より
    鬼 定
    鬼 金
 廻状を以て申述(もうしのべ)候、就(つい)而者(ては)先達而(せんだって)中(じゅう)世直しニ付(つき)、人数旁(かたがた)より差出(さしだし)候得共(そうらえども)、為差(さしたる)義も無之(これなく)、其上(そのうえ)人殺し等も有之(これある)趣(おもむき)ニ付(つき)、我等(われら)江(へ)頼入(たのみいり)候故(ゆえ)、此度(このたび)先儀違変(いへん)取調(とりしらべ)の上、人殺し敵討(かたきうち)ニ付(つき)村々人数壱軒(いっけん)ニ付(つき)壱人ツツ(ずつ)借用支度(したく)、且又(かつまた)、目立(めだち)候ものハ焚出(たきだし *炊き出し)頼入(たのみいり)候、若(もし)手向(てむかい *反抗)成され候村方は壱軒も残らず焼払(やきはらい)申上(もうしあげ)候、此度(このたび)の儀は敵討方(かたきうちかた)故に、村方ニ而(て)も鉄砲之有(これあ)るものハ鉄砲持参成らるべく候、右廻状、刻付(きざみつけ)を以て、早々(そうそう)順達せしめ候 以上
 上州群馬郡
  高崎領 本郷村
十九日  頭取諱名
      鬼 定
      鬼 金   
最寄(もより)村々江(へ)

 回状は、「人殺し敵討ち」を名分に、一軒あたり一人の動員をかけ、また金持ちには「炊き出し」を要請している。そして、これらの要求に「手向(てむかい)」する村にたいしては、「壱軒も残らず焼払い」と強制しているのである。
 上野国では、他にも高崎・前橋などの中毛地域、利根・沼田などの北毛地域でも、世直し一揆は起こっている。西上州では3月に下仁田で再発し、これは、内山峠を越え信濃国佐久郡に入って、佐久郡一帯を席捲する。(つづく)