明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑧

赤報隊は何故に解体されたのか

                                  堀込 純一

       Ⅱ 幕末・維新期の農民闘争の独自性

  (2) 権力移行期の攻防と弾圧される草莽隊

〈北信分遣隊の奮闘〉
 嚮導隊(きょうどうたい)本隊が信州入り(1868年2月上旬)する前から、桜井常五郎・神道三郎・丸山梅夫(以上、信州出身)や斎藤源次郎(江戸出身)、岡田養玄(野州出身)などは、信州各地の偵察を行なっている。
 同時に、桜井らの積極的な隊員参加の工作で、信州の農民らが嚮導隊に次々と加わった。その数は表1(高木俊輔著『明治維新草莽運動史』P.285)に示されるように、北佐久の33人を筆頭に総勢64人。とくに桜井の出身地である春日村からは、17人も参加している。
 2月5日には、御影陣屋(小諸市御影)に“新徴組1)30人ほどが乱入し、租税をとりたてる”との情報が入る。年貢半減令をかかげる嚮導隊にとっては、極めて重大な事態である。
 嚮導隊はすぐさま、桜井・神道・金原忠蔵・西村謹吾・大木四郎・竹内健介の幹部を派遣する。7日には、6人の先発を応援するために、さらに20人ほどの隊士を送り出している。しかし、御影陣屋は平穏を取り戻していたので、これらの隊士はそのまま小諸・上田・松代・中之条へと出張し、偵察活動に奔走した。また、諸藩を訪ねて、軍資金を調達している。
 北信濃を工作する北信分遣隊の活動は目覚ましいものがあった。「……北信分遣隊は、二月十日までの間に中之条・御影両陣屋の接収を果たし、信州の諸藩と上州の一部の藩に、勤王の誓約をさせていた。そして、卯年(*1867年)残納年貢免除、辰年(*1868年)年貢半減の布告が、地方農民の熱烈な支持を受ける中で、さらに佐久郡八十三か村においては、難渋民救助のための『貧民改め』(「須藤文書」)2)に着手し始めていた。それはまた、悪徳役人やそれと結ぶ村役人リコール運動につながる方向性を持っていた。/この地方の百姓上がりの志士が、縦横に駆け回っては官軍の先鋒と唱えて、しだいに旧幕藩的支配と対立する動きをとるようになったのである。これを、陣屋側も藩側も、また新政府の総督府側でも放置しておくことは出来なかった。戊辰戦争においては官・賊と分かれたが、農民層の要求に密着した変革の行きすぎに対しては、抑圧者としての共通の立場にたっていた。」(高木俊輔著『それからの志士』P.83)からである。
 相楽総三は、東山道総督府などからの嚮導隊進軍中止の命令をふりきって、あくまでも旧幕府軍よりも早く碓氷峠を確保することに戦略的意義を認めていた。碓氷峠は、官軍が上州(現・群馬県)、さらには関東平野に攻め下るには、確保しておくべき要衝だからである。
 北信分遣隊は、2月15日に碓氷峠へ進軍した。隊員はおよそ70人で、小銃20挺と槍6本、馬3頭の部隊であった。峠の頂上の熊野神社には、「官軍嚮導隊見張所」と書いた大看板を掲げ、武器と食糧を山と積んだ。これにより、関東諸藩への睨(にら)みをきかせたのであった。
 それから間もなくして、上州方面から碓氷峠を越えて、関東神職取締所の役人と名乗る5人が、熊野神社にやってきた。その中心は水野中務と称する美少年であった。だが、問い質してみると、その少年は白川神祇伯資訓の公子・千代丸であることが分かった。
 そこで分遣隊は、千代丸を自分たちの盟主に担ぎ出すこととなった。分遣隊からは、その親衛隊が選ばれ「神祇隊」と命名され、桜井がその隊長となった。

〈北信分遣隊の分裂と追分戦争〉 
 だが、東山道総督府から嚮導隊を「偽官軍」と決めつけた布告文が、2月10日付けで信州諸藩に通達された。この布告文を手にしていきりたったのは、小諸藩である。官軍の嚮導隊というから500両の軍資金などを献上したのである。それが「偽(にせ)官軍」、「無頼(ぶらい)の徒」だというのである。御影陣屋も同じであった。同陣屋は、280両を献金していた。両者は、連合を組んで「嚮導隊を撃つ」ことを決めた。小諸藩からは、近隣の諸藩に呼びかけの使者が派遣された。しかし、呼びかけに応じようという藩は、容易には現われなかった。未だ日和見(ひよりみ)を決め込んでいるのである。
 「偽官軍」と決めつけた2月10日付けの布告文の存在を、下諏訪の嚮導隊本部が知ったのは、2月13日である。京都より帰陣した竹貫三郎が、報告したからである。しかし、相楽は、大垣の東山道総督府に呼びつけられており不在であった。嚮導隊本部が、佐久から戻ってきた西村謹吾を加えて、事態への対処方法を相談したのは、2月15日のことである。
 その内容はよくわからないが、北信分遣隊を下諏訪に引き戻すことは決められたようである。「下諏訪から分遣隊に戻ってきた西村は、事態の深刻さを告げて下山・引き返しを説いた。碓氷峠に集まった同志たちは大激論を闘わすが、結局大勢は、本部の方針に従って峠占拠を解(と)いて下山することになる。西村・大木らは十七日夕方に軽井沢宿へ、金原忠蔵は大砲組を率いて追分宿へと入る。桜井常五郎は、下山に反対して占拠続行を主張したため、ついに同志間から『追放』つまり除名されたといわれているが、実際はやむを得ないと判断して下山したようである。」(高木俊輔著『それからの志士』とされる。【*碓氷峠を起点に、中仙道を西南方向に進むと軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田に至る。追分辺で西進すると、小諸・滋野・上田方面に至る】
 2月17日深夜、追分戦争が始まる。小諸藩と御影陣屋の農兵が、追分宿の大黒屋に泊まった金原の部隊を襲撃する。金原ら嚮導隊員はバタバタ倒れ、金原自身も深手を負う。翌18日、軽井沢から追分に進んだ西村・大木の部隊は、金原らを救助するが、深手を負った金原は大木の介錯で生涯を終える。2日間の追分戦争で、嚮導隊の戦死者は金原をふくめて9人にのぼった。
 西村と大木を隊長とする部隊は、小田井宿にさしかかった所で、岩村田藩の藩兵に収容される。18人ほどであった。
 桜井部隊30人ほどは、沓掛古宿で擁立してきた白川千代丸の一行と別れた。小諸・御影陣屋の連合軍が、沓掛から軽井沢にかけて、残党の徹底的な掃討作戦を行なっている状況ではとても警衛できないからである。桜井部隊のほとんどは信州の農民たちであり、雪の中を追分へ進む途中で一人、二人と姿をくらました。残ったのは、桜井兄弟、春日村の4人、比田井村の1人の計7人となる。
 桜井は、「痔疾(じしつ)」という持病があった。寒い雪道を歩き、持病が再発した。観念した桜井は6人が安全に逃去ることを説得し、自分は沓掛と追分の中間の借宿(かりやど)から中仙道をはずれ南方の発地(ほっち *軽井沢町)の知人を訪ねる。そして、知人が当局に訴えることを懇願する。2月19日、桜井は御影陣屋の役人によって、逮捕される。
 北信分遣隊は、2月17日の大激論の末、先述のように二分裂する。「これは尊王攘夷派の中では最も民衆の中に入って活動した一つである嚮導隊にあっても、活動の究極の目標を横浜での攘夷においた幹部たちと、この地の出身者で固めた地域の変革運動に進んだ桜井隊との矛盾のあらわれであった、と基本的には把握できる」(高木俊輔著『明治維新草莽運動史』P.289~290)と、高木氏は言う。
 桜井隊が地域の変革運動に進んだとはいえ、しかし、高木氏も言うように、桜井隊もまた限界をもっていた。分裂以前、分遣隊が上州側へも偵察活動に行った際に、ちょうど西上州の世直し一揆に遭遇している。その時、仲間に誘われたが、かれらは一揆を「悪徒蜂起」と見なして拒否している。

注1)清川八郎の建議を受けた幕府が、1862(文久2)年2月に江戸の浪士を統制するために組織した。翌年4月清川が暗殺された後、新徴組に再編され庄内藩の支配下に入った。
 2)「須藤文書」によると、北信分遣隊の足跡を、「……十日御影泊り、十一日岩村田、十二日小田井、十三日追分・軽井沢両宿、十四日軽井沢、十五日碓氷(うすい)峠に陣取り、同日頭分(かしらぶん)金原忠蔵御影行き、郡中貧民改めと号し罷(まかり)り越し油や(*油屋は追分宿の脇本陣)泊り、十六日御影行き、郡中名主呼び出し鰥寡(かんか)孤独(こどく)相改(あいあらた)め、夜に入り帰り油や泊り、未明出立峠(*碓氷峠)へ帰る」(西沢朱美編『相楽総三・赤報隊史料集』マツノ書店 P.259)と記している。中でも金原は、「郡中貧民改め」を行なっている。鰥寡とは「男女のやもめ」であり、孤独とは幼くして父無き者(孤)と老いて子無き者(独)である。これらの貧民に手を差しのべることをいち早く行なうために調査に入ったのである。

  (ⅳ)草莽隊が弾圧された事情

 高松隊は「偽勅使」として、赤報隊(嚮導隊)は「偽官軍」として断罪され、幹部が処刑された。味方であるはずの草莽隊が、新政府から何故に処断されたのであろうか。
 その理由の第一は、利用価値としての草莽隊の役割が無くなり、むしろ邪魔になったからである。
 近畿以西の諸藩は雪崩をうって勤王方についた。それだけでなく、幕末時から「公議政体路線」に立ってきた尾張藩もまた血の粛清をもって藩論を転換し、勤王方に着いた(前藩主徳川慶勝は会津の松平容保や桑名の松平定敬の実兄)。鳥羽伏見戦争直後のように中部以東の情勢がほとんど見当がつかない状況からは大きく転換し始めたのである。いまや、草莽隊に依存する必要はなく、それよりもはるかに大きな軍事力と財政力をもつ諸藩が味方し、東征軍に協力するようになったのである。
 理由の第二は、軍資金の問題に大きな展望が見え始めたことである。
 それは大都市の特権商人が旧幕府時代と同じように協力姿勢を示し始めたのである。1867(慶応3)年12月9日の王政復古クーデターの後でも、特権商人たちは朝廷に協力的ではなかった。それが鳥羽伏見の戦いの後には明らかに変化した。「……三井は一月十八日に、東山道総督府の金穀方を勤めることになり、さらに三井はもちろん小野・島田・鴻池など大都市の特権商人たちは、『会計基律金三百万両募債』という国債徴募に、全面的に協力することになった。この募債は、会計官の三岡八郎(*由利公正)の発議になり、一月二十三日に朝議として決定された」ものであった。」(高木俊輔著『それからの志士』P.39)といわれる。
 しかし、商人が、何の担保もなく新政府の財政政策に協力するわけはなかった。特権商人たちは、年貢米取り扱いを特権的に保障されることを条件に協力することとしたのである。ということは、「年貢半減令」が妨げになる。発令後まもなくして、「年貢半減令」はウヤムヤにされ(公式に中止・撤回はなされなかった)、相楽総三らの各地での「年貢半減令」の布告がネックとなったのである。まさに相楽らの嚮導隊が邪魔になり、抹殺される大きな要因となったのである。
 理由の第三は、「年貢半減」を掲げる草莽隊の活動が、澎湃と巻き起こる百姓一揆と結合することを恐れたことにある。
 もちろん、嚮導隊であろうとも、武士的意識が強い者もおれば、「この地方の百姓上がりの志士」のように農民の気持ちをよく理解する者もいた。しかし、嚮導隊が「偽官軍」と断罪される前までの北信分遣隊が、目覚ましい活動を展開できたのも、それは年貢半減など農民の要求にそっていたからである。
 また、嚮導隊が壊滅させられたあとも、北信分遣隊の親農民的な活動の影響力は残された。3月中旬の西上州の世直し一揆が、上信国境を越えて信州佐久郡に押し寄せると、小県郡などの農民もまた年貢軽減・延期を要求して決起しているのである。この闘いにおいても、北信分遣隊の影響を受けた活動家が活躍している。新政府が、年貢半減を掲げる嚮導隊を恐れるのは、まさに澎湃と起こる農民の闘いと嚮導隊が結合することを最も危惧したからにほかならない。 (つづく)