明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑦

年貢半減令取り止めなどに抵抗

                        堀込 純一


 (2) 権力移行期の攻防と弾圧される草莽隊

   (ⅲ)赤報隊―「偽官軍」として鎮圧される

 赤報隊は、相楽総三らが公卿の綾小路俊実と滋野井公寿を擁立して、1868(慶応4)年1月10日に組織されたものである。
 京都からあまり遠くない近江国愛知(えち)郡松尾寺村における挙兵計画は、もともと山科能登之介(朝廷典薬寮医生)・山本太宰(法華宗萬壽院宮家人)・吉仲直吉(近江出身の綾小路家食客兼小侍)らによって進められていた。それが、京都の公卿社会に出入りしていた山科(やましな)たちに、新選組と袂(たもと)を分かった鈴木三樹三郎・篠原泰之進らのグル―プが、さらには油川錬三郎を中心とする水口藩士グループが、岩倉具視の「内意」を受けて加わったのである。そして、それにまた、江戸の薩摩藩邸の焼き打ちから遁(のが)れ、京都にたどり着いた相楽総三のグループが西郷隆盛の命令を受けて参加したものである。薩摩藩は、相楽らに金100両・小銃100挺・相応の弾薬を支給して送り出した。
 赤報隊は、寄せ集めの集団のため、結局、三隊編成となる。一番隊隊長が相楽総三、二番隊隊長が鈴木三樹三郎(元新撰組)、三番隊隊長が油川信近(水口藩士)である。この時点の赤報隊員の総数は200~300人程度と言われている。構成員は、脱藩士、農商民、神官、僧侶などである。
 東山道を進撃する赤報隊に、新政府から帰洛命令が出たあとも進撃をつづけたのは相楽が隊長の一番隊だけである。従って、のちに「偽(にせ)官軍」として処刑される相楽総三の経歴を簡単に見ておくこととする。

〈相楽総三の経歴〉

 相楽総三の本名は小島四郎左衛門といい、1839(天保10)年に、江戸赤坂檜町に生まれている。父・兵馬は郷士身分で、もとは下総国相馬郡椚木(くぬぎ)新田村の豪農であった。この父の代で膨大な資産をつくり、一家は江戸に移り住むようになった。小島家の富の蓄積は、主に旗本金融である。千葉・茨城に所領をもつ旗本などに対し、金貸しを手広く行ない、財をなしたのである。郷士身分の獲得も、この財を献金したことによると思われる。
 総三は、「二十歳の時には国学と兵学を講じ、その門人は百人を数えたという。国学といっても誰の学統かは定かでないが、万葉調の歌を詠んでいるので、家庭の歌詠みの雰囲気の中で、しだいに古代の素朴な歌を愛するようになり、当時はやりの古学一般、さらに平田国学の影響を受けるようになったものと思われる。」(高木俊輔著『維新史の再発掘』 P.43~44)とされる。
 総三の場合、何が直接の原因で尊攘派志士になったのかは、不明である。しかし、「安政の大獄」、「桜田門外の変」という激動が続き、その翌年1861(文久元)年になると、総三は私塾を閉じ、父から5000両という莫大な金を引き出して、奥羽方面に旅をすると言い残して出立する。だが、「……実際は、信州から上州、野州、そして秋田にかけて同志の糾合をはかっていたのである。それは来るべき上州(今の群馬県)における尊王攘夷の挙兵に向けての奔走であった。持参した五千両の大半は慷慨組の上州赤城山挙兵のために費消されたのである。同志糾合費、連絡費、武器調達費、同志の食事ならびに生活費など、いわば挙兵のための軍資金と化した」(同前 P.46)のであった。
 総三は、上州や秋田などを遊歴し、同志を募る。1863(文久3)年に、赤城山に挙兵するが失敗。翌年、筑波山挙兵に参加するも、途中で下山。のち、京都に出て、西郷隆盛の指令を受け、江戸に戻り、薩摩屋敷に浪士隊を結成して、江戸かく乱を謀る。出流山の挙兵などは失敗するが、庄内藩など幕府の命を受けた諸藩によって、薩摩屋敷が攻撃され焼き打ちされ、これが武力討幕の口実の一つとなった点では、薩邸浪士隊(総裁・相楽総三)の活動は薩摩藩の意図としては十分役に立ったのである。相楽ら浪士隊は、薩摩屋敷焼き打ちの直前に江戸を脱出し、京に上る。相楽ら20数名は1868(慶応4)年1月5日、京に入り、薩摩藩の本陣となっている東寺に西郷隆盛を訪ねている。
 西郷は、相楽より1日早く入京した落合直亮(副総裁)らに、次のように感謝の気持ちを伝えている。「与ハ昨三日ノ戦争ハ起ルベシトハ推考セシカドモ、此ノ如ク速カナラムトハ思ハザリキ。然ルニ此戦争ヲ早メ徳川氏滅亡ノ端ヲ開キタルハ、実ニ貴兄等ノ力ナリ。感謝ニ堪ヘズ」(『薩邸事件略記』)と。同様の言葉は、また相楽らにも伝えれたであろうことは想像にかたくない。

〈年貢半減令の布告〉

 1月9日、相楽総三は綾小路・滋野井両卿の使者として、京都に向かう。その役目は、結成されつつある赤報隊を正式に官軍の一員として認可してほしい、という嘆願である。これに対して、太政官議定・参与局は、1月11日、両卿が朝廷の決まりを犯して脱走したことは「不容易」なことではあるが、非常時での奮発は「神妙」であるとして、咎(とが)めだてしない、とした。
 相楽は、翌12日、さらに建白書と嘆願書を提出した。嘆願書は、官軍として認可をいただいた上は、「官軍の御印(しるし)」としての品を下賜してほしい、というものである。建白書の主旨は、「徳川慶喜が東帰したのは必ず関東に割拠する意図があるからだ。後手をとり幕府軍に要地を塞(ふさ)がれたら、打ち破ることは困難となる。加えて戦争が長引けば、外夷(*西洋人への蔑称)に乗ずる隙(すき)を与えることになろう。早急に東征のために出兵するように。その場合、関東はこれまで幕府の苛政が続いて来たので、民心の怨(うら)みは大きい。そこで『幕領之(の)分ハ暫時(ざんじ)之間(のあいだ)賦税ヲ軽ク致(いたし)候(そうろ)ハハ』民衆は朝廷の有難(ありがた)さに感じ、幕府の足元からも倒幕の軍が起こるようになり、必ずや東征の一助になるであろう」(高木俊輔著『それからの志士 もう一つの明治維新』有斐閣選書 1985年 P.27)というものである。
 これに対する太政官の返事は、坊城(ぼうじょう)大納言の勅諚書として、①官軍が3道から関東に打ち入る際に、「御印之品」を授けるであろう、それまでは「嚮導先鋒」の任にあたり、機会の到来を待つようにし、②なお、赤報隊は東海道鎮撫使の指揮に従がうようにせよ、と命じた。そして、但し書きとして、「是迄(これまで)幕領之分(ぶん)総(すべ)て当年(とうねんの)租税半減仰(おお)せ付(つ)けられ候、昨年未納之分モ同様に為すべし」と、かの有名な年貢半減令が布告されるのであった。(高木前掲書 P.27~28)
 以降、相楽総三は、進軍する中で、宿泊する宿の前に、必ず「年貢半減」の高札を掲げたのであった。
 赤報隊の本隊は、滋野井のグループを松尾寺に残して、1月15日に東山道を東に向けて出発する。1月17日、赤報隊は柏原宿に泊まり、翌日の出発にあたり、綾小路・滋野井両卿の名で次のような年貢半減を申し渡した。 
                        近江国坂田郡何々村
右は此迄(これまで)徳川慶喜支配の処(ところ)、此度(このたび)慶喜朝敵と相成(あいな)り候に付き、支配の地は不残(のこらず)御召上(おめしあげ)に相成り、以后(いご)は天朝の御領と可相心得(あいこころうべく)候、尤(もっと)も是迄(これまで)於慶喜(慶喜においては)不仁の処置も有之(これあり)、百姓共定めて難渋(なんじゅう)不少(すくなからざる)義と思召(おぼしめし)、当年の年貢半減に被成下(なりくだされ)候間、此旨(このむね)厚く相心得(あいこころえ)、天朝の御仁徳に服し奉(たてまつ)り、勤王の道(みち)相守(あいまもり)候様御沙汰(ごさた)の事
                         滋野井侍従(花押)
                         綾小路前侍従(花押)
  慶応四年正月
何々村庄屋百姓共へ

 東への進軍の途次の1月22日、相楽らは、高松実村卿を奉じた高松隊の一隊20数人を加納宿で出迎えている。甲府城を攻略することを目指していた高松隊は、ここで赤報隊を追い越して先行するのである。だが、高松実村は、一度も朝廷から脱走の罪を許されたこともなく、のちに甲府城無血攻略が成った時、東海道総督府の手で『偽勅使』として弾圧されるのであった。
 1月23日、相楽総三は、隊士の竹貫三郎を使者として京都へ送り、再度の建白を行なう。その要旨は、①先日約束された官軍としての証明を果たす品(錦旗)を下賜してほしい、②自分は数年関東で活動しており、同志も東国に要(い)るので、東山道一体で働かせてほしい(東海道軍ではなく、東山道軍附属を嘆願)―というものである。

〈赤報隊の悪い噂と最初の犠牲者〉

 しかし、この頃から赤報隊の運命を決する事態が動き始める。すなわち、京都で赤報隊に関わる悪い噂が立つのである。すなわち、それは①松尾山の赤報隊が金持ちを襲って強盗をしている、②赤報隊は本営の命令を無視して東山道に進路を変えている―などである。そして、この悪い噂を理由にして、赤報隊には帰洛命令が発せられる。
 1月25日前後に、悪い噂はピークに達し、相楽は自ら弁明のために上京する。しかし、相楽隊自身は東進を続けている。この頃、赤報隊は3つの動きに分かれている。相楽の1番隊は、東進し美濃中津川近辺に至る。2・3番隊は、東山道を進むことに固執しないで、東海道の名古屋近辺にいた。滋野井を擁するグループは、近江から伊勢に入っていた。
 ここで赤報隊の最初の犠牲者が出る。当時、東海道総督府先鋒としては、肥前大村藩・備前藩・佐土原藩・彦根藩が任命され、1月22日に伊勢四日市に着いている。この先鋒隊に1月25日、滋野井グループを至急捕縛して鎮圧せよ―という命令が下された。「死刑になった人数は記録によって異なるが、『志士人名録』にみれば、二十六日夜四日市で斬首された滋野井隊の犠牲者は八人。他の二十数人は、雷同者とみなされて追放され、ひとり滋野井卿だけは、京都に戻された。いわゆる滋野井隊は、これで全滅した」(高木俊輔著『維新史の再発掘』P.144~145)といわれる。
 相楽は1月28日に、大手宿(関ヶ原近く)に戻っている。恐らく京都での歎願は成功せず平行線に終わったと思われる。だが、相楽は自己の戦略に自信を持ち、一刻も早く碓氷(うすい)峠を占拠することに固執する。2月1日には、二番隊と三番隊の使者が来ており、ともに京都に戻ることを勧めたようである。しかし。相楽は一番隊参謀の科野(しなの)東一郎を上京させて連絡をとらせただけで、隊を東進させ2月3日には信州伊那郡山本村、4日には飯田、5日には宮田と、伊那谷を進めさせ、6日には下諏訪に着いている。
 下諏訪に着いた頃の相楽隊は、総勢220~230名ぐらいといわれる。そのうち、人夫が150名ぐらいなので、隊員は70~80程度である。信州通行中の相楽隊は、「官軍先鋒嚮導隊」の旗を掲げていたので、これ以降は「嚮導隊」と呼ぶこととする。

〈「偽官軍」と決めつけ〉


 下諏訪に着いた相楽のもとに、以前からの同志で薩摩藩士の伊牟田(いむた)尚平の手紙をもった使者が来た。それによると、伊牟田は東山道進軍は中止し京都へ戻ってほしい―と忠告している。しかし、相楽は東山道進軍を止める気持ちはなく、2月7日から、むしろ北信濃佐久方面に隊士を派遣し、年貢半減の布告と碓氷峠攻略の準備を推進する。
 ところがそこへ、大垣に滞陣中の東山道総督府からの呼び出しがかかった。相楽はこれにやむなく従った。相楽が不在の下諏訪に、2月13になって突然、竹貫三郎が早駕籠で駆け付けた。竹貫は、2月10日付けの東山道総督府執事より信州諸藩にあてた布告文を持っていた。その布告文は、甲州に向かった高松隊を「無頼の徒」と決めつけ、「当総督様の先鋒抔(など)と偽(いつわ)り、通行の道々金穀(きんこく)を貪(むさぼ)り」などという罪状で取押えることを命じていた。その上で、相楽隊についても次のように「偽官軍」と決めつけ、取押えることを命じている。

附(つけたり)、先達(せんだっ)て綾小路殿御手(おんて)ニ属シ居(おり)候人数、綾小路殿既ニ御帰京ニ相成(あいなり)候後、右の者共(ものども)無頼(ぶらい)の徒ヲ相語合(あいかたりあい)、官軍ノ名ヲ偽リ、嚮導隊抔(など)ト唱ヘ、虚喝(きょかつ *こけおどし)ヲ以テ農商ヲ劫(おびやか)シ、追々(おいおい)東下致(いたし)候(そうろう)趣(おもむき)ニ相聞(あいきこえ)候。右等モ高松殿人数同様之儀ニ候間、夫々(それぞれ)取押置(とりおさえおき)申すべき旨(むね)仰せ出だされ候(そうろう)事。(『赤報記』、『復古記』)

 相楽らの嚮導隊もまた、「偽官軍」であり、高松隊同様に取り押さるべきと命じている。この布告文は、須坂・高遠・高島・松本・上田・松代・飯田・小諸・岩村田の信州9藩の「御重役中」に宛てられたものであり、諸藩は勤王の態度を示すためにも、以後、嚮導隊討伐に乗り出すのであった。
 相楽総三が大垣の東山道総督府に出頭したのは、2月18日のことであった。大垣の本営には岩倉具定・具経とその参謀、伊地知正治・島津式部の率いる薩摩藩兵、板垣退助の率いる土佐藩兵、楢崎頼三らの長州藩兵、その他因州・彦根・大垣藩兵らがいた。18日夜に軍議が開かれ、そこでは激しい論議が交わされたと思われる。しかし、総督府は厳しい態度を示しながらも、あたかも温情をかけるかのように、「其方(そのほう *相楽を指す)並(ならびに)同志之人数、薩州藩ニ委任シ候条、右藩之約束ヲ受ケ進退致(いたす)ベシ」とする東山道総督府参謀名の沙汰書が渡された(2月18日付け)。と同時に、関東探索のために2~3人を嚮導隊から差し出すように命じている。
 だが、東山道総督府は、2月24日付けの、大垣詰めの薩摩・長州・因州・土佐・大垣の5藩に対する命令では、「時宜ニヨリ断然厳重処置致すべし」と命じている。短期間で様変わりの処置となっている。
 相楽は2月23日に、下諏訪に戻る。相楽は留守中に起きた追分戦争(北信濃で活動中の嚮導隊士と信州の小諸藩・御影陣屋の戦争)で捕らえられた同志の釈放のために薩摩藩に嘆願書を書き上げている。3月1日には、岩村田藩に囚われていた同志が釈放される。しかし、同日夜、下諏訪に滞陣中の東山道総督府から使者が来て、相楽に出頭命令を伝えた。出頭した相楽らは逮捕され、嚮導隊の本拠である樋橋宿(下諏訪から一里余離れた)にいた同志も下諏訪に呼び出され、全員が逮捕された。
 嚮導隊幹部は初めから死刑と決まっていた。3月3日、なんらの取調も全くなく、相楽ら8人が死刑、三浦弥太郎以下14人が片鬢(かたびん)片眉剃り落し・晒(さらし)の上追放、40数人が追放となった。その3日後の6日、信州追分の刑場で、桜井常五郎ら3人が死罪(斬首のうえ梟首)、3人が片鬢片眉剃り落し・一日晒のうえ追放となった。(つづく)