明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑥

新政府軍に鎮圧される草莽隊
                          堀込 純一

    (2) 権力移行期の攻防と弾圧される草莽隊

 (ⅰ)維新政府による旧幕府軍征討

 1868(慶応4)年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、以後、1年半にわたる内乱(戊辰戦争)によって、徳川幕府は打倒される。権力の移行は、前年12月9日の「王政復古」クーデターによっては決着つけられず、戊辰戦争という内乱で結末がつけられたのであった。
 1868年1月6日、徳川慶喜は海路江戸に逃れ、7日、新政府は徳川慶喜に対する追討令を発する。同月10日には、慶喜以下27名の官位をはく奪し、旧幕府領を直轄とする。そして、新政府は、1月15日に王政復古を、同月20日には幕府締結の条約遵守(じゅんしゅ)を諸外国に通告し、あわせて局外中立を要請した。これに答えて、英米仏蘭(オランダ)普(プロシア)伊は、局外中立を宣言した。
 これより先、前年の1867(慶応3)年12月8日の夜を徹して明け方に及んだ会議の結論として、「王政復古」が宣言された。そこでは、「……自今、摂関・幕府等廃絶、即今マズ仮リニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置カレ、万機ヲ行ワセラルベク、諸事(しょじ)神武創業ノ始(はじめ)ニ原(もと)ヅキ、?紳(しんしん *身分が高く名声のある人)・武弁(ぶべん *武士)・堂上(どうじょう *昇殿を許された四位以上の公卿)・地下(じげ *堂上の対語)ノ別ナク、至当ノ公議ヲツクシ、天下ト休戚(きゅうせき *喜びと愁いと)ヲ同ジク遊バセラルベキ叡念(えいねん *天皇の考え)二付(つき)、各(おのおの)勉励、旧来(きゅうらい)驕惰(きょうだ *たかぶって事をおこたること)ノ汚習ヲ洗イ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ、奉公致スベク候事」と宣言されている。
 これに基づき、総裁には有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任命される。議定には、仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王、中山忠能(ただよし)、正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)、中御門(なかみかど)経之(つねゆき)、徳川慶勝(尾張)、松平慶永(越前)、浅野勲(広島)、山内容堂(土佐)、島津茂久(薩摩)が、参与には、岩倉具視、大原重徳(しげとみ)などと、5藩の藩士各3名が登用された。
 鳥羽・伏見の戦いの勃発により戊辰戦争が始まると、1月4~9日、新政府は、武力をもって全国諸藩を従がわせるために、諸道の鎮撫総督などを任命した。
 まず1月4日、軍事総裁職であった嘉彰(よしあき)親王を、征討将軍に任命した。つづいて山陰道鎮撫総督に参与職の西園寺公望(きんもち)を任命し、翌5日に、西園寺は薩摩と長州の藩兵を率いて京都を出発した。同じ5日には、東海道鎮撫総督に参与職の橋本実梁(さねやな)を、同副総督に柳原前光(さきみつ)が任命され、京都を出発し近江の大津に着いている。1月9日には、岩倉具視(ともみ)の子どもである具定(ともさだ)が東山道鎮撫総督に、同じく具経(ともつね)が同副総督に任命される。同日、高倉永?(ながさち)が北陸道鎮撫総督に任命された。1月13日には中国・四国征討総督に四条隆謌(たかうた)が、同月25日には九州鎮撫総督に沢宣嘉が任命された。各道の正副総督には青年公卿が任じられ、参謀には薩長土その他の討幕派の指導者が付けられたのであった。
 鳥羽・伏見の戦い後、新政権にとって緊急の課題は畿内・西国における旧幕勢力の一掃であった。この一環として、1月14日、旧幕領に対する年貢半減令が発令された。しかし、西日本支配は予想以上に容易に実現した。そこで年貢半減令は、正式ではないが実質的に1月27日に廃止される。農民愛撫の姿勢(ポーズ)は、全くの短期間で終わった。
 明治天皇は親しく慶喜を征討する(親征)ために、2月1日、まず大阪に行幸すると定め、2月3日には、親征の詔を発し、諸藩に出兵を命じた。親征の詔の冒頭は、「今度慶喜以下賊徒等江戸城ヘノガレ、益々暴虐ヲ恣(ほしいまま)ニシ、四海鼎沸(ていふつ *天下大乱)、万民塗炭(とたん *非常な苦しみ)ニ堕(おち)ントスルニ忍ビ給ワズ、叡断(えいだん *天皇の決断)ヲ以テ御親征仰セ出サレ候」と、万民の苦しみを救うのが大義名分であった。
 2月6日、東海・東山・北陸3道の鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と改め、新設される東征大総督の指揮下に置いた。同月9日、東征大総督は有栖川宮熾仁(たるひと)親王が就き、参謀には、参与正親町公董・同西小辻公業と広沢真臣(長州藩)を任じた。しかし、広沢はまもなく辞任して、12日に西郷隆盛(薩摩)と林玖十郎(くじゅうろう *宇和島藩)が代わった。諸道の官軍の総数は約5万人、薩長土が主力であった。


 (ⅱ)草莽隊の活動 鎮圧と解隊

 戊辰戦争による討幕は、諸藩の軍隊のみならず、草莽隊も参加した。草莽隊は、脱藩浪士・豪農・豪商・神官・学者・農民などによって組織された。草莽隊は、総督府の指揮下に参加したものもあるが、独自に活動するものもあった。草莽隊として知られているものは、花山院一統、高松隊、赤報隊、東海道の草莽隊(遠州報国隊、駿州赤心隊、豆州伊吹隊など)、北越の草莽隊(居之〔きょし〕隊、北辰隊、金革〔きんかく〕隊など)である。

【花山院一党―薩長の襲撃で全滅】
 花山院一党は、西国とくに九州地方を中心として、浪士や庄屋をリーダーとして組織された。討幕挙兵は、1866(慶応2)年にすでにたてられている。それは、公卿の花山院家理(いえのり)を擁立して、京都や江戸の運動と呼応して九州で決起するものであった。だが、それは同年8月に発覚し失敗し、数名が死刑となっている。
 だが、翌慶応3年、ふたたび九州の幕領地の、中でも豊後の日田代官所を襲撃し、それから肥後藩その他の動静を見てから次の策をたてるという計画が進められた。
 九州の浪士たちは、1867(慶応3)年12月5日、花山院がまだ到着しないうちに、肥後(熊本県)天草の幕府領を襲撃し、8000両の軍資金を奪い取っている。さらに翌1868(慶応4)年1月14日には、300人ほどの部隊で、豊前四日市(大分県宇佐郡四日市町)を襲い、代官所、庄屋宅、西本願寺出張所、富豪の家などを襲って金穀・武器弾薬を奪い、金穀の一部は四日市代官所近くの貧民に分配している。
 「つづいてこの浪士の一隊は、一月十八日再び天草島に渡り、肥後熊本藩の出張人と応接し、同島の鎮撫を布告している。翌十九日に天草鎮撫のために応援に来るよう長崎の会議所に出した書状には、天草島は苛政(かせい)甚しい所だから『姦人を退けて窮民の塗炭の苦を救う』ために出兵した旨を伝えていた。」(高木俊輔著『維新史の再発掘』NHKブックス 1870年 P.203)と言われる。
 だが、花山院家理は、1月20日、周防室積港で長州藩兵によって逮捕され、軟禁される。実は、花山院一党の草莽隊は薩長とは、深い関係をもってきた。隊士の宇佐野次郎(別府の医師出身者)は、1867年9月に、薩摩藩から軍資金300両を借りており、また総裁藤林六郎は長府藩(長州藩の支藩)の元報国隊士であり、彼らの仲間には長州藩脱走者が多く参加している。
 そのような関係がある薩長ではあるが、「その長州藩が一月二十日になると、花山院一党を鎮撫するように決定して襲撃したのである。四日市を襲った同志は、近くの御許山(おもとさん *馬城峯)にいたが、長州藩はここも攻め、浪士たちは敗走した。同じ日に薩摩藩も日田代官所や長崎に出兵して、花山院一党を捕らえた。つづいて一月二十九日、総督府は肥後・筑前・島原の三藩に命じて花山院の残党を追捕させている。これで花山院一党は全滅した。」(同前 P.204)のであった。
 
【高松隊―「偽勅使」として鎮圧される】
 高松隊とは、公卿高松実村を擁立し、赤報隊と同じように東山道を進み、諏訪から甲府に出た所で、「偽(にせ)勅使」として弾圧され解隊された草莽隊である。
 高松隊の実際のリーダーは、小沢雅樂之助(うたのすけ)と岡谷(おかのや)繁実である。雅樂之助は、1830(天保元)年に、伊豆に生まれた。宮大工の出身であり、神社の仕事をしていた関係から神道関係者に知己が多かった。このため、いつしか尊王攘夷を論ずるようになり、海防に関心をもち、宮大工のかたわら軍艦造りに熱中するようになる。安政の大獄のさいには、謹慎を命ぜられたと言われる。
 岡谷繁実は1835(天保6)年、上州館林藩の家老格の家に生まれる。藩の要職を歴任するが、文久年間(1861~1864年)になると、宇都宮藩の尊王攘夷派と結び付き、第一次「長州征伐」に反対する。このため、幕府の命で入牢処分を受ける。
 高松隊は、「慶応四年一月十八日京都を出発するが、この隊も赤報隊と同じように岩倉(*具視)と約束していた『勅書』と錦旗の下賜がなかった。翌日は近江の高松家ゆかりの寺で武器・軍資金・兵士・人足などを整え、二十三日には赤報隊を追い越して東山道を進んだ。彦根藩士百人をはじめ、各藩から徴用した兵士を従え、主として幕領地に帰順を誓わせ、勤王の誓詞をとって進むのであるが、どこも日和見藩が多く、一度も戦火を交えることなく進軍をつづけた。信州に入るころから自発的従軍がふえ、平田門(*平田篤胤門下)国学者も多く加わっている。甲府入りした時には、諸藩・諸幕領、それに自発的参加者も加えて、『二千有余人』という大部隊となっていた。」(高木前掲書 P.205~206)という。
 構成員は諸藩士約450人、神主・村役人など約400人が主力である。
 高松隊が甲州人民に下した布告(新政府はこれを『偽勅条目』とした)は、次のようなものである。

 一、 甲斐国武田信玄旧政復古一国別制免許の事
 一、 大小切(だいしょうぎり)と唱ヘ候金納免許の事
 一、 甲金廿四万両追々(おいおい)廃絶の所、今度吹替(ふきかえ *貨幣を溶かして鋳直すこと)通用免許の事
 一、 金銀座、秤座等免許の事
 一、 当時長百姓(おさびゃくしょう)の者諸役免許?(ならびに)屋敷下し置かれ候事
 一、当辰年の義は半収納にて半納分米は百姓え下し置かれ候事
 一、 兼武神主の儀は此度(このたび)勤王相励(あいはげ)ミ候者是迄(これまで)の朱印高に応じ一倍増し高(たか *武士に支給された土地あるいは俸禄の分量)下し置かれ隔年上京朝勤(ちょうきん *朝廷に仕える)を許し、当人出精(しゅっせい *精を出して物事を行なうこと)尚又(なおまた)恩賞をなすべき事
 一、 武田浪士の義は此度勤王相励ミ候に付(つい)て向後(こうご)其(その)所に於て石高下し置かれ候面々武士同様御取立(とりたて)の事
 一、 国中勤王有志の輩(やから)ハ上下の差別なく勤め柄(がら)に因(よ)って知行高其場(そのば)に於て下し置かれ候事
 一、 甲府詰(つめ)勤番の者においても改過(かいか *過ちを改めること)勤王相励ミ候においてハ、御扶持(ふち *武士に米で与えた給与)高に応し甲斐国中にて大地下し置かれ、尚(なお)出精次第恩賞なすべき候事
 右十ヶ条甲斐国風の義ハ年来勤王の心得(こころえ)有之(これある)条朝廷に達し御満足に聞し召しなされ格別の思召(おぼしめし)を以(もって)前件の条々仰せ出だされ候
  正月  皇太后宮少進藤原朝臣実村

 高松隊が布告したこの十ヶ条は、極めて保守的なもので、その性格は封建的なものとすらいえる。すなわち、各層のものへ勤王方へ味方すれば、恩賞や知行地などを与えるなどというのは、武士の作法そのものである。しかも、農民については、一般農民以外の「長百姓」を対象とした特別の恩典などの差別待遇を行なっている。全体的に見た場合、その保守性は、冒頭の「武田信玄旧制復古」という言葉ですでに明らかである。
 高松隊に対する新政府の処置と処分は、ほとんど赤報隊に対するものと同じである。「すなわち、二月一〇日の東山道総督府の信州諸藩に対する布達では、実村の行動は勅命によるものではないから、欺かれないようにと、戒めるとともに、実村に随従する『無頼の者共』を捕縛するように命じている。実村に対しては彼を京都に召還するとともに、父安実に命じて幽閉させている。」(原口清著『戊辰戦争』塙書房 1963年 P.122)のであった。
 なお、小沢雅樂之助と甲府町民山形屋重兵衛は、捕らえられた後に、死刑となった(3月14日)。他方、岡谷繁実は、京都に戻り、のちに新政府に登用されていく。(つづく)